第一章 オリオン座

文字数 34,242文字

 道は細く、複雑に入り組んでいた。
 はじめてこの路地を訪れた人間は、必ずといっていいほど方向感覚を失ってしまう。狭い道が折れ曲がり、突きあたり、まるで人間の血管のように細部まで枝分かれしている。酔っ払いながらここを歩けば、通り全体が生き物のようにうねって見えた。
 渋谷から東急田園都市線で二駅、三軒茶屋駅の裏手にあるこの地区は、急速に発展していく表通りから必死に身を守っているような、古びた繁華街だった。
 銭湯があり、立ち飲み屋があり、映画小屋があり、タイ料理屋があり、風俗マッサージがあった。大坪和真は買い出しのレジ袋を両手に提げて、慣れた調子で水たまりを避け細い通りを抜けていく。
 低層建築ばかりのこの一帯でゆいいつ十階建てのビルの前には、ボクシングジムやキャバクラの看板がぞんざいに出されている。築五十年以上のおんぼろ雑居ビルだった。和真はビルの薄暗いホールに入るとエレベーターを確認する。表示は十階を指していた。最上階のカフェはこのビルのテナントのなかでも最も人気のある店だ。そこからエレベーターがのろのろと降りてくるまでゆうに六十秒は待った。乗り込むとやはり似たような時間をかけて、七階のフロアに辿り着く。
 切れかかった蛍光灯。暗くて、赤くて、油っぽいリノリウムの廊下。その突きあたりにあるのは古びた鉄扉だ。扉には黒地に銀フォントのプレートが掲げられている。
 鍵を差し込んで、扉を開いた。
 ──三軒茶屋星座館
 ここが和真の開くプラネタリウムだった。

     ☆

「ほらもう起きろよ。仕事だろ」
 コップに水を入れて女に渡した。
 時計は二十一時を回っていた。大きくあくびをした彼女は鼻をこすって水を飲み干す。細い喉がしずかに波打った。仕事前からべろべろに酔っ払って星座館にやってきた常連の凪子は、照明が落とされるなり二時間も眠りつづけていた。
「まったく、なにしに来てんだよ。一瞬も説明きいてなかっただろう」
「ここ良く眠れんだよう」
「自分から星座の説明しろって言ったくせに」
「和真さんの声って、なんかいい感じに眠気を誘ってくれるんだよねー。ほらあるじゃん、あれよあれ、マイナスイオン? どうやって出してんの?」
「出してないよ」
「つかみんな寝に来てるようなもんじゃーん」
 もういいよ、さぁ行った行った、と酒臭い凪子を立たせて出口へ連れて行く。彼女はこれから午前二時まで近くにあるガールズバーで働くことになる。
「ほんとお前ら、ここなんだと思ってるんだよ」
「マンガのないマンガ喫茶」
「あんまり寝てばっかりだと目玉が四つになるぞ」
「なにそれー、どこの言い伝えー?」
 もういいから行け、と凪子を店から追い出した。
 三軒茶屋星座館は学校の教室よりも二回りほど大きな部屋にある。
 フロアの左側にはシンプルなバーカウンターが設置され、バックバーにはボトルがずらりとならんでいた。だがこのバーカウンターはあくまでも飾りに過ぎない。星座館が星座館たる所以は、その天井にあった。もともと吹き抜けになっていた部屋の天井には常設型のドームスクリーンが設置されていた。そのスクリーンの真下にあるのは和真が苦労して手に入れた年代物のレンズ式星像投影機だ。
 プラネタリウムの客席はバーカウンターを左手に見て十二席、扇状にならんでいた。この星座館を訪れた客たちは、リクライニング式の客席に深く腰を掛け、アルコールの入ったグラスを傾けながら、都会の喧噪からほんのわずかな時間だけ星空の世界へと旅することができる、はずだった。しかし常連客ときたらカウンターで酒を飲むか、客席で眠りこけるかのどちらかで、まともに星空を見ようとする人間がいなかった。和真としてもいちおう仕事なので求められれば星座の説明をするのだが、すぐにいびきが聞こえてくるような客席に向かってしゃべっているとたまに大声を出したくなった。大声を出しながら油性マジックのキャップを飛ばし、客の瞼に目玉を書き込みたくなった。彼らの目玉が四つにならないのは、ひとえに自分の自制心のたまものだと思っている。
 客席の一番奥では、常連の谷田が両耳にイヤホンを突っ込んだまま眠りこけている。眠る前に「雀荘へ行くから二十二時に起こして欲しい」と言われていた。時間になってしかたなく体を揺らすと、目覚めた彼はこれから仕事に出るサラリーマンのようにネクタイを締めた。和真の淹れたコーヒーを啜りながら「圧勝して寿司おごってやるよ」といつものように気合いを入れる。だが残念ながらここ数ヵ月、彼が麻雀で勝ったという話はきいたことがない。不動産屋の谷田は四十も半ばとは思えないほど肌つやがよかった。長い髪をかきあげると「サンキュ、よく眠れたわ」とあくびをしながら背伸びした。
「そういや和真、あの釣り堀見つかった?」
「いや、ぜんぜん。昼間は毎日探してるんだけどなぁ」
「あはは、飽きないねぇ。まだあの噂本気にしてんのかよ」
「放っといてよ、趣味なんだから」
 長年のあいだこの街の名物だった釣り堀が数年前に閉店した。いまではその跡地にバーが開かれている。だが閉店したその釣り堀を偲んだ別のオーナーが、場所を変えて新たな釣り堀を開いたという噂があった。完全会員制で夜の時間だけ営業しているらしい。ミステリアスな新釣り堀の噂に和真は興奮したが、不動産屋の谷田でさえ場所を知らず、彼ははじめから「そんな店あるわけない」と一蹴していた。一ヵ月以内に見つけられるか五万賭けよう、とふたりで話していたのはまだ夏の頃だった。結局和真はその賭け金をきっちり支払うことになった。もう金は返ってこないが、悔しくてそれ以降も時間があれば釣り堀を探している。
「どうやら政治家とか大企業の経営者が通ってるらしいよ」
 仕入れたばかりの噂を谷田に教えるが「ないないないない」と手を振ると「また賭けるか?」とケラケラ笑って席を立つ。麻雀負けちまえ、と彼を送り出した。首を揉んでカップを片付ける。もう他に客はいなかった。
 星座館の開館時間は、夕方七時から朝方までだ。
 午前零時を過ぎると酔っ払った客が二軒目代わりにやってきたり、終電を逃した客が始発を待つ間休みにくることになる。さらに午前二時を過ぎる頃には、近所の飲食店の従業員たちが仕事後の一杯を飲みに来ることも多い。いずれにせよ、プラネタリウムを見に来る客はほとんどいない。もうすぐ店を開いて半年になるのに、訪れるのはプラネタリウムなど眼中にない人間ばかりだった。
 コーヒーカップを洗い終えると、ため息混じりにカウンターを出た。客席に座って伸びをし、静かにドームを見あげる。そこには本来この東京から見えるはずの星空が広がっている。ネオンの消えることのない街が、かき消してしまった無数の星々。数百年前の人々が見ていたはずのありのままの夜空。今夜はこのまま店を閉じて、久しぶりにひとりでドームを眺めるのもいいかもしれない。
「あれ……プラネタリウムなのか」
 ドアが開き、声が聞こえた。
 星像をよりはっきり見せるためにバーカウンターとコンソール以外の店内照明は極力抑えられている。暗い店内から見ると、廊下から射し込んできた光で男のシルエットがぼうっと浮かび上がって見えた。またバーか居酒屋と勘違いした客がやってきた。うんざりして客席から立ちあがると「いらっしゃいませ」と男の影に近づいた。
「和真、久しぶり」
 トレンチコートのシルエットが笑う。
 どくん、と心臓が脈打つのがわかった。
 この十年ほとんど連絡を取っていなかったし、もちろん自分がここで店を開いていることも知らないはずだ。啞然としたまま声を出すことすらできない。身長は和真よりやや高いくらいだが、体の厚みがまったく違う。シルエットだけでもわかる筋肉過多の鋼のような肉体。十年前と比べてもさらに大きくなっている。
「いつからまたその髪の色なんだ?」
 和真の金髪を見て目を細める。
「あのさ、急で悪ぃんだけど、今日からしばらく泊めてほしいんだワ」
 彼の足下にはスーツケースが二つ、両脇にならんでいる。
「泊めるって、な、なにをいきなり……」
 ようやく呟いた和真に、十年ぶりの顔がいたずらっぽく笑った。
「それにしてもスゲー本格的なプラネタリウムなんだな」
「なんの用だよ」
「驚かせたか?」
「あたりまえだろ……」
「じゃ、ついでにもうひとつ驚かせるか」
 そう言ってスーツケースを横に避けると、ドアの脇からまだ小学校低学年に見える髪の長い少女が姿を現した。格闘家のような男と美しい少女の組み合わせが異様だった。
「月子」
 彼が呼ぶと少女はもう一歩前に進み出て、不安と好奇心が入り交じった視線で和真を見あげる。「こんばんは」と呟くと彼女は隣の男の手を握った。
「お前、この子……」
「これが和真。月子に話していただろう? 和真は俺の兄貴で……」
 創馬が微笑んで顔をあげた。
「そして今日から、月子のもうひとりのお父さんだ」

     ☆

「遊びに行かなくてもいいのかよ、なんかこう、小学生ってやることたくさんあるんだろう?」
 客席に座り込んだ月子はむくりと顔をあげ、カウンターに座る和真を見たまましばらくなにも言わなかった。
「たとえば?」
 たとえば、と口にしたままなにも言い返せない。現代の小学生がふだんなにをして遊んでるかなど想像もつかなかった。月子の黒目がちの瞳が興味深そうに大きく開かれる。
「たとえば、一輪車とかさ」
 自分の想像力の貧困さに目眩がする。月子はなにも答えずにリクライニングされた客席に寝転がり、灰色のままのドームスクリーンを見あげた。なんだよ、なんかひと言くらい言えよ、僕は子供が苦手なんだよ。
 なにを考えているのかわからないし、どう接していいのかもわからない。大人だって共通の話題がなければ話すのに苦労するというのに、八歳児相手に盛りあがれる話題など持ち合わせているわけがない。しかも月子は創馬がアメリカで生活している最中に生まれたという帰国子女だった。弟の娘とはいえ、自分にとっては異星人も同然だ。あまりにも対応のしかたがわからず、はじめの数日は敬語で話しかけていたほどだった。
 一日も早く創馬には出て行ってもらわなくてはならない。せっかく落ち着き始めた自分の生活をそう簡単に手放すわけにはいかなかった。だが創馬はこの二週間、いったん荷物をほどいたっきり、腕立て伏せやスクワットはしても不動産屋を回ろうとはしなかった。
「今日は何時頃帰ってくるか、創馬から聞いてる?」
 月子はやはりむくりと頭だけ起こしてこちらを見つめ、しばらくしてから首を振った。口数が少ないのは彼女の性格か、それとも女の八歳児といえばこんなものなのか、自分にはわからない。
 創馬が二十三歳のときにアメリカ東海岸へ留学して以来、彼とはいちども会ったことがなかった。十年間の海外生活の果てに彼は物理学の博士号と、気持ち悪いほどの筋肉を身につけて帰国した。
 海外で結婚どころか子供まで作っていたことを知らされていなかったのだから、まぁ一般的に考えて仲良くはないのだろう。たしかにお互い気まずい期間をもう何年も過ごしていて、連絡を取ることはないに等しかった。それでもそんな重大な人生の変化は教えてくれても良かったのではないかと思ってしまう。これまで創馬はアメリカの大学で教鞭を執っていたらしいが、東京の大学でポストが空いた知らせを受け取り、帰国の手続きをとったという。創馬が大学で働いている昼のあいだ、結果的に異星人月子の面倒は和真が見ることになる。
 バーカウンターを布巾で拭く。気になって顔を上げると、客席からこちらを眺めている少女と視線が合う。
「……あんま見られると仕事しづらいよ。宿題とかないの?」
「今日はないよ」
「腹へってない?」
「大丈夫」
「外に遊びに行かなくていいの?」
「ねぇお父さん」
 と言われて心臓が凍る。
「あのな月子、僕は月子のお父さんじゃない。月子のお父さんは創馬だろ。僕は伯父さんなんだって」
 この二週間でなんど同じことを言ったかわからない。だがそのたびに月子は「またその話?」とでもいうような顔をして肩をすくめる。まるで子供のわがままにあきれる大人のように。
 創馬の考えは想像がついた。
 十年海外で暮らしていた創馬は、帰国したばかりで東京での生活事情がわからない。だが肉親が近くにいればそれなりに安心もできる。おそらくそれくらいの気持ちで自分の元を訪れたのだろうが、実際に来てみると兄は自営業で昼夜逆転の生活をしていたのだった。和真の一日はちょうど月子が学校から帰ってくる頃にはじまり、しかも仕事場の星座館にいても和真以外に誰も文句を言わない環境にあった。娘のベビーシッターにちょうどいいと彼は考えたはずだ。
「ねぇ、今日は夜まで起きてていい?」
「八時に寝るって創馬と約束してただろ。大きくなんないぞ」
「学校のみんなは十時まで起きてるって言ってたもん」
「知らないよ。夜更かししたいならお父さんに頼め」
「だから頼んでるの」
 あーもー面倒くさいなぁ、とテーブルを拭く手を止めて頭を抱える。
「だから僕じゃなくてあの筋肉バカに頼みなって。だいたい僕の部屋テレビないんだから夜更かししてもやることないだろ」
「ちがうの」
 月子は人差し指をまっすぐ伸ばして投影機を指す。
「見てみたいから」
 星座館の営業時間には眠っているため、まだ月子はプラネタリウムを見たことがなかった。これで納得してくれるなら安上がりだと思って、カウンターを出た。それにしても開店準備がぜんぜんはかどらない。これだから子供は面倒なのだ。
 ため息をついてパソコンを起動し、つづけてアルミニウム製の遮光窓を閉めた。それだけで店内は洞窟のように暗くなる。「きゃっ」と月子の小さな悲鳴が響く。それでも目が慣れるとまだまだ店内はじゅうぶん明るい。窓の上の遮光カーテンを閉じ、さらに上下の隙間を特製のシートで覆うと外界からの光はほとんど遮断される。和真はカウンターの隣にあるコンソールボックスに指を這わせて、最後に残ったバックバーのわずかな照明を落としていく。ゆっくりと、静かに、確実に。
 完全にライトを落とす。
 客席では顔の前にかざした自分の手のひらさえ見えないはずだ。光が失われていくのと反対に、いままで意識していなかった物音が聞こえてくる。ビルの外の足音、車の排気音、街路樹のざわめき、エレベーターの昇降音、そして自分自身の呼吸の音。それらは暗闇のなかにひとつひとつ輝きながら浮かんでくるようだ。やがて客席に座る人間の目が慣れてくる頃に、コンソールのスイッチを入れる。
 あ、という月子の声が聞こえた。
 思わず笑って、和真も見あげた。
 それまで暗闇だった常設型ドームスクリーンに突如現れたのは、満天の星。中古で入手した業務用レンズ式プラネタリウムが、数え切れないほどの星像をシャープに映し出す。通常のビルの天井高では到底このドームスクリーンは設置できない。2フロア吹き抜けの格安物件を探してきてくれたのはいまやこの店の常連となっている不動産屋の谷田だった。
 月子の白い頰と黒髪のコントラストは闇のなかでもうっすらとわかる。口を開けたまま茫然と星空を見あげていた。目元がたしかに父親に似ている。すべてを覚えておこうとするかのように瞬きひとつせず、月子はプラネタリウムに見とれていた。
「知ってる星あるか?」
 とつぜん声をかけられた月子がびくんとからだを震わせるのが見えた。うーんと唇を結んだ月子は、しばらくドームを見渡してから人差し指で一点を示した。
「あれな、オリオン座だよ。好きなのか」
「お父さんが好きな星だって教えてくれた」
「創馬が?」
「ボストンでも見えたの」
 バストゥン、というやたら明瞭な英語発音で彼女は答えた。
「オリオン座ってどんな星座だか知ってるか?」
 ううん、と月子はおおきく首を振る。和真はレーザーポインタを使ってオリオン座の中央にならぶ星を指した。
「この三つならんでる星がオリオンのベルト。その両脇の星から伸びているのがオリオンの両肩。反対側に伸びてる二つが足。冬の星座のなかでいちばん目立つ星座だ。右手には棍棒を握ってて、左手にはマントを掛けてる。この星がそうだ、わかるか?」
 ぶるんぶるんと音が聞こえそうなほど月子は大きく首を振る。バックバーに置いてある星座事典に手を伸ばすと、客席に移って月子の隣に座った。オリオン座のページを開いて月子に渡す。ペンライトで照らされたページには右腕を高く掲げ、伸ばした左手の先をじっと見つめているオリオンのイラストが描かれている。
「オリオンって、男の人?」
「男の人っていうか、人間じゃないんだよ。ギリシャ神話にポセイドンっていう海の神様がいて、その神様の息子なんだ。ほらイラスト見てみなよ、カッコいいだろ」
「わかんない」
「カッコいいんだよ。てか、むしろ超絶美形だ。でも残念なことに超巨人なんだよ。美男子なのに巨人ってなんかそれだけで笑えるってか、痛いだろう? 美男子なのに若ハゲ、みたいな感じの痛さ。わかるか?」
「うん」
「ほんとに?」
「わかんない」
「……もうやめるか?」
「聞く」
 よし、とうなずいてポインタでオリオン座を囲んだ。
「でこのオリオンってさ、むちゃくちゃ体育会系で、運動神経が抜群なんだ。狩りの腕前なんかピカイチだ。でも性格はちょっとヤンキー気質なんだな」
「ヤンキー?」
「……ま、いいや。とにかく気が強くて、自慢話がウザイ奴なんだよ。オリオンはむかし結婚してたこともあるんだけど、それがまた嫁にベタ惚れでね。『俺の嫁どう? クソカワイくね? つかカワイすぎね?』とかって自慢しまくってたんだ。まぁたしかに彼女はカワイイし、聞いてる方もはじめのうちはよかったんだけど、そのうちだんだん自慢してるオリオンにムカツイてくるんだよ。いるだろうそういう奴」
「ねぇ、オリオンさんってお父さんのお友達?」
 友達じゃないしお父さんじゃない、と和真が咳払いをする。
「とにかく自慢話をしているうちに気持ちが盛り上がってきて、どんどん表現がオーバーになってくるタイプなんだな。結婚してからっていうものずーっと周囲の仲間に嫁の自慢話してたんだけど、そのうちにヘマをしちゃうんだ」
「うん」
「ある日調子にのったオリオンが、
『俺の嫁のシーデーっているじゃん? あれ会ったことなかったっけ? えマジで? 会ったらビビっぞ、むっちゃくちゃ美人だから。でさぁ、なんか最近気づいたんだよ。あいつ実際問題ヘラ様よりもぜんぜん美人だと思うんだよね。そう思わね? そう思うだろ? あ、まだ会ったことねーのか、こんど紹介するわ、あぁくっそかわいいわぁシーデー』
 とか言い出してさ。
 ヘラっていうのはギリシャ神話のなかでいちばん恐い女の神様なんだよ。なんせ全能の神ゼウスの奥さんで、そのゼウスでさえ怖がってるくらいだからね。しかも彼女は地獄耳なんだ。オリオンのこの自慢話はとうぜんヘラの耳にも届いた。ヘラはオリオンの暴言の一部始終を聞くと顔色ひとつ変えないで、
『フツーに殺すし』
 とか言って、いきなりシーデーを地獄に突き落としたわけ。かわいそうなシーデーは自分は何も悪くないのに、ただただ男を見る目がなかっただけで地獄に落とされたんだよ」
 すぅすぅという寝息が聞こえて、話をやめた。
 いったい自分はなにをやっているんだろうと和真は呆れる。しばらく明かりは消したままになりそうだ。首をぐるりと回すとしかたなく暗闇のなかで開店の準備をはじめた。

     ☆

 買い出しから店に戻ると店内から声が聞こえた。
 学校から帰った月子がそのまま星座館にやってくるのには慣れてきたが、今日は誰か友人を連れてきているようだった。ゆっくりと扉を開ける、月子の声が大きくなる。どうやら彼女は覚えたばかりのオリオン座のエピソードを説明しているようだった。
「それでね、オリオンさんは運動がすごく好きで、お嫁さんがすごく好きだったの。肩にマントをかけてて、海のなかのえらい人の王子様なんだけどね、でも若ハゲなの」
「違うよ」
 と割って入った。カウンターにレジ袋を下ろしてから振りかえると、月子の隣に座っている男を見て一瞬息を飲んだ。
「奏太くんっていうの」
 地元の高校の制服を着た少年が「こんちは」とぶっきらぼうに頭を下げる。悪ガキっぽい目つきの険しさが印象的だが、顔全体にはまだ愛嬌といってもいい幼さが残っている。ブレザーの制服のネクタイを緩め、傷のないリーガルの革靴を履き、ラフだが小綺麗に制服を着崩していた。
「ずいぶん大きなお友達だな」
「勝手についてきたんじゃねぇって! 月子が来いって言ったんだよな、月子」
 あわてて奏太が言い訳をする。そうだろうね、と答えて買ってきた食材を冷蔵庫にしまった。
「あのな月子、友達ならだれでも連れてきていいわけじゃないぞ」
「でもお父さん、いつもお店にお客さんがいないって言ってたから」
「俺、客のつもりだったのかよ!」
 奏太が小学生相手に憤慨する。
「僕もお父さんじゃない」
「え、あんた父親じゃねーのかよ」
 ほっとけ、と言い捨てて布巾をシンクで洗った。奏太を客のつもりで呼び込んだのなら、あのオリオン座の説明は月子なりに仕事をしてるつもりだったのかもしれない。そう考えると巻き込まれた彼にも同情する。「なんか飲むか」と聞くと奏太はふて腐れたような口調で「炭酸」と答えた。
「奏太くん、カノジョのことが大好きなんだって。だからオリオンさんのことお話ししてあげたの」
 月子が無邪気に言うと「おい」と焦って奏太は振りかえる。小学生相手に恋人自慢でもしていたのだろうか。だとしたら確かにオリオン顔負けの自慢好きだ。ふと視線を落とすと、カウンターに置いた奏太の手が目に入った。小さくて、ぶ厚い。
「きみ、なんかスポーツやってんの」
「は? なんで」
「オリオンは運動神経抜群だからなぁ」
 なんでそんな奴と比べんだよ、とぶつぶつ言いながらも、どこか得意げに「野球で高一んとき四番打ってたよ」と答えた。すごいじゃん、と和真が褒めると照れ隠しに「ふん」と鼻で息を吐く。身長は和真よりやや低いくらいだが、その手は子供のように小さい。アンバランスさに思わず和真は見入ってしまった。やがて指が一本一本、ゆっくりと手のひらのなかに折り込まれていく。気がつくと彼は表情を一変してこちらを睨んでいた。
「なに見てんだよ」
 さきほどまで顔に残していたあどけなさが、どこかに消えて無くなっている。同世代なら震え上がってしまうような迫力のある表情だった。本人も小さな手のことを気にしているのかもしれない。
「なんか文句あんのか、あ?」
「そのオールドスクールな感じ、好感持てるね」
 奏太はしばらく視線を逸らさなかったが、やがて舌打ちすると「バッカみて」と呟いただけだった。緊張が解け、途端に表情に愛嬌が戻ってくる。きっと男仲間には頼られるタイプだろう。
「今日は部活休みなのかい?」
「んなもんとっくに辞めてるよ」
「じゃあ暇だろう、てか暇だよね。小学生に連れられてこんなところ来てるくらいだし」
「このオッサン面倒くせー」
「悪かったね」
 あ、炭酸か、と思い出した和真は冷蔵庫から数種類取り出した。すぐさま「うわっ! ドクターペッパーあんじゃん!」と彼のテンションがあがる。それまでの不機嫌を忘れたように脳天気な表情だった。まったくコロコロと忙しい奴だ。奏太は「あざーす」とプルタブを上げる。冷蔵庫からグラスを取り出した和真も自分のビールをサーバーから注いだ。
「なんなら聞くよ、彼女自慢」
「オッサンに関係ねぇだろ」
「オッサンじゃない、大坪和真だ。まだぴちぴちの三十三歳だっていうのに」
「ぴちぴちって表現自体がすでに昭和臭ぇんだよ」
「ドクターペッパー返せ」
 和真が手を伸ばすと「ガキかよ」と苦笑して缶に口をつけた。
「あのね、奏太くんのカノジョ、年上なんだって」
「へぇ、楽しそうだね。大学生?」
「違ぇよ」
「社会人かぁ。いくつ年上なんだよ」
「三つ上」
「ふぅん」
「……和真さんのな」
 飲みかけたビールを思い切り吹き出した。奏太と月子が笑い声を上げる。
「三十六かよ」
「見た目はぜんぜん若いっての、元モデルだし。マジでヤバイ女なんだよ」
 うっとりとした目でドクターペッパーを飲む。三十六で元モデルで恋人は高校生。そりゃヤバイだろ、と奏太に聞こえないようにため息を吐いた。
「どこで出会うんだよ、そんな年上と」
「バッティングセンター」
 なるほど、と和真は唸ってしまった。つづきを話したくてしかたなさそうに、目を見開いて奏太が見つめる。
「ききたいか?」「なにを?」「つづきだよ」「どうだろね」「なら教えねぇ」
 まったく、面倒くさいのは奏太のほうだ。わかったわかった、と和真は残りのビールを飲み干した。せっかくだから、きこうじゃないか。
「オーケイ。気持ち良く、僕にしゃべっちゃいなよ」

     ☆

 智子のどこが好きなのか、と訊かれたら奏太は即答で「バッティングフォーム」と答える。夜な夜なつるんで遊んでいる同世代の仲間は、みな吹き出してげらげらと笑う。バッティングフォーム? なにそれ、まじウケるし。でもそのたびに、お前らわかってねーな、と奏太は首を振る。智子のバッティングフォームを見たら、誰だって鳥肌を立てるに違いない。
 智子はスカートスーツでバットを握る。しかも足下は不安定なハイヒールだ。それでいて彼女は完璧な神主打法を実現してる。落合のような。小笠原のような。古き良き前田智徳的な重心移動を信奉していた奏太には、ほとんど信じられないような光景だった。
 スコスコとホームランゾーンに白球を打ちこむ特殊打法のスーツの女。
 髪をひとつにまとめた彼女が、足下を払いスクエアスタンスをとってバットを構える。その姿はまるで敬虔な宗教儀式の一部のように見えた。野球をやったことのない遊び仲間にはきっと何年たってもわからないはずだ。バッティングフォームにはその人間の生き様が出るのだ。人生に対する基本方針のようなものが。彼女のバットコントロールは完璧で、必要な一点に体中のすべてのバネを集中できる。ハイヒールなのにだぞ、ハイヒール、と説明しても仲間はぽかんと口を開ける。伝わらない。
 でもそれでいい。
 奏太にとって彼女がバットを握る姿は、だれよりも魅力的な立ち姿だった。
「付き合って下さい」
 はじめに声をかけた言葉がそれだった。ガチガチに緊張している奏太を見て呆気にとられた彼女は、ようやくにこりと微笑むと「きみも打つんでしょう?」と打席へとつづくビニールカーテンを開けた。
 まるで新しい世界が開かれるような、音がした。
「だいたいオバサンじゃねーか」
 仲間たちは口々に言う。お前らわかってねーな、とやっぱり思う。
 智子は彼らが想像しているような三十六歳じゃない。二十代の頃はモデルをやっていたというくらい美人だし、実際いまも智子は二十代に見える。
 それに、と奏太は思う。
 いくら同世代の女に「好き」と言われても、智子が言ってくれる「好きよ」には敵わない。そのことに気づいている自分は人よりも得をしているはずだ。
 まず同世代の女たちは、「顔がいい」とか「運動ができる」とか「友達が多い」とかで男に好意を寄せる。他にあってせいぜい「音楽ができる」とか「家が金持ち」とか。それこそ自分に言い寄ってくる女のほとんどは「仲間が多い」というメジャーな属性に加えて「喧嘩がつよそう」なんていうどうしようもない属性を好む同級生だ。女なのに「なかよし」ではなく「チャンピオン」を読んできていそうなタイプ。どういう女に好意を持たれるかで、自分がどんな人間に見られているのかがわかる。奏太はそれにうんざりする。
 でも。同級生たちに比べて、大人の女は評価軸がはるかに多様だ。
 年上の女は容姿や運動能力みたいな「人間としての初期設定」以外の部分まで、自分のことをちゃんと見てくれる。頭の回転が速かったり、相手の気持ちがわかったり、仕事ができたり、知識が豊富だったり。そういった別の軸をもっていると奏太は思う。
 それに知っている男の数も女子高生とは段違いだ。百人の中の一人として「好き」と言われるのと、一万人の中の一人として「好き」と言われるのでは重みがまったく違うのだ。逆にまだ高校生の自分は、智子にそれだけの重みのある「好き」を渡してあげられない。それを奏太は申し訳なく思った。もちろん、奏太の中では世界中の誰よりも好きなのに。
「こいつさー、オバサンに騙されてんだよ」
「えーなにそれー」
「バッティングフォームが好きとか言って、まじウケるっしょ」
 交際開始から順調に一ヵ月が過ぎても、仲間たちはただ笑いのネタにするだけで真剣に話をきこうとしなかった。こういう奴に限って、自分が困ったときにはまっさきに奏太に相談してくるのだ。数ヵ月前だって、自分の恋人がアメフト部の大学生からちょっかいを出されている、というか正確には二股かけられていると知った彼は、奏太に大学生と掛けあってくれと頼んできた。しかたなく出て行くと、やっぱり大学生たちは集団でやってきて、もちろん話し合いで解決するわけはなく、喧嘩沙汰になる。おかげでアメフト部の丸太のような腕で二、三発もらうはめになってしまった。自分の女くらい自分で面倒見ろよ、とか思う。
 いい加減腹の立った奏太は最近「智子との話、もうぜってーネタにすんな」と仲間たちに釘を刺した。奏太が睨むといつも彼らは同じ笑顔のまま瞳の色だけを変えて、その話題からすっと離れる。それ以来、仲間内で智子の話がタブーになった。奏太の手のサイズの話と同じように。
 いまやその話題に触れるのは智子だけだ。
「そんなこと気にしてるの? 私、奏太の手、好きだけど」
 自分の小さな手が嫌いだと言ったとき、智子は指を絡めてそう言った。
「もっと手が大きかったら、ピッチャーもできたかもしれねーじゃん」
「もう野球辞めてるじゃない」
「つかこの手、子供っぽくね?」
「だって子供だし」
「うるせぇな」
「あ、男は手が大きいほうが、夢をつかみやすいって言うもんね」
 智子はくすくすと笑う。なんなんだよ、と奏太はむくれる。智子の細長い指が、小さな手のひらをたたいた。
「でも私は好きよ、奏太の手。すごく奏太っぽい。まっすぐで、不器用そうで、でも優しい手」
 短い指をした奏太の手を顔の前に持ち上げた。
「握力以外に取り柄がねぇけど」
「だからもっと好き」
 なんで、という奏太に彼女が笑う。
「いつも本気でつかまれてる気分になるから」
 自分の嫌いな手を智子は好きだという。
 それだけで、この手がすこしだけ好きになった。

     ☆

 星座館では決まったプログラムというものがない。
 レンズ式プラネタリウムはつねに点灯していて、ドームスクリーンにはいつも星々が輝いている。店にやってきた客たちは席に座ると飲み物を注文してスクリーンを眺める。客から「なにか説明してよ」と言われたときにだけ、和真は客の生年月日を訊いてコンソールを操作する。中古とはいえコンピューター制御のプラネタリウムは、指定された時間の星像を正確に映し出す。
 それはその客が生まれた夜に見えていた星空だ。
 もちろん本人は、その星空を覚えていない。
「……でもきっと、私の親は見てたんだろうな」
 満天に散る星々は答えない。その代わりにその夜空の星座が持つ物語を、ひとつひとつ和真は説明していく。プラネタリウムは時間を超えた夜空へと人を導くタイムマシンだ。
 繁盛しているわけでもない星座館では、午前零時前ならたいてい星空を独り占めできる。創馬たちがやってきてからは、月子がひとり客席で眠っていることも増えた。ふだんなら和真が彼女を抱えて部屋のベッドへと運んでいくが、今夜はめずらしく早く帰ってきた創馬が月子を運んだ。眠る娘を抱えた創馬の横顔は、いままで見たこともないほど満ち足りているように見えた。
「部屋は見つかりそうか」
 月子をベッドに置いて戻ってきた創馬に訊くと、彼は頭の後ろでひとつに束ねた長髪を振った。
「なかなかいい物件がなくてさ」
 ろくに探していないくせによく言うもんだ。創馬が大学から帰ってくるのはたいてい午前一時を回ったころだった。大学では講義を持つことになったため、いまは自分の研究だけでなく授業内容の作成にも時間を割いているらしい。
「客に不動産屋がいる。そいつに頼めよ」
 そうだな、と話をきいているような顔をしているが、その手はプロテインドリンクを作るのに忙しそうに動いていた。カクテル用のシェーカーにエスプレッソ風味のプロテインを入れて低脂肪乳を注ぐと、過剰に発達した二の腕を振る。この男はこれ以上どこに筋肉をつけるつもりなのだ。
「そういえば月子に友達ができたんだって? カナタとかいう男の子」
 ドリンクをマグカップに注ぎながら彼は訊いた。
「悪ガキの高校生だよ。月子は警戒心がなさすぎる」
「そうか? 俺はあいつの人を見る目を信用してるけどな。和真にだってなついてんじゃねーか」
「それは僕の人徳だ」
「よくいうワ。自分の十代二十代思い返してみろよ」
 ふん、鼻を鳴らして和真は自分のラムを舐めた。
「僕の場合は必要に迫られてたからね。でも奏太はただ野球部を辞めて時間をもてあましてるだけだ。ろくに学校も行かずに仲間と遊んでるみたいだし」
「へぇ、チーマーってやつか?」
「古いなぁ。そんなのとっくに絶滅してるよ」
「しょうがねーだろ、日本の情報は十年前で止まってんだ」
「チーマーじゃないけど、まぁ似たようなもんだろうね。あいつどこか人がいいから、担ぎ上げられて損するタイプだろうな」
 近くのバッティングセンターで出会った年上の女の話をすると、さすがに創馬も驚いた。「そっちは和真よりよっぽど上手じゃねーか」とからかわれたが、なにも反論できない。
「とにかくもうベタ惚れだったよ。智子は高知の名門野球校出身らしくて、その高校がいかに強豪かまで説明してたくらいだ。男だったらどんな選手になってたんだろうなぁ、とかうっとりしながら言われても苦笑いしかできなかった」
 智子との交際は「もう三ヵ月」だった。
 三ヵ月の交際が長いか短いかを、高校生の奏太がどう考えているのか和真にはわからない。だがすくなくとも奏太は運命の相手だと感じているようだ。「結婚するかもしんねぇ」という無邪気な言葉に笑いそうになったが、小鼻を広げた瞬間に拳が飛んできそうなくらい、彼の目は本気だった。
 二ヵ月前に智子は派遣で首切りにあい、次に働く場所もなかなか決まらず最近では高知に帰ろうか悩んでいた。困っている彼女を見ているうちに、奏太は進学を辞めて就職を考えるようになったらしい。
「結婚したらすごいなそれ。十八歳差だろ?」
 プロテインドリンクを飲みきった創馬が紙ナプキンで口を拭く。
「笑い事じゃないよ」
「いいじゃねーか、若くてさ。人生でいちばん好きな女、とか本気で思えるんだよな。『好き』と『結婚』の距離が近い近い」
「ほんと、単純なところまでオリオンそっくりだ。困ったもんだよ」
「へぇ、心配してんのか?」
「そんなんじゃない。……昨日、偶然見かけたんだよ、あいつのカノジョ」
「おっと。どんな女だったんだよ、高校生を恋人に持つ三十六歳って」
 和真も自分のビールを飲み干してから、深くため息をついた。
「あいつのいうとおり、ヤバイ女だったよ」
「最近の日本語は難しいな、ぜんぜんついてけねぇよ。どっちの意味だ、ヤバイって」
「いや、この場合は従来通りの意味だ」
「つまり?」
 ロクでもない、と首を振る。バックバーからボトルを取ると、自分のグラスにはラムを、創馬のグラスにはミルクを注ぎ直した。

     ☆

 夕方から降りはじめた雨が、強風とともにいよいよ大粒となってきたのは二十二時を回った頃だった。雨の日こそ外では見ることのできない星空をプラネタリウムで眺めることができるのにと和真は思う。だが他の飲食店と同じように雨天には客足がぴたりと止まる。風はますます強まるばかりだ。窓を鳴らす雨粒を恨めしく思いながら、今日は店を閉めて外に飲みに出かけようと決めた。
 近所にある居酒屋にふらりと入ったときに、女の怒声が聞こえてきた。
 カウンターの奥にあるテーブル席で、怒声の主が焼酎グラスを片手に立ちあがっていた。周囲の男女に押さえられているが、不明瞭な言葉でなにかを叫んでいた。夜の女と一目でわかる完璧な化粧をし、タイトなミニスカートを穿いていた。片足を椅子にかけているために黒いレースの下着は丸見えだった。
「トモコさん、もういいって、ほら迷惑だから」
 連れの女がそう言ってこちらに頭を下げた。トモコという名前はすぐに思い当たったが、まさかそれがほんとうに奏太の恋人だとは思わなかった。しかし席についてパーカーを脱いだときに「もう高知に帰る」という言葉が聞こえてよくよくその女を眺めた。奏太の恋人の智子も、実家は高知だったはずだ。
「あたしマジで帰るから! ほんと東京とかもうウンザリ、みんな調子のいいことばっかり言ってさ、誰も本気でなんて心配しないじゃん!」
「そんなことないって。みんな智子さんのこと大好きじゃん」
「適当言うな! 言っとくけどうちの店になんて信用してる奴ひとりもいないから! あたしマジでバビロン辞めるからね!」
 バビロンは駅の北側にある、三軒茶屋で最も値段の高いホステスクラブの名前だった。いま智子は仕事をせず求職中だと奏太は言っていたはずだ。やれやれと和真はため息をつく。夜の仕事のことは秘密なのだろう。
「すみませんね、これサービスしておくんで」
 店員がそう言ってビールを持って来た。「出禁にしちゃえば?」と言うと彼は困ったように頭を搔く。
「高校が一緒の大先輩なんすよ。ふだんは楽しい人なんすけどね」
 メニューを見たときにそこが土佐料理屋だったことを思い出した。
「それって、あの野球強い高校?」
「え、なんで知ってんすか」
 ちょっとね、と苦笑いする。それにしても酔い方が非道い女だった。まだ高校生の奏太は一緒に飲んだこともないのだろう。きいていた印象とはまるで別人だ。「ボトルもう一本入れてよ!」と叫ぶ智子を「金ないって言ってたじゃないすか、もう水飲んで帰りましょ」と別の店員がなだめている。
「ふだんはあんなに暴れないの?」
「飲まなけりゃいい人なんすけどねー」
 彼はトレイを両手で抱えて疲れたように首を振る。
「智子さん、昼の仕事を辞めてから、最近とくに荒れてるんすよ」
 前職を辞めた理由はセクハラだったらしい。正社員からしつこいセクハラに遭い、人事に相談したところまではよかったが、会社はその正社員ではなく派遣社員だった智子を切り捨てた。それ以来昼の仕事はなかなか見つからないらしい。実態がどうであれ、いちどセクハラで問題があった人間と会社は契約したがらないのだ。「ついてないんすよね」と彼は同情するように言った。
「しかも今年、友達が何人か再婚を決めたらしくて」
「あらら、周回遅れか。たしかに焦るかもね。でもそれなら恋愛する相手も考えればいいのに」
「ねー。いいかげんもう不倫する年でもないっすよねぇ。相手は結婚する気もないのに」
 意外な答えに内心驚きながら「ほんとだよ」と話を合わせた。やはり二股だったのか。奏太が知ったらさぞ傷つくだろう。「もうずいぶん長いらしいね」と知ったように訊くと「四、五年じゃないっすか?」と彼が答えた。
「智子さん、美人なんだけどなぁ。地元じゃお姫様みたいに憧れの的だったのに。県内のどの高校でも名前が通るくらい有名だったんすよ。東京に出て行ったばかりで雑誌に出てた時期とか、なんつーか、女神みたいだったのになぁ」
 テーブル席に目を向けた。たしかに三十代半ばには見えない綺麗な女だった。彼女の隣にいる二十代の女とならんでもそのスタイルの良さが際立っている。高校時代はスターだったのだろう。その頃はまだ酒を飲んでここまで酔っ払うこともなかったはずだ。酒さえ飲まなければ、という人間を何人も見てきたが彼女もそのうちの一人だろう。
 智子には奏太の他に恋人がいる。冷静に考えれば当然にも思えるが、あの奏太の本気の目を思い出すといたたまれなくなった。いくら仕事がうまく行かなくたって、不倫をやめられなくたって、なにも高校生を選んで気晴らししなくてもいいじゃないか。
「ちょっと、あんたなに見てんのよ」
 じろじろ見ていたつもりはなかったが、ふと智子と視線が合ってしまった。瞬時に顔を伏せたが彼女は声を大きくして怒鳴りはじめた。
「おい、ちょっとそこの金髪、お前だお前」
 ヒールを鳴らして智子が和真に向かってやってくる。顔を上げると彼女の酒臭い息がむわっと臭った。
「あんたいまアタシのことバカにしてたでしょ」
「してないよ」
「じゃあなんで笑ってたのよ」
「笑ってないって。ただ下着が丸見えだったから思わずニヤけちゃったんじゃないのかな。赤でしょ」
「黒よ!」
「知ってる」
「やっぱりバカにしてんじゃない!」
 面倒くさいなぁ、とつぶやいてビールを口にした。
「あんたをバカにするわけないだろう」
「なんでよ」
「なんでって……美人だし、賢そうだし」
「みんなそう言うの! 心んなかでバカにしてる奴はそうやって適当なことばっかり言うの!」
「ならとっとと高知帰れよ。バカがひとり減ってせいせいするから」
 一瞬、智子が息を飲む。
 すぐにドンと大きな音を出してテーブルを叩いた。
 飲みかけだったグラスが倒れる。
「あんた、意外と肚すわってるじゃない」
「そりゃどうも」
「どこ出身よ」
「東京だよ」
「そうやって地方から出てきた人間を見下すのもいい加減にしなさいよ。あんたらよりよっぽど世の中知ってるっつの!」
「へぇ、そんで世の中知らないガキからかってんの?」
「……なんのこと?」
 ちょっとなんのことよ、とわめき散らす智子を友人たちがテーブル席に連れ戻す。ビールがこぼれていることに気づいた店員があわてて布巾を持って来た。すみません、と何度も謝る彼の腕をこつんと叩いて「また来るよ」と立ちあがった。
「おい金髪! テメェ待てコラ!」
 女の怒声を背中で聞きながら店を出た。
 雨脚はつよくなるばかりだった。

     ☆

 奏太が顔に青痣をつくって店にやってきたのはその翌週だった。街で彼を見つけた月子が、むりやり連れてきたらしい。
「あらら。何人がかりでやられたの」
「うるせ、喧嘩じゃねぇ」
 どこをどうみても殴られた痕なのに、彼は苦しい言い訳をする。この前は友達のせいでアメフト部の大学生と喧嘩になった話をしていた。場数を踏んでいる負けん気のつよい奏太の顔面を、躊躇なく殴れるような男は誰だろう。和真が痣に触ろうとすると彼は大げさにのけ反って舌打ちした。
「相手誰だよ」
 ドクターペッパーを出して訊くと「オヤジだよ」とつまらなそうに答えた。
「奏太くん、お父さんに負けちゃったの?」
「ウチのは化け物なんだよ」
「あはは、想像つくな。なに、年の差交際がバレたのか?」
「それもある。智子、オヤジと歳近いしな」
 そう聞いて背筋に鳥肌が立った。
「お前のオヤジ、いくつなんだよ」
「三十八。俺、二十歳んのときの子だからさ」
 え、と動揺のあまり拭いていたグラスを落としそうになった。いまの自分に中学生の息子がいるのと同じだった。その事実に愕然とする。よく考えれば自分の弟の娘ももう八歳なのだ。なんだか世界が自分ひとりを残して猛スピードで回転しているような気がした。
「訊きたかないけど、母親は……」
「智子と同い年だよ」
「もう今日、店閉めよっかな。どこかでひとりになりたい」
 ショックを受けている和真を見て奏太が苦笑した。
「そりゃ、奏太のオヤジも焦るだろうよ。息子が自分とほとんど同い年の女と付き合ってるんじゃあ」
「いやそれで怒ってんじゃねぇよ。俺が大学に行かねぇって言い出して喧嘩になったんだ」
「奏太、大学なんて行く気あったのかよ」
「あのさぁ、和真さん。俺たいして学校行ってねぇけど、別に頭悪くねぇし、どっちかっつったら勉強とか得意な方なんだよ。成績はきっちりとってっから出席日数さえ足りれば推薦でるっつの」
「意外すぎてむしろ笑えるよ」
 話に飽きたのか月子はカウンターを離れて客席に座った。それを見た和真が照明を落としてプラネタリウムを点灯する。
「もし大学行けるなら行っときなよ」
「大学行ってなにが変わんだよ。和真さんだって客のいないプラネタリウム屋やってんじゃん」
「僕は高校中退だって」
「え? 月子が親父は大学通ってるって言ってたけど」
「そりゃ、ほんとうの父親の方だ。しかも大学通ってるんじゃなくて、大学院で教えてるんだよ。いまごろ自分の研究室だと思う」
「なに教えてんの?」
「素粒子物理学。同じ血が流れてるわりに、デキが違うんだ」
 ずいぶん割り喰った人生だな、と奏太はにやりと笑った。ほっとけ、と和真は彼の缶に口をつける。
「で、本当に就職するのか?」
「あぁ。智子なかなか仕事決まらないし、このままだと地元戻るとか言ってるし。でも俺が稼げれば智子と一緒に暮らせるからな」
 にやにやと笑っていた彼の目がすっと輝く。智子のことを話す奏太はいつも本気だ。暗い気持ちで和真は肩をすくめた。たとえ先日見た智子の話をしたところで奏太は信じないだろう。いつだって客観的事実は主観的現実の前に歯が立たない。
「智子と結婚の話はもうしてるのかい?」
 当たり前だろ、と彼は自信満々で答える。たとえ智子の不倫が先の見えない恋愛だったとしても、高校生との結婚を彼女は考えるだろうか。いや、と和真は先日の夜を思い出す。あれだけ酔っていたときにも高知へ帰ると言っていたくらいだ。むしろ地元に戻って不倫関係を清算しようと思っているのだろう。奏太に話を合わせているだけとしか思えない。
「まぁ、すこし冷静に考えなよ。就職するって言ったって、この不況だし高卒の働き口なんてなかなかないと思うけどな。しかも智子を養うわけだろう?」
「不況でも儲かってる業種があるんだよ」
「おっと。参考までに訊いとくよ」
「金融だよ」
 意外にもまともな答えが返ってきて唸ってしまった。
「それ、ちゃんとしたところなんだろうね」
「あたりまえだろ」
 奏太は鼻をこすってふたたびにやりと笑みを作った。
「智子が紹介してくれた会社だからな」

     ☆

 創馬と月子が居候しているのは、星座館と同じフロアにある和真の居住スペースだった。
「居住スペース」とはいっても、そもそもこの築五十年のおんぼろ雑居ビルは居住用には設計されていない。実際にテナントとして入っているのもカフェやマッサージ店、オカマバーやボクシングジムといった業種だ。ここで寝起きをして生活するには足りないものが多かった。たとえばキッチンはついていないし、配管は剝き出しだし、浴槽もシャワーも部屋になかった。
 でもそれを不便と考えるかどうかは住人次第だ。
 和真は自炊をしないし、配管はインテリアだと思っているし、コインランドリーと銭湯はこのビルの真裏、歩いて三十秒の場所にあった。たまに下のフロアに入っているオカマバーから客の騒ぎ声がきこえてきても、若い頃から繁華街で働いていた和真には親しみさえ感じられた。
 この環境を嫌ってはやく創馬親子が出て行かないかと当初は期待していたが、三週間が過ぎたいまも彼らが気にしている様子はまったくない。とくに風呂に関してはむしろ銭湯へ行くことを喜んでいるふしすらあった。
 この部屋にやってきた最初の週末に、創馬が月子を連れて近所の「千代の湯」へ行くと、彼女はいままで見たことのない巨大な浴槽に大喜びしたらしい。いつも無愛想にしている番台の婆さんも月子には甘いようで、平日に月子がひとりで銭湯に行くとかならず飴だのガムだのといった菓子を渡していた。
 一風呂浴びて、タオルを首にかけたまま外に出る。
 狭い路地裏の上空、冬にさしかかろうとしている青空はどこまでも透明だった。吐く息は白く、冷えた風が心地よかった。昼間から銭湯で風呂に浸かれるのは自営業の特権だろう。
 釣り堀を探しながら世田谷通りをふらふらと散歩して帰ってきたときに、スーパー「肉のハナマサ」の前を通った。ふとその視界のなかに「バッティングセンター入口」の黄色い看板が目に入る。スーパーの脇にあるその入り口は一見するとただの非常階段で、幅は扉一枚分もなかった。通りを歩いているだけでは見落としてしまう地味な作りだ。
 気がついたときには階段をあがっていた。
 直線的で、ひどく錆びついた急階段。
 一段一段昇っていくと、途中から急に螺旋階段に切り替わる。まったく、誰がこんな奇妙なデザインにしたんだろう。進んでいくうちに、自分がどのあたりまで昇ってきたのかがわからなくなる。
 苦労して数十段を昇り切ったその先に現れるのは、たった三打席しかない、冗談みたいなバッティングセンターだった。想像していたよりもさらに小さい。
 入り口にあるレジの奥で店主らしき男が雑誌を読んでいる。バッターボックスの前には二百円と張り紙が貼られていた。昭和の値付けだ。両替機も扇風機も目につく設備はどれも古い。ベトナム戦争の時代からこの街にあるという話をきいたことがあった。階段を昇ったときにそのまま時間を飛び越えて来てしまったかのような不思議な場所だった。
 さすがに真っ昼間のこの時間に、スーパーの二階でバットを振っている人間はいなかった。
 ポケットに手を突っ込んで小銭を確かめてから、レジ前にある軍手を一枚取り出した。バットを握ったのなど何年ぶりだろう。打席に入ると、目前にマンションのベランダが迫って見えた。苦情が出ないか心配になるほどの距離だ。
 軽く素振りをしてから、二百円を投入する。
 ぶん。
 という音がした瞬間に時速百キロの白球が目の前を横切っていく。バットがかする気配もなかった。結局、はじめの打席ではバットに球を当てるのが精一杯で、たったの一球も前に飛ばすことはできなかった。気づけば風呂上がりのからだが汗だくだった。
 かろうじてヒット性とよべるような打撃ができたのは三打席目だ。軍手越しに響く時速百キロの重みが手のひらにじんじんとした痛みを残した。せめて一球くらいはホームランを打って帰りたい。いつの間にか夢中になっていた。隣のバッターボックスに誰かが入ったことにも和真はしばらく気がつかなかった。
「へたくそ」
 三球連続して空振りをしたときに背後から声が聞こえた。振りかえると智子が目を細めてこちらを見ていた。グレーのワンピースに、薄手だが高級品だと一目でわかるコートを肩にかけている。夜も働いているとはいえ、求職中の元派遣社員にしては羽振りが良さそうだ。
 和真は新たに二百円を投入し、次の球に備える。
 かきん。
 うすい金属を割るような気持ちのいい音とともに白球がホームランゾーンに飛び込んでいった。残念ながら和真の球ではなかった。もういちど智子を振り返る。ハイヒール姿の彼女は睨むように正面を見据えていた。奏太が言っていたこともよくわかる。たしかに彼女の立ち姿は印象的だ。そもそもワンピース姿の女がバットを握っていること自体が異様であるにもかかわらず、バットを垂直に立ててタイミングを計っている彼女のフォームは不思議なほど自然だった。次の一球に集中している彼女の横顔は透き通って美しい。ぶん、と投球マシンがうなった瞬間にバットを鋭く振る。ぴたりとタイミングの合ったスウィングによって、白球は一直線にホームランゾーンへと運ばれていく。
「あんたこの前、飲み屋で私の下着見てたでしょ」
 そう言ってうざったそうにこちらを見やった。
「青でしょ」
「黒よ」
「知ってる。てか、あんだけ酔ってたのによく覚えてるね」
「そんなド金髪、久しぶりに見たから。言っとっけど、ダサいよそれ」
「それは知らなかった」
 和真は自分の投球マシンに向かう。ぶん、という音にバットがついて行かない。白球はキャッチャー代わりのボードにあたって足下に転がった。
「腰がはいってないのよ」
 かきん、と後ろの打席からホームランが出る。
「ほっといてくれないかな」
「そんな下手くそなのにバット振ってて楽しいの?」
「ばーか。楽しいわけないだろ」
「ならなんでこんなとこ来てんのよ」
「あんたがいるかと思ったから。智子さん」
 直後に投球マシンが唸った。はじめて智子は直球を見逃した。あはは、見逃してやんの、と茶化しても彼女は乗ってこなかった。
「……あんた、誰よ」
「大坪和真。この近くで店やってる」
「それがなんで私のこと知ってんのよ」
「奏太から聞いたんだよ」
 智子はネットの向こう側にある狭い空をしばらく見あげた。気を取り直したようにバットを構えてボールに叩きつける。かきん。見なくてもホームランだとわかる音だった。
「奏太、なにか言ってた?」
「あいつ、あんたと結婚する気でいるよ」
「だからなに」
「どのみち他に本命の彼氏いるんだろう? 高校生からかってなにが楽しいんだよ」
「ばーか。楽しいわけないでしょ」
 そう言って彼女はバッグから小銭を取り出す。二百円を投入すると、またバッターボックスに戻った。
「ならなんで奏太をからかう」
「…………」
「あのな。あんたが仕事に困ろうが男に困ろうが関係ないけど。でも奏太に自分の後片付けさせようとすんなよ」
「……あんたなにを知ってるの、よ」
 智子のバットが宙を切る。
 やっぱりな。そう思って奥歯を嚙んだ。奏太もとんでもない女にひっかかったもんだ。バットを構えるのをやめた智子をまじまじと眺めた。二十代前半だと言っても通じるような、肌の綺麗な女だった。おそらくこの女には悪意がない。だからこそ見分けにくい。とくにまだ十代の若い男にはまったく歯が立たないはずだ。
「ま、自分のケツは自分でふきなよ」
 じゃあね、と言ってバッターボックスから出た。
「ちょっと待ちなさいよ。カズマって言ったわね。なんの店やってるの」
「プラネタリウム」
 へぇ、と小声で呟いた智子は、まだ投球のつづいているバッターボックスから出ると横にならんで和真を見あげた。
「面白そうじゃん」
 コートに手を通すと智子は和真よりも先に階段を降りていった。

     ☆

「こんなとこに、よく作ったわね」
 ドームスクリーンを見あげた智子が言った。
「たまたま物件があったの」
 いつもの和真の決まり文句を月子が代わりに答えた。月子は律儀に頭を下げて智子に挨拶すると、客席に戻って読みかけだった自分の本を開いた。
「このビル、どこもこんな天井高いの?」
「まさか。この部屋だけだよ」
「え、天井ぶちぬいたの」
「その逆。上の部屋の床が抜けたらしい。ま、このあたりで一番古いビルだからなあ。それ以来借り手がいなかったらしくて家賃も格安なんだよ」
 智子は不安げな表情で足下を眺めるとおそるおそるヒールの踵で床を叩いた。
「和真、金髪のくせに子供いんの?」
「髪の色は関係ないだろ。それに僕の子じゃない、姪っ子だよ。弟の娘だ。月子が奏太をここに連れてきたんだ」
「ふぅん。ね、月子ちゃん、お姉ちゃんの隣すわんない?」
 カウンターから智子が笑顔で呼びかける。だが月子は読んでいる本から顔を上げると「あとでね」と答えただけですぐに視線を落とした。
「かわいくないわね」
「人を見る目があるんだよ」
 そう言って和真はカップをカウンターに出してコーヒーを淹れる準備をする。「ちょっと、アルコールにしてよ」と智子がバックバーを指したが無視して電子レンジで湯を沸かす。
「……ねぇ、奏太はほんとうに就職するって言ってたの?」
「言ってたよ。本気だった。それで父親と喧嘩になったらしい。顔にひどい痣を作ってたよ」
「だから最近連絡ないのかぁ。ひどい父親よね。小学生の奏太が口答えしただけでフルボッコにして学校一週間休ませたんだって。奏太、父親だけにはビビッてるんだから」
「それなのに親父に話したんだ。真剣なんだよ。就職して金を稼げるようになれば、あんたを養えると思ってる」
 和真がコーヒーを出す。
 この女は、奏太を売り飛ばそうとしている。おそらく借金を抱えているのだろう。智子が紹介したという会社はヤミ金のはずだ。どこだって優秀な人材は常に求められる。勉強ができ、地元で悪童を束ねているイキのいい奏太と引き替えに、智子は自分の借金を棒引きにしようとしているのだ。奏太が気づいたときには智子は高知へと戻っている。これは就職斡旋という名の人身売買だ。奏太は彼女の借金を返すまでタダ働きすることになるのだろう。そのあいだにヤミ金は仕事のしかたをみっちりと仕込める。似たようなやり口を和真は別の街でなんども見てきた。
「和真、どこまで知ってんの」
 智子が頰杖をついて湯気を頰に当てた。
「不倫の話かな?」
 あぁそれも知ってるのね、と彼女は肩をすくめる。
「いずれにせよ、奏太に言っても無駄よ」
 ぞっとするほど綺麗な笑顔だった。彼女の言う通りだろう。たとえ危ない就職だとしても、奏太自身が彼女を養いたいと思っているのだから。
「ねぇ、結局誰かは誰かを騙してる。そうじゃない? 奏太だって若いうちにそういうのを知っておいた方がいいわ。それからでもじゅうぶん、人生に間に合うしね」
「自分勝手だなぁ。自分は不倫も借金も捨てて、身軽に地元に帰るんだろう? 残るあいつはどうなるんだよ」
「さぁ。でもこれできっと大人になるんじゃない? 私のおかげ」
「あのね。間違いなく、あんたじゃ奏太を大人にできないよ」
 どういう意味よ、と嚙みつくように智子が言う。
「そんなの自分で考えなよ」
「あっそ。いずれにせよ奏太は平気よ。東京に住む家もあるし、躓いたっていつでもここで出直せるからね。私みたいに田舎に帰る必要もない」
「だから騙していいのか」
「和真に私の気持ちなんかわからないっつーの」
「なんだよそれ」
「あんたにも奏太にもぜったいにわかんない。東京で生まれ育った人間には、苦労しなくても居場所がある人間にはぜったいに理解できないよ。私たちはね、ここにいるためには、自分だけの力で居場所を作らなくちゃいけないの」
「でも奏太じゃなくてもよかったはずだ」
 智子はコーヒーをじっとのぞき込む。
 やがて深く息を吐くと背筋を伸ばしてこちらを向いた。
「ちょっと、どうせだからプラネタリウム見せてよ」
「じゃあ月子に頼むんだね。あいつ、いま本読んでるんだし」
 むっとした顔を見せたが、すぐに笑顔を作って月子に振り返る。
「月子ちゃん、お姉ちゃんと一緒にプラネタリウム見ないー?」
 顔をあげた月子はじっと智子を見ていたが、やがて「いいよ」と本を閉じた。智子が客席に移ると和真は遮光窓を閉じて室内の照明を落とした。
「お父さん、あのお話のつづきして」
「ちょっと和真、この子お父さんって呼んでるじゃない」
「話すと複雑なんだよ。月子、どの話のつづきだよ」
「オリオンさん」
 あぁ、あれか、と呟いて和真はコンソールに手を伸ばし今夜の星空をドームに映した。周囲の照明が落ちていく。目が慣れる頃には客席は星々に包まれている。
「オリオンってあのオリオン座?」
 そう、と言ってレーザーポインタで鼓状の星座を指し示した。
「海神ポセイドンの息子。超絶美男子の巨人だ」
「巨人ってのが惜しいわね」
 そのとおり、と背伸びをすると、自分も客席に座ってドームを眺めた。

「……で、シーデーが地獄にたたき落とされた後、しばらくオリオンも落ち込んでいたんだけど、またすぐに別の女と出会うんだよ。アルテミスっていう月の女神で、ゼウスの娘なんだ。これがまた信じられないような美人なんだよな」
「ほんと男はそればっかね」
「そればっかなの?」
 首をかしげる月子に「まぁ、そればっかだ」と和真は苦笑した。
「ただオリオンとアルテミスは趣味が合ったんだよ。アルテミスは月の女神であると同時に、狩猟の神でもあるんだ。狩りの腕が抜群の二人は狩猟場で出会ってさ、才能を認め合って意気投合したってわけ。どっかの二人がバッティングセンターで出会ったようなもんだ」
「素敵な話じゃない」
「ここまではね。とにかく趣味の合った二人の距離は急激に近づいていく。
『オメ、女のくせにすげーな』
『ちょっとなによ女のくせにって、あんたに負ける気すらしねーし』
『へぇ、ならあの雉子を落としてみろよ』
『そんなの目をつむっても狩れるっつの』
 て具合で狩猟場で技術を競いながら二人は毎日のようにデートを重ねていった。アルテミスもオリオンに負けず劣らずヤンキーノリで、馬の合う彼らはすぐに恋心が芽生えたんだ。日に日に狩猟場に行くのが楽しみになってくる。熱しやすいオリオンなんかすぐに結婚を意識したくらいだ。というか『もう今すぐ結婚して一生離さない!』とか思ってるんだよ」
「…………」
「ところが、アルテミスには問題があったんだ。彼女の仕事は『月の女神』『狩猟の女神』であることに加えて、もうひとつ。『貞操の女神』でもあったんだよ。もちろんセックスなんてもってのほかだ」
「ちょっと、子供の前でなに言ってんの!」
 驚くほど大きな声で智子が叫んだ。
「なんだよ、意外なところで真面目だなぁ。僕、子供の扱い方知らないんだからしかたないだろう」
「セックスってなあに」
 ほら、と智子が呆れた。
「コミュニケーションのひとつだよ。裸で抱き合うんだ。たまに子供も生まれる。あとは創馬に聞いといて」
 わかった、と言って月子はまたドームを見あげる。
「とにかく、二人の関係はプラトニックなままなんだけど、アルテミスも恋に落ちてしまったもんだから、オリオンの肌に触れたくなる。そのことに気づいたのがアルテミスの双子のお兄さん、アポロンだ」
「聞いたことあるわそいつ」
「アポロンとアルテミスの双子は、大神ゼウスの子供でスーパーエリートなんだ。アルテミスは月を司っているけれど、アポロンは太陽を司る太陽神。で、エリートを自任している兄貴としては、貞操の神をやってる妹が恋にうつつを抜かしていて気が気じゃないわけだよ。オリオンのことを熱っぽく話している妹にだんだんイライラしてくると、
『あの巨人、そろそろ目障りになってきたなぁ』
 って背伸びをして家を出たんだ」
「え、どうしたの?」
「寝てるオリオンの枕元に蠍を放ったんだよ」
「えーっ!」
 反響するくらいの大声で智子が叫んだ。むしろその声で月子が驚く。
「なによ超いきなりじゃん! いきなり殺すの!?
「まそういう奴なんだよアポロンは」
「どういう奴よ!」
「知らないよ会ったことないし。とにかく、オリオンはなにも知らずに熟睡してる。その枕元で蠍は巨人を見あげてる。
『この巨人のどこ刺したらウケっかなー』
 そんなことを考えながら蠍はベッドをウロウロしていたんだけれど、そのうちにオリオンが物音に気づいて目覚めるんだ。
『あ、サソリさんだ。……って、ぎゃーっ!』
 当然彼は驚いて、慌てて部屋を飛び出した。
 一度も振りかえることなく海まで全力疾走だ。蠍が追って来れないように島から海へと逃げ出したんだよ。だから夜空に蠍座があがってくると、オリオン座は逃げるように沈んでいくんだ」
「へぇ」
「彼は眠る前まで『一生離さない!』とか思ってたはずのアルテミスを残して、海の奥へ奥へと進んでく。なんせ海は自分の父親、ポセイドンの縄張りだからね。彼にとって一番安全なんだよ。しかもオリオンは巨人すぎて海底に足をつけても海面に頭が出るんだ。呼吸の心配もない。まさに衝撃の巨人だよ。
 で、一方アルテミスはそんなことも知らないまま、いつもみたいに狩猟場でオリオンを待ってたんだ。でも約束の時間になってもオリオンが現れない。
『あのバカ、おっせーな。狩りは一日休むと勘を取りもどすのに三日かかるからな。これであと三日はあたしの勝ち確定じゃん。もう……はやく会いたいのに』
 なんて考えながらアルテミスは弓を構えると、雉子に狙いをつけて弓を引き絞った。でも指を離す瞬間にオリオンの笑顔がすっと頭を過って矢は外れてしまうんだ。乙女だよね。ちょうどそこへポケットに手を突っ込んだアポロンが現れる。彼は一発で仕留められなかったアルテミスのことを指さして笑った。
『お前恥ずかしいなぁ。身長だけが取り柄みたいなアホを相手にしてるからだよ。そんなんで狩猟の神やってられる神経が僕には信じられないな』
『なんだと? あの雉子の横っ面がアニキに似てたから逃がしてやったんだよ』
『またまた。言い訳ですか狩猟の神が。もう辞めちゃえば、そんなに下手くそなんだしさ、あはは』
『ちょっと! あたしに射抜けないものなんてないっての!』
『いくらアルテミスでも当たらない的はあるさ』
『もしもしぃ? なに言ってくれてんの? あたし何年狩猟の神やってると思ってるわけ?』
『へぇ、じゃああれにも当てられるのか?』
 とアポロンが顎で指した先、海の水面の上に、黄金に輝く球体があった。まるで小さな太陽が浮かんでいるようで、周囲の海一帯までもが眩しいくらいの金色に輝いていたんだ。
 でも太陽神アポロンが的に選んだのは、ほんとうはオリオンの頭だったんだよ。太陽の神様だけあってアポロンは陽の光を自在に操れたんだ。彼は海に反射した太陽の光をオリオンの頭に集めて黄金に煌めかせてたってわけ。
 もちろんアルテミスはそのことを知らない。弓を構え、顎を引いて、狙いをつけるときりきりと弓をめいっぱい引き絞ったんだ。こんどこそ狙いを外さないように息を吐いて、止めて、放つ。
 ズゴッ!
 ていう音とともに、アルテミスの矢はオリオンの脳天に突き刺さった。その瞬間、海を金色に照らしていた光が水面に吸い込まれるように消えていってさ。それまでがあまりに眩しかったために、光がなくなるとまるで世界中が夜に包まれるかのように暗くなって見えたんだ。
『噓……』
 目が慣れてくる頃に、アルテミスはようやく自分が騙されていることに気づいた。自分の放った矢が、オリオンの額から痛々しく突き出ていた。
『アンタァ! アンタァァア!』
 その場で崩れ落ちたアルテミスは、胸が裂けるような悲痛な声で泣き叫んだ。でもどれだけ叫んでも、もうオリオンは戻ってこない。さっきまで輝いていた海も漆黒に変わって、愛しいオリオンを飲み込んでいった……。
 あまりの出来事に、月の女神アルテミスは悲嘆に暮れる。
 やがて彼女は父親に面会を求めると『せめて私が月へ仕事に行くときだけでも、彼に会わせてください』と懇願した。父親の大神ゼウスは全能の神だからね、その気になればたいていのことは実現できちゃうんだよ。面倒くさそうに話をきいていたゼウスも、なんだかんだ娘には甘いもんだから、
『もーしかたないなー』
 って言って首のつけ根を搔きながら、死んでしまったオリオンをさらっと星に変えてしまうんだ。そして娘の望む通り、その星を月の軌道の近くに置いてあげることにした。だからアルテミスはきっと今でも、自分の手で殺してしまった恋人を月から眺めてるんだよ」

 和真は立ちあがるとカウンターに戻ってぬるくなったコーヒーをシンクに流した。すぅすぅという月子の寝息が聞こえる。智子はまだそのままの姿勢で客席からドームを見あげていた。
「……アンタァって、どこの任俠映画よ」
「いいだろ、僕のイメージではアルテミスはそうなんだよ」
「ていうか、神様の言葉づかい悪すぎじゃん」
「だから僕のイメージではそうなんだって。そっちのほうが人間味あるだろう?」
 智子はスクリーンを見あげたまま息を吐いた。
「……私、オリオン座のことなんてぜんぜん知らなかったわ」
「全天には八十八の星座がある。そのうちの四十八星座は二千年くらい前にプトレマイオスっていうローマ人のオッサンによって制定されたものなんだ。その四十八星座はどれもギリシャ神話と深く関わってる。ギリシャ神話に出てくる神様は嫉妬するし、噓をつくし、やたらとみんな人間くさいんだよな」
「ねぇ和真、ひとつききたいんだけど」
 なんだよ、とグラスを出してサーバーからビールを注いだ。
「オリオンははじめからアルテミスを置いて島から逃げるつもりだったの?」
 智子はからだを起こしてこちらを向いた。
 唇についたビールの泡を手首で拭って「さぁね」と和真は笑った。
「いくら気が動転してたって、島から逃げ出すならアルテミスのこと思い出すと思うんだけど。あんだけ好きって言ってたわけでしょう?」
「僕もそう思うよ。でもオリオンは、そのまま海へ進んでいった」
「大切な人を置いて行くくらい恐かったってこと?」
 あるいはと、頰杖をついてドームを見やった。
「はじめから、大切な人なんていなかったのさ」

     ☆

 十一月も終わりに近づくといよいよ寒さが本格的になってきた。
 どれだけ戸締まりをしても星座館にはどこからか外気が入ってくる。この古いビル自体に隙間だか穴だかが空いているのかもしれない。それでも和真は電気代節約のために営業時間外は暖房をつけず、室内でもユニクロのダウンジャケットを着て過ごしていた。創馬は筋肉で麻痺しているのかもしれないが、月子にはそろそろ寒さも厳しいだろう。娘に防寒着を着せたらどうかと創馬に訊くと、ボストンを発つときにかさばる物は処分してきてしまったと答えた。その翌日、彼は驚くほど軽いグースダウンのジャケットを抱えて帰ってきた。これなら月子も風邪をひくことはなさそうだが、最高級のダウンジャケットを買えるならまず自分たちの部屋を探したらどうだと言いたくなる。弟はまだ当分この星座館に居候する気のようだった。

 智子が東京を離れたらしい。
 そう聞いたのは彼女が星座館を訪れてから数日後のことだ。
「フラれた」
 星座館を訪れるなりドクターペッパーを一気飲みした奏太が、唇を嚙んでそう言った。いままでありがとう、じゃあね、というメッセージだけが届き、それ以降連絡が取れないらしい。池尻にある彼女の部屋は引き払われていて、間もなく携帯電話も解約されたという。
「なにがなんだか、わけわかんねぇよ。べつに喧嘩したわけでもねぇし、最後に会ったときだって俺が働きはじめた後のこと話してたのによ」
「就職は?」
「……もうしても意味ねぇだろ」
 そうだな、と和真はビールを注いだ。
「俺が子供だったからか? 俺、遊ばれてたのかよ」
「しらないよ。それに子供でもいいだろう。実際に子供なんだし」
「うるせぇ」
「いまから大学行けるなら行けよ。智子以上にいい女に出会えるかもしれない」
「そんな女いるわけねぇだろ。智子より好きになる女なんて現れない」
 拳を握った奏太は唇を嚙んだ。
「アホ、智子が最後じゃないよ。いいかい。『いちばん好きな女』は今後も山ほど現れる、現れつづけるよ。奏太が大人の男になるまでね」
「はぁ? じゃあ大人になったら?」
「もう現れない」
 わけわかんねぇって、と奏太が口をとがらせる。
「大人の男っていうのはさ、自分の人生でいちばん誰が好きだったのかを、決められた奴のことだから」
「いちばん好きだった? なんで過去形なんだよ」
「そういうものは、過去形でしか語れないんだ」
 奏太は無言のまましばらくドクターペッパーの缶を見つめていた。やがて首を振ると、やっぱわかんね、と呟いた。
「まだまだ奏太は子供だよ」
「和真さんだって同じだろ」
「なに言ってる。僕はもうじゅうぶんに大人だ」
「いちばん誰が好きだったか、もう決めたんだ」
 そうだね、とビールの泡に唇を沈めた。
 じっとこちらを見ていた奏太にも、小さなグラスにビールを注いだ。
「飲むか?」
 眉をひそめた奏太がグラスに口をつける。おそるおそる飲み込んだ彼は、マズ、と言って顔をしかめた。
「そろそろ買い出し行くよ。月子に星座の話でもしてもらってな」
 客席で本を読んでいた月子がぱっと笑顔になって振り返った。
「オリオンさんのお話のつづき、ききたい?」
 きっと覚えたばかりの話を誰かにしたくてうずうずしていたのだろう。しかたねぇな、と奏太がカウンターから立ちあがった。

     ☆

「私だって、あと一年長くつづけられたら、どうなってたかわからなかった」
 あの日、ため息混じりに智子は言った。
 智子が東京に出てきたのは二十歳のころだった。
「モデルなんて地方じゃ仕事ないしね。若い子は東京出てきて一か八かの勝負するしかないの」
「でもちゃんと雑誌に出てたってきいたけど」
「そりゃ一時期はね。あの頃は楽しかった。とくべつお金があったわけじゃないけど、仲間も多かったし、仕事はあったし、将来は成功するって根拠なく信じられたから。きっとテレビに出るようになって、演技をするようになって、洋服をデザインするようになってとか、脳天気に考えてるだけで一日が終わってた気がする。ほんと、自分がなんにでもなれる気がした。
 でも東京でモデルなんかしてても、いい暮らしをつづけられるのなんてほんの一握りの人間よ。そのうちに仕事も減ってくるでしょう? それでもつづけるしかない。役者も音楽もそう、ああいう仕事はネバリ勝ちだから」
「ネバリ勝ち?」
「それまでぜんぜん有名じゃなくてもある日偶然受かったオーディションからとんとん拍子で売れっ子になることがあるのよ。だから東京出身、いや首都圏出身の子ははじめからアドバンテージがあるわけ……」

 地方から東京へやってきた若者は、家賃を稼ぐぶんだけ多く働かなければならない。時間をバイトにあてるぶん、オーディションやレッスンの機会を失っていく。だが首都圏に実家があれば、金がなくても雨風はしのげる。昔仲が良かったモデルの友人のうち、女優や俳優に転身して成功した人間が何人かいたが、彼らはみな首都圏出身だった。智子が生活のためにバイトに割く時間を日に日に増やしていった頃も、彼らにはいままで通り演技レッスンに通う時間があった。そこで拾える人脈があった。彼らには電車に乗って帰れる実家があり、その食卓には温かい食事があった。
 二十七歳のとき、それまでぽつりぽつりとつづいていた仕事が完全に途切れ、オーディションの書類選考にも通らなくなった。苦渋の決断だった。智子は芸能界をあきらめ、それまで割のいいバイトとして働いていたキャバクラで本格的に働くようになった。
 数年前に昔の友人の一人が、偶然店にやってきた。
 神田で大手スポーツ用品店を経営している家の長男だった。彼は三十近くまで売れないまま俳優を目指していたが、金には不自由していなかった。その頃には地方から出てきた役者や音楽志望の仲間たちのほとんどが、もう夢をあきらめ田舎に帰るか、バイト先で就職するかしていた。だがこの街で生まれた彼はろくにバイトもしなかった。ちいさなオーディションを受けつづけ、たまたま出演した番組で体の柔軟さが注目され、それがきっかけで独自のストレッチ方法をダイエットビジネスにして売り出すことに成功していた。人はなにが転機になるかわからない。
 あと一年。たったあと一年、夢をあきらめなければ成功したかもしれない才能有る人間は山ほどいたはずだ。でもみんな生活に追われ、夢を手放してきた。結局は粘った人間の、手放さなかった人間の勝ちなんだ。
 自分には、それができなかった。
 智子の働く店にやってきた彼は、彼女に気がつくと歯を見せて笑いかけた。
 きっと悪意はなかった。でも智子にはその笑顔が、夢にしがみつく握力のない人間を笑う顔に見えた。悔しさと恥ずかしさでいっぱいで、それでも接客しなければならなかったときのあの屈辱的な気持ちは昨日のことのように思い出せた。その夜は浴びるように飲んだ。
 翌朝、気がついたら彼の隣で裸で眠っていた。
 彼が結婚していることを知ったのはそれから一ヵ月もあとのことだった。

「……言いたいことがありそうね」
 いや、と和真は唇を結んだ。
「自分でもどうしてかわからないのに、好きになっちゃうことってあるでしょう?」
「恋愛なんて、たいていそんなもんさ」
 智子は長い髪に指を通して「そうね」とだけつぶやいた。

 彼との恋愛が結婚に辿り着かないのは、きっとはじめから知っていた。いつかは終わらせよう、と決めていたのに何年も引きずってしまったのはなぜだろう。まだ自分がなに者にでもなれる気がしたあの頃を思い出せたからだろうか。
 智子の昼の仕事はいつも長くつづかなかった。理由は様々だったが、結局は組織に向いていないのだろうと智子は思った。数ヵ月前に上司からセクハラを受け、会社に訴えたが自分が契約解除された。もうすべてを捨てて東京を離れようと思った。一切合切を、この土地に捨てて行こう。大したものは持っていない。この街に十五年住んでいて奪われたものは山ほどあるが、捨てるのに惜しいものなどなにもなかった。
 ただ、やっかいなのは数百万の借金だ。東京に来て以来、日常的に消費者金融から金を引き出しては給料日に返済をしていたが、近年は取り立ての厳しい高利貸しにまで手を出していた。新しい生活をはじめるなら、この借金も捨てて行きたい。そんなときに以前取り立て担当の若者からきいた名義書き換えの話を思い出したのだ。
 奏太を見つけたのはたまたまのことだ。
 ある日、店に向かう途中で数人の男が喧嘩している側を通った。すでに勝負はついていた。一人の学生のまわりに三人の男が倒れていた。彼らの鞄には大学のアメリカンフットボールのチーム名が印刷されていた。
「お前、覚えとけや。ぜってぇ後悔させたるわ!」と怒鳴ったのは倒れている方の男だ。標準語以外の怒鳴り声を久しぶりにきいた気がした。土佐弁とアクセントが近い関西弁は、高知の記憶を呼び起こさせる。一瞬、胸が詰まるような郷愁を覚えた。それまで黙って立っていた男の子が一歩、関西弁の男に近づいた。ブレザーの制服のよく似合う、いかにも都会的な雰囲気の男の子だった。「関西人? つーかさ、なに言ってんのか、わかんねぇし」と男の子は軽蔑しきった目で、倒れてる男を見下ろした。
 まるで自分が見下ろされているような気がした。
 借金をどうやって捨てるかを決めたのは、彼とバッティングセンターで出会ったときだった。

「ひどいな。それだけなの?」
「そうね。ひどいわね」
「たしかそれ、友達の代わりに喧嘩になったって言ってたやつだよ」
 淹れなおした熱いコーヒーをカウンターで啜ってから、彼女は天井を見あげた。
「あの子はいい子だったわ」
 そんなの知ってるよ、と和真は笑った。
「すくなくとも、あいつはあんたのことを真剣に想ってた」
「ねぇ、和真。さっきオリオンは、はじめから大切なものなんかなかったのかもって言ってたじゃない」
「うん」
「私もそうなのかな」
「さあね」
「高知に帰る電車のなかで、私、誰かを思い出すかしら」
「思い出したなら、また戻ってくればいい」
 コーヒーカップを置いて智子が立ちあがる。
「誰かの矢が頭に刺さる前にね」
 そう笑った彼女は、ごちそうさまとコートを羽織った。

     ☆

「そうか奏太は振られたか。でもよかったな、就職決める前で」
 月子と手をつないでいる創馬がうなずいた。
 晴れた土曜日の昼だった。
 今日は大学が休みだという創馬と一緒に三人で中華を食べ、その帰りに近くの緑道をのんびりと歩いた。通りには子供だけでなく、犬連れの家族やカップルの姿が目に入る。冬を間近に控えた透明な陽光が、路地にくっきりと樹々の影を映していた。
「でももし奏太が就職したら、それだけで借金がちゃらになるもんなのか」
「まさか。マルっと奏太に借金を肩代わりさせるつもりだったんだよ。奏太はその借金を返すまでタダ働きすることになる」
「へぇ。じゃ、いま智子は借金を背負ったまま逃げてるのか」
「そうなるね」
「東京から矢が飛んでいかないといいけどな」
 月子が手を大きく振り、それに合わせて創馬の手も大振りになる。月子は和真にも手を伸ばしたが、なんとなく避けてポケットに自分の手をしまった。
「あ、そうそうこれ。家賃な」
 創馬が思い出したようにポケットから封筒を取り出した。
「いらないよ。そのかわり早く出て行ってくれ」
「ま、そっちはそっちで探してるからさ。受け取ってくれよ」
「いらないから僕の平和な生活を戻してくれ。だいたい奏太だって月子が連れてきたんだし」
「そう言うなよ、どうせ店に客、入ってないんだろ」
 ちっ、と舌打ちしてその封筒を受け取る。中身を確認すると福沢諭吉が十人揃っていた。あの立地の家賃としては妥当であるところがまた憎たらしかった。だがおかげで今月はすこし余裕が出る。しぶしぶ、といった感じで和真は家賃を頂戴した。
「奏太のこともありがとな」
「なんで創馬が感謝すんだよ」
「なんでって。月子の友達だから助けてやったんだろ」
「……別に僕はなにもしてないよ」
 もういちど舌打ちする。
 三人の脇を子供たちが追いかけっこをして走りすぎていった。
「しかしその智子って女、まったく反省しなさそうだな」
「そうだね。最後まで東京に出てこなければ良かったって言ってたし」
「でも、奏太に会えた」
 そう言って月子が和真の顔を見あげる。
 そうだな、と両脇の男は同時に笑った。
「私は東京に来てよかった。お父さんが増えた」
「だからお父さんじゃない。そしてはやく家を探せ」
 そういう和真のダウンジャケットの裾を月子がつかむ。創馬がこちらを向いてにやりと笑った。
「ほんとうは月子と手、つなぎたいんだろ」
「つなぎたくない」
「なんで。一緒につなごうよ、お父さんも仲間にしてあげる」
「創馬、帰りに不動産屋に寄るからね」
「それよりも布団屋にいくワ。そろそろ掛け布団を替える季節だ」
 吐く息が白かった。
 和真が見あげた青空に、うっすらと冬の月が浮かんでいた。


*本書の続きは『三軒茶屋星座館 1 冬のオリオン (講談社文庫)』でお楽しみください。




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