「雨を待つ」⑥ ――朝倉宏景『あめつちのうた』スピンオフ 

文字数 1,116文字

「ただいま」家の鍵を開け、真っ直ぐ自室に引っこもうとしたとき、大声が響いた。
「カレーのタッパー、はよ出して!」オカンが台所から顔をのぞかせた。「におい、とれなくなるやろ」
 じゃあ、カレーを昼の弁当で持たすな、と思うが、面倒なので何も言わない。カバンからタッパーを取り出した。
「夕飯も、カレー?」
 何を当たり前のことを聞いてんねん、という顔で、オカンはうなずき、しげしげと俺の顔を眺めてきた。
「あんた、太ったんちゃう?」
「かもな」
「食べる量は同じくせに、急に動かなくなるからや。あんた、もう野球せぇへんの?」
 ここ最近、「野球をしないのか」と、毎日聞かれている。野球、野球、野球と、息子に刷りこんでいけば、まるで洗脳のように、元の道に戻るとでも思っているのだろうか。
 剝離骨折という診断が下ったときから、張りつめていた気持ちの糸が切れてしまった。もう、疲れた。もう、きっと厳しい練習やトレーニングには耐えられない。
「ホンマに、すぐには野球せぇへんのやな?」
「うっさいねん」
「とりあえずの最終確認や」茶色いカレーの残滓(ざんし)がこびりついたタッパーを水につけながら、オカンが聞いた。「飯田(いいだ)のおいちゃん、あんた知ってるやろ?」
「飯田のおいちゃんって、あの姫路(ひめじ)の?」
「そうそう。で、その飯田のおいちゃんの、行きつけの床屋のな」
「うん」
「その床屋の、常連さんがな」
「常連……?」どんどん関係性が遠くなっていくやん、とは思ったけれど、話の腰を折ると時間がかかるので口ははさまなかった。
阪神園芸(はんしんえんげい)の総務で働いてるそうなんやけど」
 阪神園芸、と聞いて、少し身構えた。野球をしていれば、その会社の名前を知らない人はいないだろう。関西圏の人間なら、とくに。
「阪神園芸が、どないしたん?」
「飯田のおいちゃんが髪切ってるとき、床屋さんと、あんたの話題になったんやて。で、ちょうど阪神園芸の人が順番待ちで座ってたんやけど……」
 要領を得ない話が長々とつづいたが、こういうことらしい。飯田のおいちゃんと、阪神園芸の総務の人は、それまで面識はなかったのだが、たまたま行きつけの床屋でいっしょになった。飯田のおいちゃんが、親戚であるオカンからつたえ聞いた俺の最近のていたらくぶりを床屋に話し、その場に居合わせた阪神園芸の人も会話にくわわった。
「それでな、甲子園のグラウンドキーパーに空きが出る予定なんやけど、卒業後の進路が未定なんやったら、あんたやらへんか? って、そういうお誘いがあったらしいねん」
「は……? 俺が? 甲子園のグラウンドキーパー?」


→⑦に続く

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