〈6月27日〉 木内一裕

文字数 1,130文字

悪魔の報酬


 時計の針が午前零時を指して、日付が6月27日に変わったころ悪魔の声がした。
「私を呼んだのはキミかな?」
 十数年前の死去からずっと手つかずだった祖父の書斎で見つけた古い本の通りに、悪魔の召喚方法とやらを試してはみたものの、まさか本当に現れるとは思ってもみなかった。
「俺のライバルの、山田二郎を殺してほしい」俺は迷いもなくそう言った。
 俺にとっておそらく最後のチャンスだったオリンピックの代表になるためには、すでに代表に決まったその男を排除する以外に方法はなかった。怪我をさせるだけでも目的を果たせはするのだが、代表確実だと言われていた俺を土壇場になって絶望の淵に蹴り落とした山田に、いつしか俺は殺意すら抱くようになっていた。
「他人の人生を縮めるからには、その代償はキミの人生で支払ってもらうことになる」
 テーブルの上の、身長十五センチの葬儀屋のような悪魔が言った。
「どのくらい?」俺の問いに、悪魔は左の掌を見て電卓を叩くような仕草をした。
「三十二年と少し。……まぁ端数はまけておくよ」
「それだと、俺は何歳で死ぬことになるんだ?」また悪魔が電卓を叩くような仕草をした。
「八十八」「え?」なんだ、俺は本来百二十まで生きる運命だったのか。三十二年減らされても八十八まで生きられるんなら構いやしない。「じゃあ契約成立だ」俺がそう言うと、悪魔はフッと姿を消した。途端にデスクの電話が鳴った。受話器を取ると女の声がした。
「山田二郎さんが亡くなりました」ほう、悪魔は仕事が早いな。だがこの女は誰なんだ?
「新型コロナの肺炎です。もともと肺に疾患をお持ちだったらしくて……」
 新型コロナってなんだ? 肺に疾患を抱えてて、マラソンの代表になるわけがない。
「このご時世ですから葬儀は近親者のみで行うそうです。お花を手配いたしますか?」
 そのとき、目に入った自分の指が、やけに皺っぽいのに気がついた。
「あの、山田は何歳で死んだのかな?」
「え? たしか会長と同い年のはずですから、五十八じゃないですか?」
 二十六から五十八までの三十二年を奪われた俺は、ただため息をつくしかなかった。


木内一裕(きうち・かずひろ)
1960年、福岡県生まれ。2004年、『藁の楯』(2013年映画化)でデビュー。同書はハリウッドでのリメイクも発表されている。他著に『水の中の犬』『アウト&アウト』『キッド』『デッドボール』『神様の贈り物』『喧嘩猿』『バードドッグ』『不愉快犯』『嘘ですけど、なにか?』『ドッグレース』『飛べないカラス』がある。

【近著】

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