■SS『恋する救命救急医 それからのふたり』特別番外編 春原いずみ 

文字数 2,622文字

「薔薇の名前」

『le cocon』の大きな扉の前には、小さなローズガーデンがある。
「薔薇って、育てるのが難しいって聞いたことがあるけど」
 ふわっと花開いた淡いピンク色の薔薇を、藤枝はそっと傷つけないように鋏で切っている。宮津はその後ろに立って、恋人の手元をじっと見つめていた。
「そうだね……手はかかるかな。虫がつきやすいし、病気もあるしね。土の入れ替えなんかも必要だし、一番面倒なのは、剪定かな。きちんと切ってあげないと、花がつかなくなったりもするから」
 藤枝が育てている薔薇は、みなふわっとした淡い色合いのものばかりだ。特にピンク色の薔薇が一番多くて、あとは柔らかいクリーム色やオレンジ色……変わったところでは、薄紫の薔薇もある。今摘んでいるのは、ふわふわとしたフリルのような花びらが可愛らしいシュガーピンクの薔薇だ。
「『le cocon』は、もともと普通の家だったんでしょ? このローズガーデンは、初めからあったの?」
 宮津の問いに、藤枝は首を横に振った。
「いや、ここは駐車場だったんだよ。住宅を『le cocon』にリノベーションした時に、敷いてあったコンクリートを全部剥がして、土を入れたんだ。初めから『le cocon』はバーとして営業するつもりだったから、駐車場はいらないしね」
「あ、そっか……」
 そう言えば、この店には、賀来の他の店には必ずある駐車場がない。住宅街にある店だからかと宮津は思っていたのだが、確かにアルコールを提供するバーに駐車場はいらない。
「オーナーはそのままにしとけば? って仰ってたんだけどね」
 藤枝は薔薇を切り終えると、手の中でひとつにまとめて、すっと立ち上がった。
「でも、何だか無粋だと思わない? せっかくのバーの前が剥き出しのコンクリートだなんて」
「あ、確かにそうかも」
 今、『le cocon』の扉の前は、薔薇が美しく咲き乱れるローズガーデンとレンガがランダムに敷き詰められたエントランスになっている。とてもシックで美しい空間だ。
「まぁ、掃除は大変だけどね」
 藤枝はくすりと笑うと、宮津の肩をそっと抱いた。
「夕方になったら、少し冷えてきたね」
 今日のバータイムの営業は休みだ。『le cocon』に定期の休みはないのだが、月に二度くらいは休みを取る。もともとグルメサイトなどに一切登録していないバーで、客たちはほとんどが常連で、新規の客も常連に連れられてくることが多い。常連には直近の休みくらいは伝えているし、たとえ唐突に休んでも「『le cocon』だからね」で許してもらえる。楽と言えば楽だが、それだけに営業している時は、完全に客を満足させなければならない。藤枝のマスターとしての腕がしっかりと試されてもいる営業形態なのである。
「明日は日勤?」
 藤枝は右手に摘んだ薔薇を抱え、左手で宮津の肩を抱き寄せる。
「うん。明後日も日勤だから……」
 大きな瞳で、宮津は上目遣いに恋人を見上げる。藤枝は『le cocon』の通用口の前で、そんな宮津の頰に軽くキスをした。
「……じゃあ、ゆっくり……できるね」
 少し大人びた含みのある言葉に、宮津は耳たぶをわずかに染めて、こくりと頷いた。
 恋人同士のゆっくりとした夜の過ごし方なんて……一つしかないに決まっている。

 ベッドサイドのテーブルには、シンプルなガラスの水差し。無造作に差した淡いピンクの薔薇が甘い香りを振りこぼす。
「……晶……」
 恋人は軽い寝息を立てて、よく眠っている。微かに震える長い睫毛。薄く開いた唇。さらさらの髪をそっと撫でて、藤枝は微笑んだ。
「……無理させて、ごめんね」
 華奢な恋人は、救命医という仕事だけで、十二分に体力を消耗している。それでもベッドに入ると、お互いの熱さがほしくて、二人は幾度も求め合い、身体を重ねる。さすがに行為の最中に気を失うようなことはないが、一番の高みに駆け上がると、宮津はスイッチが切れたように眠ってしまう。それがいつもの恋人同士の甘い夜だ。
『どうして、ローズガーデンを作ったの?』
 ベッドで素肌を合わせながら、宮津が無邪気な調子で聞いてきた。ふわりと漂う薔薇の香りを感じたのだろう。藤枝ははっきりとは答えずに、彼の唇に甘いキスを贈ったのだが。
『le cocon』の前にローズガーデンを作ったのは、まだ店のリノベーションをしている最中のことだった。毎日店に来ていながら、まったく現場を見ずに、ひたすらローズガーデンを作っている藤枝に、賀来は呆れていたと思う。しかし、あの時の藤枝は、何も考えずに、ただひたすら何かに集中する必要があったのだ。
 賀来に誘われ、『le cocon』を預かるためにパリから帰国した時、藤枝はまだ完全に回復していなかった。
 過酷な救命医という仕事に、心と身体を蝕まれて、医師の道を断念した藤枝は、あの時、まだ完全に健康な状態ではなかったのだ。
 ふと気づくと、悩みの迷宮に踏み込んでしまう。『もっと何かできたのではないか』『まだ頑張れたのではないか』……決して答えの出ない悩みに、意識のすべてを支配されてしまう。
 そんな藤枝が見つけた無心になれることが、ローズガーデンの構築だった。
 無心に土を耕し、肥料を入れ、そして、植える薔薇を選ぶ。どこにどの薔薇を植えよう。どんなイメージにしよう。小さな美しいローズガーデンは、確かに藤枝を救ってくれた。
「でも……今は君がいる……」
 天使のように微笑みながら眠る恋人。出会ったあの時から、藤枝の心を摑んで離さない愛しい人。
 エンジェルキス。それが……この淡いピンクの薔薇の名前。
 安らかに眠る恋人の瞼に、そっとキスを贈る。
 天使にキス。
 晶……僕は君を愛している。
 僕は君を愛し続ける。
 きっと永遠に。
 この薔薇のように、可憐で愛らしく……抱きしめたくなる君を、心から。



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