「ぼくはこんな授業をやってみたかったんだ。」/高橋源一郎

文字数 8,606文字

「ぼくはこんな授業をやってみたかったんだ。」


あたりまえを疑ってみると、知らない世界が見えてくる。文学の役割ってなんだろう? 常識ってどういうこと? 絶対の正解ってあるの?

「読む」と「書く」の体験をとおして自分が変わる、人生が変わる。


きのくに国際高等専修学校で二日間にわたっておこなわれた特別授業を書籍化!

高橋源一郎さん『5と3/4時間目の授業』試し読みです!

もくじ


ぼくはこんな授業をやってみたかったんだ 8


1日目

たぶん、読んじゃいなよ!


「5と3/4時間目の授業」って?   16

カリキュラムにはのらない授業   19

文学と哲学の役割は?   24

ソクラテスはなぜ自分で書かなかったのか 27

「すじ道を立てて考えてみよう」──『ナルニア国ものがたり』の先生   32

小説に「誤読」はない   38

想像力を生む場所   41

「絶対にありえないこと」を疑ってみる   44

ぼくを作家にしてくれた先生は誰?   50

自分で探さなければ、先生には出会えない  53

「自殺をしてもいいのか?」──鶴見俊輔さんの答え   56

正解が見つからない問いに、どう答えるか   61

「自分の経験」からスタートする   64

職業ギャンブラー・森巣博さんの教育   67

「外側」から考える   75

常識ってなんですか?   78


2日目

なんとなく、書いちゃいなよ!


論理の力で考えてみよう   82

小学校と工場の共通点は?   84

自由な論理は「危険」かもしれない   88

考えるときの基準は自分しかない   90

「浮かない感じ」──吉本隆明さんの戦争体験   92

説明できないモヤモヤを大事にする   96

子どもの作文① 「私の職業は、教師です」   101

「渋谷109方式」で文章が書ける!   105

ぼくが学生の文章を添削しないわけ   109

小島信夫さんの小説が教える「自由」   113

子どもの作文② 「私は土の中に住んでいます」  115

自分以外の「私」を想像して書く   121

子どもの作文③ 「私は私がわかりません」   125

子どもの作文④ 「僕の名前はブラウン」   130

ほかの誰にも書けない文章──木村センさんの遺書   133

「自分」という不思議なものを、ことばにする   140


「5と3/4時間目の授業」って?


高橋 こんにちは、高橋源一郎です。作家で、明治学院大学の先生で、この学校の仲間である「南アルプス子どもの村中学校」の1年と2年に通う生徒ふたりのお父さんです。この学校に来るのは3回目だと思います。最初にここに来たのは7年前ですね。とても懐かしいです。あれから7年経って、校舎もちょっとぼろくなったけれど(笑)、相変わらずすてきなところですね。最初に来たとき、堀さん(学園長)に校内を案内してもらって、いろいろ教えてもらいました。そのとき、初めて全校ミーティングに参加させてもらって、そのミーティングも素晴らしいなあと思いました。また来たいなとずっと思っていたので、今回また来ることができてうれしく思っています。


 さて、これからぼくがみなさんと一緒に授業をするわけですが、それがどういうものか、知ってますか? この授業は、最初から本になることが決まっています。マジ? はい、マジです(笑)。本は講談社という出版社から出るんですが、きみたちのような子どもがいるところに、それぞれ専門をもつ大人が行って、心の底からきちんと話をする。今の学校ではできないような授業をやって、それをほかの日本中の子どもに届けるというプロジェクトです。その第1弾がこれなので、失敗できません(笑)。そういうミッションでありプロジェクトだと思ってください。


 さて、まず決めなければいけないのは、名前です。どんなことでも、まず、名前をつけることから始めるものです。子どもが生まれたときには、その子の名前をつけるように、です。あなたたちと始めるこの授業にも名前が必要です。ここに来るまで、いろいろと考えてみました。ほかのどこにもなくて、聞いただけでなんとなくやる気になって楽しくもなるような、できたら、どんな授業になるのか中身もわかるような、そんな名前をつけたいと思いました。「数学」とか「国語」とか「倫理社会」とかじゃなくて。というわけで、今日と明日の授業の名前は、「5と3/4時間目の授業」です。さあ、とりあえず始めてみることにしましょう。あなた、名前は? 教えてもらえるかな?


子ども マヤです。


高橋 マヤちゃんですね。一つ、決めていたことがあります。今日と明日は、ぼくがいつも大学でやっている授業とまったく同じやり方で進めていきます。で、ぼくの授業ではいつも「犠牲者」が出ます。大丈夫、ケガしたりはしません(笑)。ただ、集中して意見を訊かれる役の子どもが必要です。ぼくの目の前に座っちゃったのが運の尽き。今日はマヤちゃんがその犠牲者です(笑)。


マヤ はい。


高橋 そうそう、この授業にはサブタイトルもつきます。まあ、ニックネームみたいなものですね。それが、「答えより問いを探して」です。


 さっき打ち合わせをしたとき、この授業の世話係の人は「『5と3/4』ってなんですか?」ってぼくに訊きました。ぼくはとても感動しました。いや、当たり前ですよね。知らないことがあったら質問するっていうのは。なんですかって、訊かれたら、もちろんぼくは答えます。でも大学で初めて授業をしたとき、びっくりしたことがあったんです。誰も何も質問しないんです! 絶対にわからないことがあったはずなのに。どうしてなんだろう。不思議だ。だから、ぼくは、2回目の授業のときは黙っていることにしました。授業中の90分間、ずっと黒板の前の椅子に座って黙っていました。すごく辛かったです、何もしないでいるというのは(笑)。それで90分経ったとき、こういったんです。


「ねえ、きみたち、どうしてぼくが黙っているのか訊かないのかい?」って。そしたら学生は、「何か意味があるんじゃないかと思いました」「何かそのうち指示があるだろうと思っていました」っていったんです。なるほど。それは、ある意味で正しい回答です。別に間違っていません。たぶん、ぼくは何か指示を出すべきだったんでしょう。ぼくの、この沈黙には意味があるんだ、その意味を考えなさい、って。でも、人生何があるかわかりません。授業をしている間だって。もしかしたら、ぼくが突然病気になったのかもしれないし。いや、とりあえず、何かを話しかけてみてもよかったんじゃないでしょうか。だから、さっき質問されてうれしかったんです。でも、今日は大丈夫です(笑)。たくさんしゃべる予定です。あなたたちに嫌がられない程度に。


カリキュラムにはのらない授業


高橋 ところで、この授業の「5と3/4時間目の授業」という名前は、読んだ人も多いと思いますが、かの有名な『ハリー・ポッター』から来ています。ハリー・ポッターの舞台になっているホグワーツ魔法魔術学校へ行く特急は、ロンドンのキングズ・クロス駅の「9と3/4番線」からスタートしますね。ところで、「9と3/4番線」は実際にはありますか?


マヤ わかりません。『ハリー・ポッター』を読んだことがないので。


高橋 ハリポタ読んだことないの!? そうかあ。じゃあ、あなた、どうですか?


子ども1 えっと、お話の中にはあります。


高橋 うまいこというなあ。では、お話ではなかったら?


子ども1 現実にはないでしょうね。


高橋 いい方が冷たいなー(笑)。「9と3/4番線」はお話の中にはある。でも、現実の中には、まあ、ないでしょう。たぶん、ほとんどの人たちはそう答えると思います。でもぼくたちは世界を全部見たわけではありません。だから、もしかしたら、ほんとうにあるかもしれない。そうではなくても、「お話」の中なら、「9と3/4番線」があると思っている人がいる。「お話」の中にはね。とすると、「5と3/4時間目の授業」はどういう授業だと思いますか?


マヤ ……わかりません。


高橋 その授業はもう始まっているんだけれどね。

 ふつうの学校の授業には、理科とか英語とか歴史とか名前がついています。そういう授業って、なんだかあんまり楽しくないことが多い。だいたい、そういう授業には、教科書というものがあって、そこに書いてあるようなことを先生がしゃべるものです。公式を暗記したり、単語や歴史上の事件が起こった年を暗記して、それから方程式を解いたり、長い英語の文章を日本語にするテストをやって、全問正解したらOK。うまくできた。最高。ふつうの授業はそういうやり方をしますよね。そういう授業にもきっといいところがあるんでしょう。でも、それだけが授業なんでしょうか。ぼくは、そう疑問に思うようになりました。でもどうして、ぼくはそう思うようになったんでしょう。その理由をちょっと考えてみましょうか。


 大学にはカリキュラムというものがあって、そこにはぼくの授業ものっています。もちろん、その授業にはさっきいったようなふつうの名前がついています。たとえば「言語表現法」とか。でも、それはぼくが考えたものじゃありません。それに、なんだか大げさな気がします。そんな名前がついた授業、ぼくはあまり受けたくありません。でも、大学の授業の名前は、というか、学校の授業の名前はたいていそういうものです。


 ところで、この「5と3/4時間目の授業」なんて名前はカリキュラムに書けません。それに、シラバスにも書けません。シラバスというのは、簡単にいうと「授業計画表」です。そういうものが必要だって、ぼくは大学の先生になるまで知りませんでした。だいたい、ぼくは大学の授業というものにほとんど出たことがないので知らなかったのですけれどね。大学では授業の内容を細かく書いて文部科学省というところに提出しないといけないんだそうです。


 1年に30回授業があるとして、その一回一回の予定を書かないといけないと聞いて、ぼくはびっくりしました。1年先のことなんか、わかりません。だいたい、ぼくが生きているかどうかさえ! それなのに、どんな本を使って、どんな内容のことを教えていくか書かなきゃならないというのです。困りました。だって、ぼくは二つの授業をやることになっていて、一つが「言語表現法」、もう一つが「現代文学論」という名前だということは知っていました。でも、決めているのは、一つの方では、書くことに関する何かを、もう一つの方では、読むことに関する何かをやろう。それだけだったのです。


 どうしてかっていうと、ぼくは、授業というものは、目の前にいる子どもたち、そう、あなたたちを見てから考えるものだと思っていたからです。だって、会ったことも話をしたこともないのに、この本のここを、ここまで読みます、って、バカみたいでしょ? ぼくはそう思ったんです。なんでそう思ったと思いますか?


 なんでも最初から決まっていたら、つまらないじゃありませんか。授業が始まって、何か知らないことが目の前で生まれてきて、そのことを考えて、終わったら何か知らなかったことを知って、よかったなと思えたらいい。それでシラバスには、「未定」と書いていました。そうしたら3年経ったとき、大学の教務課から注意されたんです。ほかの先生は決まってなくてもちゃんと書いてるって。でもぼくは噓を書きたくなかった。だから書かないでいたら、あんまりいうこと聞かないと、国から文句をいわれますといわれたんです。困った。あまり学校に迷惑はかけられないし。


 ぼくは自分が作家だということを思い出しました。それで、シラバスというタイトルの小説を書いてみたんです。「1回目、空を見て感動する」「2回目、また空を見てなぜ感動したか考える」みたいに(笑)。これはぼくのサイトで見ることができます。以来、毎年改訂版を出しています。

文学と哲学の役割は?


高橋 そして、ぼくは何を教えているか、という問題に戻るわけですが、まず全体の始まりについてお話ししましょう。ぼくが教えているのは、明治学院大学というところの国際学部という場所です。大学では講義科目が決まっています。国際学部なので、国際法とか国際経済とか国際地域研究などなど、国際に関する講義科目が百何十とあります。それ以外に一般教養という科目があって、これは1年生からやります。3年生になったら専門の勉強をするようになります。だけどぼくの大学の国際学部にだけ、ほかにはない講義科目があるんです。さて、なんでしょうか? マヤちゃん?


マヤ わかりません。


高橋 わからないよね。ヒントをあげましょう。ヒントはぼくです!

 大学で教えるようにと誘われたとき、最初は文学部に呼ばれたのかと思いました。国際学部に文学は関係ないですよね。でも明治学院大学では国際学部を作ったとき、絶対にほかの大学の国際学部ではありえない科目を二つ、入れたそうです。それは、文学と哲学でした。そして、文学の担当をぼくがやることになったってわけです。ところで、なぜ、文学と哲学を、授業科目に入れたのか。それには理由がありました。マヤちゃん、なんだと思いますか?


マヤ わかりません。


高橋 わかりませんじゃなくて考えてみましょう(笑)。理由を聞いてびっくりしました。

 日本中に国際学部と名のつく学部はたくさんありますが、文学や哲学を専門科目にしているのはぼくが教えている大学しかありません。大学というところは、まず、最初の2年で、学問のいろんな分野を学びます。なので、もちろん、文学や哲学に関係のない学部の学生も、文学や哲学を教わります。でも、3年生になると、もう自分の専門しか勉強しなくなるのです。というわけで、国際学という学問では、国際経済や国際法やアメリカ研究といった、いかにも「国際的」な講義を学びます。でも、なぜか、ぼくの教えている大学では、3年生になっても、文学や哲学を、その専門として習うのです。その理由はなんでしょう。


 では、ヒントを一つ。文学は何の専門だと思いますか? ちなみに経済学は経済が専門、歴史学は歴史を専門にしています。当たり前ですね。では文学は?


マヤ ことばとか?


高橋 いいですねえ。文学はことばと人間を専門とする「学問」です。いや、文学は、ほかの「学問」とはちょっと違っていますね。文学は、研究するよりもまず、読んだり、書いたりする対象なんですから。では、哲学は何の専門か知っていますか? 哲学は「考えることとは何か」を考えるのを専門にしています。わかるかな?


 少し簡単にいうと、経済学はどうやったらお金が儲かったり損したりするかとか、この社会とお金の関係を考える学問です。でも、お金を使って売ったり買ったりするのは人間ですよね。では、経済学ではその人間について、ほんとうに知っているのでしょうか? そこからぼくたち文学の仕事が始まるのです。そして、哲学は、こういうことをこういうふうに考えているやり方そのものが、正しいの? と考えることが仕事です。


 ですから、文学や哲学は、ほかの専門の学問たちがやっていることをチェックしているのだともいえます。どんな学問でも対象として人間は登場するし、どんな学問でも、とにかく、なんらかの形で考えるということをしているからです。でも、ほかの学問たちは、研究するのに忙しくて、自分が対象にしている人間の奥底に目がいかなかったり、対象にしているもののことばかり考えているので、ほんとうにきちんと考えているのかを、考える余裕はありません。そういうとき、なんでも勉強するのはいいけれど、それだけをやっているとほかが目に入らなくなるよね、それでいいの? 大丈夫? ってチェックするのが文学と哲学なんですね。ほかの学問たちは答えを探すのが仕事。そして、答えより問いを探すのが、文学と哲学の仕事です。


 たいていの学校では教科書で正解を勉強して、後でテストに正解を書くと100点がもらえるでしょう。文学と哲学はそういうことはしません。そもそも正解があるのか、を考えるのです。それが「問いを探して」ということです。ぼくはそれがいちばん大切だと思っています。


ソクラテスはなぜ自分で書かなかったのか


高橋 ところで、ぼくは小説を書いていますが、「正しい」小説ってあると思いますか? マヤちゃん。


マヤ ないと思います。


高橋 ですよね? 「正しい小説」なんて、なんだか気持ち悪いです。もちろん、小説に「正解」なんかありません。じゃあ、哲学はどうでしょう? 哲学の歴史をさかのぼると、その起源のあたり、古代ギリシアにソクラテスという人がいます。だいたい、哲学者というと、このソクラテスという人が第一号ということになっています。では、このソクラテスという、「最初の哲学者」の特徴はなんだか知っていますか、マヤちゃん。


マヤ 知りません!


高橋 そうだよね(笑)。ソクラテスの特徴は、自分では書いていないってことです。「ソクラテスの本」といわれているのは、実はみんな弟子のプラトンやアリストテレスが書いたものなんです。じゃあ、どうしてソクラテスは自分で書かなかったのでしょう?


マヤ 自分ではわからなかったからとか?


高橋 うーん、ソクラテスはそんなにバカじゃないと思うけどなあ(笑)。

 自分で書くと、ずっと後になって「ソクラテスはこう思っていたんだ」と思われてしまうのがイヤだったんじゃないか。ぼくはそう思うことにしています。「自分の考え」が、ある限られたものにされてしまう。そういうことがイヤだった。ほかの人が書けば、ソクラテスがどう思っていたかわからないでしょ? その人が「ソクラテスという人はこう思っていた」と思っているだけなんだから。


 はっきりさせないために、わざと書かなかったんじゃないでしょうか。そもそも、ソクラテスは、ことばや考えを「本」の中に閉じこめることに疑いを持っていたのかもしれません。ソクラテスは、「真理とはこういうことだ」とはいわずに、いろんな人と対話することを通して、「真理」について考えることを経験させようとしたのです。あれ? もしかしたら、この授業もそうかもしれませんね。


 もう一つ例をあげましょう。聖書って読んだことありますか? 聖書も同じです。主人公のイエス・キリストは自分では書いていません。新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと四つの福音書があります。どれも全部イエスの話が書いてあるんですが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4人の違う弟子たちが、別々に書いていて、内容が少しずつ違っています。おかげで、イエスがほんとうは何を考えていたのかよくわからない。自分で書くと、それが答えになっちゃうでしょ? だから、イエスは4人の弟子に4通りの答えを出させたのかもしれません。そうすることで、自分がほんとうは何を考えていたのか、後から来る人たちに考えてもらおうと思ってね。


 ソクラテスもそうです。哲学はもともと、すべてを疑うものです。じゃあ、いちばん確かそうなものはなんだろう。とりあえず「自分」ですね。だったら、まず、そのいちばん確かそうな「自分」から疑ってみたらどうだろう。ソクラテスが、あえて自分では何も書かなかったのは、あらゆるものを疑うということはこういうことだよ、っていいたかったからじゃないでしょうか。


 自分で書いてしまったら、答えはわかったことになる。まだわかってないということを示す意味で、あえて自分では書かなかった。それくらい用心深かったわけです。自分では書かず、わざわざ弟子に書かせる。弟子によって見ているところがマチマチだから、書かれた内容もそれぞれ違ってくる。それを読むと、いったいソクラテスやキリストは、ほんとうは何を考えていたんだ? となるでしょ。わからなかったら考えるでしょう、誰だって。


 だからキリスト教徒は2000年間、考え続けてきたわけです。いえ、キリスト教だけではありませんね。実は、仏教だってイスラム教だって、残っている聖典はみんな、いちばん大切な「神さま」や「仏さま」の「ことば」を、「弟子」の人間の誰かが代理になって、通訳したものなんです。「これが、神さまのことばだよ」って書いてあるけれど、それは「弟子」が勝手にいっているだけ。そうやって、人間は何千年も「答えより問いを探して」きたんですね。

※この続きは『5と3/4時間目の授業』(講談社文庫)でお読みください!

高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)

1951年、広島県生まれ。作家、明治学院大学名誉教授。1981年、『さようなら、ギャングたち』で第4回群像新人長編小説賞優秀作を受賞しデビュー。1988年、『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞、2002年、『日本文学盛衰史』で第13回伊藤整文学賞、2012年、『さよならクリストファー・ロビン』で第48回谷崎潤一郎賞、2019年、第70回NHK放送文化賞を受賞。他の著書に『一億三千万人のための小説教室』『ぼくらの民主主義なんだぜ』『読んじゃいなよ!―明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ』など多数。

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