〈第2回〉FAKE

文字数 9,216文字

●既に世間のジャッジは下っている


「題材勝ち」と呼ぶべきドキュメンタリーがある。

その題材が取り扱われているというだけで、あるいは視点が〝そこ〟に設定されているというだけで、視聴者に「面白そうだ」と思わせるタイプの作品だ。

中国人監督が靖国神社に集う人々にカメラを向けた『靖国YASUKUNI』(’07)、アメリカ人監督が和歌山県太地町(たいじちょう)のイルカ追い込み漁を批判的に取り上げた『ザ・コーヴ』(’09)、日系アメリカ人監督が慰安婦問題を鋭く検証する『主戦場』(’18)などは、まさにそういうタイプの作品。

いずれも取り上げられている題材を聞いただけで心がザワつく。


日本を代表するドキュメンタリー監督のひとりである森達也(もり・たつや)も、そんな「題材勝ち」ドキュメンタリーを撮り続けてきた。

代表作『A』(’98)と『A2』(’01)は、オウム真理教の関係者に密着したもの。90年代には動物実験や放送禁止歌をテーマにしたTVドキュメンタリーも制作している。

その森が、ゴーストライター騒動で世間から一斉にバッシングを受けた佐村河内守(さむらごうち・まもる)に密着したのが『FAKE』(’16)だ。


佐村河内についておさらいしておこう。

彼は全聾(ぜんろう)、つまり完全に耳が聞こえない作曲家という触れこみで長らく名声を得てきたが、2014年、週刊誌の暴露記事を発端に、「自作として発表してきた曲が、実は作曲家・ピアニストの新垣隆(にいがき・たかし)の手によるもので、本人は作曲していない」「実は全聾ではなく、中度の難聴である」ことが発覚。一気に名声を失い、世間から手厳しく断罪された。


結論から言えば、森が密着をはじめた時点で、世間の佐村河内に対するジャッジは既に下っていた。

「佐村河内は嘘つき。ペテン師である」という〝結論〟は既に出ていた。

実際、佐村河内は発覚後すぐに謝罪した上で記者会見を開き、身体障害者手帳も返納している。

ゆえに本作には、佐村河内へのジャッジが覆るような、あるいは罪が軽くなるような新事実は出てこない。

しかし、本作は悪魔的に面白い。監督の森が佐村河内からエラいものを引っ張り出しているからだ。

「FAKE」 2016年/日本 監督・撮影:森達也 DVD発売中 DVD5,280円(税込) 

発売元:ディメンション 販売元:ハピネット・メディアマーケティング ⓒ「Fake」製作委員会

●カメラに収められた佐村河内の「嘘」


森は『FAKE』の冒頭で佐村河内に、「佐村河内さんの怒りではなく、悲しみを撮りたい」と言う。

いかにも「哀れな罪人に対する優しき救済」じみた態度を表明して、寄り添う姿勢を見せるのだ。

しかし本作を観終わった我々が包まれるのは、〝罪人〟に対する哀れみや赦しの感情ではない。「佐村河内、やっぱり嘘くさい」だ。


その仕掛け人は当然、森である。

本作は入り口の設計からして巧妙だ。観客が佐村河内に対して事前に抱いているイメージは、「嘘つきのペテン師」。したがって観客は「騙されまい」という警戒心いっぱいで本作を観始める。詐欺師に対峙する取調官のような心持ちで、彼の一挙一動、一言一句を、はじめから疑ってかかる。

普通のドキュメンタリーを観るのとは比べ物にならないほど高い解像度で映像を捉えようとする。

観客は断罪済みの詐欺師が画面に映り続けているという異常事態を前に、集中力を1秒たりとも途切れさせない。つまり佐村河内にとっては非常に〝アウェイ〟の状態で本編が始まる。


結果、騒動のあらましを知っている観客ほど(=詐欺師の前科をよく調べている取調官ほど)、劇中での彼の語り、あるいは〝騙(かた)り〟に、敏感に反応する。


たとえば、彼は長らく「日光を浴びると耳鳴りが酷くなるから」という理由でサングラスを常用しており、本作でも昼間から部屋のカーテンを閉めている。しかし作中での彼は、何度となく光が差すベランダに自分の意思でタバコを吸いに出る。

森はそれを追いかけ、都度カメラに収める。ベランダで大した話など出ない。なのに森は撮り、本編に組み込む。森の意図は明らかだ。


また、佐村河内は一貫して「新垣は完全なゴーストではなく、共同作曲者だ」と主張し、その証拠として、新垣に宛てた〝楽曲指示書〟なるものをカメラの前に出す。

しかしそこに五線譜やメロディについての記載はない。手書きの文字でびっしり「曲のコンセプト、理論」や「曲の構成」が書き込まれているだけ。

やや子供っぽい筆跡のせいもあり、なんだか「勉強のよくできる中学生が、頑張ってこしらえた自由研究」のようにも見える。これをもって共同作曲者だと主張するのは、かなり無理筋だ。


森はこの楽曲指示書を映し込むことで、観客に対して「無理があること」を明らかに伝えようとしている。

しかし森の意図に気づいていない佐村河内は、楽曲指示書が切り札とばかりに、自分の正当性を熱弁。その姿は健気でいじらしく、哀れで惨めったらしい。

森が言った「悲しみを撮りたい」とは「惨めさを晒したい」の意味だったのか?


楽曲指示書の存在が作曲の証拠にならないことは、佐村河内を取材に来る米国人記者の鋭いツッコミでダメ押しされる。記者は佐村河内の耳が聞こえないことについては「信じている」と口にするが、作曲についてはかなり懐疑的だ。


記者は目の前で実際に弾いてみてくれと言うが、佐村河内はもう長く鍵盤を触っていないので弾けない、と苦しい説明。さらに家にシンセサイザーがない理由を聞かれて「部屋が狭いから」などと答える。

中学生どころか小学生が言っても通らない、幼稚な言い訳だ。このような目を覆うようなやり取りも森は冷徹に撮り、しっかり本編に採用する。


しかもその「部屋が狭いから」は、森の〝策略〟によって嘘であることがバレてしまう。

終盤、森は長らく作曲をしていないという佐村河内に「作曲しませんか?」と提案。焚き付けられた佐村河内はシンセサイザーを購入してマンション内の一室に置き、作曲を始める。


そう、シンセサイザーはちゃんと置けている。部屋は狭くない。森はそのことを強調するため、手持ちカメラで部屋に入り、部屋の広さがわかるように部屋中を歩き回って撮る。

シンセサイザー、佐村河内、佐村河内の妻、そして森自身が同時に部屋にいられるほど、その部屋には十分な広さがある。その際、森がわざわざ自分の足をフレーム内に入れ込んで撮っているのは、観客に「撮影者である自分も入室可能なほどの広さがある事実」を意識させる効果がてきめんだからだ。実に、意地が悪い。

●画面に映り込む〝芸術家〟の胡散臭さ


森はこのように、佐村河内の〝嘘〟をカメラの前で――佐村河内に気づかれない形で――再演させたが、同時に佐村河内の人間性も残酷に露呈させた。


その人間性とは「胡散臭(うさんくさ)さ」だ。


画面に映る佐村河内の表情や発言には、ことごとく「僕はどこまでも清廉潔白であり、社会からひどい攻撃を受けていて可哀想な存在なんだ」という被害者根性が滲む。すべてが言い訳じみている。当然ながら観客の同情心は遠ざかる。


その上で彼は、自分に音楽的才能があるという信念を絶対に譲らない。

「音が聴こえなくてもトルコ行進曲はリズムでわかる」「僕ほど音楽をプロデュースできる人間はいないと言ってくれる人がいた」などと一生懸命説明しているくだりを見ていると、サークル幹部の役職経験をさもすごいことのように熱弁し、いかに自分が稀有な人材かをアピールする大学生を前にした面接官のごとき(生暖かい目で見守っているような)気分になる。

よく言えばピュアで眩しい。悪く言えばイタい。無論、「稀有な人材」として採用する気など起きるはずがない。


要するに、鼻につくのだ。否、そう見えるような素材が選ばれて作品が構成されている、と言ったほうが正確だろう。


さらに、その胡散臭さと同時に立ち昇ってくるのが、佐村河内の「ニセモノ感」だ。

端的に表れているのが、佐村河内夫妻の住むマンション。一言で言えば、芸術的感性にすぐれた人間が住むような場所にはとても見えない。そこそこ小綺麗ではあるが無個性に過ぎる。「生活を彩る」とか「飾り付ける」とか「何かにこだわる」といった要素が、微塵も感じられない。

芸術に身を投じる人間の住まいというものには――裕福だろうが貧乏だろうが――何かしらの美や風情や哲学が組み込まれているものだが、いずれも発見できない。ペラッペラなのだ。


壁にかけられたジャケット、妻手製のハンバーグ、食卓で豆乳パックをがぶ飲み、ベランダでのタバコ、あまりにも凡庸なファッション。すべてが〝しょっぱい〟。

「清貧の」とか「ミニマムな」とか「慎ましやかな」といったポジティブな形容詞が一切浮かばない。ただもう、しょっぱい。これが、騒動発覚前まではカリスマ的に振る舞っていた〝芸術家〟の住み処だとするなら、なんらかの虚偽があっても致し方ない――と思わせるほどのしょっぱさ。


それは単なる印象論だろうと言われるかもしれないが、画(え)は言葉よりも雄弁に語る。森は言葉で「胡散臭い、ニセモノ臭い」と直接的に語ることはせず、しかしもっと残酷な方法で佐村河内に引導を渡した。しかも「渡したのは僕じゃない。そういう印象を抱いた観客の皆さんです」という鉄のエクスキューズを用意して。


森の、否、ドキュメンタリストの意図というものの恐ろしさ。本作の悪魔的な面白さは、こういった点にある。

●被写体に「関与」するのはアリか、ナシか


悪魔的な面白さと同居する形で、本作は現代のドキュメンタリーが避けて通れない2つの重要な論点を孕んでいる。


ひとつは、ドキュメンタリー監督は被写体(取材相手)にどこまで「関与」してよいのかという問題だ。


監督が被写体とどの程度深く関係性を結ぶべき(親しくなるべき)か、あるいは直接的な働きかけによって「関与」すべきかについては、ドキュメンタリストの間でも見解が分かれる。

自覚的に関係を結ぼう、関与しようという者もいれば、あえて距離を取ることでなるべく状況に参加せず、観察者や傍観者に徹しようという者もいる。森は圧倒的に前者だ。


森は「佐村河内さんの怒りではなく、悲しみを撮りたい」と佐村河内に直接告げた。こう宣言するか、しないかで、佐村河内のその後の行動は必ず変わってくる。

人間というものは、どこかで「相手との関係が友好的なら、なるべく相手の期待に応えたい」と考える傾向があるので、佐村河内も――意識的にせよ、無意識的にせよ――自分がいかに悲しみにくれているかをカメラの前で「出そう」としたはずだ。


結果、気持ちいいくらい森の術中にはまった。そうして引っ張り出された「悲しみ」は、森の作為によって巧みに「惨めさ」へと変換されてしまった。


森は「積極的に仕掛ける」ドキュメンタリストだ。

丁寧に関係性を構築し、強い言葉で相手を揺さぶり、そうして出てきたものを冷徹に撮る、獲る。


「作曲しませんか?」はかなり直接的な「関与」だ。その言葉がなければ佐村河内は作曲をしなかったし、一連のシーンが「衝撃のラスト12分間。」として映画の売り文句になることもなかった。

森が「仕掛けた」ことで、『FAKE』という映画のクライマックスが成立したと言ってもいい。


森は他にも「僕は全部信じてたフリをしてたかもしれない」「僕に今隠したり嘘をついてることはないですか?」などと佐村河内に言い、揺さぶる。そうして出てきた佐村河内の反応を、観客はまるで動物実験の見学会のような不謹慎さをもって、興味本位で観察する。


実際、ドキュメンタリー撮影のテクニックとして、相手を挑発することで言葉を引き出すやり方は、あるにはある。インタビュアーが悪役になって、相手をわざと苛立たせるのだ。

しかし森の「関与」はもっと深く、もっと業が深い。言ってみれば被写体の運命すら決定する。

●撮影者の関与と「シュレーディンガーの猫」


「被写体の運命すら決定する」は決してオーバーな物言いではない。


ドキュメンタリー監督の被写体への「関与」は、オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーの思考実験として知られる「シュレーディンガーの猫」を想起させる。

ごく簡単に説明すると、「箱の中に入っている猫が生きているか死んでいるかは、観察者が箱を開けた時に決定される」というもの。箱を開けないことには猫を見ることはできないが、開けるという「関与」によって猫の状態(生死)が決定される。

すなわち不関与の状態で自然状態の猫を観察することはできない。何やら不条理文学のような話だ。


これを『FAKE』に置き換えるなら、佐村河内がどのような人間かを知るために撮影を始めた途端、つまり森による「関与」が行われた途端、佐村河内は自然状態の(=ドキュメンタリー撮影が入る前の)佐村河内ではなくなってしまう。

したがって、自然状態の佐村河内をカメラが収めることは、原理的に不可能だ。つまり「自然状態の猫を観察することはできない」。


森ほど激しく被写体に関与しなくとも、ドキュメンタリー撮影においてこういったことはまま起こる。想像してほしい。

あなたの部屋の中に撮影用カメラが設置してある状態での〝普段の生活〟と、カメラがない状態の〝普段の生活〟は、絶対に同じではないはずだ。


カメラが被写体の撮影を始めた瞬間に、被写体は撮影される前の状態には戻れなくなる。大袈裟に言えば、ドキュメンタリストがカメラを回すことで、被写体はカメラが回っていなかった人生とは別の人生を歩む。それが「被写体の運命すら決定する」の意味だ。


誠実なドキュメンタリストは、この罪深さに自覚的である。



●結論を言わない〝ズルさ〟


もうひとつの論点は、「〝正義〟や〝正解〟や〝結論〟を断定しない」というドキュメンタリーのアイデンティティとも言える手付きについて。


本連載の第1回で「ドキュメンタリーは監督の主観の産物である」と述べた。ただそれは、「〝正義〟や〝正解〟や〝結論〟はこれこれこういうものである」と声高に叫ぶこととイコールではない。良質なドキュメンタリーは剥き出しの政治的主張を嫌う。プロパガンダとは一線を画す。

ドキュメンタリーにとって大事なのは、〝正義〟や〝正解〟や〝結論〟を断定して視聴者を組み伏せることではなく、目の覚める〝視点〟を提示することだからだ。


監督が主観を述べるのは自由だが、観客がそこに「乗らない」自由も担保されているのが、よくできたドキュメンタリーである。

もちろん、監督は恣意的な印象操作を駆使して観客を誘導しようとする。その鮮やかな誘導さばきを心地よいと感じる観客もいれば、「はいはい、そういう意図なのね。でもその手には乗るものか」としたり顔で徹底抗戦する観客もいる。監督と観客の綱引きゲーム。


そのゲームを盛り上げるには、監督が〝正義〟や〝正解〟や〝結論〟を安易に断定してはいけない。

個人的に導きたい結論があったとしても、それを口に出して言ってしまうのは野暮天の極み。喩えるなら友達同士の海外旅行。出発前の空港で、そのうちの一人がこんなことを言う。「俺はこれから行く国には何度も行っていて、すべての道も宿も観光地も完全に把握しているから、ガイドは俺に一任して100%指示に従ってくれ」。実につまらない旅行になりそうだ。

ドキュメンタリーも旅行も、結末を知らない状態で体験に身を投じる、そのダイナミックなプロセスが楽しいのであるからして。


だから、森も佐村河内を確定的に断罪しない。その発言の真偽をはっきり検証したり、断定したりはしない。佐村河内の耳が本当はどの程度聞こえるのか、どの程度作曲能力があるのか(作中、佐村河内はシンセサイザーで作曲したことになっているが、森の与り知らぬところで新垣隆のような別の作曲者にメロディを発注した可能性もある)。

その真偽は、森はもちろん、究極的には本人以外、誰にもわからない。だから森も、それについて結論を出そうとはしない。


その代わりに、佐村河内の嘘っぽさ、胡散臭さ、ニセモノ感、しょっぱさを、これでもかとばかりに記録して本編に組み込み、99%の道筋を作ったところで、最後の判定〝だけ〟を観客に委ねる。

それを「ズルい」と取るか、「巧妙」と評するか、「それがドキュメンタリーなのだ」と開き直るかは、それこそ観客が判定することだ。


森のドキュメンタリストとしての名を一気に上げた代表作『A』『A2』も、構造的には『FAKE』と同じ。

一般的には「狂信的テロ集団」であるとして世間のジャッジが(佐村河内以上に)完全に下っているオウム真理教の幹部すなわち〝中の人〟に森は密着し、親密な関係を結ぶ。森自身の意見も積極的に彼らに伝える。つまり「関与」し、「仕掛ける」。


その反応としての彼らの言い分を、カメラの前で吐露させる。

ただ、その言い分の多くは一般常識からすれば嘘っぽく、胡散臭く、ニセモノ感にあふれている。そして悲しいほどにピュアだ。


当然、森は結論を出さない。作中ではっきりとした善悪判断はしない。その代わりに、信者が世間や社会から辛く当たられていたり、公安から横暴な仕打ちを受けたりといった状況を挿し込み、同情要素をちりばめる。かつ質素な食生活や粗末な備品などを細々と記録することで、彼らがいかに社会的に〝しょっぱい〟存在であるかを浮き彫りにする。


そうして99%の道筋を作ったところで、最後の判定は観客に委ねる。ズルくて巧妙。でも、だからこそ『A』も『A2』も悪魔的に面白い、森の代表作となった。

(左から)『A』1998年/日本 監督:森達也 『A2』2001年/日本 監督:森達也

ともにDVD好評発売中 発売・販売元:株式会社マクザム ⓒ「A」製作委員会

●ドキュメンタリーは虚実被膜


もし、被写体に「関与」することではじめて生成される状況こそがドキュメンタリーの本体ならば、ドキュメンタリーは大きな意味での「やらせ」ではないか?という問いは、暴論のようで意外と的を射ている。

相手をけしかける、挑発することで引きずり出された言葉や言動、巧みな心理的誘導。「面白い作品」に結実させるために行う、ありとあらゆる仕掛け、レールの敷設、装置の構築。そういう企みが「やらせ」の一種ではないと、どうして言い切れるだろう?


これはドキュメンタリーの本質を考える際の、かなり重要な論点だ。


多くの映画監督は「ドキュメンタリーとフィクションの境目は曖昧だ」と発言する。

当の森は自著で「『撮る』という作為は、事実に干渉し変成(フィクション化)させる。言い換えれば、現実をフィクショナライズする作業がドキュメンタリーなのだ」(*1)と言い切る。


『トウキョウソナタ』(’08’)、『岸辺の旅』(’15)などで世界的にも評価の高い黒沢清(くろさわ・きよし)は、自作のメイキングドキュメンタリー内で「どう考えてもドキュメンタリーとフィクションの境目はないです。ドキュメンタリーといっても、ある程度ヤラセはあるし、フィクションとはいっても、偶然起こることはたくさんありますから」(*2)と発言している。


三里塚(さんりづか)闘争を記録した作品で知られ、1960年代から70年代にかけて日本のドキュメンタリーを牽引してきた小川紳介(おがわ・しんすけ)は自著で「明らかに記録映画は『劇』なんですよ。絶対に事実じゃない。(略)まさに近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)のいう虚実被膜(きょじつひまく)ですよね」(*3)と喩えた。虚実皮膜とは、事実と虚構との微妙な境界に芸術の真実があるとする考え方のことだ。


『ドライブ・マイ・カー』(’21)で全米映画批評家協会賞やカンヌ国際映画祭など海外の映画賞を相次いで受賞した濱口竜介(はまぐち・りゅうすけ)は、新聞紙上のインタビューで「ドキュメンタリーは現場に行って目の前の出来事を撮る。フィクションはこちらが決めた構図と段取りがある。明らかに技術的な違いがある。でも、僕は2つを区別して撮る必要はないと思っている」(*4)と語った。


ただ、彼らが自覚的に行なっている「フィクショナライズ」は、決して撮る側すなわち監督の単独犯ではなく、被写体すなわち撮られる側との共犯だというのが森の主張だ。『FAKE』の佐村河内を思い浮かべながら改めて森の言葉を追うと、やたら納得させられる。


「撮られる側は演じる。つまり嘘をつく。自覚的な嘘の場合もあれば、無自覚な場合もある。撮る側は時にはこの嘘を利用し、時には別の回路に誘いこむ。こうして撮る側の作為と撮られる側の嘘が縦糸と横糸になって、ドキュメンタリーは紡がれる」(森、前掲書)


つまり『FAKE』という作品は、「嘘か真実か/本物か偽物か」を公開裁判にかけられている佐村河内が身をもって体現する「虚と実」というテーマを、虚実皮膜の属性をもつドキュメンタリーという形式で扱うという、非常にメタな構造をもっている。


〝FAKE〟とは「偽物」「いかさま」という意味だが、それが被写体たる佐村河内を指すのか、『FAKE』という作品の悪魔的な企みを自虐的に形容したユーモアなのか、ドキュメンタリーという表現物が逃れられない宿命への自己言及なのか、あるいはそれら全部が重層的に意味をなしているのか。


それもまた、結論が断定されることなく、観客に判定が委ねられている。

*1 『ドキュメンタリーは嘘をつく』(森達也・著、2005年、草思社)

*2 『曖昧な未来、黒沢清』(監督:藤井謙二郎、2003年)

*3 『映画を穫る―ドキュメンタリーの至福を求めて』(小川紳介・著、山根貞男・編、1993年、筑摩書房)

*4 「ドキュメンタリー映画新時代(1)ドキュメンタリーかつフィクション 濱口竜介のたくらみ」(日経新聞、2021年10月10日)

(ジャーロ NO.81 2022 MARCH 掲載)
稲田豊史(いなだ・とよし)

【WEB】 INADATOYOSHI.COM

【twitter】@Yutaka_Kasuga


1974年、愛知県生まれ。編集者/ライター。

キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て、2013年よりフリーに。

著書に『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書※2022/4/12発売)、『こち亀』社会論 超一級の文化史料を読み解く』(イースト・プレス)、『ぼくたちの離婚』(角川新書)、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(PLANETS)、『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎リンケージ)。

「SPA!」「日刊サイゾー」「現代ビジネス」などで執筆するほか、インタビュー・対談構成なども行う。


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