装幀のあとがき/川名潤

文字数 3,298文字

プロのデザイナーが「本」のデザインについて語るエッセイ企画『装幀のあとがき』。

今回は、川名潤さんに、第164回芥川賞候補に選ばれた、乗代雄介さんの話題作『旅する練習』について、語っていただきました。

書き手:川名 潤

1976年千葉県生まれ。多数の書籍装幀、雑誌のエディトリアル・デザインを手がける。

2020年1月号より「群像」のアート・ディレクターも務める。

https://www.instagram.com/kawanajun_bdo/

想定の装幀 



「あとがき」らしく、できるだけ内容に触れずに書いていきたいところですが、この装丁はどうしてもそれができないので、できればこの『旅する練習』を読むという体験をしたあとで読んでいただきたいなと思います。

 

まずこの作品は、小説家である主人公が書いた「作中作である」ことという前提があります。これは「作中作」の最後の行が記されたその後、なんらかのかたちで発表されているかもしれない可能性があるということです。よってこの『旅する練習』は、あくまで作中の世界から外に出ずに、発表される/されているとしたら、こういう佇まいをしているだろうというシミュレーションとして装丁されています。「いや、そんなつもりはなかったんだけど」とあらかじめ一言加えたいのですが、「想定の装丁」という駄洒落で説明できる装丁です。作中ではもちろん、この小説家である叔父と小学六年生の姪の旅は、実際にあったこととして記録されています。つまり、小説家に起きたとても個人的な出来事であり、エッセイとして出版されるかもしれません。いや、出版社を介するとも限りませんね。自費出版という形をとる可能性もあります。もっと言えば、小説家が旅の中で、「練習」としてその風景を文章によってスケッチしているように、あくまで自分のための個人の記録として残し、自装したものという可能性もあります。さらにはそれは、「旅する練習」という題名ですらないかもしれません。


……とまあ、こんな感じで、すべては「想定」なので、ここから書くことが可能性の域を出ないことは承知しておいていただきたいと思います。想定、つまり作中の小説家によって書かれていないことを想像して、こういうことが作中で起こり得るという妄想をこれから書いていきますので。


一見、抽象画と題名だけの、なんてことない装丁ですが、これに至るまでには、2つの対になった横顔によって壺の形を浮き上がらせるような、根拠ある(と少なくとも私は思っている)妄想を重ねた結果の産物です。「横顔」は小説家によって書かれた文章、「壺」は書かれてはいないけど、あり得る可能性。ありていに言えば「行間を読む」という作業になります。壺、つまり行間、つまり私の妄想を、以下に羅列します。


①物語の中にも読者が存在する。姪である亜美の母親、父親、ほかの肉親、二人の旅に参加した「みどりさん」。

②その読者は小説家が書くことによって旅を記録したのと同じように、この旅を追体験したり記録したりしようとした。

③その読者は二人が辿った道筋を歩きながらその風景を写真に撮った。

④その読者は二人が辿った道筋を歩きながらその風景をスケッチした。

⑤出版にあたってはこの③④どちらかが装丁に用いられる。


これらはあくまで作中世界の中での話と思ってください。ややこしいですが、これを実際に装丁にしてみた、というのが『旅する練習』の装丁です。

まず、これは初出である雑誌「群像」2020年12月号の扉ページです。ここでは③を採用しました。作中に存在する誰かが撮ったかもしれないカワウの写真です。それは亜美ちゃんの父、母、みどりさん、さらに言えば作中に存在したかもしれない小説家の担当編集者、装丁家、写真家の可能性があるどころか、それぞれが頭の中に描いたカワウの姿かもしれません。さらにさらに、亜美自身が将来サッカー選手になったときのゴールパフォーマンスを頭に描くときに想像するカワウの姿かもしれない可能性もあります。扉ページのカワウが翼を広げている様子は、以上の可能性すべてを示唆する最小公倍数としてのカワウの写真として選択しました。


 『旅する練習』単行本の装丁では④を採用しました。「③は雑誌でやってしまったので④にしようか」という安易な発想と、「他の可能性も具現化してみたい」という私の欲と、「カラーで印刷できるとはいえ、黒いカワウは地味だ」という身も蓋もない理由もあります。


実際に④を選択して装丁を考えていくにあたって、④の可能性をさらに掘り下げて考える必要がここで出てきます。写真は実際にだれかが見たかもしれない風景であるという、漠然としながらも、「現存する風景」という縛りがありますが、スケッチ、つまり「絵」には、それを描く人の解釈が加わる余地が無限にあり、「この物語の中にどういう絵が存在し得るのか」を考え出すと、とりとめもありません。なので、ここからさらに妄想を重ねることになります。この物語が出版されることになったとして、装画を担当することになった一人の画家の思考回路を、ひとまず想像してみます。


⑥風景の写実的なスケッチは考えにくい。著者である小説家が「風景を文章でスケッチする」という行為をしているので、絵によるスケッチは小説家が行った行為の妙味を台無しにしかねない。

⑦同じ理由で亜美の肖像も考えにくい。それに、この物語は、亜美の話ではあるが、亜美と小説家の話でもあり、また、それ以上のことでもある。


よって⑧以降が考えられます。


⑧抽象画によって、この旅の風景を描く。

⑨抽象画によって、小説家の情景を描く。

⑩抽象画によって、亜美を描く。

⑪抽象画によって、亜美を象徴するカワウを描く。

⑫抽象画によって、二人(またはみどりさんを入れた三人)の情景描写を試みる。


見る人に解釈を委ねることができる抽象画なら、⑧から⑫まですべてが可能かもしれないと思い、頭の中でひとつの絵を描いてみたのですが、その作風にとても近い画家に私は思い当たりました。それが尾柳佳枝さんです。


さて、妄想から現実世界に戻って、尾柳さんにもこの物語を読んでいただいたうえで、尾柳さんと担当編集者と私とで、zoomでの打ち合わせです。「いやあ泣きましたよねえ」なんて言いながら、私はたしか、⑧から⑫までを尾柳さんにお伝えしました。①から⑦までの妄想の中で、すでに私にとって尾柳さんは物語の中の人物なので、ややこしい前提は必要ないわけです。


数日後、物語の中の人物である尾柳さんからすばらしい装画が届き、そこで現実世界の私は、この絵にもういくつかの可能性があることに気付きました(にしてもややこしいですね)。


⑬小説家と同じく、「忍耐と記憶」とともに亜美を描こうとした母、または父、またはみどりさんの絵。

⑭二人が旅から帰ったあと、緊急事態宣言が発令。外に出られない亜美はこの旅の風景画を水彩で描く。そのときのパレット側に偶然できた絵に「カワウっぽく見えない?」と思った亜美が羽根のようなものを付け足したもの。


考え出すとキリがありません。


⑮作中で出版された『旅する練習』を読んだ読者が描いた絵。

⑯現実世界で出版される『旅する練習』を読む未来の読者が描くかもしれない絵。

⑰つまり『旅する練習』を読んだあなたが描くかもしれない絵


ついでであっても作中にいるかもしれない装丁家について触れなければいけないだろうと思ったのですが、私の妄想の中では装丁家は存在しません。尾柳さんの絵の印刷に、隠し味程度に蛍光ピンクのインキが使われていますが、これはこの物語を読んだ上で製版した作中の印刷所の製版担当者が「亜美ちゃんのキラキラした旅の思い出を再現したい」と、気を利かせて画策したものです。シンプルな明朝体の題名、そこにかかる帯の、題名に添えるような位置に亜美の言葉を置いたのは、恐らく「数え切れないほどの解釈がある装画と題名に、少しでも糸口を」とその職業柄から考えたであろう、作中の編集者のしわざです。もちろん「亜美ちゃんの言葉によって刻まれる本にしたい」と思いながら。

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