Day to Day〈6月10日〉〜〈6月19日〉#まとめ読み

文字数 12,720文字

2020年の春、ここtreeで、100人のクリエーターによる100日連続更新の掌編企画『Day to Day』がスタートし大きな注目を集めました。この2021年3月25日、その書籍版が発売されます。


>通常版

>豪華版


treeでは、それを記念し、『Day to Day』の原稿を10本分ごと(10日分ごと)にまとめて、一挙に読みやすくお送りいたします。それでは……珠玉の掌編をお楽しみください!

〈6月10日〉



 6月10日。私はひょっこりと巣穴から顔を出す。

 我慢していた〝美味しいもの〟があります。
 近所のパン屋の〝明太フランス〟です。
 外出自粛期間も少し前に終わり、マスクをつけて人との距離感を気にしつつ、私はパン屋へと向かいます。

 私の住まう地域は明太フランス激戦区であります。
 明太フランスとはその名の通り、フランスパンに特製の明太子ペーストをたっぷり挟み込んだ、福岡発祥の罪深い食べ物。最近では福岡の新名物に名を連ねているとか、いないとか……
 ピリリと辛い明太ペーストが、バリッとハードなフランスパンに、なぜかよく合います。
 最近では明太フランスだけではなく、様々な明太子系のパンを見かけます。クロワッサンの表面に明太ペーストを塗って焼いたものや、厚焼き卵と明太ペーストを挟み込んだサンドイッチなど。
 どれも外さないので、明太子って凄い。

 私が本日求めているのは、王道の明太フランス。
 焼きたてを一本ゲットして、急いで帰ります。
 最近少しずつ暑くなってきて、マスクの内側が蒸し蒸ししますね。人のいない場所で、マスクをずらして大きく深呼吸をすると、空気の匂いの懐かしさに、妙にハッとさせられたのでした。

 さて。お家でさっそく、明太フランスを切り分けます。
 あふれんばかりの明太ペーストが、切った断面から垂れてしまって、見るからにヤバいやつ。
 きゅうりとトマトがおいしい季節になってきたので、炭水化物のお供にこちらも切ります。
 カロリーの高そうなものにはきゅうりとトマトをぶつけがちです。
 明太フランスはまだほんのり温かく、明太ペーストがたっぷりのったところを、まずはいただきます。
 皮には焼きたてのパリパリ感が残っており硬め。だけど中は驚くほどもっちりしていて柔らかく、ガーリックバターがよく染みており、つぶつぶ感の残った明太ペーストが程よくピリ辛です。
 なのに、噛んでいるとほのかに甘い。
 ずっと我慢していただけあって、衝撃的に美味しい。え、こんな美味しかったっけ?
 美味しいものは尊いです。諸々のストレスすら吹っ飛ばしてくれる。
 いっそ拝む。ありがたや……ありがたや……

 食べたいものを、食べたい時に食べられるというのは、当たり前のことではないのですね。
 私は明太フランスとともに、そのありがたみを強く噛み締めたのでした。
友麻碧(ゆうま・みどり)
福岡県出身。「かくりよの宿飯」シリーズが大ヒットし、コミカライズ、TVアニメ化、舞台化される。他著に「浅草鬼嫁日記」シリーズ、「メイデーア転生物語」シリーズ(富士見L文庫)、「鳥居の向こうは、知らない世界でした。」シリーズ(幻冬舎文庫)などがある。
〈6月11日〉どうせあの人は覚えていない


 どうせあの人は覚えていない。
 高校からの帰り道、はしきりにそう自分に言い聞かせた。
 あの人、というのは一華が雇っている家政婦のことである。名をと言う。母親の死後、仕事で多忙な父親が突然連れてきた家政婦で、その父も亡き今は唯一の身内といっていい(無論あくまで雇用主と使用人という、ビジネスライクな関係だが)。
 初対面の彼女はとにかく目つきが悪く、まだ幼かった一華は怖くてしばらく声もかけられなかった。その壁が崩れたのが、忘れもしない今日──この6月11日だ。
 とある店のケーキを食べて、橋田が笑ったのだ。
 父親の手土産だったが、それを橋田があまりに無表情に食べるので、一華はたまらず「美味しい?」と訊ねてしまった。すると次の瞬間、はっきりと口元に微笑が浮かんだのだ。
 この人も笑うんだ──と一華は何だかそこで安心し、それ以来普通に話せるようになった。なのでこの日が、一華が陰で名付けた「橋田の笑顔記念日」。それでサプライズのお祝いを計画していたのだが──使用人をたまには労ってやるのも、の務めだし──その肝心のケーキが、買えなかった。昨今の事情でお店が閉店していたのだ。
 まあ仕方ないよね。それにどうせ橋田も、そんな些細なこと覚えてないだろうし──。

「あら、お嬢様」
 自宅に着くと、玄関前に佇む人影があった。地味なひっつめ髪に白ブラウス、までのロングスカート。橋田だ。買い物帰りだろうか。
「ただいま、橋田。今日の晩御飯は──」
 言いかけ、ハッと息を吞む。
「橋田……それ……」
「ああ。これですか」
 橋田は手に提げた紙箱を少し持ち上げる。
「今日のお祝いです。お嬢様が大好きな、例の洋菓子店のですよ。あそこ、今は予約注文だけで、店頭販売はしていないそうですね。先月予約しておいてよかったです」
 混乱する。どうして。どうして、橋田があのケーキを──。
「どうして……わかったの? 私が今日、そのケーキでお祝いするつもりだったって……」
「はい?」
 橋田が首をげる。
「逆になぜ、お嬢様がお祝いを? 

お嬢様が私に初めて口をきいてくれた日

なんて、まさか覚えているとは思いませんでしたが。あの時は衝撃でしたよ。最初は頑固に無口を貫いていたお嬢様が、私がケーキを一口食べた途端、目を輝かせて『美味しい?』って──たぶんあれ、味が気になりすぎて自然と声が出たのでしょうね。本当にお嬢様は食い意地が張っていらっしゃる──」
 一華は大きく口を開けて、橋田を見た。
 橋田は澄まし顔で横を向く。だが見守るうちにも、その耳が徐々に季節外れの桜色に染まり始めた。
「まったく……雇い主の御機嫌取りも、楽じゃありませんよ」
井上真偽(いのうえ・まぎ)
神奈川県出身、東京大学卒業。『恋と禁忌の述語論理』で第51回メフィスト賞を受賞。続く『その可能性はすでに考えた』『聖女の毒杯 その可能性はすでに考えた』がミステリ界から高い評価を獲得し、各ミステリ・ランキングを席捲。さらに『探偵が早すぎる』がTVドラマ化、マンガ化され話題となった。近著に『ベーシックインカム』がある。
〈6月12日〉国境なき少年少女団


 今日、初めてわたしは仲間の「声」を聞いた。ユーリって名のロシアの少年だった。「声」は言葉よりもむしろ旋律や香りに近い。だからこそ言語の壁を越えて深く理解し合える。彼がすべてを教えてくれた。2020年は人類にとって大転換の年なんだそうだ。始まりは南半球の山火事だった。さらにはCOVID-19、サバクトビバッタの群れ、巨大ハリケーンと、ありとあらゆる災厄が堰を切ったように人類を襲い始めた。人々は自然の脅威に恐れおののき混乱した。為政者たちは国境を封鎖し、保身のために他国を辛辣な言葉で攻撃した。人々は分断され孤立した。
 そんな中生まれたのが「わたしたち」だった。ユーリは自分たちは「国境なき少年少女団」なんだって言ってる。わたしたちに国境はない。願えば地球の裏側とだって瞬時に繋がり合える。皮肉なものだ。この能力を呼び覚ましたのは間違いなくこの「大分断」なのだから。人間はそのようには出来ていない。わたしたちは人の温もりを求め、誰かに愛を与えたいと願っている。それが禁じられたとき、わたしたちの中でなにかが芽生えた。繋がり合う力。言ってみれば自前のSNSみたいなものだ。でも、この感覚はモニター越しのコミュニケーションなんかよりはるかにリアルで温かい。驚くほど深く共感し合えるし、不思議なほど相手に優しくなれる。とげとげしさなんて微塵もない。ユーリの話じゃ「仲間」はどんどん増えているらしい。毎日のように誰かが「覚醒」している。十代の子供たちに限定されているのは、脳の神経ネットワークの可塑性となにか関係があるらしい。
 仲間の少女たちの中には「癒やす」力に目覚めた者もいる。じつはわたしもそのひとりだ。これもまた過酷な状況が生み出した幸福な副産物だ。病や傷で苦しんでいる隣人をそっと抱き締め、「生きて!」と強く願う。不思議だけど、そうするだけで彼らの苦しみは癒えていく。ワンダーウーマンのように男たちを叩きのめす戦闘能力は無いけれど、わたしたちはいたわりの心で世界を救えるかもしれない。
 わたしたちは大人のひとたちとは違う種なのかもしれない。ゼネレーションωありα。日毎に世界の優しさの総和が増えていく。もう、明日を恐れたりはしない。新しい世界は母親の愛のように大らかであって欲しいと思う。気前が良くて寛容で、ちょっとやそっとのことじゃ動じない。きっと、そんなふうになるって気がしてる。
市川拓司(いちかわ・たくじ)
1962年東京都生まれ。2003年発表の『いま、会いにゆきます』が映画化、テレビドラマ化され大ベストセラーとなる。著書には他に『吸涙鬼 Lovers of Tears』(講談社文庫)『恋愛寫眞 もうひとつの物語』『そのときは彼によろしく』『こんなにも優しい、世界の終わりかた』などがある。近著は『The Refugees’ Daughter』(Red Circle Minis、英語版のみ刊行)。
〈6月13日〉ニューノーマル


 ――君を見直したよ。我が社の救世主だ。
 課長からのメールを見て、僕は思わずガッツポーズをした。
 テレワークになってからというもの、僕の営業成績はぐんぐん伸びて、社内でトップに躍り出た。それまでは入社以来十五年間ほとんど最下位で、昇進も同期から後れを取っていた。熱意だけは誰にも負けないつもりだったけれど、なんせ口下手で上がり症だし、そのうえ下戸ときているから夜のつきあいも苦手だった。
 けれど、そんな僕の欠点は、ネット上では雲散霧消した。顧客とのビデオ会議では、直接対面していないせいか緊張しなかった。グラフやイラストを駆使して作った資料をメールで送ると、思いのほか好評で、予想以上に多くの取引先から問い合わせがあった。毎日のように性能についての突っ込んだ質問が寄せられたから、僕は一つ一つ誠実に答えて、資金繰りに関しても親身になって相談に乗った。
 僕がパソコンに向かう隣で、分散登校中の小二の健斗が漢字ドリルに励んでいる。
「お父さん、お仕事、楽しそうだね」
「まあな。やりがいがあるからね」
 テレワークならパワハラも強制的な飲み会もない。そもそも僕の仕事は、製品の良さをアピールして顧客に購入してもらうことであって、私生活を犠牲にして深夜まで上司や顧客の酒の相手をしたり、お世辞を連発して気に入られようと必死になったり、同情を買うために自分を貶めてみせることではないのだ。
 嬉しいことに、緊急事態宣言が解除されて以降も、テレワークを選択できるようになった。お陰で頭痛も胃痛もなくなって体調が良くなった。満員電車からも解放されたし、疲れたらゴロンと畳の上に寝転ぶ。そのまま昼寝をすれば、頭がスッキリして、次々とアイデアが湧いてくるし、関連書籍を読む時間も増えた。なんて効率がいいのだろう。
「お父さん、そろそろ散歩の時間だよ」
 初夏の青空のもと、人通りの少ない道を選んで健斗と並んで歩いた。交通量が減ったから大気が澄んでいる。何より健斗といろいろな話ができる幸せをかみしめていた。小さな公園に寄り、二人でサッカーをして汗を流した。
「なあ健斗、夕飯は卵かけご飯と野菜炒めだけでいいかな?」
「うん、いいよ」
 保健師の妻は残業続きで、ボロ雑巾のように疲れ果てて保健所から帰ってくる。妻に代わって家事全般をやるようになって、僕は初めて妻の不機嫌が理解できた。
「コンビニに寄って、お母さんの好きな抹茶アイスを買って帰ろう」
 そう言うと、健斗の顔がパッと輝いた。「僕はチョコ味のにする」
 ワーク・ライフ・バランスなんて、絵に描いた餅だと思ってきた。残業が多すぎて、疲れが取れる瞬間さえなくて、家庭を大切にできる日など永遠に来ないと思っていた。それなのに、新型コロナウイルスは、十年かけて進む世界を、この数ヵ月で達成してしまった。
 もう元には戻れない。
 絶対に戻りたくない。
「帰ったら一緒に洗濯物を畳もうぜ。手伝ってくれるよな?」
「僕ね、両端をこうやってピシッとしてから畳むの、上手なんだよ」
 宙を切る健斗の小さな手に、幸せ色した夕陽が当たっていた。
垣谷美雨(かきや・みう)
1959年、兵庫県生まれ。明治大学文学部卒。2005年、「竜巻ガール」で小説推理新人賞を受賞しデビュー。著書に『リセット』『結婚相手は抽選で』『ニュータウンは黄昏れて』『夫のカノジョ』『あなたの人生、片づけます』『老後の資金がありません』『四十歳、未婚出産』などがある。

〈6月14日〉



 全くこんな敏感な部分が恥ずかし気もなく下半身から飛び出ているんだから人間の体ときたら不完全だ。PCのモニタから視線を外し下に向ける。赤黒く腫れ上がり疼く体の一部を右手で擦ると思わず「うっ」と声が漏れた。

 足の小指を強打したのは13歳の時以来だ。あの時は骨折した。それ以来人一倍神経を使い、歩行の際は足を前に放らず爪先を立てそっと下ろし、狭い場所では必ず足元に注意を払い30年間生きて来たが結局この様だ。
 そもそもなぜこんな脆弱な形を成しているのかが分からない。狭い住宅、床置きの家具、土足厳禁スタイルで暮らす人間の足としてあまりにも無防備。象が羨ましい。あのどっしりとした頑丈そうな足。タンスの角にぶつけてもタンスの方がぶっ壊れるだろう。馬のように着地面全体が硬い爪になっているのも悪くない。
 加えて今回の怪我には人間の不完全さの他にもう一つ原因がある。小指で思い切り蹴り付けた仕事部屋の椅子は本来ならそこに無いはずの物だ。

 昨年から延々夜の住宅街に東京メトロ銀座線の深夜工事による騒音が響き渡っている。
 最も不快だと気付いたのは硬い物をダダダと粉砕する音よりも地面を伝いマンションを震わせる微弱な振動。これが例えるなら冷蔵庫の傍にいるような、うなじが逆立つような気持ち悪さでめまいや手の震えを引き起こし集中力を奪う。
 工事の位置によって同じ仕事部屋の中でも日々振動を感じるポイントが変わるため、元々並びで配置されていた三つのデスクを部屋のあちこちに分散し対策した。
 つまり深夜工事が無ければその一歩はただ空を切って着地していたはずで、小指の怪我は東京メトロのせいなのだ。大体当初の説明では観光バス乗り場があるため日中の工事が出来ないのではなかったか。今や観光バスはおろか観光客さえいないのに深夜に工事を続けているのには余程深い考えがお有りなのだろう。是非ご高説賜りたいものだ。

 恨みを込め再びモニタを睨む。先程から小指を擦りながら金輪際銀座線を使わずに方々へ移動するすべを検索していたが、結局分かったのは銀座線の利便性と昭和2年開業という長い歴史。
 ならば深夜工事の振動の方をどうにかする技術はないのか。レーザー光線、3Dプリンタ、反重力モーター。
 まあ無理だろう、なにせ長い進化の果てにこんな弱点さえ克服できない人類なんだから、と痛む小指に顔をしかめたのちネットショッピングサイトでスリッパを注文してPCの電源を切った。
石黒正数(いしぐろ・まさかず)
1977年生まれ。福井県出身。漫画家。2005年、『それでも町は廻っている』で連載デビュー。11年にわたる長期連載となった同作は、第17回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞や第49回星雲賞(コミック部門)を受賞。そのほかにも『ネムルバカ』『外天楼』など著書多数。現在『木曜日のフルット』『天国大魔境』などを連載中。
〈6月15日〉神の手を離れて


「しまったなあ――」
 神は下界を見下ろして呟いた。
 この世界を創った日々を懐かしく思い返す。あのころは楽しかった。困難もあったが、おおむねは自分の思い通りに海が広がり、山が隆起し、生命があふれた。神にとって最大の、そして会心の事業であり、やり切った時はうっすら涙ぐんだ。
 いっぽうで完成を急いだがために、わりかし行き当たりばったりになってしまったことも否めない。適当な仕事をしたつもりはないし、もし非難されようものなら「黙れ冷笑主義者め」と怒鳴りつけるだろうが、できあがった個々がどのように関連し、総体として世界がいかなる機序でうごめくのか、創った神にもわからなかった。
 大陸がゆっくり動いていると知った時は「そんなふうにしたっけ」とびっくりしたし、巨大な地震が山を崩すと「え、なんで」と声に出してしまった。生命が環境に適応しながら増えていくさまはとても楽しかったから、隕石の衝突が大絶滅を引き起こしたときは「誰がやった!」と地団駄を踏んだ。
 神は、わからないなりに世界に手を入れることもできた。だがしなかった。こちらをいじればあちらがおかしくなる、という事態を避けたかったし、成り行きを見守ることも創造の一過程かもしれぬと考え、ただ世界を眺め続けた。
 そのうち「万物の霊長」とうそぶく生命種が地球に広がっていった。彼らが月を目掛けて飛ばしたものにぶつかりそうになったときは辟易したし、芋のデンプンを球状に整形して半発酵させた茶の煮だし汁と牛の乳を混ぜた液体に沈める食べ物とも飲み物ともつかない何かには「うわおいしそう」とつい唾を飲んだ。
 神はいま、その「万物の霊長」が造った街の片隅を凝視している。彼らの言葉でいえば、そこには小さな病院があって、外来受診者から感染症の患者が出たため診療を取りやめている。無人の受付でFAXがガビーと唸り、「燃やすぞ」などと書かれた紙を吐き出す。
「しまったなあ――」
 謂われなき嫌がらせを見た神は、再び呟く。こんな世界を創ったつもりは、神には毛頭なかったのだ。
 唇を噛みながら目を移す。診療所の外壁には「つぶれろ」「ここが感染源」などと書いた紙を貼られている。そこを、よちよち歩く幼子を間に挟んだ夫婦が通りがかった。
 妻が貼り紙を指差すと、夫は頷いた。マスクをした二人は憤然とした目つきで病院の壁に爪を立て、紙の端っこから剥がしていく。
「帰らないの?」
 子が舌足らずな口調で尋ねる。夫は振り向かず「ちょっと待ってな」とだけ答えて、めくれた紙の端を慎重に引っ張っている。その硬い雰囲気におびえたのか顔を歪めだした子を、「パパはこういうのが嫌いなの」といいながら、すでに一枚剥がし終えた母が抱き上げた。
「この病院じゃないけど、あんたも生まれるときにはお医者さんのお世話になってるんだよ」
 神は少しだけ、けれど確かに、安堵した。自分の手で創り、すぐにその手を離れてしまった世界のこれからに。
川越宗一(かわごえ・そういち)
1978年鹿児島県生まれ、大阪府出身。龍谷大学文学部史学科中退。2018年『天地に燦たり』で第25回松本清張賞を受賞しデビュー。19年8月刊行の『熱源』で第9回本屋が選ぶ時代小説大賞、第2回ほんま大賞、第162回直木賞を受賞する。
〈6月16日〉土蔵の梅酒


 庭の梅が実をつけたら、梅酒を作ること。この古家を借りる、それが条件だった。母屋とは別に土蔵があり、代々ここに住む者は毎年梅酒を蔵に納めるのが習いだ、と大家は有無を言わせなかった。どんな所以があるか知れぬが、三十路の独身男には面倒極まりない作業である。入居を諦めかけるも激安の賃料に目がくらみ、年に一度の辛抱だと条件を呑んだ。
 六月頭に青梅を収穫する。水洗いして竹串でヘタをとり、氷砂糖と交互に瓶に詰め、ホワイトリカーを注ぐ。ここまでは存外楽だが、蔵に置いてしばらくは黴が出ないか見にいかねばならんのが鬱陶しい。
 蔵は小窓がひとつあるきりで薄暗い。その暗がりに、時折かつての住人たちが姿を見せる。最初に髷の男がふわりと湧いたときには悲鳴をあげたが、住んで五年も経つとすっかり慣れた。「この蔵で彰義隊の残党も匿ったぜ」と嘯くこの男は、
「わっちゃ古酒で漬けたよ。そのほうがうめぇのに」
 と、必ず難癖をつける。試しに男が作った「慶応二年」と札にある甕を覗くと飴様のドロドロだったから、ふんと鼻であしらった。
 もんぺ姿の婆さんも口うるさい。ヘタのとり方が雑だ、砂糖が多すぎる、とまくし立てる。
「偉そうに言うが、婆さんが住んだ間の四年ばかし甕がないぜ。漬けるのをサボったろう」
 腹立ち紛れに言ってやると、
「焼酎も砂糖も闇市でだって手に入らないんだ。仕方ないだろっ」
 えらい剣幕でやり返された。
 海老茶の袴に束髪の娘も現れる。十八で軍人のもとに嫁すまで、ここに住んだ。夫が露西亜で戦死してからは苦労の連続で、幸せだった娘時分が忘れがたいのだ、と。穏やかに話せるのはこの娘だけだったが、今年に限って平素は口さがない連中まで妙に優しく接してくる。
「わっちの頃にゃ、コロリと麻疹が流行って難儀だったよ」
 髷の男は眉を八の字にした。
「食糧があるだけ幸せだよ。うちの息子は南方に片足置いてきちまったけど、飢えよりはいいって言ってたもの」
 婆さんまで、撫でるような声を出す。
「なんだよ、薄気味悪ぃ」
 粋がってはみるが、心許ない。
 蔵に日参して二週間。暦を見ると六月十六日だ。あとは寝かせときゃいい、と瓶に「令和二年」と貼り付けたとき、娘が現れた。
「今年もいい梅酒に育ちそうですね」
 娘は、他の住人のような慰めは口にしない。
「まぁな」
 答えて立ち上がる。蔵戸を潜りしな、
「なぁ、娘」
 背を向けたまま言った。
「俺は来年も梅酒を作れるかな」
 しばし沈黙が漂った。
「梅の木はまた来年も実をつけてくれますもの。それに人の営みは、そう容易く潰えません」
 強い声だった。振り向くとそこにはもう、娘の姿はなかった。
 表に出て空を仰ぐ。
「今年はやけに澄んでやがんな」
 ひとりごちて、大きく伸びをする。

木内昇(きうち・のぼり)
1967年東京都生まれ。『茗荷谷の猫』で話題になり早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。2011年に『漂砂のうたう』で直木賞を受賞、‘13年に刊行した『櫛挽道守』は中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞した。著書には『占』『火影に咲く』『光炎の人』などがある。
〈6月17日〉ステイ・フレンズ


 ――暇を持て余して悶え死ぬ。
 そんな死因が思い浮かんだところで、玄関のチャイムが鳴った。おんぼろアパートなのでモニターは付いていないし、錆び付いたドアチェーンも動かない。
 ドアスコープを覗くと、風呂敷を抱えた田中緋奈が立っていた。
「どうしたの?」扉を開いて尋ねる。
「プレゼント」そう言って緋奈は、風呂敷を差し出してきた。
 ずしりと重く、不思議な触り心地だった。雨の音が聞こえて視線を上げると、緋奈の姿はなかった。緊急事態宣言が解除されても、僕たちが通う大学ではオンライン講義が続いているので、半強制的にステイホームな日々を送っている。
 リビングに戻って、深緑色の風呂敷を広げた。
 入っていたのは、タブレットと大量のフィギュアだった。困惑しながらタブレットを起動すると、暗証番号の入力を求められた。
【ヒント Stay Home Friend】
 家に留まる友人? 僕のことだろうか。
 机の上に並べたフィギュアは、二十体以上あった。親子のシロクマ(やけにリアル)、華奢で青髪ロングのアイドル(派手な衣装)、躍動感溢れる消防士(何故か二体)……。バラエティ豊かで、共通点は見出せない。
 緋奈に電話をかけたら、「もう解けたの?」と言われた。
「まだ解き始めてもいない。僕、フィギュア集めの趣味はないんだけど」
「課題くらいしか、することないんでしょ」
「一人で人形遊びをしろって?」
「人形遊びじゃなくて、言葉遊び。私がネットで日向佳奈を名乗ってるのと一緒かな。今日中に解かないと天罰が下るから、気をつけてね」
 終了した通話画面を見て、そういうことかと納得する。
 田中緋奈が日向佳奈になるように、Stay Home Friendも何かになるのだろう。
 とはいえ――、である。全部で十四文字のアルファベット。何通りの組み合わせがあるかはわからないけれど、片っ端から試していく方法では今日中の突破は難しそうだ。
 すっかり解く気になっている。思わず、苦笑した。
 辞書と筆記用具を机の上に並べて、単語を抽出していった。HISTORY、fame、Death、Handsome、Money……。それらしい単語は見つかっても、残った文字が意味をなさない。あっという間に、日が暮れた。
 フィギュアを眺めていたら、二つの単語が思い浮かんだ。
 そうか……。だから、二体いたのか。残った四文字も、ぴたりと嵌まった。
 Dash firemen toy
 消防士に刻印されていた製造番号を入力すると、画面が切り替わった。
『私たち、いつまで友達のままなの?』
 ステイ・フレンズ。カレンダーを見てから、改めて緋奈に電話をかける。
 無色透明だった六月十七日が、僅かに色づく気配を感じながら。
五十嵐律人(いがらし・りつと)
1990年岩手県生まれ。東北大学法学部卒業。司法試験合格。『法廷遊戯』で第62回メフィスト賞を受賞し、デビュー。
〈6月18日〉私は融合する


 68日だ。そう、68日目だ。
 4年半勤めていた居酒屋を馘首になったのが4月11日。その翌日から数えて、4月の残りは19日。5月は31日あって、今日は6月18日だから、19+31+18=68日ってことになる。計算する頭は、まだ残っている。
 あの日、松浦のオヤジから「もう来なくていい」と言われた。「給料半分でいいです。働かせてくんないすか?」と言うと、オヤジは「わかってくれ」としかめっつらを伏せた。これが精一杯だと渡された封筒には五千円札が1枚入っていた。
 カップラーメンを買いアパートに帰ると、ドアに鍵を掛けた。それが最後だった。それから部屋を出ていない。鍵は靴脱ぎの上に置いたままだ。今日が68日目。
 部屋ではずっとベッドの上にいた。ベッドの上で壁にれ、リモコンでテレビのザッピングをやる。何時間でもチャンネルをグルグル替え続ける。トイレに立つときはベッドから下りるが、用を済ませるとまたベッドに戻る。
 ベッドから下りられなくなったのは3日目だった。腰が上がらなくなった。ずっと座っていたから腰が固まってしまったのだろうと、軽く考えた。しかしそのうちに、そうじゃないことに気がついた。
 足がまるで動かなかった。見ると布団に足が潜り込んでいる。布団の中に突っ込んでるんじゃなくて、から下が布団に吸収されているような感じなのだ。足だけじゃない。触って確かめると、尻もベッドの縁と布団に呑み込まれているようだし、背中は甲骨の辺り全体が壁に埋まり込んでしまっている。
 こいつは困ったことになったと思ったが、不思議と焦ってはいなかった。動けないから飯も食えないなのに、いつまで経っても腹は減らなかった。どうやら、同化したベッドや壁から、養分が送られてきているらしい。排泄も同様で、壁や床が引き受けてくれている。植物みたいだと、ちょっと楽しくなった。植物人間ってことじゃん。
 さらに10日もすると、仲間の声が感じられるようになった。自分だけじゃなく、どうやらこのアパートは大勢の人たちの融合体だったらしい。彼らと会話が出来るわけじゃないが、気分は共有できる。
 今日で68日目だ。もう身体のほとんどが部屋と融合してしまった。右手などはリモコンを持ったままベッドと同化している。
 部屋の外で大家の声が聞こえる。「ね? テレビの音は聞こえてますでしょ。いるとは思うんですよ」
 やがて鍵を開ける音がした。
井上夢人(いのうえ・ゆめひと)
1950年生まれ。‘82年、徳山諄一との共作筆名・岡嶋二人として『焦茶色のパステル』で第28回江戸川乱歩賞を受賞。’86年、日本推理作家協会賞、‘89年、吉川英治文学新人賞を受賞後、『クラインの壺』の刊行を最後にコンビを解消。‛92年、『ダレカガナカニイル…』でソロデビュー。以降、『メドゥサ、鏡をごらん』『オルファクトグラム』『ラバー・ソウル』などの意欲作を刊行。
〈6月19日〉オオゴマダラは1000ベルである


 緊急事態宣言が発令され、解除され、東京アラートが発動され、解除され、そんな春から初夏にかけて私は森にいた。
 もとい、島である。無人島にいた。
 魚を釣り、昆虫を捕らえ、小さな家を建て、土木工事も河川工事もテキスタイルデザインまでこなし、島を開発していたのだ。
 そう、ゲームで。
 ニュースで取り上げられたりもしたので、ご存知の方も多いだろう、『あつまれ どうぶつの森』である。前述の通り、自分で理想の島を作るのが目的だ。シリーズで発売されているが、私は本作が初プレイだった。擬人化された動物たちとほのぼの暮らすことを想像していたのに、家を買えばローンがのしかかり、カブを買ったらその価格変動に一喜一憂という(絵面はあくまで野菜のカブ)、なかなか気が抜けないゲームだった。
 感染者数と死亡者数の告げられる日々の中、私は島で斧を振るっていた。
 医療関係者が過酷な現場で働いている間、何十匹ものオオゴマダラを捕まえていた。オオゴマダラはなかなかの高値で売却できる蝶なので、見つけたら必ず捕獲することにしていた。網を、こう、シュビッ! として。
 この時間でオンライン英会話を学んでいたら、かなり上達していたと思う。
 ワークアウト動画を見て腹筋をしていたら、ビキビキに割れていたかもしれない。
 でも私はゲームをしていた。ゲームをしながら「いったい自分はなにをしているんだろう」と時々考えた。後ろめたさを感じていたのかもしれない。顔なじみの宅配のスタッフが「いや、もう、きっついです」と半笑いしてたのを思い出し、福祉施設での集団感染の報道を思い出し、でも私はやっぱりあつ森をしていた。あ、仕事もちょっとはしていた。
 このゲーム、英語ではAnimal Crossing : New Horizonsという。
 世界的なヒットとなり、発売から6週間で販売数は1300万本を突破。外出自粛どころかロックダウンとなった都市では、うってつけのゲームだったのだろう。それを現実逃避と冷笑するのは簡単だが、実際ホームにステイしていろと言われているのだし、四六時中COVID-19のことばかり考えているのもメンタルに悪い。
 だから多くの人がゲームをしていた。私もしていた。
 我が家はいまや二階建て3LDK、檜風呂つきである。最近タヌキが「地下室を作らないか?」と営業をかけてくる。
 BBCのニュースでは、外出制限で祖父の墓参りに行けない女性が、ゲームの中に祭壇を作り、お参りする様子が報じられていた。BBCの記者が取材に訪れ、ちょこまかと元気に走り回っていた。
 もちろん、彼女の作った島の中で。

榎田ユウリ(えだ・ゆうり)
東京都生まれ。2000年『夏の塩』でデビュー。「宮廷神官物語」シリーズ、「妖琦庵夜話」シリーズ、『この春、とうに死んでるあなたを探して』など著書多数。榎田尤利名義でBL小説も多く発表している。
漫画版Day to Dayはこちら

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