私の使命は、小説を手渡すことだ。

文字数 1,049文字

「文庫になりました。3年経っても『本屋の新井』です。」

型破り書店員による”本屋の裏側”エッセイ集が9月に講談社文庫から発売。それを記念して、発売日まで5日連続で、カウントダウン試し読みをお届け! 本日がラスト!

 5年前の3月11日、彼女はふらりと東北へひとり旅に出かけ、被災した。乗っていた電車がひしゃげ、なんとか徒歩で避難する際、たまたま内陸へ向かう道を選んだ。そのため、津波に飲み込まれずに命拾いをした。しかし彼女はその時、何も感じなかったという。運命の分かれ道に立っても、人はそれに気付かないものなのだ。


 その、世界に裏切られたような衝撃は、彼女の中でじっくり時間をかけて、壮大な物語になった。タイトルは『やがて海へと届く』。作者は震災ルポ『暗い夜、星を数えて』で単行本デビューした彩瀬まるさんだ。


 主人公は、東北へふらりと旅立ったきり3.11を境に連絡が途絶え、3年も帰らないままの親友を、待っている。娘をさっさと都合の良い仏様にしてしまう親友の母親や、一緒に暮らしていた彼女の荷物を処分しようとする恋人のことが許せない。


 たったひとりで、ものすごく怖かっただろう。悔しかったし、悲しかったろう。それを想像すると、涙はいつまでも止まらなかった。かわいそうで仕方がなかった。


 そんな主人公が、立ち上がって歩き出すことを、自分に許せるようになるまでの物語。そのしんどくて途方もなく長く感じられる時間を、読者は共有する。

 見守る、なんていう距離ではない。だって私たちも、あの日を確かに経験していて、たまたま飲み込まれなかっただけだということを知ってしまっているから。


 この小説を書くことは、「彩瀬まる」という人間の使命だったと私は思う。あのように被災しなければ、また別のものを生んでいただろう。

 もはやこの作品のテーマは、震災ではない。それを含む世界そのものと、人間のありかたではないだろうか。


 私の使命は、うずくまっている人の肩を叩いて、この小説を手渡すことだ。

新井見枝香(あらい・みえか)

1980年東京都生まれ。書店員・エッセイスト・踊り子。文芸書担当が長く、作家を招いて自らが聞き手を務めるイベントを多数開催。ときに芥川賞・直木賞より売れることもある「新井賞」の創設者。「小説現代」「新文化」「本がひらく」「朝日新聞」でエッセイ、書評を連載し、テレビやラジオにも数多く出演している。著書に『探してるものはそう遠くはないのかもしれない』『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』がある。

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