「栗羊羹」 梓林太郎

文字数 1,038文字

(*小説宝石2021年4月号掲載)
2021/03/24 13:27

三、四歳のとき、信州(しんしゆう)・伊那(いな)の母の実家に世話になっていた。そこへ、兵隊にとられていたが終戦になって、南方の島から父が帰ってきた。痩せ細った父は、黒い蚊のように見えた。祖父は私の父の姿を見て、「これでまた食い物が減る」とつぶやいた。そのころ母の実家には、母の妹が食い盛りの娘と息子を連れて名古屋からきて同居していた。


 ある日、「小布施(おぶせ)へいってきた」という親戚の人がやってきた。その人は、小布施は遠いところだといい、小ぢんまりとしたきれいな土地だといって、みやげに栗羊羹(くりようかん)を一本持ってきた。私が、栗羊羹なる物を見たのはそのときが初めてだったと思う。竹の皮に包まれて、てかてかと光っている物を見て、たぶんよだれをたらしたにちがいない。母はそれを薄く切ってくれた。蕗(ふき)の薹(とう)とわらびとつくしを食べていた少年に、舌の上でとろけるその甘さは不思議であった。栗は口のなかで心地よく砕けた。その固さと、歯にくっついた感触には、頬がちぎれそうだった。噛んで飲み込んでしまうのが惜しくて、何度も何度もなめていた。祖父は栗羊羹の残りを子どもの手のとどかないところへ隠してしまった。引きしまった固さの栗羊羹は、たびたび夢にあらわれた。


 栗羊羹の隠し場所をさがしあてることができないでいるうちに、かつて暮らしていた静岡の清水(しみず)港から魚の干物が送られてきた。それを焙(あぶ)りはじめると、囲炉裏端(いろりばた)へ猫がすわり動かなくなった。骨か尻尾をくれるものと思い込んでいたにちがいないが、私たちは、骨を焙り直して食べてしまった。それを見て怒った猫に手を噛まれたこともある。


 私たちはうすい塩味の干物を食べているあいだは、甘い栗羊羹のことを忘れた。いまや小布施といえば葛飾北斎(かつしかほくさい)の記念館だが、私の目の裡(うち)には飴色の栗羊羹が浮かんでくる。

2021/03/24 13:17
2021/03/24 13:17

【あらすじ】

戦時中に負傷し記憶を失った少女・七恵。指物職人の夫妻の養子となり平穏に過ごしていたが、彼女は残酷な不幸に見舞われる。さらに義父の得意先の酒蔵で殺人が……。小布施の町並や縁の深い北斎の絵画、そして信州の峰々が織りなす傑作ミステリー!


【PROFILE】

あずさ・りんたろう

長野県生まれ。1980年に短編「九月の渓で」で第3回「小説宝石」エンタテインメント小説大賞を受賞してデビュー。人気シリーズを生み出し、山岳ミステリーの第一人者となる。

2021/03/24 13:18

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