捕虜20万人を瞬殺。バラバラ死体にされた生き埋め大好き暴君。

文字数 2,915文字

殺しまくったら「四面楚歌」。最強ロマンチスト覇王。

《楚》 項羽(B.C.232~B.C.202)

西楚の覇王、項羽(名は「籍」。「羽」は字)は、楚漢戦争に材をとった「項羽と劉邦」の物語でお馴染み。戦に強く、自称「70戦無敗」。事実、数倍する敵を何度も撃破している。


秦によって滅ぼされた楚の将軍の家柄という名門の出身。身長は190㎝近くあり、怪力の持ち主で、才気あふれる人物だったという。また、両目それぞれに二つの瞳があったとも言われる。計四つの黒目の持ち主だったというのである。


アレクサンダー大王には角が生えていたなど、歴史上の偉人に不思議な身体的特徴があったとする伝説は世界中で見られる。しかし、中国の場合、伝説の王・禹には耳の穴が三つあった(耳瘻孔?)とか、周の文公には乳首が四つあった(副乳?)とか、晋の文公は一枚あばらであった(胸板が厚かった?)など、やや微妙な感じの特徴をつける傾向がある。


項羽の二つの瞳もその類であろうが、実際、すさまじい目力の持ち主だったようだ。漢軍に楼煩と呼ばれる弓の名手がいて、次々に項羽の軍の将を射抜いた。しかし、項羽本人が現れて一睨みすると、楼煩は逃げ出してしまった。


項羽は、小説や京劇などに描かれ、今も愛されている英雄であるが、大量虐殺者でもあった。特に、伝えられている下記の捕虜虐殺はその手際の良さもあって鮮烈だ


項羽は3万の軍勢を率いて秦の都・咸陽(現在の西安市の近く)に向かって進撃。秦の将軍・章邯の率いる大軍を鉅鹿という場所で打ち破った。章邯は20万の軍勢とともに項羽に下る


項羽軍は3万で20万の捕虜を管理することになった。軍はこの捕虜を先鋒にして進んだが、彼らに反乱の気配が見え始める。いつ裏切るかわからない者を抱えては戦はできないし、食料の確保もままならない。


ある夜、項羽は捕虜たちを三方から襲撃した。捕虜たちは我先にと開いている一方に逃げ出したが、その先にあったのは断崖。捕虜たちは次々に追い落とされて墜落死し、まだ息のある者は上から大量の土砂を落とされて生き埋めになった。


捕虜の虐殺といえば、戦国時代の秦の武将・白起も、長平の戦い後、趙軍の捕虜20万人を生き埋めにしたといわれる。白起は戦後処理で十万単位の虐殺を行うのが常であった。その殺害方法は生き埋め以外にも斬首や、黄河に沈めて溺死させるなど、バリエーションに富んではいるが、項羽のこのやり口の鮮やかさには敵わない。


項羽の軍は咸陽に入ってからも略奪や虐殺を欲しいままにした。秦の皇帝の一族を皆殺しにし、始皇帝が建設を始め、いまだ未完成であった壮大な宮殿、阿房宮も焼いた。この火は三ヵ月燃え続けたという。


項羽に、このまま咸陽に留まって都とするように進言する論客がいた。咸陽は、山に囲まれた広大な渭水盆地にあって守りやすく、豊かな穀倉地帯でもあった。後の漢も、咸陽南郊を開発して長安を築いている。


しかし、項羽は「富貴の身になって故郷に帰らないのでは、夜に錦を着て歩くようなものだ」とかなり説得力に欠けるたとえ話を披露してこれを退ける。言を退けられた論客が後に「楚人は猿が冠をつけたようなものだというが、本当にその通りだ」と愚痴った。このことを知った項羽は、この論客を釜茹でにした。そして楚の故地、彭城を本拠とした。


一度は天下に号令した項羽であったが、論功行賞に不満がある者たちが各地で反乱を起こすようになる。項羽はこれを鎮圧するために東奔西走。そして、いちいち反抗した者を生き埋めにした兵士だけでなく、城に立てこもっていた住民も生き埋めにしてしまう。降伏しても生き埋めなのだから、当然、みな必死の抵抗をするようになる。


ある時、外黄県の住民が抵抗したので、項羽は例のごとく15歳以上の男子を全員生き埋めにすることにした。13歳の少年が「みんな脅されて仕方なく抵抗したのです。ここで皆を生き埋めにしたら、他の県の人たちは最後まで抵抗しますよ」と訴えるのを聞き、項羽は外黄県の人々を許した。すると、周辺の地域の人たちは相次いで項羽に降伏したという。13歳でも分かる道理が、もう項羽にはわからなかったのだろうか。


結局、漢王・劉邦の軍を撃破できず、糧食も途絶えがちになった項羽は、劉邦側から提案された楚漢で天下を二分して支配するという和平案を飲み、帰還しようとする。


しかし、劉邦はすぐに約束を反故にして、項羽の後背を突いた。項羽も一度はこれを撃退したが、劉邦の呼びかけに応じた各地の諸侯が集結。項羽は完全に劣勢となり、故郷への道は閉じた。


垓下という場所に追い詰められた項羽は、そこで「四面楚歌」を嘆いたり、愛妃・虞美人に対して有名な「垓下の歌」を歌ったりして「史記」の中でも有数の名シーンを演じることになる。


翌朝、項羽はわずかな手勢と共に包囲を突破。烏江という長江のほとりにある村に辿り着いた。烏江の下役人に「大王よ、どうぞ船に乗って逃げ、再起を図ってください」と言われたが、「私はかつて、8千人の子弟を連れてこの川を渡って西に向かったが、今は誰もいない。彼らの父母に合わせる顔がない」と言ってこれを断った。そして、取り囲む劉邦軍の目前で自刎して果てた。31歳であった。


烏江でのこのやり取りは、いささかリアリティに欠ける。しかし、「史記」の編者である司馬遷が伝えたかったのは、項羽の、この「逃げない」というメンタリティの部分ではなかろうか。


翻って、ライバルの劉邦は「どんどん逃げる男」であった。項羽にやられ、いつも逃げてばかり。彭城の戦いでは、劉邦は56万の軍勢を有しながら、3万の項羽に惨敗。妻(後の呂后)や父親は捕らえられたが、自分は馬車に乗って逃走した。


馬車を少しでも軽くしようと、劉邦は同乗していた自分の息子(後の漢の二代皇帝・恵帝)や娘(後の魯元公主)を馬車から突き落とした。御者の夏侯嬰は馬車を止め、二人を拾い上げたが、劉邦はその後も何度も子供を突き落としたので、そのたびに夏侯嬰は、劉邦に叱られながらも二人を拾ったという。わが国の天下人たる家康や頼朝も「逃げ上手」には違いないが、劉邦には遠く及ばないようだ。


余談になるが、この何度も馬車から突き落された恵帝は非常に心優しい人物であった。母である呂后の魔手から何とか幼い異母弟を救おうとするエピソードは涙を誘う。しかし、結局、母の残酷と専横に心を病み酒色に溺れて23歳で死んだ。母の呂后は則天武后(則天武后の回を参照)や西太后とともに中国三大悪女の一人とされている人物で、思えば親に恵まれない子であった。


閑話休題。

項羽の首には多大な褒賞、恩領が懸けられていたので、倒れた項羽に漢の兵士が群がった。少しでも恩賞を得ようとする兵士たちは同士討ちまでして遺体を奪い合い、項羽の体は切り刻まれた。


劉邦はその刻まれた項羽の亡骸を懇ろに葬り、墓前で涙を流したという。劉邦の生年は不詳だが、この時、50代半ばであったと推測される。噓泣きくらいは造作なくできる男であったろう。

関連書籍

『項羽と劉邦 上・中・下』司馬遼太郎/著(新潮文庫)

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