【試し読み】天狗と狐、父になる

文字数 17,482文字

伝説最強のあやかしが
幸せになる鍵は、料理と子育て!


伝説に名高い天狗と狐。

600年の昔より人の世を騒がせ続けた二人が時をこえ、初めて共闘する。

目的はーー料理と子育て!?


心温まる「あやかし×子育て」ストーリー!

 第一話 天狗、山を出る


 1


 黒舞戒[コクブカイ]は、ただの天狗ではない。

 あやかしの世界では名を知らぬものがいないほどの、伝説級の存在である。

 焔のように輝く乱れ髪、瞳は澄んだ琥珀色。野生味のある濃い肌に鼻筋のとおった顔立ちは、東洋のあやかしというより遠い異国の神々を思わせる。漆黒の翼を羽ばたかせて空を舞う姿は、悪魔王ルシフェルのごとしと称しても過言ではないだろう。禍々しい威容に違わず気性は荒く、ひとたび暴れたなら天を裂き山を砕き、地上に雷の雨を降らせるほどだった。

 欲しいものがあれば力づくで手に入れる。気に入らなければ龍ですら組み伏せる。陰陽寮の術師のみならず、京都の鞍馬ですらその尋常ならざる力を畏れ、黒舞戒が住まう上州の山々を、自らの支配権に置くことを諦めたという。

 しかし――そんな最強の天狗にも、仇敵と呼ぶべきものが存在した。男の名はオサキの宮杵稲[クキトウ]。血のように赤い瞳、しなやかな黒髪に銀色の獣耳を生やした、女形のごとき麗しい人姿をまとう狐狸のあやかしである。

 あるときは住処である根本の支配権をめぐり、またあるときは美しい女をめぐり、顔を突きあわせるたびに血で血を洗う激戦を繰り広げてきた。そのあまりの激しさから災害のごとく語り継がれ、ふたりの名を聞いただけで逃げだしてしまうあやかしも多かったという。

 そして六百年の歳月が流れた今、天狗と狐は再び険しい顔で向かいあうことになった。もはや爪牙を交えるだけでは解決しない。最強最悪のあやかしコンビの関係は、いよいよ最終段階というべき局面にまで発展しつつあったのである。


 ◇


「ぼくたち、結婚するべきじゃないかな」

「待て待て。なんでまた急にそんな話になったのだ」

 広々とした屋敷のリビングにて。いきなり飛びだした爆弾発言に、黒舞戒は思わずソファからずり落ちそうになった。

 思いつめたようなまなざし、かすかに震える肩、ほんのりと色づいた頬。花のように華奢で可憐な男であるだけに、こちらにそんなつもりはなくても妙な空気が漂ってきてしまう。

「この屋敷で君と暮らすようになってから、そろそろ一年が経つだろう? 人間の世界で暮らしているとお互いの関係についてたずねられる機会は多いし、諸々の都合を考えたら今のうちに戸籍だって登録しておきたい。せめて共通の苗字くらいは用意しておかないと、なにかあったときに怪しまれてしまうからね」

「だとしても結婚は飛躍しすぎだろ。……さてはお前、酔っておるな?」

 宮杵稲は返事の代わりに、ひっくと喉を鳴らした。夕食の際、酒に弱いというこの男に無理やりビールを飲ませたのだが、まさかたったひと口で我を忘れるほど酔うとは思わなかった。よく見れば瞳の焦点が合っていないし、この様子では明日になったらケロッと忘れているか、はたまた恥ずかしさのあまり首を吊りたくなってしまうに違いない。

「なんで嫌そうな顔をするんだよ! 家族になるって約束したじゃないか!」

「ぎゃあっ! へばりついてくるな、うっとおしいやつめ!」

 誓いのキスでもするつもりなのか顔を近づけてくる仇敵に、さすがの天狗も悲鳴をあげてしまう。こんなにでかい声でわめいていたら――と、思いがけず危機感を抱いたところで、屋敷の奥からてこてこともうひとりの住人がやってくる。

 くりくりとした丸い瞳。人間の、小さな赤子である。

「ぱーぱ?」

「やはり起こしてしまったか……。天狗のおいたんも狐のおいたんも今ちょっと手が離せないから、実華ちゃんはお行儀よくしていてくだちゃいねー」

 慌ててそう言うも、気持ちよく寝ていたところで叩き起こされたからか、赤子はくしゃっと顔をゆがめ、今にも噴火しそうな有様である。

 六百年来の仇敵とひとつ屋根のしたで暮らし、人間の赤子を育てることになったばかりか、情熱的なプロポーズまでされるとは……いったいなんの因果で、こんな生活を送るはめになったのか。

 錯乱する狐と、やかましく泣きだした赤子に翻弄されながら――黒舞戒の頭の中でぐるぐると、過去の記憶が呼び覚まされていく。


 ◇

 

 そもそもの話、黒舞戒は人間のことが大嫌いだった。

 昔からそうだったわけではない。

 むしろ、あやかしの中ではうまくやれていたほうだった。

 京の都で百鬼夜行の騒乱が起これば、弱いものいじめはやめろと強者揃いの軍勢をちぎっては投げ、安政の大火の折には火消しに奔走し、江戸の民衆に涙ながらに感謝されたこともあった。山岳信仰が盛んだったころには多くの参拝客が根本の山を訪れ、社を建てられ神のごとく崇め奉られていた。

 しかし明治の神仏分離令によって社殿のほとんどが失われると、いつしか存在ごと人々から忘れ去られるようになった。

 天狗としては当然、面白くない。不機嫌そうにしていることが多くなり、なまじ力が強すぎるがために、近しいものたちでさえ近寄らなくなる。そうこうしているうちにずるずると年月が過ぎていき、あやかしの世界においても過去の存在となってしまう。

 丁稚として長年仕えていたカワウソの衣雷ですら、

『あんたはもう、おいらが知っている黒舞戒サマじゃないっす』

 と、愛想をつかせて郷里に帰る始末。おかげで伝説の天狗はひと知れず落ちぶれ、かび臭い社でくだを巻くだけのあやかしに成り果てたわけである。

 そうなる前になんとかすればよかったのに――という意見もあるだろうが、絶対的な存在である黒舞戒は飢えや苦しみというものを感じたことがなく、孤独な暮らしの中にあっても生き抜くことができてしまった。

 ボロ布同然と化した黒の作務衣を身にまとい、物置だった掘建小屋を新たな社とし、明けては暮れていく空を眺めるだけの日々。季節によって変幻自在に在り方を変えていく山の生活はいつになっても飽きることはなかったものの、天気が悪いときだけは別だった。地面に半分ほど埋まった社に避難し、朽ちかけた天井を眺めていると、己はなぜこんな暮らしをしているのかと、つい考えてしまうからだ。

 そしてある雨の日の夜、住処のほうが先に限界を迎えた。床のうえでいびきをかいていた天狗の鼻先に、ぽとりと水滴が垂れてきたのである。

 雨漏りとなれば、寝るどころではない。社の隅っこに避難しても今度は無理な姿勢になって息苦しく、ぴとん、ぴとん、と床を打つ音に悩まされる。黒舞戒は「があっ!」と声をあげて起きあがると、そのまま夜の闇におどりでた。

 夜目が効く天狗の眼で屋根をあおぐと、青い布がばさばさと風にあおられていた。いつだか衣雷が「応急処置っすよ」と言って張りつけたブルーシートがはがれて、そこから雨粒が流れ落ちているようだった。

「天狗たるもの、雨漏りごとき造作もない」

 自信満々に言い放ち、ムササビのごとく羽を広げて屋根まで飛びあがる。

 しかし敵は思いのほか曲者だった。ブルーシートに釘を打ちつけようとするのだが、雨風を受けてやたらめったらとなびくせいで、なかなかうまくいかない。なんとか押さえつけて金づちで叩くも、屋根が老朽化しているからか木の板ごとばきりと折れてしまう。

 おかしい。こんなはずでは。

 衣雷みたいにトンカントンカンできると踏んでいたのに、金槌で指を打ちつけてもだえる始末。次こそ当てなくては、カワウソ以下の無器用[ぶきっちょ]になってしまう。

 黒舞戒の焦りに山の気が同調し、雨は激しい雷雨に変わっていく。

 横殴りに打ちつける風を払う最中、ふと脳裏に忌まわしい記憶がよぎった。

  ――どんなに強くたって、ひとりぼっちじゃ生きていけないんすよ。

「黙れ衣雷! お前がいなくたって、俺はやっていけるのだ!」

 むきになればなるほど手が滑り、岩をも砕く剛腕によって屋根はぼろぼろになっていく。そのうちに風でめくれあがったブルーシートがべたりと顔にへばりつき、屋根から転げ落ちそうになってしまう。じたばたともがいて剥がしたすえに、いよいよ堪忍袋の尾が切れた。

「破アッ!」

 耳をつんざくほどの雷鳴が響き渡り、ありとあらゆるものを粉砕する。憎きブルーシートを、ボロボロになっていた屋根を、長年に渡り暮らしてきた天狗の社を。

 天地を揺るがすほどの勢いで放たれた一撃は雨雲どころか夜の闇をも吹き飛ばし、ほどなくして日の出がおとずれる。

 いつものように朝の光を浴びて、山のあちこちから緑の息吹が――とはならず、周囲に漂うのは湿った木が燃えたときの、喉にこびりつくような煙の匂い。長らく苦楽をともにしてきた住処の、最後の最後に残った掘建小屋ですら、今や黒々と焦げた炭の塊となって崩れ落ちている。

 なぜこうなったのか。どこで間違えたのか。

 黒舞戒は空を見あげ、ぽつりと呟いた。

「なにもかも、人間が悪い」

 過ぎたことを悔やむより、前に進むべき。

 我が身を崇めることを忘れた薄情者どもに、今こそ思い知らせてやらなくては。

 こうして天狗は心機一転、人里に降りることを決意したのであった。


 ◇


 ぐうと腹の虫が鳴き、黒舞戒はまどろみから目を覚ました。

 公園の時計に目をやると、午後三時を過ぎたころ。ぱさりと音がしたので振り返ると、野良猫が食いかけのサンドイッチを拾ってきてくれた。山の化身たる天狗が飢えているのを見かねてのことだろうか。無言で首を横に振ったあと、優しく頭をなでてから追い払う。

 黒舞戒は寝ぐせのついた赤髪をかきあげ、備えつけのベンチから身を起こす。漆黒の翼はかさばるため肩甲骨の中に仕舞いこんでいるが、そうしているとほとんど人間と変わらない。煤と泥にまみれた顔でボロ布と化した作務衣をまとっているため、螺鈿細工のごとくきらびやかな容貌もまた見る影もなくくすんでしまっている。

 勢いのまま山から降りてきたところまではよかったが、なまじ気位が高いせいで悪事のたぐいにまったく向いていなかった。本気を出せば弱いものいじめになってしまうし、ならば面と向かってやりあわずにどうこらしめてやろうか……なんてまわりくどいことを考えているうちに、気がつけば数日が過ぎていた。

 心機一転すると決めたばかりなのに、まったくもってよくない流れである。悠久の時を生きているだけに天狗の気は長い。公園のベンチでぼんやりしたまま数十年、なんてことにもなりかねない。そもそも面倒くさがって山に引きこもっているうちに、世間はこうも様変わりしてしまったのではなかろうか。

「気は進まぬが、やはり同胞のもとをたずねるとしよう」

 決心したところでえいやっと立ちあがり、黒舞戒は街の中心部である駅のほうへ向かう。今いるところは上州でもっとも栄える地、群馬県高崎市である。

 人間たちのほとんどは気づいてさえいないが、高崎市はあやかしに支配されている。だからこそ急速に発展しつつあり、今や県庁所在地の前橋市をゆうに越えている。次に狙うは宇都宮か大宮か、はたまた新宿か。いずれにせよ、すべては影の支配者たる『九里頭[クリズ]』の手柄だろう。

 かのあやかしは六百年の歳月を生きる黒舞戒よりも古くから存在し、かつては人身御供を要求するなど荒々しい面もあったという。老妖となった今でさえ、その影響力は衰えるどころか増す一方。人の世で支配者となるコツを聞くには、絶好の相手と言えるだろう。

「たのもう、九里頭どのに用があり参った」

 慣れない道をさまようこと三十分。龍とも蛇ともつかぬ飾りが表札代わりについた屋敷を見つけた黒舞戒は、鉄の戸をばんばんと叩いて反応を待つ。外からでもわかるくらいに妖気が密集しているし、質素な外観の中に隠された陰陽的な意匠の数々からして、件のあやかしの住処と見て間違いなさそうだ。

 やがていくつもの足音が響いてきて、黒いスーツ姿の男たちがやってくる。身なりこそ上等だが揃って面構えが悪く、がたいもよいためカタギの人間には見えない。屋敷から漂ってきた妖気が彼らのものであることからしても、あやかしが化けていると考えていいだろう。

「我こそは黒舞戒なり。お互い面識はないが、この名を伝えれば九里頭どのもわかるはずだ。さっさと呼んでこい」

「はあ? お前があの、根本の大天狗だと?」

 主格らしき男が前に出て、あからさまに疑わしい視線を向けてくる。

 どうだこの威厳とばかりにふんぞり返ってみせる黒舞戒。しかし雑巾のような作務衣をまとった姿でそんなポーズを決められると、なおさら滑稽に見えてしまう。

 遠巻きに様子をうかがっていた若い家来たちも、煤と泥にまみれた天狗を鼻で笑ったあと、主格の男をまじえてコソコソと話をしはじめる。

「黒舞戒って、陰陽寮の手練れですら討伐を諦めたっていう最強の上州あやかしでしょ。こんなみすぼらしいやつが本物のわけないっすよ」

「顔が三つで手が六本って、婆ちゃんから聞いたことあるっすけど」

「口から炎と冷気の息を同時に吐くって噂もあるっすね。遠野あたりから来た田舎もんが、イキってハッタリかましているだけじゃないっすか」

 次々と語られる逸話に耳を傾けながら、主格の男はうんうんとうなずく。

 そのあとで白けたようなまなざしを天狗に向けると、

「九里頭様は面倒見のよい御方だが、礼儀のなっていない若造の相手まではせんよ。それとも伝説の天狗らしく、力づくで言うことを聞かせるか?」

 ぽきぽきと腕を鳴らしながら、主格の男は意地の悪い笑みを浮かべる。

 上背のある黒舞戒ですら、見あげるほどの巨体。あやかしでなければ相撲取りにでもなれそうな男なだけに、腕っぷしにはよほど自信があるのだろう。

 しかし天狗はすっと手を差しだし、相手にたずねる。

「俺を若造とのたまう、お前はいくつだ」

「聞いて驚くな。オレサマは今年で百二十となる古狸の」

 主格の男はそう言いながら、握り返した手で天狗を軽く捻ろうとする。

 しかしいくら力をこめてもびくともしない。巨木か、岩か、それ以上に巨大ななにかをつかんだような……。異様な感触に慌てて手を離そうとするが、そこでミシリと嫌な音が響く。

「ぎゃああっ! 痛い痛い折れるぅっ!」

「握手くらいで大袈裟なやつだな。ほら、目上のあやかしには頭をさげろ」

 次の瞬間、男の巨体が縦にぐるりと回転し、頭から地面に激突する。

 威勢のよかった姿はどこへやら、古狸のあやかしがあっさりとやられたのを見て、取り巻きの家来たちは腰を抜かして後ずさる。天狗は追い打ちをかけるように、漆黒の翼をバッと広げた。

「これで信じてもらえるか? お前らの態度次第でもっと見せてやってもよい」

 凄みをきかせて妖気を解放すると、電柱にとまっていた鳩がいっせいに飛びたっていく。遠くの空からはゴロゴロと雷鳴が轟き、大地はかすかに鳴動しはじめる。

 周囲に与える影響が大きすぎるがゆえに、普段は力を抑えている――目の前の男が本物だと理解した家来たちは、慌てた様子で屋敷の中に消えていく。あとに残された天狗はふんと鼻を鳴らし、白目をむいて倒れている古狸をちょんちょんとつつく。

 最近のあやかしは根性がないな。

 お前たちがそんなだから、地上の覇権を人間どもに奪われたのではないか。

 

 ◇


 九里頭様にお会いになるのであれば、身を清めてからにしてもらいたい。

 今ではへこへこと頭をさげるようになった古狸のあやかしにそう懇願されたので、黒舞戒は屋敷の風呂を借りることにした。

 長いこと身にまとっていたボロ布を脱ぎ捨て、全身にこびりついた煤や泥をボディ用たわしでゴシゴシと落としていくと、日に焼けたカラメル色の肌があらわになっていく。鍛えあげられた肩や太ももは触れたら弾けそうなほど張りがあり、胸筋にいたっては磨かれた銅のようである。くすんでパサパサになっていた髪もシャンプーで洗い流すと本来の色を取り戻し、泡を切るときにばっとかきあげると、鮮烈な赤が鮮やかな輝きを放った。

 こうしてかつての威容を取り戻した黒舞戒は、作務衣の代わりに渡された黒いスーツに袖を通す。銘は『PRADA』とあるが、和装しかしたことのない天狗には着方がわからない。四苦八苦したあげく着崩したような格好になるが、異国風の精悍な顔立ちだけに思いのほか様になっており、古狸のあやかしに見せると「さすがは黒舞戒様ですな。エグザイルのメンバーと言われても違和感がない」と、よくわからない称賛の言葉を呟いた。

 時刻は午後六時。九里頭は人間の姿で商談をすませ、高崎駅近くの喫茶店パリモダンで夕食をとっているころだという。道の手前まで古狸に案内してもらい、黒舞戒は昭和レトロと看板に記された喫茶店へと足を踏み入れる。

 昼だというのに中はうす暗く、革張りの椅子やマホガニーのテーブルを、暖色のランプがうっすらと照らしている。六百年の歳月を生きる天狗からしてみれば明治や江戸ですら『つい最近』であり、昭和レトロと言われたところでピンと来ない。しかし隠れ家のような雰囲気はかつての社を彷彿とさせ、なかなか居心地のよさそうな空間に思えた。

「――おぬしが黒舞戒か。なるほど、そのへんのあやかしとは面構えが違う」

 テーブル席の隅で、七五三のような袴姿の少年が笑みを向けていた。

 黒地に白い龍が描かれた羽織がとにかく目を引く。天狗と同じく力を抑えているようだが、妖気の桁が尋常ではなく、全身からゆらぎのような残滓が漂っている。この男が噂に聞く九里頭であることは、あえてたずねるまでもないだろう。

「九里頭どの、お初にお目にかかる」

「なんか食べる? オススメはチーズキーマカレー」

「ではそれを」

 手短に返し、向かいの席に腰をおろす。

 黒舞戒はあらためて九里頭の姿を眺めた。童子めいた口調のわりに貫禄があり、慇懃な笑みを浮かべながらも眼光は鋭い。散切り頭の髪は白に近い銀色で、その姿は月明かりを浴びてギラリと輝く妖刀を思わせる。身にまとう羽織も派手なだけではなく、不思議な光沢を放つ絹で織られており、表面に施された竜の紋様が時折ぎょろりと視線をさまよわせている。

 ただものではない。そう感じるほどの相手に出会ったのは何百年ぶりだろうか。高崎市を支配するものとは群馬の王であることと同義であり、目の前にいるのはまぎれもなく上州あやかしの、頂点に位置する存在なのであった。

「迷っているのだね。どうにかしたいのだが、なにをどうしたらいいのかわからない」

 そんなことはない。脊髄反射で言いかけて、途中で口をつぐむ。

 人里に降りてきたものの早々に手詰まりとなっていたのは事実である。

 ならばこそこうして、上州あやかしの覇者に話を聞きにきたのではなかったか。

 言い淀んでいる黒舞戒を見て、九里頭は困ったような笑みを浮かべる。

「余のところに来るものはみんなそう。中でもおぬしはかなりの重症だね」

 相手が並のあやかしであったなら、わかったような口をきくなと憤慨したことだろう。しかし黒舞戒はまたもや否定できず、どころかぺらぺらと身の上話をはじめる。自分でもなにに対して焦っているのかよくわからなかったが、堰を切ったように言葉が溢れてきてしまったのだ。

 時間にして五分ほど。すべてを聞き終えた九里頭は、

「人間が悪い、か。でも、そもそもの原因はおぬしにあるのでは?」

「ぐっ!」

 ずばり言われて、天狗はたまらず胸を押さえた。

 九里頭は懐から細長いキセルを取りだすと、喫煙オーケーと書かれた店内で紫煙をくゆらせる。そうやってもったいをつけたあと、さらに鋭い言葉のナイフを突きたてた。

「酒を飲んで毎日ふてくされているだけのくせに、過去の栄光にすがってやたらと偉ぶる。あまつさえ癇癪を起こして、長年暮らしてきた社を粉砕してしまう。そんなみっともないやつのことを誰が崇める。丁稚が愛想を尽かしてしまうのも無理はない」

「ち、違う。人間が……」

「違わないよ。おぬしは六百年も生きてきたくせに、なにも成長しちゃいない。好きなだけ遊んで暴れて暮らす。実にあやかしらしい生き方だね。しかし周りはどんどん進歩しているのだから、いつまでもそんなふうにしていたら、時代の流れに取り残されるだけさ」

 まごうことなき正論。初対面だというのに、九里頭はいっさいの容赦がない。

 これには参った。幼いころから絶対的な強者として君臨していただけに、黒舞戒は忖度なしに意見をぶつけられることに慣れていない。テーブルを蹴っ飛ばしてやろうかと考えるが、癇癪を起こすのはみっともないと指摘されたばかりなので、顔を真っ赤にしながら必死に我慢する。

 と、そこで注文していた料理が届く。 

 ほっと息を吐いてから手をつけようとすると、

「なんだこれは! 真っ白ではないか!」

「パリモダンのキーマは白いんだよ。表面をチーズで包んでいるから」

 見ためは半分に切った毬である。

 こんな面妖なものが食えるかと思いつつも、口に運んでみる。

 直後、黒舞戒は脳天をわしづかみにされたような衝撃に襲われた。今までに食べた料理とはまるで別物。天界のメニューかと疑うほどに美味である。

「チーズの酸味が驚くほどマッチするだろ? 普通のキーマカレーだって飛びあがるほど美味しいのに、それだけでは満足できずにこんなものまで作ってしまう。人間はこの世に現れたばかりの新参者だけど、飽くなき探求心でどんどん進化していく」

 黒舞戒は眉間にしわを寄せ、食いかけのチーズキーマカレーを見つめる。

 たかが料理。

 しかしあやかしは、千年かけてもこのような美味は生みだせない。

「余たちはなぜ繁栄できなかった? 超常なる力をその身に宿しておきながら、崇められるどころか隅に追いやられ、この世の覇権を人間に奪われてしまった? 新しいものを求めず、自らをあらためず、停滞した時の中で生きてきたからじゃないか」

「やつらのように生きろというのか。あやかしとしての矜持を捨てて」

「おぬしは極端だなあ。あやかしはあやかしなのだから、同じようにはなれないよ。ただ学ぶところは多いはずだ。憎たらしいと感じているならなおのこと、人間のことをもっとよく知るべきなのさ」

 九里頭はキセルを再び懐に仕舞うと、柔らかな微笑を浮かべる。座敷童のような姿ではあるが見かけよりずっと大きく感じられ、黒舞戒は相手の見識の深さを認めざるを得なかった。

 弱っちい人間から学ぶなど腹立たしいかぎりではあるものの、現状を見るに衰退しつつあるのはあやかしのほうである。その理由が昔ながらの生き方に縛られ進歩がないからなのだとしたら――新しいものを求め変わろうとしていけば、最終的に勝つのは人間よりも強い力を持つあやかし、ということになる。

「さすがは上州あやかしの長。おかげで進むべき道が見えた気がするぞ」

「それはけっこう。しかし口で言うだけなら誰でもできるけど、不断の覚悟をもって臨めるあやかしはそういない。六百年も続けた生き方をあらためることになるのだから、相応の苦難を伴うものだよ」

「俺をそのへんのあやかしといっしょにするな。やる気になれば人間ごときに遅れを取ることはない。俗世の暮らしにも順応してみせるから今に見ておれ」

 疑わしげなまなざしを向けてくる相手に、黒舞戒はふんぞり返って応戦する。

 九里頭はまさしく蛇のようにすっと目を細め、

「ならばその言葉に嘘がないか試してみよう。実のところ人間から希少な宝を譲り受けたのはいいが、デリケートな代物ゆえに扱いに困っていてね。おぬしにその宝の管理を任せたいと考えているのだけど、どうかな」

「いい度胸だな。この黒舞戒様を、番犬がわりにしようとは」

「ははは。むしろ自らの社をぶち壊した天狗には、うってつけの試練じゃないか。もちろんただでとは言わないよ。このお役目を無事に果たした暁には、余の名において相応のポストを用意してあげよう」

 黒舞戒は腕を組み、しばし思案する。あやかし界隈においても人間の社会においても右も左もわからないでいる現状、なにかしらの仕事をこなし、信用と実績を得ておいたほうが都合はよいのは確かだった。

 しかも相手はこの地の頂点に立つ御仁である。かなり古い存在だというし、後継者を探している可能性だって十分に考えられるのだ。権力者に取りいるようで引っかかりはあるものの、黒舞戒の名を再び世に知らしめるには、もっとも堅実な手段と言えるかもしれない。

「面白い。必要とあらば、地獄の窯にだって飛びこんでみせよう!」

 天狗は高らかに笑い、勝鬨をあげる武将のごとくテーブルにどんと身を乗りだした。

 よもやこの世に、地獄の窯に飛びこむより恐ろしい試練があるとも知らずに。


 ◇


 ――件の宝は本町通りの先にある。

 別れ際に九里頭からそう言われたので、黒舞戒は駅前からさらに奥へ進む。

 すると、空き家の店舗が目立つようになった。色あざやかな看板や背の高いビルといった繁栄の名残があちこちにあるだけに、なおさら侘しさが漂っている。

 人の気が少なくなれば、あやかしにとっては好都合。九里頭は意図的に本町通りを寂れさせ、そこに自らの拠点を置いているという。件の宝が所蔵された屋敷もこの一帯にあり、黒舞戒をそのまま住まわせるという話でまとまっていた。

 通りを歩き数分ほど経ったころ。交差点の手前にいた男が手を振ってくる。白のパーカーにNYと書かれた紺のベースボールキャップを合わせた、今どきの若者といった雰囲気である。

「お前が河童の露尾[ロビ]であるな」

「どうも。一応はお目付け役ってことになってますけど、まあ雑用係みたいなもんですね。兄さんに比べたらひよっこもいいところですから、パシリに使ってください」

 礼儀正しく頭をさげてきた露尾に、黒舞戒は満足げにうなずく。

 人間に変化しているとはいえ河童らしくひょろりと線が細く、頼りなさげに見えなくもない。しかし目の前にいるのが伝説の天狗だとわかったうえで臆することなく話しかけてきたことからして、古狸よりもよほど肝が据わった家来なのがわかる。九里頭としては若手の有望株を寄越した、といったところだろう。

「ではさっそく案内します」と、歩きはじめた露尾にならい、黒舞戒は昔ながらの煉瓦造りの歩道を進んでいく。周囲の様子からボロ屋のようなものを想像していたのだが、あてがわれた住処の前までいざやってくると――。

「なんだこれは。ほとんど城ではないか」

「そりゃそうっすよ。黒舞戒サマは伝説級のあやかし、半端な社に住まわせたとなれば我々の沽券にかかわりますから」

 そう言われると納得ではあるか。露尾の説明によると、明治に建てられたものをリフォームした屋敷だという。昔ながらの奥ゆかしい日本様式の中に現代的な北欧建築の意匠が散りばめられており、天守閣を彷彿とさせる白い外壁に、伴天連の教会めいた門まで備えている。

「ひとりで住むには広すぎる気もするが、豪華であるに越したことはないな」

「あー……。その点については問題ないっすね」

 露尾が小声でなにごとか呟いていたが、屋敷に夢中になっていた黒舞戒は気にも留めない。中に入ると玄関や廊下も当然のように明るく広々としていて、かび臭かった根本の社とは比べようもないほど快適そうに見えた。

 黒舞戒はかつての栄華を思いだし、数百年ぶりにうきうきとした気分になっていた。しかしひときわ豪奢なリビングにやってくると――誰もいないはずの屋敷に、先客がいた。

「よく来たね。しかしご主人様の前で頭が高いな、黒舞戒」

「宮杵稲っ! お前がなぜ、こんなところにいやがるのだ!?」

 上等そうな革張りのソファに腰をおろし、我がもの顔でくつろいでいるのは、六百年の長きに渡り争ってきた仇敵であった。

 血のように赤い瞳、まっすぐに伸びた黒い髪に白い肌。雛人形のように柔らかな顔には蠱惑的な笑みが浮かんでいる。身にまとうのは白の着流しで、頭には銀色の毛並みに包まれた獣耳が伸びている。狐狸のあやかしというより天女と称したほうが相応しい華やかな容貌であるが、腹黒い本性を知っている身としては、憎たらしさのほうが先に立つ。

 自分はこの状況に戸惑うばかりなのに、相手のほうはまったく動じていない。さては喧嘩をふっかけるためだけに、屋敷に侵入して待ち伏せていたのだろうか。

 黒舞戒が燃えるような髪を逆立て憤怒に顔を歪めていると、背後で眺めていた露尾が、場違いに間伸びした声でたずねてくる。

「めちゃくちゃ仲悪そうですけど、なにか因縁でもあるんですか?」

「数えあげればきりがないな。そもそも宮杵稲はオサキの狐――かの九尾が殺生石に封じられたとき、桐生の側に飛び散った破片があやかしに変じたもの。元々は下野のあやかしであるのになぜか俺の縄張りである根本に棲みつき、ことあるごとにちょっかいをかけてきおったのだ」

「先に喧嘩をふっかけてきたのは自分のくせに、被害者ヅラをしないでおくれよ。今回にしたってぼくの縄張りに土足で踏みこんできたのは、君のほうじゃないか」

「妙な言いがかりはよせ。この屋敷は九里頭どのから借り受けたものだぞ!」

 黒舞戒は確認を求めるように露尾をキッとにらみつける。

 河童の若者はへらへらと笑いながら、

「ここは宮杵稲サマが所有するお屋敷なので、天狗の兄さんのほうが厄介になるかたちになりますね。うちのボスより課せられた試練をこなす代わりに居候させてもらう、というのが今回の条件なもんで」

「なんだと……!? 聞いていた話とまったく違うではないか……」

「実のところこの試練は最初から、宮杵稲サマに課せられたもの。しかし先日、さすがに手が足りないと窮状を訴えてきたのです。そこに天狗の兄さんがやってきましたので」

「この際だから組ませよう、というわけだな」

 苦虫を噛み潰したような顔のまま呟くと、露尾は「そんな感じっすね」と平然と返してくる。話がうまく進みすぎていると若干の不安を抱いていたが、よもやこんなところに落とし穴があるとは。仇敵のところに居候というのは、あまりにも屈辱的な待遇ではないか。

 黒舞戒は室内の中央に突っ立ったまま、ソファでくつろいでいる仇敵をにらみつける。肩に仕舞っていた翼を広げて威嚇すると、相手もまた組んでいた足を正し立ちあがる。お互いに妖気を抑えきれず、ゆらぎにあおられた照明のひとつがパチンと火花が散らした。

 まさに一触即発――と、様子を眺めていた露尾が息を呑んだのも束の間、宮杵稲のほうが先にふっと肩の力を抜く。そのあとで態度を一変させ、猫を撫でるときのような声で言った。

「こんなくだらない喧嘩はもうやめにしよう。ぼくたちは昔からずっと争ってきたけど、過去の因縁は水に流して、今こそ手を取りあおうじゃないか」

「お前、正気か? それともなにか、裏があるのか?」

「九里頭どのから言われただろ。変わるべきときがきたって。もちろん、許せないという気持ちはわかる。ぼくの中にだってあるから。だけどもし、君が協力してくれるなら……」

「上目遣いで見つめてくるな! 気色の悪いやつめ!」

 懇願するようにぎゅっと握られた手を、黒舞戒は反射的に払いのける。

 仇敵がやけに素直でしおらしい。至近距離で顔を突きあわせているとまつ毛の長さや首筋の白さに目がいき、身体の内側をくすぐられているような、むずむずとした気分になってくる。

 天狗はバツの悪さから乱れ髪をさらにぐしゃぐしゃとかきあげたあと、平静さを取り戻すべく深呼吸する。それから宮杵稲の顔を見つめ直し、こう告げた。

「許す許さない、という話はひとまず置いておこう。天狗の名において約束したからには、なにがどうなろうとも試練を果たすつもりでいる。相方が因縁の相手だろうが知ったことか。俺は俺なりに、俺がなすべきことをするだけだ」

「なるほど。実に君らしい」

 宮杵稲は納得したように呟いた。

 それから細くしなやかな指をすっと伸ばし「露尾くん」と名指しする。

「ぼくの要望を聞き入れてもらえて助かったよ。それとも九里頭どのは、最初からこうなることも計算のうえだったのかな」

「どうでしょうねえ。協力者をお求めになるところまではともかく、宮杵稲サマと因縁のあるお相手がタイミングよく門を叩くということまでは、さすがに予想していなかったと思いますけど」

「いずれにせよ、今後はそこの天狗といっしょにやっていくつもりだ。しかしぼくは忙しい身だからね、ひとまず人間どもの社会でやっている別の仕事を片付けてきてもいいかな」

 緊張を解いた様子の宮杵稲は、リビングの棚に置かれた伊万里の香炉をひと撫でする。九尾を祖とするオサキは雅なものを愛でる性質があり、狐はそういった美術品を集めて売りさばいていると聞いたことがある。壺があれば割って遊ぶ天狗からすると、実に気障で鼻につく商売だ。

「具体的には二日ほど、この天狗に独力で試練に臨んでもらいたい。ぼくはそれ以上の長い間、誰にも頼らずやってきたんだからさ。たまには解放させてくれよ」

「さてはお前、最初から俺に丸投げするつもりだったな」

 黒舞戒は呆れはてて、横から口を挟む。しかし露尾が「オッケーです」と了承すると、宮杵稲は「よっしゃあ!」と雄叫びをあげて踊りだす。

 これほどはしゃぐ姿を見るのは、長いつきあいの中ではじめてのことだった。

「ちょっと待て。試練とやらは……そんなに過酷なものなのか? 俺としてはただちょっとお宝の見張りをするだけの仕事だと、考えていたのだが」

「来てくれたのが君で本当によかった。愛すべきもの、敬うべきもの、慈しむべきものであったなら、ぼくは差し伸べられた手をつかむことをためらっていたかもしれない」

 宮杵稲は相変わらず柔らかな笑みを浮かべているが、瞳だけは死んだ魚のように光がなかった。能面のごとく不気味な表情に、黒舞戒は本能的に身構える。

「――だけど憎むべきものなら、遠慮なく地獄に引きずりこむことができる」

 狐は心から祝福するような、優しい声で囁きかける。

 そして不穏な空気だけを残し、煙のようにすうっとかき消えてしまった。


 ◇


 ほどなくして露尾も去っていき、黒舞戒だけが静寂に包まれた屋敷に取り残された。

 天狗は背中の翼を仕舞ったあと、いったん落ちつこうとソファに腰をおろす。今まではじっくりと眺める余裕がなかったものの、やはり呆れるほどにきらびやかな空間だ。見るからに価値が高そうなアンティーク家具や骨董品、モダンアートのたぐいが嫌味たらしく並んでいて、迎賓館のような有様である。

 しかし視線を床に移すと、乱雑に脱ぎ捨てられたシャツや下着が散らばっていた。几帳面な狐が片づけすらできぬとは、お宝の管理とやらはよほど忙しい仕事なのだろうか。 

 台所も同様に荒れ果てており、マイセンの皿や牛乳の紙パック、妙な突起のついた瓶が流し台に転がっていた。天狗はその形状に懐かしいような後ろめたいような感情を抱き、はてと首をかしげる。

 ひよこクラブやらベビモやらと書かれた雑誌の山を蹴倒しながら、屋敷の中を見てまわる。廊下の隅には掃除機やモップがごちゃっと並べてあるし、風呂場にはバスタオルが束でどんと置かれている。あの男は美術品だけでなく人形を愛でる趣味もあるのか、やけに小さな衣服が洗濯物かごの中に入れてあった。

 黒舞戒はやがて、廊下の突き当たりにある部屋にたどりつく。

 扉の前には表札がさげられており、

『実華の部屋』

 とだけ、記されていた。

 宮杵稲のほかにも誰か住んでいるのだろうか。

 表札は黄色い花柄で、こんなものを扉に飾るとは相当に浮ついたやつである。

「我こそは黒舞戒なり。誰かいるのか」

 外から声をかけてみるが、返事はない。

 扉を開けてみると、まず甘ったるい乳のような匂いが鼻についた。

 ほかの部屋と同様に白い壁紙の、広々とした一室。ただ調度品のたぐいは洒脱な北欧家具ではなく、むしろ安っぽいプラスチック製のものばかりである。パステルピンクの棚にところ狭しと並べられているのは可愛らしい動物や奇怪なパン人間のぬいぐるみ、あとは室内の中央に巨大な虫かごがあるだけで、やはり部屋の主は留守らしい。

 いや、かすかに寝息が聞こえる。

 あらためて見てみれば虫かごのようなものは柵つきの寝床であり、そこから薄手の毛布にくるまったなにかが、ちょこんと顔を出していた。

 さては桃のあやかしか。違う、こやつは――。

「人間の、赤子……?」

 黒舞戒はぽかんと、寝顔を眺めてしまう。

 屋敷の荒れはてた状況から邪悪な存在でも待ち受けているのではないかと想像していたのに、蓋を開けてみれば猿のがきんちょが寝ころんでいるだけ。

 天狗は脱力し、柔らかそうな頬をちょんちょんとつついてみる。

 赤子のまぶたがぱちくりと開き、どんぐりのような瞳と目が合った。

「む、起こしてしまったか」

 お互い息を止めたまま、無表情で見つめあう。

 ……なんとなく気まずい。 

 そう感じた直後、赤子がぎゃーぎゃーと泣きはじめる。

 黒舞戒はたまらず、耳をふさいだ。

 狸や猪であっても赤子は可愛らしいものだが、人間はそのかぎりではないらしい。桃色の肌に短い手足、丸っこい顔は梅干しのようにぎゅっとゆがんでいて、なんとも不気味でぶさいくに見える。

「ぎゃんぎゃん騒いでいると食ってしまうからな。どうだ、恐ろしいだろう?」

 試しに漆黒の翼を広げてすごんでみせるも、完全に逆効果。赤子はよりいっそうやかましく泣きはじめる。豆粒のような身体のどこにこれほどの力が秘められているのだろうか。なにが気にいらないのかたずねようにも、言葉がつうじないのだからどうしようもない。

 孤高の存在である黒舞戒にとって、赤子のような生きものは未知の存在だ。どう黙らせればいいのかさっぱりわからず、右往左往してしまう。暴れる龍を組み伏せたときのほうが、よっぽど簡単だったように思えてくる。

 天狗は泣きじゃくる赤子を抱えたまま、しばし途方に暮れてしまった。


 ◇


「べーべろべろばー! こわくないでちゅよ、おいたんこわくないでちゅよー!」

 かれこれ五分ほど。恥を捨ててあやしても、赤子は一向に泣きやまない。

 こればっかりは力があっても意味がない。というより強すぎるから余計に危ない。

 なにごとにも向き不向きはあるが、天狗が赤子の世話をするほど無茶なことはない。こんなことは小器用な狐のやつにでも、やらせておけばよいのだ。 

 内心でそう毒づいたあと、はたと気づく。

 屋敷に放置された人間の赤子。デリケートなお宝という九里頭の説明。

 やっていたのだ。宮杵稲も。

 あの男が長きに渡り子守を続け、憔悴して音をあげたとすれば合点はいく。

「なるほど。つまりこれが、俺に課せられた試練というわけだな……」

 憎たらしい狐が人間のがきんちょに負けたと思うと愉快だが、今や己も同じ窮地に立たされた身。不断の覚悟でもって臨むと豪語したからには投げだすわけにはいかず、天狗の誇りにかけてこの難事を乗り越えねばならないらしい。

 そう決意した直後、腕の中にいた赤子がやあやあと暴れだす。ずり落ちそうになったのでよいしょっと抱え直すと、ぐにゃりと嫌な感触がした。

 黒舞戒はこわごわと、紙おむつに包まれた赤子の尻を見る。

「まさかお前……。粗相をしておるのか?」

 思わずきょろきょろと、部屋を見まわしてしまう。

 しかし、誰もいない。露尾も、宮杵稲も。真っ白な壁紙と表情のないぬいぐるみたちだけが、ぶざまにうろたえる黒舞戒の姿をじっと見つめている。

 この世に慈悲はない。

 雨漏りすら直せなかった天狗を、このような漏れと対峙させるとは。


 ◇


「忌々しい人間め……。必ずや根絶やしにしてみせようぞ……」

 無防備な姿の赤子に向かって、黒舞戒は呪詛の言葉を吐きつける。

 しかし先に始末しなければならないのは、手に持った汚物のほうである。

 赤子の股ぐらから褌のようなものを剥ぎとったもののどこに捨てればいいかわからず右往左往していると、廊下に備えつけられた収納棚で同じものの予備が入った袋を見つけた。これは紙おむつという名前で使ったらゴミとして捨ててよいらしい。よおしこれで解決だと小踊りしたあとで新しい紙おむつをつけてやろうとするが、複雑怪奇な作りをしているうえに赤子がやあやあと暴れるのでなかなかうまくいかない。 

 豪快に股をおっぴろげる赤子を見れば、意外なことに娘のようだった。そんな痴態を晒していては、嫁の貰い手がなくなるだろうに……などとぶつくさと呟きながら紙おむつをつけ終えると、赤子はようやく泣きやんで寝息を立てはじめる。すでに精魂尽きかけていたので、天狗は心の底から安堵した。

 粗相をしたままでいたのが不快だったから、泣きわめいていたのだろう。

 黒舞戒がそう納得した数分後。

 赤子は再びぎゃんぎゃんと泣きはじめた。

「あああんっ!」

 思わず自分まで情けない声を出してしまう。

 粗相はしていない。

 ではなにが気にいらないのか。いくら考えても見当がつかない。

 困り果てた天狗の脳裏に再び、かつて衣雷にかけられた言葉がよぎった。

 ――どんなに強くたって、ひとりぼっちじゃ生きていけないんすよ。

「違うっ! これしきの試練、俺の手にかかれば……!」

 黒舞戒は頭をかきむしり、心の奥底から溢れてきた感情を振り払おうとする。

 天狗に父や母はいない。

 生まれたときからひとりきり。親と呼べるものは根本の山くらい。

 それでも生きていくうえで不自由した覚えはなかったし、ひとたび剛腕を振るえば山の動物やあやかしたちをたやすく従わせることができた。やがて人間たちに忘れ去られ、近しいあやかしや丁稚に愛想をつかされたあとも、とくに困ることはないと気楽に構え、生き方を変えようとはしなかった。

 自分はなんでもやれると思っていた。やれると信じていた。

 なのに現実はこのざまだ。

「……ああ、だからこいつも泣いているのだな」

 黒舞戒は生まれてはじめて敗北を味わった。心細さや無力感というものを理解した。

 己の中に弱さがあることを、六百年の歳月を経てようやく知ったのだ。

 泣きじゃくる赤子を眺めて――まるで今の自分のようだと、感じてしまったがために。

 考えてみれば哀れながきんちょである。捨てられたかさらわれたかわからないが、優しい親の姿はなく、得体の知れぬ天狗に抱きかかえられているのだから。

 きっと、寂しさや不安があるのだろう。

 だとすれば、それをなんとかしてやるのが強者の務めではないか。

「仕方あるまい。やれるかどうかはわからぬが、親のふりくらいはしてやるぞ」

 泣きじゃくる赤子に向かって、黒舞戒は語りかける。

 気づかぬうちに、優しい声になっていた。


 ◇


 しかし赤子とは昼夜問わずひっきりなしに泣きわめき、わずかでも目を離せば寝床から転げ落ちそうになり、手当たり次第に物を口にふくんで窒息しそうになる厄介な生きものである。

 黒舞戒はこのあと紙おむつの備蓄を切らし、泣きわめく赤子を抱えたままスーパーまで買いに走ることになる。

 やはりこの世に慈悲はない。

 二日経ってようやく狐が戻ってきたとき、天狗はすっかり憔悴しきっていた。


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