「雨を待つ」⑯ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 996文字

 突然、後ろから肩をたたかれた。島さんだった。てっきり勝手なことをして叱られると思ったのだが、額に汗を浮かべた島さんは、白い歯を見せて笑った。
「ようやく周りが見えてくるようになったんちゃう?」
「えっ……?」
「お前は、うつむきすぎやで。顔を上げてみぃ」
 そう言って、島さんが周囲を見渡すそぶりを見せた。
「今、この場に、四万人以上おる。でも、だーれもお前のことなんて見てへんやろ。いっそのこと清々しくなるくらいにな」
 俺もおそるおそる顔を上げた。
 ちょうど、負けた東東京代表のメンバーがベンチを去るところだった。一人一人、帽子を取りながらグラウンドに向けて礼をし、裏手に引きあげていく。観客たちの視線は、そちらに集中していた。口々にねぎらいの言葉を叫び、拍手で敗戦校を送り出す。
 たしかに、こちらに注意を払っている人は見受けられなかった。
「いつか、ここにいる全員、自分のほうに振り向かせたる──そう決意するんやったら、俺は応援する。もちろん、このあったかい拍手が生まれる現場を裏から支えたいんやったら、びしばし鍛えてやる」
 去っていく横川の背番号1を見送った。甲子園球場のざわめきが、一気によみがえった。相変わらず、真夏の太陽は、容赦なく降りそそぐ。何もさえぎるもののない空を見上げた。
 あきれるほど、晴れ渡っていた。俺は、まだ何にでもなれるんやということに、ようやく気がついた。
 俺は、まだ、泣かない。泣けない。
 戦いが終わっていないから、泣けないのだ。
「ありがとうございます」島さんに頭を下げた。
 視界が少し晴れた気がした。自分ならピッチャーのよろこびも、悲しみもよく見える。そして、ピッチャーを支える野手やマネージャーの努力もはっきり見渡せる位置にいる。
 片方のチームが笑い、片方が泣く──その残酷ともとれる舞台を整える。プロ選手や高校球児たちを、足元から支えていく。
「さぁ、仕事やで」
 島さんの言葉にうなずいた。一滴も水分の残されていない俺の心の上に、いつか恵みの雨は降ってくるのだろうか? 抜けるように青い空へ問いかけながら、めいっぱい目深にかぶっていた帽子のつばを、人差し指の先でそっと押し上げた。
(了)


→本編『あめつちのうた』もぜひお楽しみください!

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