【ファンタジー】『魔法使いの息子』
文字数 2,102文字
【2021年3月開催「2000字文学賞:ファンタジー小説」受賞作】
魔法使いの息子
著・土井紀和
魔法使いはほっそりとした長身で、黒い髪、物憂げな黒い瞳の持ち主だった。
皺ひとつない美しい顔はだいぶ若く見えたが、老人のような落ち着きがあり、実際の年齢はわからない。両指を顎の下に組み合わせて考え事をするのが彼の癖だった。その左手の小指は、第一関節から欠けていた。
物心ついた時から、リフは魔法使いと暮らしていた。魔法使いが父親なのだろうと、リフは漠然と思っていた。二人はよく似ていたのだ。
リフが十歳になった時、魔法使いは言った。
「おまえも魔法使いになりたいかい」
「もちろん!」
病気を治したり、干魃の時には雨を降らせたり、人々のために魔法を使う彼はリフの憧れだった。
魔法使いは、魔法校への推薦状を書いてくれた。
「ぼく、きっと魔法使いになって戻ってくるよ」
魔法使いは、優しく微笑んだ。
「おまえ次第だ」
魔法校は、帝国の中央を流れる大河の中洲にあった。
中洲で暮らす学生は、みな各地の魔法使いに推薦された精鋭たちだ。しかしそれでも訓練についていけず、悲嘆にくれて中洲を去る者は多かった。
魔法の知識をすべて身につけた学生を待っているのは最終試験で、それは学校の〈塔〉で行われた。〈塔〉に入った者は、二度と出てくることはない。合格したものは魔法使いとしてそのまま中洲を去り、不合格の者は命を失うとささやかれていた。
中洲に来て十年目に、リフは最終試験の呼び出しを受けた。
螺旋階段を上り、〈塔〉の最上階にある試験室の黒く重い扉を開いた。
ふいに冷たい風が頬に吹きつけた。
そこは部屋の中ならぬ、荒野のただ中だった。空は灰色に陰り、地平遥かに尖った山々の稜線が見えた。
目の前に、巨大な亀裂がはしっている。細い板が向こう側に掛け渡され、三人の教授たちがその先に立っていた。
「ここまで来なさい、リフ」
離れているのに教授の声ははっきりと聞こえた。
「ただし、魔法は使わずに」
これは目くらましの魔法なのだろうか、とリフは考えた。塔の中にこんな広い空間があるわけがない。いや、それとも教授たちがリフを別世界に連れ込んだのか。
どちらにしても、試験はもう始まっている。リフは板に足をかけた。両足をそろえてやっと立っていられるだけの幅だった。リフの重みで橋がたわんだ。板の下は、底知れぬ深淵だ。
魔法を使えば簡単なのに。空間移動や足を宙に浮かせて進むこともできる。だが今は恐怖と戦いながら慎重に歩を進めるしかないのだ。
ずっと足下ばかり見ていたので、板がさらにたわんだ時には驚いた。視線を上げると、怯えきった子供の顔があった。まだ五才ほどの男の子だ。身動きもできず、数歩先の板の上に立ち尽くしている。
これも試験なのか。
教授たちのもとに行くには、子供をなんとかしなければならない。しかも、魔法を使わずに。
「大丈夫だ」
リフは、子供に言った。
「一緒に渡ろう。動かないで」
リフは、手を伸ばした。だが子供は首を振って後ずさりした。小さな足が、ずるりと板から滑り落ちた。
子供の悲鳴は長く尾を引き、奈落へと吸い込まれていった。
その後、どうやって教授たちのところに行ったのか憶えていない。橋を渡り終え、がくりと膝をついたリフに教授の一人が言った。
「よろしい、行きなさい」
リフは、故郷の家に帰った。
魔法使いは病気だった。
リフは、寝台に横たわる自分と同じ顔の魔法使いを見つめた。
「あの子に会ったな」
「ええ。でも助けられなかった。魔法を使わなかったから」
「今でもあの子の顔が目に浮かぶ。魔法使いになる試験だというのに、馬鹿な話だ。私は、魔法を使ってはならぬという思いにとらわれていた。何もできなかった」
「ぼくたちは、魔法使いになるためにあの子を見殺しにした」
リフは、言った。
「魔法使いはみな、一生負い目を持って生きなければならない。だからこそ、人々に尽くすんだ。その償いに」
「もし、魔法を使っていたら?」
魔法使いはつぶやいた。
「私は〈塔〉を出ていた。合格したのだと思った。だが、本当にそうだろうか。魔法を使って、あの子を助けるのが正しかったのではないか。そうすれば私は、今とは違う真実の魔法使いになれたのではないか」
「だからあなたはぼくを造って、もう一度試したのですね」
「そうだ」
「あなたの小指から生まれたぼくは、あなたそのものだ。同じことでしたね」
「いや、あまえはあの子に手を差し伸べた。少しは成長したよ」
魔法使いは目を閉じた。
分身は、自分を造り出した時の魔法使いの歳を超えて生きられない。魔法使いが死を迎えない限りは。
魔法使いが、後者を選んだことをリフは知った。
リフもまた考える。
もし、あの子を助けていたら?
魔法使いとして、もっとすばらしい高みを目指せたのだろうか。
リフは自分の小指をじっと見つめた。
ナイフはすぐ近くにあった。