第13話
文字数 11,867文字
19 誤 算(承前)
「どうも、家内がお世話になって……」
と、戸 畑 () 進 () 也 () が誰に言っているのかよく分らないような挨拶をした。「亭主の戸畑です」
弥生 () は、迷惑がるより、こんな所に夫が来たことにびっくりして、
「こちら、監督……」
などと引き合わせている。
「奥さんは大変な才能ですよ」
と、正 () 木 () は戸畑と握手をして、「今度の映画はきっと話題になります」
「恐れ入ります。――娘までお世話になっているようで……」
「佳世子 () ちゃんには光るものがあります。もちろん大学と両立させてあげるように気をつかっています」
聞いていて、亜矢子 () はホッとした。
正木が的外れなことを言い出さないかと心配していたのである。
作品の世界に入り込んでいると、現実生活がまるで見えなくなることも珍しくない。その辺に気を配るのは亜矢子の役目。
「良かったら、撮影を見て行って下さい」
と、正木がついサービス過剰になって、「おい、亜矢子――」
「いや、お気づかいなく」
と、戸畑が止めて、「すぐ失礼しますから。今、失業中でしてね。仕事を捜して歩いてるんです」
「そうですか、大変ですな。では、準備があるので、これで」
正木がさっさと食堂を出て行ったので、亜矢子はホッとした。
「あなた、どうしてここに?」
と、弥生が訊く。
「うん……。ちょっとな」
「じゃ、向うで」
弥生は夫を、食堂の一番奥のテーブルへ連れて行った。
「――何かあったの?」
弥生は、夫がいつになく沈み込んでいるのに気付いていた。
「いや……。お前に話してどうなるもんでもないんだ」
と、戸畑は言った。「ただ……どうしようかと迷ってる内に、ここへ……。というか、お前の元気な顔が見たかったんだ」
「何よ、それ」
と、弥生が苦笑する。
そこへ、亜矢子は、トレイを運んで行き、戸畑の前に置いた。
「亜矢子さん……」
「当撮影所名物のカレーライスです! 戸畑さん、お腹が空いていると、私は見ました。奥さんや佳世子ちゃんが毎日食べてるカレーの味を、一度味わってみて下さい。少しは元気が出ることは保証します」
と、亜矢子は得気げに言って、「これは私のおごりです」
「これはどうも……。いや、確かに腹はへってました」
「じゃ、ゆっくりどうぞ」
亜矢子はニッコリ笑って、足早に食堂を出て行った。
「――いい人なのよ」
と、弥生は言った。
「じゃ、ごちそうになろう」
食べ始めると、戸畑は一心不乱に食べて、アッという間に皿を空にしてしまった。
「呆れた」
と、弥生は頬杖をついて、「そんなに飢えてたの?」
「――弥生、すまん」
と、戸畑は頭を下げた。「ずっと、大山 () 君という子の所で、面倒をみてもらってる」
「それで?」
「このままじゃいかんとは思ってた。そして……黒 () 田 () あかりが……」
「それ、前の彼女でしょ?」
「うん。それが、どうもおかしいんだ」
「おかしい?」
「姿を消してしまったらしい」
と、戸畑は言った。「彼女の家族から、俺に訊いて来た。どこにいるか知らないか、といって」
「その人が行方をくらますような理由があるの?」
「婚約が破談になったらしい。まあ、いわゆる『玉の輿』ってやつだったが、それが……」
「あなたのせいで?」
「違う。俺は少なくとも何も言ってないし、調べにも来なかった。ただ、あかりがいきなりやって来たことがあって……」
「いきなり、って……。その……大山さん、だっけ? その人の所に?」
「うん。そうなんだ。そのとき、彼女の様子が何だか変で……」
あかりが、大山啓 () 子 () の部屋を見たがったと思うと、すぐ出て行って、また戻って来たりしたこと……。
「馬鹿げてると思うだろうが、いつもと、どこか違ってた。何かこう……心配になるような『違い』だったんだ」
少し間があった。――戸畑は、
「コーヒーって、あるのか?」
「ええ。待ってて。私も飲むから、持って来る」
と、弥生は席を立って、カウンターに向った。
もう昼食のピークは過ぎたので、列もできていない。すぐにコーヒー二つ、トレイにのせて運んで行った。
「すまん、いくらだ?」
「いいわよ、これぐらい」
戸畑はコーヒーにミルクと砂糖をしっかり入れた。
「――あなたの言ってること、私にも分るわ」
と、弥生はコーヒーをかきまぜながら、「人間って、そうそういつもとまるで違うことはしないものよ」
「そう! そうなんだ。俺もそれで心配になって」
「それで奥さんの所に来たわけ?」
戸畑が詰って、コーヒーをあわてて飲んだ。
弥生は少し考えていたが、ケータイを手に取ると、亜矢子へかけた。
「――あ、ごめんなさい。忙しいのに。もし……十分くらい時間取れないかしら……」
亜矢子は、戸畑の話を聞くと、少し考え込んでから、
「弥生さん、私、まだ若くて人生経験も乏しいし……」
と言った。
「いいえ。亜矢子さんは直観的に人生を見抜く目を持ってるわ。私には分る」
「買いかぶらないで下さい」
と、亜矢子は苦笑した。
「ね、どう思う?」
「その……あかりさんでしたっけ? 確かに変でしたね。特に戻って来て、トイレを借りて行ったって」
「うん、何だか妙に唐突な感じでね」
「もしかしたら……二度めにそのアパートへ戻って来たとき、その人は戸畑さんを殺そうと思ってたんじゃないでしょうか」
亜矢子の言葉に、戸畑も弥生も、しばし絶句した。
「――とんでもないこと言ってすみません」
と、亜矢子が言った。「ただ、その人の気持になってみると、そんな風に思えたもんですから」
「いや、私もそう思ってたのかもしれません」
と、戸畑が言った。「そう言っていただいて、急にピントが合った気がします。きっとそうだ」
「あなた――」
「電話してみよう」
と、戸畑はケータイを取り出して、「ずっと電源を切ったままになってたんだ。しかし……」
かけてみて、戸畑は、
「――つながった!」
そしてしばらく待つと、「――あかりか。俺だ。どこにいる? 迎えに行くよ。そう遠くじゃないんだろ?」
弥生と亜矢子は顔を見合せた。
「――ああ、分ってるよ。――うん、この間お前は俺を殺しに来た。そうだろ? ――何となく分ったんだ。――なあ、もうすんだことだ。そう泣くな。お宅で心配してるぞ」
電話の向うからは、とぎれとぎれの泣き声が洩れ聞こえて来た。
亜矢子は、弥生に小声で、
「じゃ、私、仕事があるんで」
と言って、足早に行ってしまった。
「――どこだって? ――ああ、分った。いつか雨に降られた所だな。じゃ、迎えに行くから、そこにいろ。いいか、動くなよ」
通話を切ると、戸畑は「――本当だった。あの人の言った通りだ」
「そういう人なのよ」
と、弥生は言った。
「これから、あかりを迎えに行ってくる。ともかく家に送って行かないとな」
「待って」
弥生は、財布を取り出すと、一万円札を夫へ差し出して、「少しはお金がいるでしょ?」
「すまん。じゃ、借りとく」
「それと、今一緒の――大山さん? その人のことはどうするの? ちゃんと考えなきゃだめよ」
「うん、分った。――俺がだらしないせいでみんなを困らせてるんだな」
と言うと、戸畑は立ち上って、「行くよ」
「ええ」
弥生は、夫が急いで食堂から出て行くのを見送って、
「シナリオに使えそうだわね……」
と呟いた。
20 妨 害
「――はい、OK!」
と、正木の声がスタジオのセットに響いた。
亜矢子は次のカットの準備でスタッフが動き出すと、表に出て、切ってあったケータイの電源を入れた。
戸畑から何か言ってくるかもしれない、と思ったのだ。
一度、戸畑からかかっている。――弥生が、あかりという女性を迎えに行く夫へ、電話を入れて、亜矢子の番号を教えたのだ。
「ちゃんと亜矢子さんに報告して」
と、弥生は念を押したらしい。
亜矢子は、戸畑のケータイにかけた。
「――あ、どうも。亜矢子です。どうなってます?」
「ご心配いただいて。今、あかりと一緒にタクシーで彼女の家へ向ってます」
と、戸畑が言った。
「そう伺って、安心しました」
と、亜矢子はそれだけ言って、切った。
あかりという女性、戸畑を殺せなかったから、自分が死のうとしていたのではないか。
ともかく、人一人の命が助かったのだ。
「さて、と……」
ケータイの電源を切ろうとしたとき、着信があった。
「え?」
相手の名前を見てびっくりした。
大和田 () 広吉 () からだったのだ。
「もしもし、ごぶさたしてます」
と、亜矢子は言った。
「元気か?」
「おかげさまで」
「相変らずストリッパーをやってるのか」
と、大和田は言って、自分で笑った。
スクリプターをストリッパーと聞き間違えたのは、初めて顔を合せたときだった。
大和田は安井 () 真衣 () の父親で、亜矢子の母、東風 () 茜 () とも親しい。
「今、正木監督の次回作の撮影に入っています」
と、亜矢子は言った。「そちらはいかがですか?」
「うん。監督は三人めだ」
「は……」
さぞかし、大和田が、
「俺が金を出してるんだ!」
と、無茶を言っているのだろう。
「あの――何か私にご用で……」
「お前のお袋さんからちょっと聞いてたんでな、有 () 田 () のことを」
「ああ、有田京 () 一 () ですか」
長谷倉 () ひとみを強引にものにしようとしていた、いわば「半グレ」とでもいう男だ。
「あいつの子分で、俺が昔面倒をみてやってた奴がいるんだ。女房が子供を道連れに死のうとしたのを、俺が借金を肩がわりしてやって救ったんで、恩に着てる」
「いいこともしてるんですね」
「口のへらない奴だ」
と、大和田は笑って、「そいつに、お前のことを話したことがあるんだ。映画のためなら、崖からぶら下ったりする物好きな女がいる、ってな」
「好きでやったわけじゃありません」
「まあ、それはともかく、そいつから聞いた話だ」
「どういうお話でしょう?」
と、亜矢子は訊いた……。
「よし、今の動きで、もう一回やってみてくれ」
と、正木が指示した。
「はい」
と、五十嵐 () 真愛 () が肯く。
家の台所のセット。
橋田 () 浩吉 () とのシーンだ。
台所という、いかにも日常的な空間でのラブシーン。
二人が初めて互いの恋心を自覚する大切なシーンである。
「――いいんだね?」
と、橋田が真愛に念を押す。
そのとき、スタジオの外で、異様な大声が響いた。
「おい! 泥棒! 出て来い!」
みんながびっくりして動きを止めた。
「あの声って……」
と、青ざめたのは、長谷倉ひとみだった。
「ね、亜矢子、もしかして――」
「大丈夫、任せて」
と、亜矢子はひとみの肩を叩くと、「ちょっとお待ち下さい」
と、スタジオの中へ言って、正木の方へ、
「出て来ないで下さいね、監督」
「ああ、任せる」
「――正木! ヘボ監督、出て来い!」
ハンドマイクを使っているので、撮影所の中に響き渡っているだろう。
亜矢子はスタジオから外へ出た。
「――何だ、お前は」
有田だ。他に七、八人が並んでいた。
「正木監督はただいま手が放せませんので」
と、亜矢子は言った。「ご用があれば承ります。スクリプターの東風と申します」
「こち? 変てこな名だな」
と、有田は笑って、「お前なんかじゃ話にならん。正木は怖がって出て来ないのか」
「芸術家は大変繊細な神経の持主でして。あなたのような粗雑な方とはお会いしません」
「何だと?」
「あのね」
と、有田の後ろにいた男が出て来ると、「そもそも、今おたくで撮っているのは、うちが企画を立てて、権利を持ってるんだ。訴えれば、そっちの負けだよ」
「あなたは――」
「〈N映画〉の丸山 () だ」
なるほど。戸畑弥生にシナリオを書かせて放り出したプロデューサーだ。
「話をつけようじゃないか」
と、有田は言った。「いやだと言うなら、この若い奴らが、中のセットを叩き壊してやるぞ」
「本気ですか?」
「もちろんだ! ついでに長谷倉ひとみを連れて行く。俺が金を出してやったのに、逃げ出しやがって。ここにいるんだろう。分ってるぞ!」
若い奴ら、といっても、不良高校生に毛の生えた程度の連中が、バットやゴルフクラブを振り回しているだけ。
亜矢子は苦笑して、
「お引き取り下さい。あなた方の相手をしている暇はありません」
「痛い目にあいたいのか?」
「もう一度言います。この撮影所から出て行って下さい」
「痛い思いをしないと分らないようだな」
と、有田が腕組みして、「おい、暴れてやれ!」
と言ったとたん――。
スタジオの両側の道から、パトカーが出て来て、同時に警官が十数人、有田たちを取り囲んだ。
「何だ。――どういうことだ?」
有田が焦っている。「おい、まだ何もしてないぞ! 何だっていうんだ!」
「暴行未遂ってことがあるのでね」
と言ったのは、倉田 () 刑事だった。「それにバットやゴルフクラブは区器とみなされる」
みんながあわててバットやクラブを放り出した。
「有田さん、これじゃ話が違うじゃないですか!」
と、丸山が有田の後ろにまた隠れてしまった。
「有田京一だな」
と、倉田が言った。「他にも、スーパー〈M〉や建設現場で騒ぎを起こして、業務妨害で被害届がいくつも出ている。連行する」
「ふざけるな! 俺は何も……」
有田も青ざめていた。
「丸山さん」
と、亜矢子は言った。「映画プロデューサーと名のる資格はあなたにはありません。戸畑弥生さんのシナリオは、あなたの所に書いたものとは全く別物です。しかも、こんな連中の手を借りて、どう訴えるつもりですか」
「いや、もちろん、さっき言ったのは……冗談のつもりで……」
「亜矢子君、後は任せてくれ」
と、倉田は言った。「全員冷汗をたっぷりかかせてやる」
「よろしく」
亜矢子は一礼した。
スタジオの中に亜矢子が戻ると、一斉に拍手が起った。
「お待たせしました」
と、亜矢子は言った。「監督、続けましょう」
「じゃ、テスト行くか」
と、正木は言った。
亜矢子は、テストの間に、スタジオの隅で大和田にあてて、お礼のメールを送った。
すると、すぐに返信が来た。
〈どんな具合だったか、お前のことだ、しっかり撮っただろう。後で見せてくれ〉
亜矢子はつい笑ってしまった。――確かに今の一部始終、助監督に頼んでビデオに撮ってあった。
〈了解しました〉
と、メールすると、また返信が――、
〈一つ頼みがある。こっちの映画も正木に撮ってもらえないか?〉
「え?」
亜矢子は思わず声を上げてしまった。
「無茶なこと言って」
話を聞いて、安井真衣は笑った。「何でも思い通りになると思ってるんだから」
撮影所に近い定食屋で、亜矢子は真衣と娘の沙也 () と一緒に夕食をとっていた。
〈坂道の女〉は、セットでの撮影が多く、主役の二人、真愛と橋田がしっかりした演技力の持主なので、こうして夜も当り前の時間に帰れるのだ。
沙也がせっせと定食を平らげるのを見て、亜矢子は、
「凄い食欲だなあ。沙也ちゃん、きっとどんどん大きくなるね」
と言った。
「父の言うことなんか、本気にしないで下さい」
と、真衣は言った。
「もちろん、分ってる。もし本気で頼まれたって、正木さんにそんな映画撮れないわ」
「でも、監督を三人も替えるなんて、どういうつもりかしら」
新人スクリプターとして、製作現場にいる真衣としては、監督が交替したらどれだけ現場の人間が苦労するか分ったのだろう。
「それがね」
と、亜矢子は食事しながら、「色々気に入らないことがあって、大和田さん、自分が監督するって言い出したんですって」
「父が? まあ」
「でも、いざ撮ってみると、派手な場面はスタッフが頑張ってくれて何とかなるけど、そういう場面をつなぐ、何でもないシーンが撮れない、ってことに気が付いたって」
「当り前だわ、素人なのに」
「――ごちそうさま!」
と、沙也が食べ終えて、「ね、お母さん、アイスクリーム食べたい」
「大丈夫なの? いいわ、食券を買って来て。分るわね?」
「うん!」
沙也が駆け出して行く。
ちょうど店へ入って来たのが、戸畑佳世子と落合 () 今日子 () だった。
「あ、やっぱりここだった」
と、佳世子が亜矢子を見付けて手を振った。
「にぎやかでいいわ」
と、亜矢子は言って、「今日子ちゃん、先に帰ったのかと思ってた」
「佳世子さんを待ってたの」
と、今日子は言った。「私も食べていい?」
「もちろんよ、食券買って来て」
「はい!」
佳世代に亜矢子はお金を渡した。
何となく、数人で食事すると、支払いを
「――お母さんは?」
と、亜矢子は佳世子に訊いた。
「直しがあるって、先に帰りました。もう、娘のことよりシナリオが第一」
「そんなものよ」
と、亜矢子は肯 () いて、「これからどんどんそういうことが増えると思うわ」
「いいんです、それで」
と、佳世子は肯いて、「お母さん、本当に活き活きしてるもの」
「良かったわね」
「亜矢子さん、ありがとう」
「何、突然?」
と、面食らっていると、
「だって、亜矢子さんが、お母さんに声をかけてくれたから、今、あんなに張り切って……。私、亜矢子さんのご恩は、忘れません」
「ちょっと、やめてよ。照れるじゃないの」
と、亜矢子は本当に真赤になって、「それはただの偶然よ。お母さんに才能があって、シナリオを書ける人だったから、今があるのよ。むしろ、正木さんと私はあなたのお母さんのおかげで、いい映画が撮れる。感謝するのはこっちの方」
その言葉を聞いて、ポロッと涙をこぼしたのは――何と今日子の方だった。亜矢子はびっくりして、
「今日子ちゃん、どうしたの?」
と訊いた。
「ううん、何でも……」
今日子はあわてて涙を拭って、「嬉しくて、私」
「どうして今日子ちゃんが?」
「いえ……、何でもない」
と、今日子は首を振った。
「今日子ちゃんも、亜矢子さんのことが大好きなんだよね」
と、佳世子が言った。
「うん」
と、今日子はニッコリ笑って、「私、亜矢子さんの裸まで見ちゃった」
「ちょっと、今日子ちゃん!」
「何? それって、どうしたの?」
佳世子が身をのり出す。今日子が、そのときのことを話すと、佳世子は、
「いいなあ! ずるい! 私も見たい。亜矢子さん、今日子ちゃんにだけって、不公平だわ!」
「公平とか不公平って話じゃないでしょ!」
と、亜矢子はそっぽを向いて、「勝手に言ってなさい!」
「――何を勝手に言ってるんだ?」
亜矢子はびっくりして振り向いた。正木が葛西 () と一緒に入って来ていたのだ。
「監督! 珍しいですね」
と、亜矢子は言った。
正木は撮影が始まると、あまり飲み会のようなことはやらないタイプなのだ。監督によっては毎晩飲みに行くという人もいる。
「裸がどうとか言ってたか?」
と、葛西が言った。
「ああ、その話か」
と、正木は空いた席にかけて、「おっぱいに触らせた、ってことだろ?」
「監督、やめて下さい」
「へえ!」
と、葛西が目を丸くして、「ついにそういう男が現われたのかい?」
「違います!」
亜矢子は、かみつきそうな声を出した。
店の中が笑いに包まれて、亜矢子は真赤になりつつ、それでも悪い気はしなかった……。
「――おい、亜矢子」
と、正木が定食を注文して、言った。
「はい?」
「頼みがある」
「また……。パンダの着ぐるみじゃないでしょうね、まさか」
「そうじゃないが――。動物園で、もう一日撮りたい」
「は? 明日だけじゃだめなんですか?」
「別の日にもう一度、二人が訪れるカットが欲しい。天気が全く違っていないと、別の日に見えん。明日は薄曇りだろ?」
「予報ではそうです」
「じゃ、カラッと晴れた日がいいな。寂しさが際立つ」
「そんなにうまく行きませんよ!」
「なに、天下のスーパースクリプター、東風亜矢子だ。念力で晴れさせろ」
いくら亜矢子でも、お天気までは変えられない。
「もう一日、開けてもらうんですか? もし、短いカットだけなら、開園前に撮るとか……」
「朝だと、影が長くなるだろ。やっぱり昼間の方がいいな」
「分りました」
休園日に開けてもらうといっても、二日もとなると……。
頭の痛いことは、一手に引き受けることになる。
――亜矢子はため息をついた。
21 檻の外
「ライオンって、どうしていつも昼寝してるの?」
と、今日子が言った。
「知らないわ。ライオンに訊いてみて」
亜矢子は、やっと動物の様子を眺める余裕ができた。
園内のロケは何かと制約も多くて大変だ。動物のストレスになることを避ける、という条件があるため、むやみにライトを使ったりできない。
「猫だって、一日中寝てるじゃない」
と言ったのは佳世子である。「ライオンも親戚でしょ」
「それに、野生のライオンと違って、必死になってエサを捉えなくてもいいわけだし。暇なんでしょ」
まあ、当のライオンに訊いてみないと、本当のところは分らないが。
佳世子の出番はもちろんないが、今日子と一緒にロケを見に来ていた。
「あ、欠伸 () してる」
と、今日子が言った。
「やっぱり暇なんだね、きっと」
と、亜矢子も納得した。
天気はほぼ予報通りの薄曇りだが、幸い気温が割合高いので、動物たちも外へ出て来ていた。
正木は上機嫌だ。――撮影のスケジュールは順調に進んでいた。
「今回は崖からぶら下らなくて良さそうだね」
と、カメラの市原 () に言われた。
「おかげさまで」
何度同じことを言われただろう。――すっかり「ぶら下り専門スクリプター」のイメージが定着しているらしい。
――園内のレストランも、特別に開けてくれたので、昼はみんなそこで食べることになった。
とはいえ、午後の撮影の用意がある。
亜矢子が手早くラーメンを食べていると、
「亜矢子」
と、長谷倉ひとみがやって来た。
「やあ、どうしたの?」
「連|《れん》ちゃんのことだけど……」
「何か心配ごと?」
「私は心配なの。でも、連ちゃんは『平気だよ』って言って笑ってるし……」
「何か手掛りらしいものが見付かった?」
――叶 () 連 () 之 () 介 () は、今行方が分らなくなっている、今日子の祖父、落合喜 () 作 () のことを捜しているのだ。
もちろん、相沢 () 邦 () 子 () が殺された五年前の事件についても調べているはずだが、差し当っては、喜作さんの行方が気になる。
「でも、亜矢子、言ったよね。調べていて、もし本当の犯人がそれを知ったら、きっと何か行動を起す、って。――それ考えると、夜も眠れない」
どう見ても、ひとみは寝不足に見えなかったが、そうも言えず、
「どうしたいの、ひとみ?」
「どうしたい、っていうんじゃないけど……」
と、口ごもっているのは、もちろん遠慮しているからで、
「ひとみ、もしどうしても気になるんだったら、叶君と一緒に行動してもいいよ」
と、亜矢子は言った。
ひとみの顔がパッと明るくなって、
「いい? じゃ、正木さんに――」
「うん、私から話しとく。大丈夫よ。黙ってたって、問題ないと思うけどね」
と、亜矢子はラーメンを食べ終って席を立とうとしたが、ケータイが鳴った。
「誰だろ? ――はい、もしもし」
「あ、
と、聞き覚えのない、男の人の声。
「そうですが……」
話を聞いている内、亜矢子は固い表情になって、
「分りました。伝えます」
と言った。
「どうしたの?」
と、ひとみが訊く。
「うん、ちょっと……」
亜矢子は、正木の所へと急いだ。
「監督、ちょっと」
「どうした?」
亜矢子の表情を見て、ただごとではないと感じたのだろう、すぐに席を立った。
レストランの外へ出ると、
「今、弁護士さんから連絡があって」
「弁護士?」
「真愛さんのご主人の三崎 () 治 () さんの弁護士です。記者会見のときの資料作りで相談にのってもらいました」
「そうか。それで?」
亜矢子は、五十嵐真愛が橋田浩吉とコーヒーを飲みながら話しているのを見て、
「三崎さんが入院したそうです」
と言った。
「何だと?」
「運動中に、突然倒れて、救急車で運ばれたとのことで」
「悪いのか」
「今、検査を受けているそうですが、どうも心臓に問題があるらしいと」
「そいつは……。危険なのか」
「私にも分りません。でも、真愛さんには伝えないと」
正木は肯いて、
「分った。――ここへ呼ぼう」
スタッフ中に話が広まると、不正確な情報がニュースになる可能性もある。
亜矢子は、真愛たちのテーブルへと歩み寄って、
「真愛さん、監督がちょっと」
と、声をかけた。
「はい。何かしら?」
「新しいアイデアかもしれないぜ」
と、橋田が言った。
レストランを出て、真愛が、
「監督、何か?」
と訊く。
「亜矢子、話してやれ」
仕方ない。亜矢子は真愛の肩に手をかけて、
「落ちついて聞いて下さい」
と、穏やかに言った。「三崎さんが入院しました」
真愛がサッと青ざめた。
「あの人――この間面会したとき、ずいぶんやつれて、老け込んでいたので、どこか悪いのじゃないかと思ったんです」
と、真愛は言った。「それで具合は?」
「まだ検査中です。もし必要だと心臓の手術もあり得ると」
真愛は一瞬、目を閉じて、
「――分りました」
と、肯いて言った。「他の人には黙っていて下さい。撮影は予定通りに」
「うむ……」
正木はちょっと難しい顔になって、「いいのか、会いに行かなくて」
「でも――」
「亜矢子、弁護士と相談してみろ」
「分りました」
「いいんですか?」
と、真愛が訊く。
「生の舞台ではない。映画は色々やり方があるんだ。顔のアップとセリフだけまとめて撮れば、ロングショットは代役ですむ」
「監督……」
亜矢子は弁護士に連絡して、病院での面会が可能か、訊いた。
「――すぐには分らないそうですが、ともかく病院に行って話せば、可能性はあると」
「ありがとう、亜矢子さん」
「監督、代役は誰に?」
「お前だ」
当り前の調子で、「今から少しやせられないか?」
「そんなこと……。カメラで工夫してもらって下さいよ」
「うん、市原を呼べ」
これから、主なスタッフが外で集まって、打ち合わせをした。
ベテランが揃っている。
「大丈夫。亜矢子ちゃんでも何とかなるよ」
と、市原が言った。
「よし、ともかく、真愛、橋田との会話も、そっちだけ先に撮る。後でつなぐのは何とかするから心配するな」
正木も早口になっている。「葛西、エキストラの手配だ」
「はい!」
葛西が駆け出して行く。
正木はレストランへ戻って、
「みんな聞いてくれ!」
と、大声を出した。
ロケは状況次第で予定の変更など珍しくない。誰からも苦情は出なかった。
理由はどうでもいい。何をすればいいか分っていれば充分なのだ。
みんなが一斉に動き出す。
「真愛さん。礼 () 子 () ちゃんも行きますね」
と、亜矢子が言った。
「でも、迎えに行く時間が……」
亜矢子は、ひとみを呼んで、助監督の車で礼子を迎えに行くように頼んだ。
「よし、撮るぞ!」
正木も、こういう状況になると、却って張り切っている。プロ意識を刺激されるのだろう。
「カメラは手持ちで」
と、市原は言った。「大丈夫、絶対に揺らさないから」
「はい……」
真愛は、スタッフが駆け回っている姿を見て、涙ぐんでいた。
てきぱきと撮影は進み、真愛の分を撮り終えると、亜矢子はロッカールームで着替えた。――真愛の服はかなり窮屈だったが、
「大丈夫。お腹引っ込めてるから」
「ごめんなさい。お願いします」
ひとみが礼子を連れて来ていた。
真愛と礼子は、助監督の運転する車で、三崎の運び込まれた病院へと向った。
「――心配でしょうね」
と、亜矢子が言うと、
「お前も心配だろ。木かげでのキスシーンがあるぞ」
と、正木が言って、
「え……」
そうだった! ――亜矢子は、
「橋田さんに断られたらどうします?」
と、半ば本気で訊いた……。
(つづく)
「どうも、家内がお世話になって……」
と、
「こちら、監督……」
などと引き合わせている。
「奥さんは大変な才能ですよ」
と、
「恐れ入ります。――娘までお世話になっているようで……」
「
聞いていて、
正木が的外れなことを言い出さないかと心配していたのである。
作品の世界に入り込んでいると、現実生活がまるで見えなくなることも珍しくない。その辺に気を配るのは亜矢子の役目。
「良かったら、撮影を見て行って下さい」
と、正木がついサービス過剰になって、「おい、亜矢子――」
「いや、お気づかいなく」
と、戸畑が止めて、「すぐ失礼しますから。今、失業中でしてね。仕事を捜して歩いてるんです」
「そうですか、大変ですな。では、準備があるので、これで」
正木がさっさと食堂を出て行ったので、亜矢子はホッとした。
「あなた、どうしてここに?」
と、弥生が訊く。
「うん……。ちょっとな」
「じゃ、向うで」
弥生は夫を、食堂の一番奥のテーブルへ連れて行った。
「――何かあったの?」
弥生は、夫がいつになく沈み込んでいるのに気付いていた。
「いや……。お前に話してどうなるもんでもないんだ」
と、戸畑は言った。「ただ……どうしようかと迷ってる内に、ここへ……。というか、お前の元気な顔が見たかったんだ」
「何よ、それ」
と、弥生が苦笑する。
そこへ、亜矢子は、トレイを運んで行き、戸畑の前に置いた。
「亜矢子さん……」
「当撮影所名物のカレーライスです! 戸畑さん、お腹が空いていると、私は見ました。奥さんや佳世子ちゃんが毎日食べてるカレーの味を、一度味わってみて下さい。少しは元気が出ることは保証します」
と、亜矢子は得気げに言って、「これは私のおごりです」
「これはどうも……。いや、確かに腹はへってました」
「じゃ、ゆっくりどうぞ」
亜矢子はニッコリ笑って、足早に食堂を出て行った。
「――いい人なのよ」
と、弥生は言った。
「じゃ、ごちそうになろう」
食べ始めると、戸畑は一心不乱に食べて、アッという間に皿を空にしてしまった。
「呆れた」
と、弥生は頬杖をついて、「そんなに飢えてたの?」
「――弥生、すまん」
と、戸畑は頭を下げた。「ずっと、
「それで?」
「このままじゃいかんとは思ってた。そして……
「それ、前の彼女でしょ?」
「うん。それが、どうもおかしいんだ」
「おかしい?」
「姿を消してしまったらしい」
と、戸畑は言った。「彼女の家族から、俺に訊いて来た。どこにいるか知らないか、といって」
「その人が行方をくらますような理由があるの?」
「婚約が破談になったらしい。まあ、いわゆる『玉の輿』ってやつだったが、それが……」
「あなたのせいで?」
「違う。俺は少なくとも何も言ってないし、調べにも来なかった。ただ、あかりがいきなりやって来たことがあって……」
「いきなり、って……。その……大山さん、だっけ? その人の所に?」
「うん。そうなんだ。そのとき、彼女の様子が何だか変で……」
あかりが、大山
「馬鹿げてると思うだろうが、いつもと、どこか違ってた。何かこう……心配になるような『違い』だったんだ」
少し間があった。――戸畑は、
「コーヒーって、あるのか?」
「ええ。待ってて。私も飲むから、持って来る」
と、弥生は席を立って、カウンターに向った。
もう昼食のピークは過ぎたので、列もできていない。すぐにコーヒー二つ、トレイにのせて運んで行った。
「すまん、いくらだ?」
「いいわよ、これぐらい」
戸畑はコーヒーにミルクと砂糖をしっかり入れた。
「――あなたの言ってること、私にも分るわ」
と、弥生はコーヒーをかきまぜながら、「人間って、そうそういつもとまるで違うことはしないものよ」
「そう! そうなんだ。俺もそれで心配になって」
「それで奥さんの所に来たわけ?」
戸畑が詰って、コーヒーをあわてて飲んだ。
弥生は少し考えていたが、ケータイを手に取ると、亜矢子へかけた。
「――あ、ごめんなさい。忙しいのに。もし……十分くらい時間取れないかしら……」
亜矢子は、戸畑の話を聞くと、少し考え込んでから、
「弥生さん、私、まだ若くて人生経験も乏しいし……」
と言った。
「いいえ。亜矢子さんは直観的に人生を見抜く目を持ってるわ。私には分る」
「買いかぶらないで下さい」
と、亜矢子は苦笑した。
「ね、どう思う?」
「その……あかりさんでしたっけ? 確かに変でしたね。特に戻って来て、トイレを借りて行ったって」
「うん、何だか妙に唐突な感じでね」
「もしかしたら……二度めにそのアパートへ戻って来たとき、その人は戸畑さんを殺そうと思ってたんじゃないでしょうか」
亜矢子の言葉に、戸畑も弥生も、しばし絶句した。
「――とんでもないこと言ってすみません」
と、亜矢子が言った。「ただ、その人の気持になってみると、そんな風に思えたもんですから」
「いや、私もそう思ってたのかもしれません」
と、戸畑が言った。「そう言っていただいて、急にピントが合った気がします。きっとそうだ」
「あなた――」
「電話してみよう」
と、戸畑はケータイを取り出して、「ずっと電源を切ったままになってたんだ。しかし……」
かけてみて、戸畑は、
「――つながった!」
そしてしばらく待つと、「――あかりか。俺だ。どこにいる? 迎えに行くよ。そう遠くじゃないんだろ?」
弥生と亜矢子は顔を見合せた。
「――ああ、分ってるよ。――うん、この間お前は俺を殺しに来た。そうだろ? ――何となく分ったんだ。――なあ、もうすんだことだ。そう泣くな。お宅で心配してるぞ」
電話の向うからは、とぎれとぎれの泣き声が洩れ聞こえて来た。
亜矢子は、弥生に小声で、
「じゃ、私、仕事があるんで」
と言って、足早に行ってしまった。
「――どこだって? ――ああ、分った。いつか雨に降られた所だな。じゃ、迎えに行くから、そこにいろ。いいか、動くなよ」
通話を切ると、戸畑は「――本当だった。あの人の言った通りだ」
「そういう人なのよ」
と、弥生は言った。
「これから、あかりを迎えに行ってくる。ともかく家に送って行かないとな」
「待って」
弥生は、財布を取り出すと、一万円札を夫へ差し出して、「少しはお金がいるでしょ?」
「すまん。じゃ、借りとく」
「それと、今一緒の――大山さん? その人のことはどうするの? ちゃんと考えなきゃだめよ」
「うん、分った。――俺がだらしないせいでみんなを困らせてるんだな」
と言うと、戸畑は立ち上って、「行くよ」
「ええ」
弥生は、夫が急いで食堂から出て行くのを見送って、
「シナリオに使えそうだわね……」
と呟いた。
20 妨 害
「――はい、OK!」
と、正木の声がスタジオのセットに響いた。
亜矢子は次のカットの準備でスタッフが動き出すと、表に出て、切ってあったケータイの電源を入れた。
戸畑から何か言ってくるかもしれない、と思ったのだ。
一度、戸畑からかかっている。――弥生が、あかりという女性を迎えに行く夫へ、電話を入れて、亜矢子の番号を教えたのだ。
「ちゃんと亜矢子さんに報告して」
と、弥生は念を押したらしい。
亜矢子は、戸畑のケータイにかけた。
「――あ、どうも。亜矢子です。どうなってます?」
「ご心配いただいて。今、あかりと一緒にタクシーで彼女の家へ向ってます」
と、戸畑が言った。
「そう伺って、安心しました」
と、亜矢子はそれだけ言って、切った。
あかりという女性、戸畑を殺せなかったから、自分が死のうとしていたのではないか。
ともかく、人一人の命が助かったのだ。
「さて、と……」
ケータイの電源を切ろうとしたとき、着信があった。
「え?」
相手の名前を見てびっくりした。
「もしもし、ごぶさたしてます」
と、亜矢子は言った。
「元気か?」
「おかげさまで」
「相変らずストリッパーをやってるのか」
と、大和田は言って、自分で笑った。
スクリプターをストリッパーと聞き間違えたのは、初めて顔を合せたときだった。
大和田は
「今、正木監督の次回作の撮影に入っています」
と、亜矢子は言った。「そちらはいかがですか?」
「うん。監督は三人めだ」
「は……」
さぞかし、大和田が、
「俺が金を出してるんだ!」
と、無茶を言っているのだろう。
「あの――何か私にご用で……」
「お前のお袋さんからちょっと聞いてたんでな、
「ああ、有田
「あいつの子分で、俺が昔面倒をみてやってた奴がいるんだ。女房が子供を道連れに死のうとしたのを、俺が借金を肩がわりしてやって救ったんで、恩に着てる」
「いいこともしてるんですね」
「口のへらない奴だ」
と、大和田は笑って、「そいつに、お前のことを話したことがあるんだ。映画のためなら、崖からぶら下ったりする物好きな女がいる、ってな」
「好きでやったわけじゃありません」
「まあ、それはともかく、そいつから聞いた話だ」
「どういうお話でしょう?」
と、亜矢子は訊いた……。
「よし、今の動きで、もう一回やってみてくれ」
と、正木が指示した。
「はい」
と、
家の台所のセット。
台所という、いかにも日常的な空間でのラブシーン。
二人が初めて互いの恋心を自覚する大切なシーンである。
「――いいんだね?」
と、橋田が真愛に念を押す。
そのとき、スタジオの外で、異様な大声が響いた。
「おい! 泥棒! 出て来い!」
みんながびっくりして動きを止めた。
「あの声って……」
と、青ざめたのは、長谷倉ひとみだった。
「ね、亜矢子、もしかして――」
「大丈夫、任せて」
と、亜矢子はひとみの肩を叩くと、「ちょっとお待ち下さい」
と、スタジオの中へ言って、正木の方へ、
「出て来ないで下さいね、監督」
「ああ、任せる」
「――正木! ヘボ監督、出て来い!」
ハンドマイクを使っているので、撮影所の中に響き渡っているだろう。
亜矢子はスタジオから外へ出た。
「――何だ、お前は」
有田だ。他に七、八人が並んでいた。
「正木監督はただいま手が放せませんので」
と、亜矢子は言った。「ご用があれば承ります。スクリプターの東風と申します」
「こち? 変てこな名だな」
と、有田は笑って、「お前なんかじゃ話にならん。正木は怖がって出て来ないのか」
「芸術家は大変繊細な神経の持主でして。あなたのような粗雑な方とはお会いしません」
「何だと?」
「あのね」
と、有田の後ろにいた男が出て来ると、「そもそも、今おたくで撮っているのは、うちが企画を立てて、権利を持ってるんだ。訴えれば、そっちの負けだよ」
「あなたは――」
「〈N映画〉の
なるほど。戸畑弥生にシナリオを書かせて放り出したプロデューサーだ。
「話をつけようじゃないか」
と、有田は言った。「いやだと言うなら、この若い奴らが、中のセットを叩き壊してやるぞ」
「本気ですか?」
「もちろんだ! ついでに長谷倉ひとみを連れて行く。俺が金を出してやったのに、逃げ出しやがって。ここにいるんだろう。分ってるぞ!」
若い奴ら、といっても、不良高校生に毛の生えた程度の連中が、バットやゴルフクラブを振り回しているだけ。
亜矢子は苦笑して、
「お引き取り下さい。あなた方の相手をしている暇はありません」
「痛い目にあいたいのか?」
「もう一度言います。この撮影所から出て行って下さい」
「痛い思いをしないと分らないようだな」
と、有田が腕組みして、「おい、暴れてやれ!」
と言ったとたん――。
スタジオの両側の道から、パトカーが出て来て、同時に警官が十数人、有田たちを取り囲んだ。
「何だ。――どういうことだ?」
有田が焦っている。「おい、まだ何もしてないぞ! 何だっていうんだ!」
「暴行未遂ってことがあるのでね」
と言ったのは、
みんながあわててバットやクラブを放り出した。
「有田さん、これじゃ話が違うじゃないですか!」
と、丸山が有田の後ろにまた隠れてしまった。
「有田京一だな」
と、倉田が言った。「他にも、スーパー〈M〉や建設現場で騒ぎを起こして、業務妨害で被害届がいくつも出ている。連行する」
「ふざけるな! 俺は何も……」
有田も青ざめていた。
「丸山さん」
と、亜矢子は言った。「映画プロデューサーと名のる資格はあなたにはありません。戸畑弥生さんのシナリオは、あなたの所に書いたものとは全く別物です。しかも、こんな連中の手を借りて、どう訴えるつもりですか」
「いや、もちろん、さっき言ったのは……冗談のつもりで……」
「亜矢子君、後は任せてくれ」
と、倉田は言った。「全員冷汗をたっぷりかかせてやる」
「よろしく」
亜矢子は一礼した。
スタジオの中に亜矢子が戻ると、一斉に拍手が起った。
「お待たせしました」
と、亜矢子は言った。「監督、続けましょう」
「じゃ、テスト行くか」
と、正木は言った。
亜矢子は、テストの間に、スタジオの隅で大和田にあてて、お礼のメールを送った。
すると、すぐに返信が来た。
〈どんな具合だったか、お前のことだ、しっかり撮っただろう。後で見せてくれ〉
亜矢子はつい笑ってしまった。――確かに今の一部始終、助監督に頼んでビデオに撮ってあった。
〈了解しました〉
と、メールすると、また返信が――、
〈一つ頼みがある。こっちの映画も正木に撮ってもらえないか?〉
「え?」
亜矢子は思わず声を上げてしまった。
「無茶なこと言って」
話を聞いて、安井真衣は笑った。「何でも思い通りになると思ってるんだから」
撮影所に近い定食屋で、亜矢子は真衣と娘の
〈坂道の女〉は、セットでの撮影が多く、主役の二人、真愛と橋田がしっかりした演技力の持主なので、こうして夜も当り前の時間に帰れるのだ。
沙也がせっせと定食を平らげるのを見て、亜矢子は、
「凄い食欲だなあ。沙也ちゃん、きっとどんどん大きくなるね」
と言った。
「父の言うことなんか、本気にしないで下さい」
と、真衣は言った。
「もちろん、分ってる。もし本気で頼まれたって、正木さんにそんな映画撮れないわ」
「でも、監督を三人も替えるなんて、どういうつもりかしら」
新人スクリプターとして、製作現場にいる真衣としては、監督が交替したらどれだけ現場の人間が苦労するか分ったのだろう。
「それがね」
と、亜矢子は食事しながら、「色々気に入らないことがあって、大和田さん、自分が監督するって言い出したんですって」
「父が? まあ」
「でも、いざ撮ってみると、派手な場面はスタッフが頑張ってくれて何とかなるけど、そういう場面をつなぐ、何でもないシーンが撮れない、ってことに気が付いたって」
「当り前だわ、素人なのに」
「――ごちそうさま!」
と、沙也が食べ終えて、「ね、お母さん、アイスクリーム食べたい」
「大丈夫なの? いいわ、食券を買って来て。分るわね?」
「うん!」
沙也が駆け出して行く。
ちょうど店へ入って来たのが、戸畑佳世子と
「あ、やっぱりここだった」
と、佳世子が亜矢子を見付けて手を振った。
「にぎやかでいいわ」
と、亜矢子は言って、「今日子ちゃん、先に帰ったのかと思ってた」
「佳世子さんを待ってたの」
と、今日子は言った。「私も食べていい?」
「もちろんよ、食券買って来て」
「はい!」
佳世代に亜矢子はお金を渡した。
何となく、数人で食事すると、支払いを
担当
するくせがついている。「――お母さんは?」
と、亜矢子は佳世子に訊いた。
「直しがあるって、先に帰りました。もう、娘のことよりシナリオが第一」
「そんなものよ」
と、亜矢子は
「いいんです、それで」
と、佳世子は肯いて、「お母さん、本当に活き活きしてるもの」
「良かったわね」
「亜矢子さん、ありがとう」
「何、突然?」
と、面食らっていると、
「だって、亜矢子さんが、お母さんに声をかけてくれたから、今、あんなに張り切って……。私、亜矢子さんのご恩は、忘れません」
「ちょっと、やめてよ。照れるじゃないの」
と、亜矢子は本当に真赤になって、「それはただの偶然よ。お母さんに才能があって、シナリオを書ける人だったから、今があるのよ。むしろ、正木さんと私はあなたのお母さんのおかげで、いい映画が撮れる。感謝するのはこっちの方」
その言葉を聞いて、ポロッと涙をこぼしたのは――何と今日子の方だった。亜矢子はびっくりして、
「今日子ちゃん、どうしたの?」
と訊いた。
「ううん、何でも……」
今日子はあわてて涙を拭って、「嬉しくて、私」
「どうして今日子ちゃんが?」
「いえ……、何でもない」
と、今日子は首を振った。
「今日子ちゃんも、亜矢子さんのことが大好きなんだよね」
と、佳世子が言った。
「うん」
と、今日子はニッコリ笑って、「私、亜矢子さんの裸まで見ちゃった」
「ちょっと、今日子ちゃん!」
「何? それって、どうしたの?」
佳世子が身をのり出す。今日子が、そのときのことを話すと、佳世子は、
「いいなあ! ずるい! 私も見たい。亜矢子さん、今日子ちゃんにだけって、不公平だわ!」
「公平とか不公平って話じゃないでしょ!」
と、亜矢子はそっぽを向いて、「勝手に言ってなさい!」
「――何を勝手に言ってるんだ?」
亜矢子はびっくりして振り向いた。正木が
「監督! 珍しいですね」
と、亜矢子は言った。
正木は撮影が始まると、あまり飲み会のようなことはやらないタイプなのだ。監督によっては毎晩飲みに行くという人もいる。
「裸がどうとか言ってたか?」
と、葛西が言った。
「ああ、その話か」
と、正木は空いた席にかけて、「おっぱいに触らせた、ってことだろ?」
「監督、やめて下さい」
「へえ!」
と、葛西が目を丸くして、「ついにそういう男が現われたのかい?」
「違います!」
亜矢子は、かみつきそうな声を出した。
店の中が笑いに包まれて、亜矢子は真赤になりつつ、それでも悪い気はしなかった……。
「――おい、亜矢子」
と、正木が定食を注文して、言った。
「はい?」
「頼みがある」
「また……。パンダの着ぐるみじゃないでしょうね、まさか」
「そうじゃないが――。動物園で、もう一日撮りたい」
「は? 明日だけじゃだめなんですか?」
「別の日にもう一度、二人が訪れるカットが欲しい。天気が全く違っていないと、別の日に見えん。明日は薄曇りだろ?」
「予報ではそうです」
「じゃ、カラッと晴れた日がいいな。寂しさが際立つ」
「そんなにうまく行きませんよ!」
「なに、天下のスーパースクリプター、東風亜矢子だ。念力で晴れさせろ」
いくら亜矢子でも、お天気までは変えられない。
「もう一日、開けてもらうんですか? もし、短いカットだけなら、開園前に撮るとか……」
「朝だと、影が長くなるだろ。やっぱり昼間の方がいいな」
「分りました」
休園日に開けてもらうといっても、二日もとなると……。
頭の痛いことは、一手に引き受けることになる。
――亜矢子はため息をついた。
21 檻の外
「ライオンって、どうしていつも昼寝してるの?」
と、今日子が言った。
「知らないわ。ライオンに訊いてみて」
亜矢子は、やっと動物の様子を眺める余裕ができた。
園内のロケは何かと制約も多くて大変だ。動物のストレスになることを避ける、という条件があるため、むやみにライトを使ったりできない。
「猫だって、一日中寝てるじゃない」
と言ったのは佳世子である。「ライオンも親戚でしょ」
「それに、野生のライオンと違って、必死になってエサを捉えなくてもいいわけだし。暇なんでしょ」
まあ、当のライオンに訊いてみないと、本当のところは分らないが。
佳世子の出番はもちろんないが、今日子と一緒にロケを見に来ていた。
「あ、
と、今日子が言った。
「やっぱり暇なんだね、きっと」
と、亜矢子も納得した。
天気はほぼ予報通りの薄曇りだが、幸い気温が割合高いので、動物たちも外へ出て来ていた。
正木は上機嫌だ。――撮影のスケジュールは順調に進んでいた。
「今回は崖からぶら下らなくて良さそうだね」
と、カメラの
「おかげさまで」
何度同じことを言われただろう。――すっかり「ぶら下り専門スクリプター」のイメージが定着しているらしい。
――園内のレストランも、特別に開けてくれたので、昼はみんなそこで食べることになった。
とはいえ、午後の撮影の用意がある。
亜矢子が手早くラーメンを食べていると、
「亜矢子」
と、長谷倉ひとみがやって来た。
「やあ、どうしたの?」
「連|《れん》ちゃんのことだけど……」
「何か心配ごと?」
「私は心配なの。でも、連ちゃんは『平気だよ』って言って笑ってるし……」
「何か手掛りらしいものが見付かった?」
――
もちろん、
「でも、亜矢子、言ったよね。調べていて、もし本当の犯人がそれを知ったら、きっと何か行動を起す、って。――それ考えると、夜も眠れない」
どう見ても、ひとみは寝不足に見えなかったが、そうも言えず、
「どうしたいの、ひとみ?」
「どうしたい、っていうんじゃないけど……」
と、口ごもっているのは、もちろん遠慮しているからで、
「ひとみ、もしどうしても気になるんだったら、叶君と一緒に行動してもいいよ」
と、亜矢子は言った。
ひとみの顔がパッと明るくなって、
「いい? じゃ、正木さんに――」
「うん、私から話しとく。大丈夫よ。黙ってたって、問題ないと思うけどね」
と、亜矢子はラーメンを食べ終って席を立とうとしたが、ケータイが鳴った。
「誰だろ? ――はい、もしもし」
「あ、
こち
さんですか?」と、聞き覚えのない、男の人の声。
「そうですが……」
話を聞いている内、亜矢子は固い表情になって、
「分りました。伝えます」
と言った。
「どうしたの?」
と、ひとみが訊く。
「うん、ちょっと……」
亜矢子は、正木の所へと急いだ。
「監督、ちょっと」
「どうした?」
亜矢子の表情を見て、ただごとではないと感じたのだろう、すぐに席を立った。
レストランの外へ出ると、
「今、弁護士さんから連絡があって」
「弁護士?」
「真愛さんのご主人の
「そうか。それで?」
亜矢子は、五十嵐真愛が橋田浩吉とコーヒーを飲みながら話しているのを見て、
「三崎さんが入院したそうです」
と言った。
「何だと?」
「運動中に、突然倒れて、救急車で運ばれたとのことで」
「悪いのか」
「今、検査を受けているそうですが、どうも心臓に問題があるらしいと」
「そいつは……。危険なのか」
「私にも分りません。でも、真愛さんには伝えないと」
正木は肯いて、
「分った。――ここへ呼ぼう」
スタッフ中に話が広まると、不正確な情報がニュースになる可能性もある。
亜矢子は、真愛たちのテーブルへと歩み寄って、
「真愛さん、監督がちょっと」
と、声をかけた。
「はい。何かしら?」
「新しいアイデアかもしれないぜ」
と、橋田が言った。
レストランを出て、真愛が、
「監督、何か?」
と訊く。
「亜矢子、話してやれ」
仕方ない。亜矢子は真愛の肩に手をかけて、
「落ちついて聞いて下さい」
と、穏やかに言った。「三崎さんが入院しました」
真愛がサッと青ざめた。
「あの人――この間面会したとき、ずいぶんやつれて、老け込んでいたので、どこか悪いのじゃないかと思ったんです」
と、真愛は言った。「それで具合は?」
「まだ検査中です。もし必要だと心臓の手術もあり得ると」
真愛は一瞬、目を閉じて、
「――分りました」
と、肯いて言った。「他の人には黙っていて下さい。撮影は予定通りに」
「うむ……」
正木はちょっと難しい顔になって、「いいのか、会いに行かなくて」
「でも――」
「亜矢子、弁護士と相談してみろ」
「分りました」
「いいんですか?」
と、真愛が訊く。
「生の舞台ではない。映画は色々やり方があるんだ。顔のアップとセリフだけまとめて撮れば、ロングショットは代役ですむ」
「監督……」
亜矢子は弁護士に連絡して、病院での面会が可能か、訊いた。
「――すぐには分らないそうですが、ともかく病院に行って話せば、可能性はあると」
「ありがとう、亜矢子さん」
「監督、代役は誰に?」
「お前だ」
当り前の調子で、「今から少しやせられないか?」
「そんなこと……。カメラで工夫してもらって下さいよ」
「うん、市原を呼べ」
これから、主なスタッフが外で集まって、打ち合わせをした。
ベテランが揃っている。
「大丈夫。亜矢子ちゃんでも何とかなるよ」
と、市原が言った。
「よし、ともかく、真愛、橋田との会話も、そっちだけ先に撮る。後でつなぐのは何とかするから心配するな」
正木も早口になっている。「葛西、エキストラの手配だ」
「はい!」
葛西が駆け出して行く。
正木はレストランへ戻って、
「みんな聞いてくれ!」
と、大声を出した。
ロケは状況次第で予定の変更など珍しくない。誰からも苦情は出なかった。
理由はどうでもいい。何をすればいいか分っていれば充分なのだ。
みんなが一斉に動き出す。
「真愛さん。
と、亜矢子が言った。
「でも、迎えに行く時間が……」
亜矢子は、ひとみを呼んで、助監督の車で礼子を迎えに行くように頼んだ。
「よし、撮るぞ!」
正木も、こういう状況になると、却って張り切っている。プロ意識を刺激されるのだろう。
「カメラは手持ちで」
と、市原は言った。「大丈夫、絶対に揺らさないから」
「はい……」
真愛は、スタッフが駆け回っている姿を見て、涙ぐんでいた。
てきぱきと撮影は進み、真愛の分を撮り終えると、亜矢子はロッカールームで着替えた。――真愛の服はかなり窮屈だったが、
「大丈夫。お腹引っ込めてるから」
「ごめんなさい。お願いします」
ひとみが礼子を連れて来ていた。
真愛と礼子は、助監督の運転する車で、三崎の運び込まれた病院へと向った。
「――心配でしょうね」
と、亜矢子が言うと、
「お前も心配だろ。木かげでのキスシーンがあるぞ」
と、正木が言って、
「え……」
そうだった! ――亜矢子は、
「橋田さんに断られたらどうします?」
と、半ば本気で訊いた……。
(つづく)