「雨を待つ」⑮ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,730文字

 試合が終了し、両校が礼を交わす。校歌斉唱と、校旗掲揚が終わると、俺はトンボを手にグラウンドへ出た。試合のスケジュールはタイトに詰まっている。手早く整備と散水を行い、次のゲームに備えなければならない。
 あのエースピッチャーは、子どものように泣いていた。ベンチ前でダウンのキャッチボールをしながら、ぼろぼろと涙を流している。長袖のアンダーシャツでぬぐってもぬぐっても、大粒の水滴が頰をつたっていく。
 俺はあわてて上空に視線をそらした。太陽に目を射られて顔をしかめた。見たくないものを見てしまったと後悔したその瞬間、才藤の言葉がすとんと()に落ちたのだった。
 あの横川という投手は、結果はどうあれ、自身の野球人生にひとまずピリオドを打つことができたのだ。
 試合中のいらだちも忘れ、なぜか「うらやましい」と、感じていた。何の面識もない、赤の他人の、東京のピッチャーだ。それなのに、羨望の気持ちはますます強くなっていく。横川がうらやましい。負けた球児たちが心底うらやましい。
 卒業後にプロを志望するのか、大学や社会人に進むのか、それともきっぱり野球自体をやめてしまうのかはわからないが、彼はいったん自分の人生に区切りをつけ、次の道を模索することができる。泣くだけ泣いてすっきりした終わりを迎えれば、後悔も悔しさも、新たなステップへの踏み台になる。
 日本一になった投手が、一回戦負けのピッチャーをうらやむというのも、なんとも皮肉な話だった。しかし、こうしてグラウンドキーパーとして整備をしている今も、俺の魂だけはあのマウンドから降りられずにいるのだ。だから、心と体が一致しない違和感がぬぐいきれない。まるで地縛霊(じばくれい)みたいやなと思うと、ちょっと笑えた。
 体を機械的に動かして、トンボを押し、スパイクで荒れた箇所を均していく。なんとか気持ちを落ちつけようとはしたのだが、千々に乱れる俺の心をそのまま映すかのように、もうもうと土煙が舞い上がった。
 早く水をまいてほしい。グラウンドにも、俺の心にも。切実にそう願った。
 横川がダウンのキャッチボールを終え、一人おくれて甲子園の土を拾いはじめた。まだ、泣いていた。ぐずぐずと鼻をならしながら、両手で土をかき集めている。
 そういえば、俺は一度も甲子園の土を持ち帰ったことはなかったと思い至る。
 一年生のときは、控えピッチャーだった。大阪府予選で敗れた。
 二年生でエースナンバーを背負ったが、甲子園の準々決勝で敗退した。来年またこの場所へ帰ってくると誓った。
 そして、三年生。野球人生がこのまま終わってしまうかもしれないという不安を押し隠し、逃げるように甲子園を立ち去った。
 でも、才藤の言うとおり、実は終わってなどいなかったのだ。
 俺は一塁付近の土を均していた。トンボの先には、黒い土が小さく山になっていた。
 そのひとかたまりを押し、運んでいく。負けた球児たちが多くの土を持っていったため、ベンチ前の(へこ)んでいる場所に継ぎ足す必要があった。
 泣いている横川が、いまだにしゃがみこんでいた。その姿を、大人たちが狙う。報道陣のビブスをつけたカメラマンが群がり、グラウンドに()いつくばってまで、うつむき、泣きつづける横川の表情を撮りつづける。
 もう、ええやろ。じゅうぶん撮ったやろ。いい加減、終わらせてやれや。
 トンボの()を報道陣のあいだにねじこむようにして、整備の時間であることをアピールした。
「ありがとうございます!」横川が顔をあげた。涙に濡れた頰が、少し痛々しくもあり、しかしまぶしく輝いて見えた。
 とっさに帽子を下げた。軽くうなずいて、立ち去った。
 自分が負かした相手校の選手にも抱いたことのなかった感情がわいてきた。うらやましい、という気持ちが消え、ねぎらいの言葉が次々と心に浮かんできたのだ。
 ご苦労様、よう戦ったな。残念やったけど、お前には次があるで。次は、何がなんでも自分自身のために投げるんやぞ。
 マネージャーだろうか、学校の制服姿の男子が横川を立たせ、撤収をうながした。その記録員も目を真っ赤にして泣いていた。


→⑯に続く

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