➂余話 お江戸おやつ事情/三國青葉

文字数 1,802文字

みなさん、江戸時代に「損料屋」という、現代でいう「レンタルショップ」の稼業があったことをご存知でしょうか? その『損料屋』の息子で幽霊が見える主人公・又十郎と幽霊の声が聞こえる妹が、江戸の事故物件が引き起こす事件を解決する新シリーズ「損料屋見鬼控え」。

シリーズ第3作刊行によせて、江戸のおやつ事情について三國青葉さんが語ってくださいます!

余話 お江戸おやつ事情

 「おやつ」の「やつ」は江戸時代の時刻「八つ刻〈やつどき〉」からきているといわれ、今の午後2時から四時がそれにあたります。江戸時代初期までは食事は朝と夜の2回で、昼食をとる習慣がありませんでした。でも、やはりお腹がすきます。そのため、朝と昼の間、ちょうど八つ刻ころに「小昼〈こびる〉」と称する軽食をとる習慣がありました。


 1日3回食事をするようになったのは元禄時代になってからのことです。食事回数が増えた理由としてはふたつのことが挙げられます。ひとつは、日本史上最大の火災といわれる明暦の大火で焼け野原になった江戸の街を再建するために大工や職人などの肉体労働者が集まり、2食では体がもたない彼らが昼にもご飯を食べ、それがひろまったというもの。もうひとつは菜種油が安く手に入るようになり、それを行灯に使うことで人々の活動時間が増えたからという理由。それまで行灯の油は魚油でにおいがひどいし部屋中がすすけてしまうため、明るいうちに仕事をし暗くなったら寝るという生活を皆がおくっていたのだそうです。起きている時間が長くなったことで食事も3度とる習慣がついたというのはなんだか興味深いです。


 さて、江戸庶民はおやつに何を食べていたのでしょうか。かりんとうや焼き芋、せんべいなどが多かったようです。饅頭も人気でしたが、毎日気軽にぱくぱく食べるにはちょいと値が張りました。


 饅頭は鎌倉時代後期に円爾弁円〈えんにべんえん〉(聖一国師)という僧が伝えたと言われています。宋で臨済宗を修めた弁円は帰国後博多に滞在していた折、茶店で受けたもてなしのお礼に主の栗波吉右衛門に宋で学んだ饅頭の作り方を教えました(饅頭の伝来については、室町時代に日本に帰化した林淨因〈りんじょういん〉が奈良で作ったのが最初だという説もあります)。当時の饅頭は甘くありませんでした。砂糖が非常に高価だったからです。


 砂糖が日本にもたらされたのは奈良時代、唐の鑑真和上によるものとも伝えられていますが、あまりに貴重であったため、薬として扱われ大変高価でした。その後も砂糖は輸入に頼っていましたが、17世紀から18世紀初頭にかけて福建省から琉球・奄美に黒砂糖の製法が伝わり、また、八代将軍吉宗が奨励したことにより四国などで砂糖が作られるようになったので、甘い饅頭が庶民の口にも入るようになりました。しかし、享和年間や嘉永年間でもまだ600グラムが現在の価格にして8千円もしました。1キロで1万3千円ちょっとする計算になります。庶民に砂糖がいきわたるようになったのは、明治になって外国の近代的な精糖技術が導入されてからです。


 江戸も後期になるといろいろな饅頭が作られるようになりましたが、当時はすべて蒸し饅頭。焼き饅頭の登場は、こちらもまた明治になってからでした。


 饅頭と並んで和菓子といえば羊羹が思い浮かびます。初めのころの羊羹は小豆と小麦粉や葛粉を混ぜて蒸す蒸し羊羹で、砂糖ではなく甘葛を加えていました。そして1800年ごろに寒天を用いる練羊羹が作られるようになりました。羊羹は長さ6寸(約18センチ)、巾は各1寸(3センチ)のものをひと棹とし、それが銀2匁(約67文)しましたから、ひとつ3文の饅頭に比べてかなり高価な菓子でした。ですからこれらを踏まえると、落語の「饅頭こわい」でこわいのが羊羹ではなく饅頭なのが腑に落ちる気がします……。


三國 青葉(みくに・あおば)

兵庫県生まれ。お茶の水女子大学大学院理学研究科修士課程修了。2012年「朝の容花」で第24回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞し、『かおばな憑依帖』と改題してデビュー(文庫で『かおばな剣士妖夏伝 人の恋路を邪魔する怨霊』に改題)。その他の著書に『忍びのかすていら』『学園ゴーストバスターズ』『学園ゴーストバスターズ 夏のおもいで』『黒猫の夜におやすみ 神戸元町レンタルキャット事件帖』 『心花堂手習ごよみ』などがある。

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