巻ノ二 御前試合異聞(一)
文字数 4,152文字

宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――
人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!
「小説現代」の人気連載、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」が待望の再開!
最強の漢はだれか――ぜひご一読ください!
イラスト:遠藤拓人
(一)
諸説がある。
江戸時代、寛永年間に行なわれたと伝えられている、いわゆる「寛永御前試合」についてである。
では、この試合、寛永年間のいつ催されたのか。
寛永九年説、十一年説、十三年説、十五年説とまさに様々であるが、いずれにしても寛永年間であり、徳川第三代将軍家光が見物する中で行なわれたということは共通している。共通していないのは、試合数であり、出場した者の人数や名前である。
巷間、最も知られているところでは、講談の「寛永御前試合」がある。
筆者が資料としている講談社の『講談名作文庫28 寛永御前試合』で言うと、全部で十二試合、出場しているのは、二十五人。一対一の試合となれば、出場者の人数は偶数とならねばならないのだが、二十五人では奇数である。どうしてこのようなことがおこったのかというと、一対二の対戦もあったからだ。
剣の達人、柔術の達人、槍から鎖鎌、馬術、弓術、棒術に至るまで、日本を代表する武術の名人たちが総出場であり、実在した人物たちや架空の武芸者たちが、それぞれの技をもって、命をかけて闘うのである。しかも、女の出場者までいる。講談の語り手によって、試合数も出場者も違ってくる。
いったい何がどうなっているのか、見当もつかない。
ちなみに、筆者の資料としている前掲の『寛永御前試合』においては、次の通りである。
第一試合
竹内加賀之助 対 渋川伴五郎
第二試合
山田真龍軒 対 井伊直人、井伊貞女
第三試合
吉岡又三郎兼房 対 毛利玄達
第四試合
日置民部 対 鷲津七兵衛
第五試合
大久保彦左衛門 対 加賀爪甲斐守
第六試合
荒木又右衛門 対 宮本無三四
第七試合
浅山一伝斎 対 伊庭如水軒
第八試合
山田伴山 対 土子土呂之助(つちこどろのすけ)
第九試合
樋口十三郎 対 穴沢主殿助(あなざわとものものすけ)
第十試合
曲垣(まがき)平九郎 対 和佐大八郎
第十一試合
羽賀井一心斎 対 磯端伴蔵
第十二試合
柳生飛驒守宗冬 対 由井民部之助正雪
かなりの顔ぶれと言ってよい。
第十二試合の出場者柳生飛驒守は、柳生十兵衛の父で将軍家御指南役の柳生宗矩の三男宗冬ことであり、由井民部之助とは、もちろん由井正雪のことである。
「講釈師見てきたような噓を言い」
というのは、昔から言われてきたことなのだが、この御前試合、本当にあったのか。たとえ、物語は話が大きく盛られているとしても、その元となった歴史的事実がどこかにあったのではないか。荒木又右衛門と宮本武蔵(無三四)は、確かに同時代人であり、生きた時間も四十年ほど重なっている。武蔵が又右衛門より十五歳ほど年齢が上である。この試合が実際にあったとしても、不思議はない。
由井正雪は、慶長十年(一六〇五)の生まれで、武蔵より二十一歳若い。寛永は、一六四四年まで、二十年あまり続いたので、もしもこの試合が、寛永十一年にあったとしたら、武蔵は五十一歳、正雪は三十歳、柳生宗冬は二十二歳であり、いずれもなんとか試合が成立する年齢ではあろう。
この講談『寛永御前試合』の元となった歴史的事実があったとしても問題はない。
知られているところで言えば、歴史的事実かどうかはおくとして、講談の資料となるものは、この講談が成立した明治の頃にあったのである。
それは、明治二十二年に出版された『陸軍歴史』なる書である。
いかなる書か。
著者はなんと、あの勝海舟である。
勝海舟が、明治政府から依頼を受けて著した書であり、そのうちの巻二十八に、この寛永年間に催された御前試合のことが記されているのである。
そこに、
三代将軍家光公御代寛永十一甲戌年九月廿二日於吹上上覧所剣道立合之面々左之通リ
このように記されているのである。
「三代将軍家光公の時、寛永十一年の九月に、剣道の試合が催されて、家光公がこれをご覧になった。立ち合ったのは、次のような者たちである」
そういった内容である。
その立ち合った者たちというのが──
井場泉水軒・下谷御徒町住人
対
負浅山一伝斎
鎧勝負
初鹿野伝右衛門
対
負朝日奈弥太郎
などと記されているのである。
講談とは、出場者の顔ぶれが違っており、たとえば、伊達政宗などもこの試合に出場したりしているのである。
竹内加賀之助は、この勝海舟版とも言える、元ネタ本にも出場をしている。この加賀之助、竹内(たけのうち)流柔術の中興の祖とも言われており、講談の方では、同じ柔術家の渋川流柔術の祖、渋川伴五郎と対戦をしている。
勝海舟の『陸軍歴史』では、全十二試合が行なわれており、こちらでは、宮本武蔵は出場していないが、その養子である宮本八五郎すなわち宮本伊織が、荒木又右衛門と対決しているのである。
この『陸軍歴史』が、講談のネタ元となっているのは、ほぼ間違いないところであろうと思われるのだが、では、いかなる資料によって、勝海舟が、『陸軍歴史』の中に、「寛永御前試合」の記述を入れたのか。
ここのところが、まったくわかっていない。
明治政府から依頼されての著述であり、本質的には真面目に書かれた書であるので、勝海舟が、我々のように受けをねらってでっちあげたものではなかろうとは推測できるが、その元となった資料はいったいどこにあるのか。
これが、長い間謎であったのだが、実はそれがあったのである。
そのきっかけとなったのは、『実録講談求聞持帳』という、明治四十一年に、難波堂という大阪の出版社から出た本である。
講談に描かれた物語の元ネタや、事実関係を、史実や資料を漁り、見当を加え、その真実度について記している本である。
著者は、玉田麦秀斎(ばくしゅうさい)──おそらくは筆名であろう。
玉田と言えば、関西を中心に、明治の頃活躍した講釈師初代玉田玉秀斎がいて、神道講釈の『安倍晴明伝』などを得意としたが、この一門にも麦秀斎の名はないからだ。
作者の実の名についての考察はここではおくが、その本の中に、「寛永御前試合」の項目があって、そこで、勝海舟の『陸軍歴史』についても言及されていたのである。
勝海舟は、この稿を書くにあたっては、おそらく、辻本浅月の『本朝立合事典』を参考にしたものと考えられる。
麦秀斎はこのように記している。
このあたりのことを、もう少し細かく記しておきたい。
筆者の母方の祖父は、本名はここでは秘すが、芸名を東家清楽(あずまやせいらく)といって、浪花節(なにわぶし)語りであった。
得意としていたのは、浪花節の中でも、少し特殊な関東節と呼ばれる曲調であった。
亡くなったのは、筆者が中学生の時で、死因はガン。亡くなる何日か前に見舞に行ったら、筆者の手を握り、
「おまえに『野ざらし』を教えておきたかった」
と涙をこぼした。
筆者が、いつもラジオで落語を聞いていることや、本を買い込んで、
「釣れますか、などとおろかが二人より」
で始まる「野ざらし」を、勝手にしゃべっていたのを、知っていたのだ。
清楽、得意なのは関東節だったが、落語も、百面相も、獅子舞も、講談もやった。祭りの時期になると、あちこちの神社の境内に小屋が掛けられ、そこで、芝居や演芸が催されるので、そういうところを渡り歩いてゆく旅芸人で、一度出かけると、二ヵ月は帰ってこなかった。
この東家清楽が持っていた本が、筆者の家に引きとられ、その一部がまだ筆者の手元に残っていたのである。
多くは、芸能に関わる本で、手塚治虫の『新宝島』などもその中に混ざっており、なかなかバラエティにとんでいた。
手元に残ったのは、結局二十冊くらいであったのだが、そのうちの一冊が、前記した玉田麦秀斎の『実録講談求聞持帳』だったのである。
この連載の準備をするにあたり、清楽の蔵書の中に、講談の関連本があったことを思い出し、見つけて読んだのである。
そこで、辻本浅月の『本朝立合事典』の記述を発見したのだ。
ネットや、神田でこの本を捜したのだが見つからず、半年後、この連載が始まる一ヵ月近く前に、京都の寺町にある古本屋で、偶然にこの『本朝──』を見つけたのだ。
釣りや仕事であちこち地方へ出かけてゆき、時間があると骨董屋や古本屋へ足を運んでいるのだが、たまたま、筆者の足元とでも言うべき京都でこの本と出会ってしまったのである。
そして、この『本朝──』に「寛永御前試合」のネタ元と思われる、逸話が記されていたのである。
まだ、連載途上であるため、詳しい内容についての記述は避けるが、本物語は、この『本朝立合事典』を参考にしているところが少なくない。
それに、筆者がさらに話を盛っていることは言うまでもないが、筆者の立場は、もちろん「寛永御前試合」は、寛永年間の家光の時、実際に開催された、というものである。
よって、「寛永御前試合」の発端は、寛永十五年春、江戸城内において、家光が、
「おのれ、尾張……」
歯を軋らせて、このように呻いた時であるとしたい。
時あたかも、島原の乱がようやく平定されたばかりで、我が日本国が再び平穏な日々をむかえはじめたばかりのことである。
(つづく)
禍々しきは、吾の出番。――妖退治屋をなりわいとする麗しき謎の男、遊斎の事件簿。
江戸時代、凶悪犯を取り締まる火附盗賊改の裏組織が存在した。
専ら人外のものを狩り鎮めるその名は、火龍改。
満開の桜の下で茶会を催していた一行から悲鳴が上がった。見れば大店のお女将の髪が逆立って、身体ごと持ち上がっていき、すっかり桜の花に隠れてしまった。見上げる者たちの顔に点々と血が振りかかり、ぞぶ、ぞぶ、ごり、という音のあと、どさり、と毛氈の上に女の首が落ちてきた――。遊斎は、飴売りの土平、平賀源内らとともに、この怪奇な事件の謎を追う(長編「桜怪談」)。短篇「遊斎の語」「手鬼眼童」「首無し幽霊」も併録。