最悪の独裁者を殺そうとした人たちは、戦後、英雄となった。

文字数 2,605文字

「われは知る テロリストの かなしき心を」(石川啄木)。テロは民主主義にとっての脅威である。しかし、暗殺が歴史のうねりを加速させた例は数多い。そんな暗殺事件から世界の歴史を俯瞰する。(年齢は事件当時)
民主的に選ばれた権力者が殺戮者と化した時、「殺す」は是か非か。

アドルフ・ヒトラー暗殺未遂事件 1944年

1944年7月20日、午後0時42分、東プロイセンの総統本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」の会議室で爆発が起こる。


爆発を確認したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク陸軍大佐(37)は、総統アドルフ・ヒトラー(55)の死を確信し、ベルリンに向けて飛び立った。


彼はヒトラー暗殺計画の実行犯であり、しかも、至急ベルリンに戻り、「ヴァルキューレ作戦」を発動させなければならない立場にあった。ヴァルキューレ作戦とは、非常事態が起こった時、予備軍などを動員する命令で、反ヒトラー一派はこれを根拠にクーデターを起こす手はずだった。


しかし、ヒトラーは死ななかった。爆発は4人の死者を出したが、ヒトラーは鼓膜の損傷と擦り傷を負った程度だった。


ヒトラーが助かった理由はいくつかの「幸運」によるものだった。

まず、第一に会議室が変更されたこと。会議は地下で行われる予定であったが、暑さのため、一階の会議室で行われることとなった。窓から爆風が逃げ、その威力を弱めたと考えられる。


もう一つは、会議室のテーブルの形状である。シュタウフェンベルクは、ヒトラーの席近くのテーブルの下に時限爆弾の入った書類カバンを置いて、会議室を抜け出した。しかし、カバンを邪魔に思った出席者の一人(爆発で死亡)がカバンを足で奥に押し込んでしまったのだ。

会議室のテーブルは重厚なもので、二枚の厚い板で天板を支える、ちょうど「下駄」のような形状であった。そのため、この「下駄の歯」の部分が、ヒトラーの爆風除けになってしまったと考えられる。


さらに、会議の開始が当初よりも早められたことも「幸運」だった。爆弾は二つ用意されていたのだが、時間がなく、時限装置を一つしかセットできなかったのだ。シュタウフェンベルクは1943年に北アフリカ戦線で機銃掃射を受け、左目と右手の指のすべて、さらに左手の薬指と小指を失っている。そんな彼にとって、この作業はかなり困難だった思われる。


だが、信管がセットされていない残ったもう一つの爆弾も、一緒にカバンに入れておくだけで確実に誘爆し、その倍加した爆風はヒトラーを殺していただろう。しかし、シュタウフェンベルクが一つの爆弾に信管を仕掛け終わったとき、部屋に他人が入ってきた。慌てたシュタウフェンベルクは、残りのもう一つの爆弾を副官のヘフテン中尉に渡してしまったのである。


この頃、すでにドイツの敗北は必至の状況であった。すでに連合国軍によるノルマンディー上陸を許し、東部戦線のドイツ軍はソ連領内から駆逐されつつあった。

それにもかかわらず、ヒトラーは徹底抗戦を唱えて戦略的な撤退さえ認めようとせず、徒に犠牲者を増やし続けていた。


シュタウフェンベルクは、ナチスの反ユダヤ政策にも強い怒りを抱いており、この絶望的な状況を終わらせるには、ヒトラーを殺すしかないと考えていた。


「人間として私は信じる。使命を果たすためにすべてを犠牲にする者には、神の加護があることを」(シュタウフェンベルクの手紙より)


だが、加護はなかった

ベルリンに戻った彼は「ヴァルキューレ作戦」の発動を画策したが、すでにベルリンにはヒトラーの生存が伝えられており、決起を約束していた軍部の高官たちも次々に彼を見捨てていく。クーデター計画は瞬く間に瓦解し反ヒトラー派は銃撃戦の末、捕縛された。


その夜、即決の軍事裁判で、シュタウフェンベルクら首謀者4人の銃殺が決定される。

まさにシュタウフェンベルクが銃殺されようとする瞬間、副官のヘフテンが飛び出し、その前に立ちふさがったため、ヘフテンが先に銃殺され、その後、シュタウフェンベルクも殺されたという。


ヒトラーはこのクーデターに関わった人物を、徹底的に追求した。そして、フックに吊るしたピアノ線による絞首刑という残忍な方法で処刑し、その様子を撮影させた。処刑された人数は200人以上にのぼり、彼らの家族も強制収容所に送られるなど苦難を強いられた。


ギュンター・フォン・クルーゲ元帥は、この事件にかかわった疑いで自殺に追い込まれた。その遺書は「総統閣下、戦争を終わらせてください」という言葉で結ばれていた。「砂漠の狐」と呼ばれたロンメル元帥も、この事件に連座させられ自殺を強要されている。


エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は戦後「ヒトラーが倫理感を失っているとわかったのは、この暗殺事件以降のことだった」と証言している。この事件の裁判や処刑の様子を見て、ヒトラーが"壊れている”と気がついたというのだ。

当時、マンシュタインはヒトラーによって東部戦線の司令官を罷免され、予備役となっていた。東部戦線が絶望的であることも、またそこで行われた多くの虐殺行為についても、彼は知っていただろう。しかし、ヒトラー政権転覆運動に加担することを求められた際、「プロイセン軍人は反逆しない」と言ってこれを拒絶している。


結局、1945年4月30日、ソ連軍に包囲されたベルリンでヒトラーが自殺するまで戦争は続く。その遺書には「さらに闘争を継続せよ」と記されていた。


もし、この暗殺が成功していれば、その後、東西の戦線で多くの兵士が死ぬことも、市民が巻き添えになることもなかっただろう。1944年と1945年の東西戦線での軍人の死者数は、連合軍、枢軸軍を合わせると700万を超える。

また、ナチスによるユダヤ人虐殺はこの事件以降も続いていく。


戦後、シュタウフェンベルクら、このヒトラー暗殺とクーデター計画の首謀者たちはナチスに抵抗した英雄として顕彰されている。

一方、マンシュタインは戦犯となって投獄されたが、1953年に釈放。その後はドイツ連邦軍の創成に尽力し、1973年、脳卒中で亡くなった。

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