『馬疫』茜灯里 第一章無料公開!⑦ 【レベル4のウイルス】

文字数 3,135文字

第24回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した、
茜灯里さんによるミステリー長編『馬疫』(ばえき)。
2021年2月25日の全国発売に先駆けて、[第一章試し読み]の第7回です。
    *
2024年、新型馬インフルエンザ克服に立ち向かう獣医師・一ノ瀬駿美。
忍び寄る感染症の影、馬業界を取り巻く歪な権力関係……物語の冒頭から、彼女の前には数々の問題が噴出します。





   

 駿美は、馬脳炎ウイルスを培養している実験室に向かった。だが、森に聞いた話を思い返すと、気も(そぞ)ろになる。
(実験は中断しようかな。山梨に遠出するたびに、研究室メンバーに、ウイルスの世話を頼むのも気が引ける。馬インフルエンザが、山梨県以外にも広がるかもしれないし)
 しばらく歩くと、廊下の前方のセミナー室から、桐谷(きりたに)(まこと)坂井(さかい)泰士(やすし)が出てきた。桐谷と坂井も駿美に気づく。
「一ノ瀬さん、久しぶり。ウイルス第一部で研究しているんだっけ? 同じ感染研でも、庁舎が違うと、なかなか会わないね」
 桐谷が気さくに話し掛けてくる。駿美は慌てて会釈した。
 駿美よりも七歳上の桐谷は、東京都新宿区にある、戸山(とやま)庁舎の獣医科学部で研究している。テーマは、コウモリによる人獣共通感染症の解明だ。駿美と坂井が大学生の頃、助教として実習の面倒を見てくれたので、頭が上がらない。二年前に(みやこ)大から感染研に移り、主任研究員になった。
 坂井は、駿美の大学時代の同級生だ。茨城県つくば市にある農研機構(のうけんきこう)の動物衛生研究部門で、豚熱の研究をしている。実家は宮崎県の大規模な養豚場だ。大学卒業後に実家に帰ったが、もっと研究がしたいと大学院に戻ったらしい。
「桐谷先生と坂っちは、今日は、セミナーですか?」
 駿美の問いに、坂井が説明する。
「今日のセミナーは、ワクチン開発の最前線のリポートだったんだ。豚熱は最近、また流行している。ワクチン対策で頭が痛いから、ヒントを得られればと思ってきたよ」
「豚熱って、ワクチンはあったよね」
「もちろん。ずいぶん前からあるよ。でも、豚熱は、家畜の豚だけでなく、野生の猪にもワクチンを与えなければならない。一頭ずつ捕まえて注射するのは難しい。馬は、野生の馬が山中にウロウロしていたりしないから、(うらや)ましいよ」
 駿美は納得した。坂井は続ける。
「それに、人獣共通感染症でも、豚インフルエンザは人に感染(うつ)るけれど、馬インフルエンザは感染らない。馬は人にとって『綺麗(きれい)な動物』でいいなと思う」
 馬インフルエンザと聞いて、駿美は気が重くなった。
(人を含む他の動物にとって、馬が「綺麗」なままでいてくれればいいけど)
 桐谷が会話に入ってくる。
「僕もワクチン開発の話を聞きに来たんだ。コウモリ媒介の病原体って、ワクチンのない厄介なものが多いから」
「レベル4のウイルス」であるエボラ・ウイルスやマールブルグ・ウイルスなどは、コウモリ由来だ。
(私が一番、研究したかった、馬の「最強・最悪」の病原体「ヘンドラ・ウイルス」も、コウモリ由来でワクチンがなかったな)
 駿美は「ヘンドラ・ウイルスを研究テーマにしたい」と告げた時の、指導教官の(あき)れ顔を思い出した。いくらBSL4施設でも、博士学生が「レベル4のウイルス」を扱いたいと訴えるのは、常識外れだったようだ。
 ヘンドラ・ウイルスは、一九九四年に突如、オーストラリアに現れたウイルスだ。オオコウモリから馬、馬から馬、馬から人へと感染する。
 馬や人が感染すると、重い肺炎や神経症状を示し、死亡する場合もある。さらに、有効な治療法や予防法がない。
 桐谷は人(なつ)っこい笑顔で、話を続ける。
「そうだ。時間があったら、来週の戸山庁舎のセミナーを聞きに来てよ。二〇一三年の三宅島(みやけじま)の噴火の映像を解析したら、オオコウモリらしい動物が映っていた事例の報告なんだ」
 駿美は、オオコウモリと聞いて、ビクッと反応した。
「オオコウモリって、日本では小笠原(おがさわら)諸島にしかいないと思っていました」
「正確には、小笠原と南西(なんせい)諸島以南だね。でも、本州の鹿児島市内でも見つかった事例があるから、北上していると思う」
 コウモリ類には、オオコウモリ類とココウモリ類がいる。日本では、約百種の哺乳(ほにゅう)類のうち、コウモリ類が三分の一を占める。ほとんどがココウモリ類で、オオコウモリ類は熱帯性の離島にしかいない。
 だが、病原体の宿主(しゅくしゅ)として世界的に注目されているのは、オオコウモリ類のほうだ。
「桐谷先生、でも、日本では、コウモリ由来の危険な病気って、ないでしょう?」
 坂井が口を挟む。
「狂犬病やSARSを媒介すると言われているけど、報告はないね。一ノ瀬さんが興味を持ちそうなのは、オーストラリアのヘンドラ・ウイルス感染症か。そういえば、感染研もヘンドラ・ウイルスを導入したね」
 駿美は耳を疑った。矢継ぎ早に質問する。
「レベル4のウイルスですよ! 感染研が近隣住民に説明したとか、ホームページに掲載したとか、今まで聞いた(おぼ)えがないです。本当なんですか?」
 坂井に突っつかれて、駿美は我に返った。桐谷は真顔になっている。
「僕がコウモリの研究者だと知って、村山庁舎の先生が話してくれた。だから確かだよ。なぜ、市民に導入を伝えなかったか。……エボラ・ウイルスなんかと比べて、一般市民に馴染(なじ)みがないから、かな」
(あと)から住民が知ったら、却って大問題になりませんか?」
 駿美の指摘に、三人は顔を見合わせて考える。
 しばらくして、坂井は「正解に辿り着いた」と、得意げな顔をした。
「レベル4ウイルスの報告義務は、海外から輸入した場合だ。ヘンドラ・ウイルスは、国内から来たんだよ」
 駿美は「ありえない」と、大きく(かぶり)を振る。
「ヘンドラ・ウイルスは、オーストラリアでしか見つかってないの。近縁種の豚と人に発症するニパ・ウイルスだって、マレーシアやバングラデシュだよ」
 坂井は(へこ)んだ様子を見せる。すぐに、桐谷が「(ひらめ)いた!」と声を上げた。
「ヘンドラやニパって、レベル3から4に、(あと)から格上げされたウイルスだよね。元々、導入していたBSL3の施設が、持て余して感染研に譲ったんだろう。坂井君がいる農研機構や、NRAの総研なら、かつて持っていたかもしれない」
 駿美と坂井は「なるほど」と納得する。
「馬の病気の研究なら、感染研よりも農研機構やNRAの総研のほうが得意です。だから、レベル3時代にヘンドラ・ウイルスが、その二ヶ所にあって、感染研にはなかった可能性は、充分にありそうですね」
 二つの気持ちが()い交ぜになる。
(研究者としては、貴重なヘンドラ・ウイルスを感染研に導入するのは大歓迎だわ。でも、馬術の関係者としては、馬と人の致死率が高いウイルスは、日本に置いてほしくない)
 駿美は、感染研の近隣住民の気持ちを後回しにしている自分に気づき、自己嫌悪した。



(「第一章」了。「第二章 速足 -Trot-」へつづく)


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