巻ノ三 妖人正雪(一)、(二)

文字数 4,582文字

宮本武蔵、有馬喜兵衛、塚原卜伝、関口柔心、陳元贇、柳生十兵衛三厳、宍戸梅軒――

人間を捨てた外道たちが、最強の覇者を決める勝ち抜き戦でしのぎを削る!

「小説現代」の人気連載、夢枕獏さんの「真伝・寛永御前試合」が待望の再開!

最強の漢はだれか――ぜひご一読ください!


イラスト:遠藤拓人

巻ノ三 妖人正雪

(一)


 大久保彦左衛門の屋敷に、老中土井利勝が訪ねてきたのは、寛永十五年三月十五日のことであった。

 駕籠にも乗らず、徒歩である。供の者をふたりだけ連れて、利勝自身は、深編み笠を被って顔を隠しての訪(おとな)いであった。

 昨日、使いの者が来て、あらかじめ約束ができていたので、潜戸(もぐりど)から入る時も、笠をとらずに名告るだけで、門をくぐることができた。

 彦左衛門と利勝は、人払いをしてただふたりだけで対面をした。

 八畳間で、出入りできるのは、廊下に面した障子戸だけだ。その障子戸も、きっちりと閉められている。

 利勝は、床の間を背にして上座に座し、彦左衛門は、下座に座している。

 客は利勝であり、位も老中である利勝の方が上だ。しかしながら、この時彦左衛門は七十九歳、利勝は六十六歳である。

 彦左衛門の方が歳上で、声も大きい。

 ふたりきりの時は、互いに敬語を使うのだが、彦左衛門の方が貫目(かんめ)がありそうに見えてしまうのは、仕方がない。

「本日、わざわざお越しいただいたのは、何用でござりまするか」

 彦左衛門は、そう問うたが、それは話のきっかけを作るためのものであり、その顔には、何故利勝がここへやってきたか、その見当はついているぞという余裕がある。

「大久保さまのことなれば、すでにお察しのことでござりましょう。用件というのは、このところ城内でしきりと噂されている、御前試合のことでござります──」

 利勝が口にした通り、江戸対尾張の御前試合のことは、家光が「おのれ、尾張……」と口にした、その三日後には、江戸城内のたれもが知るところとなった。

 それを文にして、尾張に使者を送ったのが五日後で、七日後にはもう城外にも洩れていたのである。

 噂の出どころ──その張本人が彦左衛門なのだが、

「おう、それよ。誰が流した噂かは知らぬが、これは密(みそか)ごとじゃ。いったいどこでお耳になされた。成る前に噂ばかりが広まっては、成るものも成らなくなってしまう──」

 平気でそう言ってのけた。

 しかも、声の調子にうきうきしたものが混ざっている。

「では、尾張からの返事は……」

「まだじゃ。しかし、そう遠くないうちに、来るであろうよ」

「尾張は、受けましょうか」

「もちろん、受ける。受けねば、天下の笑いものじゃ。義直さまも、そのあたりのところは何もかも御承知にござりましょう」

「で、この御前試合、出場する者複数名と耳にしておりまするが、これはまことのことでござりまするか」

「まだ、決まってはおりませぬが、一対一の勝負となれば、勝敗は時の運──それで江戸と尾張のいずれがすぐれているかを決めてしまうのでは、双方納得がいかぬでしょう」

 すでに、事は、江戸柳生と尾張柳生、どちらが強いのかということからさらに膨らんで、江戸と尾張──家光と義直の対立となっているのは、あらためて言うまでもない。

「何度かやりとりをして、試合の日どり、試合方法や、人数などを決めてゆかねばなりませぬ。いずれも、これからのこと──」

「では、まだ出場者は──」

「決まっておりませぬ」

 彦左衛門が言うと、利勝はほっとしたように息を吐き、

「すでに、大久保さまの腹づもりとしては、何人か心あたりがござるのでは?」

 そう問うてきた。

「ござらぬ、ござらぬ。ござりませぬよ。それに、これは、それがしが決めることではござりませぬ。色々、名はあがりましょうが、決めるのは上さまにござりますれば──」

「しかし、上さまに推挙することは……」

「それぞれのお立ち場お立ち場で、することになりましょうな。いずれ、どういう手順で誰がどういう人間を推挙することになるかはわかりませぬが、上さまに直接ということにはならぬでしょう。おそらく、柳生飛驒守殿、小野忠常殿、そして、この大久保彦左衛門が、取りまとめることになりましょうか──」

「その推挙でござりますが、もう、何人か、ひそかに大久保さまのお耳に聞こえてくる名前も多少は──」

「多少でござります」

 彦左衛門の口元に笑みが浮かんだ。

 おそらく本人は意識していない笑みだ。

「実は、本日、ここにうかがったのは……」

「推挙したい人物がいる、そういうことでござりましょう」

 何もかもわかっている、そういう口ぶりで彦左衛門は言った。

 このところ、家光と利勝はおりあいが悪い。

 この御前試合の話になった十日前の三月五日も、実を言えば、老中である土井利勝と酒井忠勝を罷免し、松平信綱、阿部忠秋、阿部重次とを老中とするべきかどうか、それを内密に話しあっておこうということで、集まったのである。

 それが、この御前試合の話が出て、流れてしまった。

 利勝自身も、自分が老中の身分でいられるのも、そう長いことではなかろうと気づいている。

 そこへ、御前試合のことが噂となった。

 もし、事実であれば、誰か、これはという人物、武芸者を推挙して、もしもその人物が尾張に勝利を収めた場合、家光の機嫌もよくなり、罷免をまぬがれるかもしれない──そう考えての、今日の利勝の訪問であった。

 それを、彦左衛門は見透かしている。

「その通りでござります」

 利勝は、正直にうなずいた。

 彦左衛門は、利勝のことが、好きでも嫌いでもない。

 だが、戦場を経験している者同士、心が通い合うところがある。

「いったい、どなたかな」

 彦左衛門は、興味を持って訊ねた。

 利勝の訪問は、おそらく、御前試合に出場する人間を、推挙するためであろうと、そのくらいの察しはついている。しかし、いったい誰を推挙しようとしているのか。

 そこには彦左衛門も興味を持っている。

 利勝は、息を吸い込み、いったん呼吸を止め、覚悟したように、その人物の名前を口にした。

「張孔堂──由比民部之助正雪(ゆいみんぶのすけしょうせつ)にござります」

 あの男か──

 彦左衛門は、心の中で、そう吐き捨てた。

 しかし、それを声には出さなかった。

 もちろん、その名前は知っている。

 由比正雪──

 ちかごろ評判の軍学者で、神田連雀町に張孔堂なる道場を開き、その門弟、三千人とも四千人とも言われている。

 しかし──

 彦左衛門は、この男が好きではなかった。『太平記』や『孫子』を読み、兵法や軍学を教えている智恵者で、その智識たるや、江戸随一。

 しかし、若すぎる。

 おそらく、三十そこそこではないか。

 戦場へ一度も出ていない者が語る軍学など、彦左衛門は頭から信用していなかった。

 腕ではなく、口や頭で闘う──彦左衛門が嫌いな人物だ。

 それに、何年前であったか、正雪がやってのけた、巷間、伝えられている話も気にいらなかった。

 それは、次のような話であった。


(二)


 神田連雀町にある、張孔堂に、川端十郎兵衛という男が訪ねてきたのは、寛永十三年の春のことである。

 四十代半ばと見える、浪人風の男で、穿いている野袴も、着ているものも、旅の埃にまみれていた。

 剃っていない月代の毛がむさくるしい。

 ふたりの、似たような風体の男を連れていた。

「張孔堂先生はおられるか」

 川端十郎兵衛は、まず名告ってから、このように声高に告げた。

 張孔堂先生は、言うなれば看板名で、由比正雪のことである。

 出てきたのは、丸橋忠弥という男で、

「御用件は?」

 このように訊ねた。

 この時、張孔堂の門弟は、千人を超えていた。

 当初は江戸に住む町人や、小普請組の武士が多かったのだが、このごろは浪人者が増え、役職にある武士や、大名家でそこそこの地位にある者の顔も見られるようになった。

 道場で学ぶのは、剣術の他楠木流の軍学であり、張孔堂流の軍学である。

 正雪が、その講義をする。

 一回の講義で、五百人の門弟が集まる。

 一日の講義は、昼前に一回と、昼過ぎに一回。

 縦が十間、横が十六間ある広い道場が、門弟で埋まる。

 そもそも、土地が広い。

 もともとは、楠不伝という軍学者が、牛込の榎町でやっていた軍学塾である。正雪は、もともとは、その楠不伝の弟子であった。それが、入門して一年後の寛永九年に不伝が亡くなったことから、その翌年の寛永十年一月に、正雪がその軍学の道場を継いだのである。

 内弟子は、当時は正雪がただひとりで、講義に遣ってくる者は、全部合わせても十人あまり。

 それが、正雪が内弟子になった途端に門弟が増え、すぐに百人にあまる数となった。

 そういうおりに、不伝が亡くなったのである。

 正雪が、道場の全てを自由に差配するようになって、たちまち門弟数が増えた。

 そこで、神田連雀町に、ちょうど空いていた土地があったので、そこに道場を建て、茶室や、自分の住む家、内弟子たちの寝泊まりする棟を建てて、そこを張孔堂としたのである。

 張孔堂は、漢を興こした劉邦の軍師張良の張と、『三国志』に出てくる軍師、諸葛孔明の孔の字をとったものだ。

 それから三年あまりで、門弟が千人を超えてしまったことになる。

 なにしろ、表間口四十五間、奥行き三十五間の土地であるから、道場にしても、正雪が住む家にしても、充分な広さがあるのである。

 その土地は、築地塀で囲われ、正面には立派な門までがあった。

 そういうところへ、川端十郎兵衛は、仲間と三人でやってきたことになる。

 三人を迎えた丸橋忠弥の眼に、人を値踏みするような光が宿ったのは、これは仕方のないことと言えた。

 弟子入りを希望する浪人が増えていることは増えたが、この三人が身に纏っている雰囲気には、ただ弟子入りを希望しているという以上の、どこかきついものがあった。

 御用件は──

 と、まず、丸橋忠弥が訊ねたのは、当然のことだったのである。

「それがし、楠不伝先生の一番弟子にて、五年前から、世の中を知るため、諸国を巡っておりました。旅先で不伝先生の亡くなられたことを知り、とるものもとりあえず、江戸までもどってきた次第にて、牛込の方へ行ってみれば、すでに道場はない。近くで訊ねてみれば、由比正雪という方が、後を継いで、連雀町のほうに道場を構えているというのを耳にいたしまして、こちらまでまかりこした者にござります……」

 川端十郎兵衛は、そう言って、丸橋忠弥を見つめたのである。


(つづく)

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