『とにもかくにもごはん』小野寺史宜 試し読み

文字数 5,198文字



「千亜、叩いてごめんね」

  お母さんは福井県の実家に帰っていった。昔住んでた家だ。そこにはおじいちゃんとおばあち ゃんがいる。わたしも行ったことがある。たぶん、もう行くことはない。

  お父さんとお母さんは、そんなふうに離婚した。それが二年前のことだ。

  親が離婚すると、子どもはたいていお母さんに引きとられる。離婚の原因がお父さんにあることが多いからなのか、お父さんでは子どもを育てられないからなのか、それはよくわからない。

とにかくお母さんと二人で暮らすことになる子のほうが多い。

  そうなると、子どもの名字は変わる。お母さんのもとの名字に変えるのだ。それを旧姓と言うらしい。

  親が離婚した子は、学校にも何人かいる。例えば同じクラスの池原仁輔くんは、四年生になる四月に名字が変わり、その池原になった。三年生までは須貝仁輔くんだった。

  須貝くんとは一年生からずっとクラスが同じ。だから、池原くん、にはまだ慣れない。今もたまに須貝くんと言ってしまいそうになる。急に呼びかけるときなんかは特に。

  わたしはお父さんに引きとられたので、岡田のままでいられた。お母さんの旧姓の平尾になることはなかった。よかった。何よりもまず、転校しなくてすんでよかった。

  離婚が決まったあと、ここに住みつづけてもいいかとお父さんに訊かれた。いいよ、とわ たしは答えた。この家にはもういたくないとわたしが思う。お父さんはそう考えたみたいだった。でもわたしにそんな気持ちはなかった。お母さんが嫌いになったわけではないのだ。

  だから、わたしとお父さんは今も二人でそのマンションに住んでる。お母さんとは一度も会ってない。会いたいとわたしがお父さんに言えば会えるのかもしれない。今はまだ言わない。わたしがお父さんにお母さんのことを言いつけたのに、会いたいなんて言うのはズルい気がするから。

  お父さんは、今も変わらず朝から晩まで働いてる。勤めてるのは、玄関のドアとか家のなかドアとかをつくる会社だ。そういうのを建具というらしい。

  借りてるマンションだと難しいけど、もし一戸建てを買うなら、そのときは注文してお父さんの会社製のドアを付けたりもできるよ。木でできてるのに火に強いドアとか、そういうのもあるんだぞ。

  お父さんはそう言うけど、わたしたちが一戸建てに住むのは難しそうだ。東京は土地が高いから一戸建ては買えないと聞いたことがある。それにウチは、おばあちゃんにもお金がかかるのだ。

  おばあちゃんは、特養という施設に入ってる。歳をとって身のまわりのことをするのが難しくなった人が入るところだ。

  それは隣の県にある。お父さんはたまにおばあちゃんに会いに行く。わたしを連れていくこともあるし、連れていかないこともある。まだお父さんと結婚してたとき、お母さんはあまり行きたがらなかった。そのことも、お父さんとお母さんがうまくいかなくなった理由の一つにはなってるみたいだ。

  おばあちゃんは、わたしが保育園児だったころからそこに入ってた。わたしが自分の孫であることは、もうわからないらしい。でもわたしが生まれたときはちゃんとわかってたそうだ。

  お父さんは四十一歳。おばあちゃんは八十三歳。四十二歳のときに、おばあちゃんはお父さんを産んだ。

  元気なころのおばあちゃんと話をしてみたかった。お父さんが小さかったときのことを聞いてみたい。その記憶はおばあちゃんから消えてなくなったわけではないだろう。たぶん、どこかずっと奥にしまいこまれて取りだせないだけなのだ。そう考えると、余計悲しくなる。

  そんなわけで、お父さんはとにかく大変。土曜日に仕事に出ることもあるから、日曜日に掃除 とか洗濯とかを一気にやる。買物もまとめてする。

  肉や魚を焼く程度だけど、料理だってする。得意なのは肉野菜炒めだ。肉と野菜とこしょうの味しかしない。でもおいしい。もうちょっと落ちついたら料理教室にでも通ってきちんとしたものをつくるからな、とお父さんはわたしに言ってる。でも料理教室に行く時間まではつくれない と思う。行ったとしても、お母さんのあのグラタンまではつくれないと思う。

  だからわたしもなるべく無理は言わない。手伝えることは手伝う。毎日の晩ごはんは自分で買う。毎朝お父さんとわたしが食べる食パンを買う係もわたしだ。

  お父さんとわたしが一枚ずつ食べるので、六枚切りの食パンは三日でなくなる。だからわたしは三日ごとに食パンを買う。消費期限の表示は慎重に見る。スーパーの棚の奥を探り、期限内に 食べきれるものを買う。一日ぐらいはだいじょうぶだよ、とお父さんは言うけど、そこはがんばる。

  そんなふうに、わたしはできることをやる。子ども食堂にも行く。お父さんがわたしを行かせたいのだから、行く。

  いただきますを言って、わたしは晩ごはんを食べる。

  豆腐ハンバーグ。学校の給食でたまに出るような気がする。でも献立表に載ってるのを見るだけ。これがそうと意識して食べるのは初めて。もとが豆腐だからか、見た目がちょっと白い。お箸で小さくしたその一切れを食べる。

  向かいの牧斗くんに訊かれる。「おいしい 」「うん。おいしい」と答える。

  それを聞いてたのか、松井さんがスルスルッと寄ってきて言う。

「千亜ちゃん、ほんと 」「ほんとです」とわたしは返事をする。大人が望むいい返事、だ。「ほんとにおいしいです。豆 腐なのに、お肉みたい」「お肉をちょっと入れてつくる場合もあるんだけど、今日のこれはお肉なし。ノー挽肉。だからね、カロリーもそんなに高くないの。体にいいのよ。スタイルを気にする女の子も安心。千亜ちゃんは、気にしなくてだいじょうぶだけど」「だいじょうぶじゃないです。ちょっと体重が増えたし」

「いいのよ。小学四年生でしょ。それは成長してるってこと。今、体重が増えなかったらダ メ。おばさんぐらいになると増えないほうがいいけど。でも増えちゃうけど」「おばちゃん、そんなに太ってないよ」と牧斗くんが言う。「あっ、そんなにって言った」と松井さんが笑う。「ちょっとは太ってるってこと」「うん。ちょっとは太ってる」「あらら。ストレートにそんな。牧斗くん、学校で女の子にそんなこと言うのはなしよ。男の子にもなし」

「言わないよ。知ってるもん。デブにデブって言っちゃダメって、お母さんも言ってる」 「うーん」松井さんはさらに笑って言う。「言い方はちょっとあれだけど、まあ、正しいか。と にかく、千亜ちゃんもハンバーグを気に入ってくれたんならよかった」 「ほんとにおいしいです」とわたしは言う。ほんとに、を付けてしまう。本当においしいから。

「わたし、お肉のハンバーグよりこっちのほうが好きかも」

「おぉ。うれしい。といっても、これはおばさんがつくったわけじゃなくて、カウンターのなかにいるあの女の人がつくったの。ツジグチさんていう人。千亜ちゃんがおいしいと言ってくれたって言っておくね」

  おいしいと言うと、こんなふうに大人は喜ぶ。だから、本当においしいとわたしはたすかる。 本当においしいなら、おいしいと普通に言えるから。 「千亜ちゃん。ハンバーグって、何でハンバーグって言うか知ってる 」

「知らない」

「牧斗くんは 」

「肉だから」「ブブー」と松井さんは言う。不正解です、の、ブブー、だ。「ドイツにハンブルクっていう町 があってね、そこを英語ふうに言うとハンバーグなの。それで、ハンバーグ」

「ドイツ代表 」と牧斗くんが意味不明なことを言う。「そう。そのドイツ。十八世紀だったかな。だから三百年ぐらい前にそのハンブルクっていう町で生まれて、世界じゅうに広まったんだって」

「三百年。ぼく生まれてない」「おばさんも生まれてない。日本で広まったのは、六十年ぐらい前からみたい。六十年でもすごいよね」

「ぼくやっぱり生まれてない」「おばさんも、どうにか生まれてない。でも確かに、おばさんが子どものころ、レトルトのハンバーグはもう当たり前にあったわ」

「ぼくレトルトのカレー好き」「あぁ。カレーも、レトルトのはおいしいよね。おばさんが家でつくるのよりおいしかったりする。さっきのコウダイ。あの子も、おばさんが朝から時間をかけてじっくりつくったカレーよりレトルトのほうがうまいなんて言うからね。失礼しちゃうわよ。千亜ちゃんも、カレーは好き」

「好き」「カレーを嫌いな人はいないか。大人でも子どもでも。じゃあ、次回のメニューはカレーにしようかな。子ども食堂なら一度はやっておかなきゃね。カレーにしたら、牧斗くん、また来てくれる」

「来る」

「千亜ちゃんは 」

  わたしは牧斗くんをまねて言う。

「来る」「よし。じゃあ、次はカレー。よかった。二人のおかげでメニューが決まった。どんなカレーにしよう。スープカレーとかにして、ちょっとカッコつけちゃおうかな」「ぼく普通のカレーがいい」

「カッコつけなくていいの 」

「いい」「そうか。じゃあ、わからないようにカッコつけるわよ。食材とかでカッコはつけるけど仕上がりは普通のカレーにする。もしその日の給食もカレーだったらごめんね」 「ぼく夜もカレーでいい」

「わたしも」と自分から言う。 「あ、でも給食の献立ぐらいは、学校に訊けば教えてくれるか。まさかそれを個人情報とは言わないでしょ。クロード子ども食堂ですって言えば、教えてくれるわね。それでいこう。千亜ちゃ んと牧斗くんの学校の給食がその日カレーじゃなかったら、カレー」 「あっ」とわたしが言い、

「ん」と松井さんが言う。

「牧斗くんとわたし、学校がちがう」「あぁ。そうかそうか。学区がちがうのね。了解。どっちにも確認します。ちゃんとメモしとかなきゃ。おばさんはもうおばさんだから、いろいろ忘れちゃうのよ。最近、自分の誕生日も忘れちゃう」

「ほんとに 」とわたし。 「うん。日にちそのものは忘れないけど、その日が誕生日だってことをコロッと忘れちゃうの。 今日誕生日じゃんってコウダイに言われて思いだしたりね。いやんなっちゃう。若い千亜ちゃ んと牧斗くんがうらやましい。邪魔してごめんね。千亜ちゃん、食べて食べて」

  そう言って、松井さんは寄ってきたときと同じようにスルスルッと去っていく。

  クロード子ども食堂。初めはちょっと緊張した。お父さんと二人で来たときも緊張したけど、 次に一人で来たときはもっと緊張した。家から二分歩く途中で、やっぱりやめようかと思ったくらいだ。でもやめるのをやめた。メニューは何だったかとお父さんに訊かれたら、答えられないから。

  ただ、外の看板にメニューが書かれてるのを見て、あ、これを覚えて帰ればいいのか、と気づいた。あとはおいしかったと言えばそれですむ。そう思ってたら、なかからドアが開いて、松井さんが顔を出した。そして、いらっしゃい、と言ってくれた。それで引き返せなくなり、そのまま入ってしまった。

  その次もまた緊張はしたけど、行くのをやめようとは思わなくなった。その次はもう、何も考 えずに行けた。今回は、メニュー何かな、と考えられるようになった。慣れたのだ、たぶん。前々回のメニューは、魚と煮物だった。魚はいわし。小骨が多いので食べづらかった。見てると、残す子も結構いた。煮物は大根とこんぶとちくわ。おでんみたいだったけど、わたしが好きな玉子はなかった。

  前回は、ピーマンの肉詰め。これはすごくおいしかった。お肉がたっぷり詰まってて、ピーマンの苦味はほとんどなかった。でもやっぱり残す子もいた。わたしのななめ前に座った男の子 は、お肉だけをくりぬいて食べてた。残されたヘナヘナのピーマンが何だかかわいそうになった。

  それを見て、松井さんもちょっと残念そうな顔をした。その子が帰ったあと、千亜ちゃんはピーマンも食べてくれてありがとうね、と言った。どう返事をしていいかわからなかった。ありがとうを言うべきなのは、タダでごはんを食べさせてもらってるわたしだから。

  ここは不思議な場所だ。元カフェなので、外から見たらお店。なかに入って見ても、お店。で もお店のようでお店じゃない。お店なら、店員さんは気軽に話しかけてこない。お客さんのほうが偉い、みたいになってしまう。だからって、食堂の人たちが偉ぶってるわけでもない。もしそうなら、誰も来ないだろう。牧斗くんも来ないだろうし、わたしも来ない。お父さんだって、わたしを行かせないと思う。

  話しかけられはするけど、わたし自身が話したくなければ話さなくていい。ほっといてもらえる。そんな感じもある。そういうのをひっくるめて、わたしみたいな子ども一人でも安心していられる。

 


続きは『とにもかくにもごはん』(8月12日発売)で!

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