奥田英朗「普天を我が手に」 第一部冒頭、特別公開!

文字数 26,593文字

奥田英朗「普天を我が手に」
第一部冒頭、特別公開!


20155月、満を持して連載が始まるや否や、「面白過ぎる!」と大絶賛を浴びた「普天を我が手に 第一部」。
今回、主人公たちが思春期を迎えた第二部を「小説現代」20237月号にて全編公開するにあたり、第一部の冒頭を特別公開します
(※7月20日0時まで)。




 年の瀬の深夜はしんしんと冷え込み、火鉢を二つ置いても、八畳間の書斎が暖まることはなかった。空気が澄んでいるせいか、市ヶ谷駅を通過する省線の貨物列車の音がいつもより大きく聞こえた。茶簞笥の上に置かれたラジオでは臨時放送が続き、前日からずっと天皇陛下が危篤状態であることが伝えられている。
 大正十五年十二月二十五日、日付が変わった午前一時過ぎ、陸軍省軍務局に所属する少佐・竹田耕三は、東京市麴町区四番町の私邸で落ち着かない時を過ごしていた。眠るのはとっくに諦め、二階の寝室ではなく一階の書斎にいた。一階の廊下に電話があるため、すぐに出られるようにとの準備である。
 待っているのは、病院からの電話であった。妻の時子が昨夜、風呂上りに産気づき、築地の聖路加病院に入院していたのである。
 病院へは自家用のビュイックで駆けつけ、耕三も同乗したが、時子と義母は冷静で、「耕三さんは家で待っていてください」とその場で帰された。すでに三人の子供を産んでいる時子にしてみれば、慌てるようなことなどひとつもないのだろう。付き添いの義母にしても落ち着いたもので、「まあ、天皇陛下がご危篤で、娘は産気づいて、クリスマスが大忙し」と、ゆっくりとした口調で言うだけであった。こういうとき、男はまったく役に立たない。
 耕三もこれが四人目なので、妻の出産には慣れているはずなのだが、心の中はざわざわと波打ち、じっとしているのが辛かった。初めて子供を授かったのは八年前だが、三人続けて女児が生まれ、周囲は口にはしないものの、そろそろ跡取りが期待されていた。耕三自身も男児の誕生を強く望んでいる。
 周囲が口にしないのは、竹田家が女系の一族で、義父母の間には男児が誕生しなかったからである。従って耕三は婿養子だ。義父母はそのことに陰ながら傷ついている様子で、長女の時子にもなるべく負担をかけまいと気を遣っていた。「もうそろそろ男の子だろう」と、事情を知らない人間が言うだけで、義父はさっと顔を強張らせ、「どちらでもいいんですよ。うちは」と抗議するように言い返す。だからこそ婿養子としては、今度こそ男児を授かり、家族全員の肩の荷を下ろしてあげたかった。
 耕三は文机に向かい、ノートを広げ、時間つぶしに子供の名前の候補を書き連ねていたが、やはり心ここに在らずで、いい名前など浮かんでは来なかった。敬一郎、耕太郎、省一、栄太郎……。長男であることを意識して、そんな文字ばかりが並んでいる。これでまた女児なら余計に虚しくなるだけで、馬鹿な行為とわかっているのに、落ち着かないものだから、やることに理屈が通じない。
 廊下を誰かが歩く音がした。部屋の前で止まり、「耕三君、起きてるのか」と義父・栄吉の声が聞こえた。
「はい。起きてます」耕三はノートを閉じ、返事をした。
 襖が開き、寝巻の上に西洋のガウン姿の栄吉が顔をのぞかせる。
「眠れないか」軽く微笑んで言った。
「はい。やはり気になって。お義父さんもですか」
「いやあ、こっちは歳だから、昔みたいにうまくは眠れん」
「廊下は寒いでしょうから、とにかく入ってください」
 耕三は部屋に招き入れると、火鉢の前の座布団を勧め、栄吉のためにお茶をいれた。
「すまんね。ところで天皇陛下のご容態はお変わりないか」
 栄吉が点けっ放しのラジオを顎でしゃくり、聞いた。
「はい。よろしくないようですね。皇族方はもちろん、若槻首相をはじめ閣僚の方々も葉山の御用邸に詰めておられるようです。陸軍からも首脳陣がお見舞いに参内なさったはずです」
「そうか。まだ四十七歳でお気の毒なことだ」
 今上天皇は長い期間公務を休み、国民の前に姿を見せることはなかった。五年前には皇太子・裕仁親王が摂政に任命され、同時に天皇の幼少の頃からの病歴が公表され、国民の間でも「病弱な天皇」として認知されるようになった。回復の見込みがないこともすでに新聞等で報道され、誰もが大正時代が長くないことを知っていた。
 今日の夕刊ではとうとう「危険」の文字が躍っていた。《聖上陛下御容体 刻々御危険に拝す》──。国民全員が固唾を吞んで見守っていた。
「実はさっき、厠で用を足していたら、お隣さんの敷地から車のエンジンがかかる音がしてね。どうやら佐藤さんが出かけていったらしい。この時間に呼ばれるということは、いよいよということだろう」
 栄吉が小さくうなずいて言う。隣家の佐藤さんとは内務省の要職に就く官吏である。麴町区の番町界隈は、江戸時代は旗本屋敷が並んだ土地で、今も政財官の要人が多く暮らす町だった。敷地千坪級は当たり前で、旧士族の竹田家も千二百坪の敷地に大きな屋敷を構えていた。女中四人と運転手夫婦が住み込み、書生も二人ほど面倒を見ている。
「お義父さん、次の元号、ご存知ではないのですか」耕三が聞いた。
「まさか。わたし如き退役官が知る由もなかろう。もうご隠居さんもいいところだ」栄吉が目を伏せ、苦笑した。
 六十五歳の栄吉は元軍人で、陸軍少将まで務めたのち五十五歳で退役し、宮内省の上級官吏としてしばらく働いた経験があった。現在は私立大学に招かれて法科の教授として教壇に立っているが、軍や政府筋とのパイプは依然として太い。
 栄吉は、耕三のかつての上官である。陸軍大学校時代、英語の成績上位者だけで米国に視察旅行に出向いた際、団長として率いたのが栄吉だった。最初にかけられた言葉が、「君、耕三ということは三男か」であったのだから、今にして思えば時子の婿探しをしていたのだろう。
 耕三は銀行員の三男として明治二十一年、東京市麻布区の飯倉に生を受けた。長兄は父を継いで銀行員になり、次兄は同じ財閥系の商社員になり、三男の耕三が、「実業ばかりではお国に申し訳なかろう」という父の意向で軍人の道に進むこととなった。麻布中学を卒業したのち、陸軍士官学校に進学し、晴れて陸軍士官となる。父のよろこびようは尋常なものではなく、近所に紅白の餅を配るほどだった。そしてさらに陸軍大学校に合格したときは、これまで威張っていた兄たちまでが尊敬の目を向け、「おまえは家の誇りだ」と言ってくれた。耕三は軍人となったことを誇りに思い、国のために命を捧げることを決意した。
 陸大を出てすぐ、二十八歳で時子と見合いをし、婿養子となった。竹田家の先祖は旗本で、幕末には勘定奉行の要職に就いていたとのこと。栄吉が軍人になったのも、侍の血がそうさせたようである。義母の房江は華族の出身で、耕三としては家柄に怯んでしまうところだが、「もうそういう時代ではない」と栄吉が言うので、背中を押される形となった。もっとも耕三が生まれた岩井家も、明治以降台頭した財閥の一門ではあるのだが。
「ところで耕三君、もう子供の名前は決めてあるのかね」
 栄吉がお茶をすすりながら聞いた。
「あ、いえ。だいいち男か女かもわかりませんし」
 耕三はさっきまで男の子の名前をひねっていたのに、うそを言った。
「そうか。もっと早く言っておくべきだったかもしれんが、わたしたちはまた女の子でも同様にうれしいので、あまり気にしないように」
「はい、ありがとうございます」
「君が重圧を感じているのではないかと思ってね」
「いえ、そんなことは……。しかしその件については、時子とも話し合っておりまして、男の子が生まれるまで、五人でも十人でも子供を作ろうと……」
「はは。そうか。それは頼もしいが、無理はしなくてもいい。こういうことは神様が決めることだ。わたしと房江の間には女の子しか生まれなかった。聞いているかもしれんが、五人目、六人目と続けて流産し、医者からもうやめた方がいいと言われ、男の子は諦めた」
「はい、時子から聞いてます」
「四人姉妹というのもまた賑やかでいいものだ」
「そうですね」
 耕三は栄吉の気遣いがうれしかった。栄吉は軍人にしては温和で理知的な人物だった。国際法に詳しく、英国の日本大使館に武官として駐留した経験もあり、国際派で西洋音楽を愛でるようなところがあった。そしてリアリストだった。絶対口にしないが、天皇陛下に対しても冷静なところがある。風聞では、陸軍には栄吉のインテリぶりを疎む幹部もいたようだ。今の陸軍を牛耳っているのは、幼年学校出身の威勢のいい将校ばかりで、耕三も彼らの熱血ぶりと団結心にたじろぐことがあった。
 そのとき部屋の外で電話のベルが鳴った。時計は午前二時を回っている。耕三は飛び跳ねるように立ちあがると、廊下へ駆け出し、受話器を手に取った。聞こえて来たのは、男の低い声である。
「もしもし、夜分に恐れ入ります。自分は、陸軍省の村野と申しますが、竹田課長はご就寝中でしょうか」
「なんだ、村野か。おれだ。本人だ」
 耕三は拍子抜けして肩を落とした。村野は陸軍士官学校時代の同期で、気の置けない友人である。
「貴様、起きてたのか。まさか電話に出るとは思わなかった」
「まあ、ちょっとあってな」
「そりゃそうだ。陛下がご危篤とあれば、軍人たるもの吞気に寝てもいられんだろう」
「ああ、まあな」
 耕三は、妻の出産の報を待っていることは言わないことにした。
「で、早速用なんだが、先ほど陛下がお亡くなりになられた」
「それは本当か」
「ああ。午前一時二十五分。葉山御用邸にて崩御あらせられた。おれは今、三宅坂の通信室にいる。大臣官房付として急遽宿直を命ぜられてな」
「それはご苦労さま」
「それでな、深夜に電話をかけた理由なんだが……」ここでひそひそ話に変わった。「帝国陸軍としても同盟諸国に一報を打たなきゃならん。それでおれが英文作成を仰せつかったわけだが、貴様も知っての通り、おれは英語が苦手でな……」
 そう言って打ち明けたのは、自分が書いた英文を読み上げるから、チェックしてくれないかという頼み事だった。
「すまん。今ここの宿直班には英語に堪能な奴がいなくてな。朝まで待てんのだ。今度赤坂で牛鍋を奢るから」
「わかったよ。読んでみろ」
 耕三は心の中で苦笑し、村田の読み上げる英作文を聞いた。とくに問題はなかったが、ひとつふたつ表現上のアドバイスをする。
「ありがとう。助かった。持つべきものは同期だ」
 村野は用件だけ済ませるとさっさと電話を切った。天皇崩御で軍内部にも緊張が走っているようだ。
 部屋に戻ると、栄吉が聞き耳を立てていたらしく、「とうとう崩御か」とため息交じりに言った。陛下に拝謁したことのある身としては、特別な感慨もあるのだろう。しばらくして、ラジオ放送でも天皇の崩御がアナウンサーの厳粛な声で報じられた。
「当分は日本中が落ち着きませんね」と耕三。
「うん。残念なことだが、みんな覚悟はしていたろう」
「しかし陛下の亡くなられた日に、うちに子が生まれるというのも、少し気が咎めたりするのですが」
 耕三が言うと、栄吉は即座にかぶりを振り、「いいや、むしろめでたいことだよ」と薄く笑んで答えた。
「新しい元号が何になるか知らんが、次の子は元年の生まれだ。新しい時代の申し子ということだろう」
「そうですね。自分もそう思うことにします」
 また電話が鳴った。「今度は誰だ」耕三は落胆したくないので、ぞんざいに言い捨てて立った。廊下で電話に出ると、義母からだった。
「あら耕三さん、起きてたの?」普段通りのゆっくりとした口調である。「おめでとう。男の子ですよ」さらりと言うので、何も考えられず、言葉が耳を左から右へとすり抜けた。
「はあ……」耕三が間抜けな返事をする。
「はあとは何ですか。もう少しお慶びあそばせ。大きな男の子ですよ」
 やっと我に返った。「お義母さん、男の子なんですね!」
「大きな声を出さないでください。耳が痛いでしょう」
「すいません。で、時子は」
「時子も元気です」
「ありがとうございます」
 耕三が電話機に向かって頭を下げる。栄吉が廊下に出て来た。「おいおい、代わってくれ」と紅潮した顔で言い、耕三から受話器を取り上げた。
「間違いないな。男の子だな」栄吉が義母に向かって念を押す。「安産だったのか」「赤ちゃんの体重はいくつだ」「何、一貫あるのか」──。そんなやりとりもあった。
 電話を終えると、握手を求めてきた。
「耕三君、おめでとう」目が潤んでいる。
「お義父さんも、おめでとうございます。竹田家に跡取りが誕生して、ほっとしました。本当によかったです」
「いやあ、めでたい、めでたい」
 栄吉は、耕三の肩を何度か叩いたところで、「おっと、めでたいは不謹慎か」と小声でつぶやき、首をすくめた。
「そうですね。そっと慶びましょう」
「応接間でウイスキーでもやらんかね」栄吉が右手でグラスを傾ける仕草をした。
「いいですね。名前も相談したいし」
「実はゆうべから考えていてね、志郎というのはどうかね。こころざしの『志』に太郎、二郎の『郎』だ」
 移動しながら栄吉が言う。
「志郎──。それはいい名前ですね」耕三は一度聞いて気に入った。
「おいおい、簡単に決めるなよ。君が父親だから、君が名付けるんだ。わたしのはあくまでも参考意見だ」
「いいえ。それ、いただきます。竹田志郎で行きます」
 高揚した気持ちではあったが、勢いで言ったのではなかった。現代的で外国人も発音しやすく、本当にいい名前だと思ったのだ。時子も賛成するだろう。
 夜明けが待ち遠しかった。早く志郎と対面したい。そして時子を労いたい。
 女中頭のヨネが奥の女中部屋から出て来た。寝ないで様子をうかがっていたらしく、すべてを察した様子で、「火を起こします」と台所へ小走りに駆けて行く。栄吉が「なんだ、寝てていいのに」とうれしそうに言葉をかけた。
 応接間に入り、耕三がウイスキーとグラスを用意した。天皇崩御の夜なので遠慮がちに乾杯し、外国製のチェアに深くもたれる。栄吉が葉巻を勧めるので吸った。祝いごとに葉巻を吸うのは英国の風習だ。
 ゆっくりと煙を吐いたら、しあわせがこみ上げてきた。長男誕生で、耕三はいよいよ人生が本番を迎えた気がした。この先、日本は一等国になるべく発展する。その主役は息子たちの世代だ。
「志郎は暁星中学に行かせるか」栄吉が気の早いことを言い、「いいえ、それなら麻布でしょう」と、耕三がおどけて言い返す。
 不意に力が抜け、二人で肩を揺すって笑った。



 前日降り続いていた雪は夜のうちに上がり、金沢の町は一面の銀世界だった。空が薄曇りのせいで、天と地の区別がつかないくらいである。方向感覚を失った海鳥の群れが、浅野川を遡って飛んできて電線にとまり、キョロキョロと辺りを見回し途方に暮れていた。道に人の行き来はない。聞こえてくるのは雪遊びに興じる子供の声ばかりである。
 昼近くになってのそのそと起きてきた矢野辰一は、家の縁側で雪の積もった庭を前にして伸びをし、悪寒が走り、大きなくしゃみをした。ゆうべは隣町に立った賭場に招かれ、軽く顔を出す程度のつもりで出かけたら、雪が降り出して帰るに帰れず、結局朝方まで付き合うことになってしまった。その間、天皇が死んだらしいという報せが入り、みなでラジオを取り囲んだのだが、雪のせいか受信状態が悪くて何を言っているのかよくわからず、「どっちにしろ、わしらに関係あるかい」と誰かが言い出し、それもそうなので、元号の変わる夜に、むさ苦しい男同士、博打を続行したのであった。
「おい誰か、新聞買ってあるか」
 辰一が大きな声で言うと、若い衆の一人、貞夫が新聞を手に廊下を駆けてきた。ガラス戸を閉め、座敷に移り、火鉢の前に腰を下ろし、一面に目を落とす。「天皇崩御」の文字が大きく躍っていた。
「天皇……。おい、サダ。これなんて読むが?」
「さあ、わかりません」まだ三下修業中の貞夫が横でかぶりを振る。
 辰一は右腕を伸ばすと、「おのれ、頭出せ」と命じた。
 ひょいと差し出された頭を拳骨で殴りつける。
「このド阿呆が。先を見越して調べとかんかい」
 容赦のない折檻に貞夫が顔を歪めた。
「天皇陛下も往生されたか。ま、病気なら仕方のないこっちゃ。で、次のアレは何になったんじゃ」
「アレというのは……」
「ほら、アレや。明治、大正ときて、次の呼び名や」
「ああ、はい。昭和です」
「ショウワ? どういう字や」
 問うと貞夫は指で宙に字を書いた。辰一がのぞき込む。
「それは確かけ?」
「はい。朝方、前の道の雪かきをしていましたら、木村先生が通りかかって、ステッキで雪に書いて教えてくれました。天皇がホウギョされて二時間後には決まったそうです」
「そうけ。四高の先生が言うならホンマやな。うん? おのれ今何て言うた。確かホウギョとか言ったな」辰一はもう一度新聞を見た。「崩御や。天皇崩御や。思い出した。明治天皇が死んだときも、そんなことを言いよった。あはは。なんや、なんや」
 写真と見出しだけ眺め、記事は読まなかった。小学校もろくに出ていないため、文語体の文章が理解出来ないのである。
「よし、飯や」辰一は立ち上がると、よく磨かれた廊下を大股で歩き、食堂の間へと向かった。貞夫が先を走りながら、「親分がお食事です」と大声を張り上げる。食堂に入ると揃いの半纏を着た子分たちが壁際に並んでいて、「おはようございます」と揃って頭を下げた。
「目障りや。あっち行っとれ」辰一が手で追い払う。欅の一枚板で出来た座卓に腰を下ろすと、すぐさま女中がお膳を運んで来た。白い飯に豆腐の味噌汁、さばの塩焼きに菜っ葉の胡麻和えが並ぶ。箸を突き立て、口にかき込んでいると、若頭の政吉が正面に座り、「ゆうべ、門前町の賭場に宮田一家の客人を名乗る筋者が現れ、ちょっとした諍いごとがありました」と報告をした。
「それは何がな。具体的に言え」
「へえ。隣り合わせた呉服屋の若旦那の行儀に難癖をつけ、札をいくらか融通させ、キリを作って帰っていったそうです」
 キリというのは賭場の貸金のことである。要するに堅気の若旦那から金をたかったのである。
「黙って帰したんけ。当番は誰や」辰一の太い眉がピクリと動いた。
「タケでしたが、胴元に呼ばれて追いかけたところ、ヤッパで頰を端折られました」
「それで?」
「タケはそのまま病院にやりました。男の方はわかりません」
「ド阿呆!」
 辰一は手にした茶碗を土間に向かって投げつけた。台所の女たちが蜘蛛の子を散らすように四方へと逃げて行く。
「そのまま帰す奴がどこにおる! 真夜中でも探し回らんかい! こんなやくちゃもない真似されて、お前ら矢野一家の看板を何やと思うとる!」
「すいません。雪が積もっていたさけ、車も出せんかったので。当番の者は許してやってくださいまっし」
 巨漢の政吉が頭を下げる。元は相撲取りだった男だ。
「よし。これから宮田一家に乗り込むぞ。支度しね。お礼参りは半日置いただけでアカンのじゃ」
「親分、まだ宮田一家の客人と決まったわけやありませんので……」
「やかましい。乗り込んで確認を取ればええことやろう」
「じゃあ、せめて少人数で。若い衆二人と、わたしがお供します。それとヤッパは短いのだけで」
 政吉が身を乗り出して言う。この男を若頭に据えたのは冷静だからであった。血の気が多い辰一の暴走をちゃんと止める。
「よしわかった。車を用意しね!」
 食事はやめて酒を持って来させた。一升瓶をラッパ飲みする。一合ほど飲んで、あとは景気づけに吹いた。体中に血が駆け巡ると、辰一は別の生き物になる。それは自分でも感じていた。背中に彫られた昇り竜の刺青は今、赤みを帯びて躍動していることだろう。
 子分に用意させた匕首を帯に差し込み、羽織を肩にかけた。矢野一家頭領、ヤノタツの出陣である。

 石川県は能登半島の日本海側の漁村で、辰一は明治二十年、漁師の長男として生まれた。子供の頃から喧嘩っ早く、付いた綽名が「雷の辰」。海風のせいで湿度が高く、年中雷が発生しやすい石川の気候にちなんだ名であった。
 八歳のときから漁を手伝わされてきたが、十五歳で父親が海難事故で死ぬと家を飛び出し、金沢の町へと上った。都会なら喧嘩相手に事欠くこともない。辰一は男稼業に憧れていた。
 賭場の下足番として三下修業を始め、喧嘩が強いことからめきめきと頭角を現し、十八になる頃には子分を引き連れるほどになるが、縄張り争いにおいて相手やくざを一人殺め投獄の憂き目にあう。そして二十四のとき、大正天皇即位の恩赦にて出所し、江戸時代からの三業地・愛宕町の東郭に矢野一家を構えるに至る。正業を持たない博徒としての独り立ちであった。恐らく辰一にはやくざの才覚が生来備わっていたのだろう。人が集まり、賭場は繁盛し、十年もすると商家の屋敷を買い取り、浅野川沿いの通りに看板を掲げるまでになる。今では金沢で名を知らぬ者がないほどの顔役である。
 博打を生業としている以上、賭場の安全は矢野一家の生命線であった。客に遊びに来てもらってはじめて成り立つ商売ゆえ、ならず者がのさばっていたのでは堅気の旦那衆が寄り付かない。島に与太者が現れたとき、直ちにシメるのはこのためだった。二度目を許すと、賭場の評判はがた落ちになる。
 今から乗り込む宮田一家は、古くから露天商を取りまとめる香具師の一家だった。生業の棲み分けは出来ていて、これまで若い衆同士の喧嘩を除けば組の出入りになるようなことはなかった。だからはっきりさせなければならない。客人と名乗る人物のただの不作法なのか。それとも矢野の島と知っての賭場荒しなのか。後者なら出入りとなり、何人か死人が出る。
 雪かきがまだ済んでいないお堀端の道をフォードのT型でそろそろと進み、宮田一家の屋敷の前に乗りつけた。正面の戸が開け放たれ、中の土間では若い衆数人が門松作りにいそしんでいる。車から降りた辰一を見るなりぎょっとして立ち上がった。一人があわてて奥へ駆けて行ったが、残りの者は口も利けないでいた。
「おい、宮田を出せ! わしは愛宕のヤノタツや! 用件はわかっとるやいね!」
 辰一の声が響き渡る。肩を怒らせて中に入ると、すかさず政吉が一歩前に出た。
「矢野一家や。用があって参った。親分さんはおられるか」
 奥に向かって声を張り上げる。間を置かず数人の足音が鳴り響き、十人近い男が現れた。先頭にいるのは頰に刀傷のある宮田丈太郎である。
「なんや、ヤノタツ! どんながやいね!」
 宮田が目を吊り上げ、鬼の形相で言葉を吐いた。
「こっちは四人。しかも丸腰。まずは若い衆を下げてもらいましょうか」政吉が丁寧だがドスをきかせて言った。「こちらの用はゆうべの門前町の賭場の一件。当方の仕切る盆に宮田一家客人を名乗る者が現れ、不作法を働いた揚句、うちの若い衆に斬りつけたとのこと。そういう客人はそちらにおられますけ?」
「ああ、ゆうべのことけ。そんならわしの東京の客人や。なんや言うとったな。アヤつけてきた小僧を少し掃いたとかな。そんなことぐらいでいちいち騒ぐな。どうせ三下やろう」
 宮田がほくそ笑んで言う。するとうしろから気障な背広を着込んだ四十がらみの男が顔をのぞかせた。
「おい、そこのサマ師。てめえらおれに用か。おれを誰だと思ってやがる。東京浅草は隅田会の直参だぞ。つまらねえアヤつけてただで済むと思うなよ」
 胸を反らし、威嚇する。
「おいそこの遠所者。おのれ今なんちゅうた。サマ師とかぬかしたな」
 そのとき辰一が声を低く発した。顔は見る見る紅潮し、目は蛇のように濡れそぼっている。
「言ったがどうした。どうせイカサマ博打でしのいでる田舎やくざだろうが」
 辰一はその声を聞き終わらないうちに、滑るように前に歩み出ると、土間にあった火鉢から赤く焼けた火箸を右手で抜き、電光石火の早業で男の額に打ち付けた。
「ぎゃあー」と野太い悲鳴が上がる。同時に男の額が裂け、血しぶきが周りに飛び散った。もうもうと立ちこめる灰神楽の中、頭をかち割られた男の凄惨な形相がある。
「この野郎! 殺したる!」
 辰一は男の背広の襟をつかみ、土間に引きずりおろした。馬乗りになり、懐から匕首を取り出し、喉に押し付けた。
「矢野、待て! 斬るな!」宮田が叫ぶ。子分たちは弾かれたように数歩下がった。
「おのれ、ペテンかましやがったな。何が丸腰じゃ!」
「なーん。飛び道具は持っとらんちゅうことだけじゃ。ドスがお守り代わりなのはお互い様やろう!」
 辰一が啖呵を切る。組み敷かれた男は驚愕の面持ちでいた。
「とにかく斬るな! その人は大事な客人なんや!」
「ほんな、ここで詫び入れんか!」
 宮田が返事に詰まった。
「入れんか!」辰一がたたみかける。
「……わかった。ここはわしの顔に免じて下がってくれ。おのれの子分の治療費はあらためて届けるさかい」
「そうか。ほなら下がったる」
 辰一は男を解放すると、ゆっくりと立ち上がり、宮田を見据えた。
「ええか。喧嘩売りたいならいつでも買うちゃるぞ。わかったけ?」
「親分、先に車に戻ってください」政吉が脇に来て小声で言った。その言葉に従い、踵を返す。政吉は後ずさりしながら外に出た。
 四人で車に乗り込む。発進すると、何人かの若い衆が道路に飛び出て睨みつけてきた。
「おい政吉よ。でえーげ。これは出入りになると思うか」
 辰一がうしろを振り返って言った。
「いや、ならんでしょう。あの遠所者ははったり野郎です。小物が虚勢張ってるだけやと思います」
「おいね。わしもそう思ったわい。やっぱりそうか、あははは」車内で高笑いする。
「まったく親分には毎度肝を冷やします。少しは自重してくだせえまっし」
「なんな、ジチョウとは」
「慎重に行動してくださいってことです」
「阿呆。わしが慎重になったらヤノタツやのうなるわい」
 辰一は政吉の肩をどやしつけると、もう一度声を上げて笑った。
 修羅場をくぐり抜けたときの高揚感は特別である。政吉はこれを味わいたくて喧嘩を繰り返しているところがあった。これはどうしようもない血だ。命を張ることが好きなのだ。
 この喧嘩はすぐ町で噂になることだろう。これも愉快でならない。

 家に戻り着替えていると、裏家から女房の玉枝が駆けてきた。妻と三人の子供はすぐ裏の別邸で暮らしていた。稼業の邪魔になるからであるが、子供を疎ましく思うところも辰一にはあった。今の自分に家庭は必要ない。
「あんた、産気づいた女工さんの様子がおかしいけえ、ちょっと見に来て」
 玉枝がただならぬ様子で手招きしている。辰一は女工と聞いて思い出した。日頃世話になっている紡績工場の社長の妾の女工員が妊娠し、寮に置けないと言うので裏家で預かっていたのだ。そろそろ産まれると聞いていた。
「産婆は呼んだのか」
「産婆はとっくに来とりますが、妊婦が高熱出して失神したから、産婆では手に負えん。だから医者を呼んだが、出血がひどくて町医者ではどうにもならんのです」
「じゃあ病院に運べ。そんなもんでいちいちおれを煩わすな」
 辰一がぞんざいに言い返す。
「湯川社長に知らせんでもええのですか」
 玉枝に言われ、それもそうだと思い直した。お得意さんからの預かりものなので粗末には扱えない。
「わかった。電話してみるわい。土曜日やから家におるやろう」
 辰一が直接電話をすると果たして湯川は在宅だった。ただし「こっちは今忙しい」と、まるで他人事のように迷惑そうに言う。
「クリスマスで親戚が集まって来よった。そやから抜けられん。親分、そっちでなんとかしてくれ」
 薄情な言い草に辰一は呆れたが、元より我儘し放題の旦那なので、とくに腹も立たなかった。妾などほかに何人もいて、慌てるようなことでもないのだろう。
 仕方なく裏家へと足を運んだ。三人いる息子たちを外で遊んで来いと追いやり、女工にあてがった二階の部屋へと階段を上がる。そのとき赤ん坊の泣き声が響いた。「なんな、産まれたんやないか」そうひとりごち、部屋の襖を開けると、顔を青くした産婆と近所の町医者の顔が目に飛び込んだ。玉枝は隅で腕組みし、そっぽを向いている。視線を落とすと、布団は血の海だった。
「母親は死んでもうたわ」初老の医者が言った。「専門外やから原因はわからんが、失血によるものやろう。手の施しようがなかった。早いうちに大きな病院に連れて行けばよかったかもしれんけどな」
「気絶して産んだんかい」辰一が聞く。
「頭だけ出とったから、こっちが手で引きずり出した。生命力の強い子や。普通なら死産ですやろう」
「わかった。で、男け、女け?」
「男の子ですわ」
「ふん。どっちにしろ、あの社長は捨てる気やろな。自分で面倒みられるわけがあらへん」
 辰一はそうつぶやき、しばし考え込んだ。ひとつ息を吐く。そして玉枝に向かって言った。
「おい、うちで引き取るぞ。一人増えたが頼むわ」
「なんやて。あんた本気かない? こんな妾の子を矢野家の子として育てるやて」
 気の強い玉枝が目を吊り上げて憤慨した。
「ええやないか、乳母に任せれば。おまえは何もせんでええ」
「それにしたって、女の子ならともかく男ばっかり四人も。わたしはいやですよ」
「うるさい。決めた。ここで湯川社長に恩を売っておく。あの紡績工場はこれから大きくなるし、次の市議会議員選挙には出る言うとるし、うちにはええ後ろ盾や」
「ふん。しのぎのアテかい」
 玉枝はたばこを取り出し、不貞腐れた様子で吸い出した。
「名前は何にするかな。戸籍上は四男になるわけやし、四郎でええか。数字の四や」
「親分、そんな縁起でもない。せめて字を変えるとかでもして……」医者が振り返り、眉をひそめた。
「構わん。矢野四郎や。昭和の最初の日に生まれた子や、ろくでもない出生かもしれんが、それを跳ね返して何かやってくれるやろう」
 四郎と名付けられたばかりの赤ん坊が、産婆に湯で体を洗われながら、拳を握り締め、火が点いたように泣いていた。
「元気がええな。大きな子やないか。一貫あるんやないか。こりゃ将来が楽しみやな。わはははは」
 辰一が高笑いをする。その狂気じみた笑い声が赤ん坊の泣き声と絡み、二階屋全体に響いていた。



 年の瀬の東京は朝から曇り空で、昼になっても気温は五度に届かなかった。寒風が吹きすさび、体感気温はそれ以下である。そんな寒さの中、神田区神保町界隈はサラリーマンの往来が絶えなかった。首をすくめながらもどこか表情が穏やかなのは、今日が二十八日で、仕事納めの挨拶回りをしているからだろう。明日からは一週間の正月休みが始まる。
 どこの会社も仕事は午前だけで、午後は職場で酒盛りを始めるものと思われた。大正天皇が死んでまだ三日なので、ビヤホールはどこも営業を自粛していた。となれば国民が隠れて飲むのは自明の理だ。
 森村タキは社長の言い付けで、近所の酒屋に葡萄酒を買いに出かけた。社長の飯塚は東京帝大の仏文を出たフランスかぶれで、何かと理由をつけてフランス文化の講釈を垂れるのが好きだった。今日も社員に葡萄酒を振る舞いながら、彼の地のパーティーマナーについてでも一席ぶつのだろう。あるいはアルチュール・ランボーの詩のひとつも暗誦して見せるのかもしれない。
 あいにく今日のタキは、せっかくの葡萄酒を口にすることは出来なかった。妊娠中の身で、予定通りならば一月後、自分は母になっている。おなかの中に命が宿っているというのは実に不思議な気分だった。女として肝が据わるのか、怖いものが少なくなる。
 神保町の路地はバラックが建ち並んでいた。東京中が火の海になった関東大震災からまだ三年しか経っていないので、その傷跡がそこかしこにある。焼け焦げたままのビルが、町にはいくつもあった。
 復興は進んでいるが、下町は後回しにされている。震災で東京はますます貧富の差が広がった感があった。神保町はいつになったら元に戻るのだろう。
 酒屋に入り、葡萄酒を二本買い求めた。「お宅の会社は相変わらずハイカラだねえ」と店主が軽口を叩く。そしてタキのおなかを見て、「あれ、おめでたなの?」と目を丸くした。
「そうなんです。来月生まれる予定です」タキが微笑んで答える。
「気がつかなかった。へえー、あんた結婚してたんだ。職業婦人で奥さんだったんだ。全然知らなかった」
 店主が珍しそうに、頭のてっぺんからつま先までねめ回した。職業を持つ女でさえ珍しいのに、妊婦で働いているとは、この店主には信じられないことなのだろう。
「旦那さんは何してるの?」遠慮なく聞くので、タキは「同じ編集者です」と何食わぬ顔でうそを言った。
「ふうん。やっぱインテリゲンチャはちがうねえ。そうかあ。世の中は進んでるんだ。大正も終わっちまったしねえ」
 しきりに感心し、おまけで落花生を包んでくれた。礼を言って店を出る。
 うそというのは、タキは独身で、おなかの子の父親は妻子ある男だということだ。社会主義運動の論客として売出し中の若い学者に原稿を依頼することになり、何度か会っているうちに男女の仲になった。最初は妻帯者と恋仲になるなど考えてもいなかったが、向こうから好意を寄せて来て、タキも満更でもなかったので身を委ねた。妊娠がわかったときは男がうろたえ、そのことで少し傷ついたりもしたが、堕胎は考えていなかった。タキの心の中には、困難に立ち向かいたい、自分の殻を破りたいといった強い欲求があった。女は生まれ変わらなければならない。
 買い物を済ませ、会社に戻ると、醬油の焦げた匂いが部屋に充満していた。先輩社員たちが火鉢で磯辺焼きを作っていた。
「おかえり。ごめんね。妊婦にお使いなんかさせて」
 社長の妻で編集長の飯塚千尋が白い歯を見せて言った。
「いいえ。毎日二キロは歩くように、お医者様に言われてますから」
 タキは明るく答えると、会議テーブルに湯吞を並べた。グラスなどという洒落た物がないので、ムードはないが仕方がない。
「よーし、ぼくが開けよう」
 社長が舶来の栓抜きを手にし、葡萄酒のコルク栓を抜いた。社長自ら給仕する。タキは自分のために温かいレモネードを用意した。
「それじゃあ、今年一年、ご苦労様でした」
 社長の音頭で乾杯した。社長以下、社員六人の小さな出版社・群青社のささやかな忘年会である。
「群青」は明治四十四年、元女教師の飯塚千尋が中心となり、日本で初めて女ばかりで作られた文芸雑誌だった。創刊号の巻頭言にはこんな一文が記されていた。
《元始、女は太陽を浴びて生きてきた。しかし今は日陰に追いやられている。他者の庇護の下、息を潜め、忍耐を強いられ、生きている。わたしたちは今一度、太陽を取り戻し、輝かなくてはならない》
 この一文を読んだとき、タキは奈良高等女学校五年生の十六歳で、震えるほどの興奮を覚えた。西洋から漏れ聞こえるだけだった女性運動が、とうとう日本でも始まったのだ──。タキは卒業後、女子高等師範学校で英語の教師として教壇に立つが、いつか自分も群青の編集に携わりたいという思いが止まず、編集部に手紙をしたためたところ、「貴女がご希望なら面接致します」との返事を得、家出同然にして上京したのであった。この際には親が決めた相手との婚約も一方的に破棄していた。郷里では完全な反逆者であり、のちに妹に聞いたところによると、激怒した父は「二度と森村家の敷居はまたがせない」と言っていたらしい。勘当されても、タキは解放感のほうが大きかった。それに東京には同志がたくさんいる。
「森村さん、経過は順調?」
 千尋がそばまで来て、おなかをそっと触って聞いた。
「はい。順調です」
 タキが答える。千尋と職場の先輩たちは、何かと妊娠中のタキを気遣ってくれた。未婚の母になる女に、偏見のかけらもない。
「お正月はどうするの? 佐藤先生と過ごせるの?」
「いいえ。あの方は家に帰ると思います」
 佐藤安治というのが、おなかの子の父親だった。そのことは会社の全員が知っていて、非難も同情もしない。千尋は「時代の変革期に必要な逸脱」と論評し、タキは目から鱗が落ちた。
《旧来の女性のみに強いられた貞操観念によってではなく、男女相互の純潔と貞操の上に、新しい性道徳をわたしたちは生み出さなくてはならない》
 千尋のこの主張は「群青」誌面において、身の上相談の回答という形で掲載され、読者から多くの反響があった。タキは百万の援軍を得た気分だった。
「しょうがないわねえ、佐藤先生も。どうせ家の中なんてめちゃめちゃのくせに」
「でも小さなお子さんがいるから、正月ぐらいは家にいないとって言ってました」
「男の方が因習に縛られるってことね。佐藤先生は、理論は勇ましいけど、実践はいまひとつなのよねえ」
 千尋がそう言って肩をすくめる。寄稿者の大学助教授を子ども扱いなので、さすがは我らが編集長だと、タキはますます尊敬の念を強めた。上京してからずっと千尋はタキの心の支えだ。
「森村さん、だったらお正月は朝からうちへいらっしゃい。一緒にお雑煮を食べましょう」
「お邪魔してもいいんですか?」
「もちろん。でも子供たちにお年玉は上げてね」千尋が悪戯っぽく笑う。
「はい。わかりました」
 千尋は結婚して子供を二人産んでも仕事を諦めなかった。商人ならともかく実業の世界では画期的なことだった。だからたくさんの働く女たちが千尋に憧れている。執筆陣より有名なくらいだ。四十を過ぎても髪にパーマネントを当て、赤い口紅を引く。どこの女給かと陰口を叩かれてもどこ吹く風である。
「みなさん、ちょっと聞いてください」
 葡萄酒で赤ら顔になった飯塚社長が声を発した。
「今日は宮城で新天皇の勅語があったそうで、国粋主義者のよからぬ連中が町をうろついてるようです。なんでもアベックを見つけては、家に帰って喪に服せと難癖をつけているとのことで、みなさんも気をつけてまっすぐ家に帰るようにしてください」
「あら、だめよ。今日は救世軍の社会鍋の日じゃない。今年最後だから、わたしは行くわよ」
 千尋が毅然と言い返すと、飯塚は口をすぼめて黙った。この夫婦がうまく行っているのは、飯塚が尻に敷かれていて、そのことにマゾヒズム的快感を覚えているからだ。
「千尋さん、社会鍋、わたしも行きます」タキが言った。社会鍋とは募金活動のことである。
「妊婦はだめよ。外は寒いんだから」千尋が首を振る。
「平気です。カイロを用意してますから」
 タキは強引に帯同を了承させた。アパートに帰っても一人だし、社会鍋に行けば椿の会の仲間に会える。一年の最後、みんなと話して励まされたい。
 椿の会は共産党を母体とする労働運動組織で、救世軍の催しにはいつも参加していた。佐藤安治は会の幹部で、募金活動のリーダーだった。婦人の地位向上も謳っていて、群青とは友好関係にある。
 案の定、葡萄酒に酔った飯塚社長がランボーの詩をフランス語で詠いはじめた。ちょっとした美声だから、みんなで聞き入ってしまう。
 こんなときタキはいつも、教養はいいなと感慨に耽る。奈良にいたら、今頃は夫と子供の世話に日々追われていただろう。母と妹に自分の姿を見せてやりたかった。自分は今、自由を手にしている──。

 午後三時になって、千尋と社の先輩たちと市電で銀座に向かった。車窓から眺める宮城の周囲は警察官だらけだった。銃剣を携えた軍人の姿も多い。そういえば今朝早くニュースで、大正天皇の遺体が葉山の御用邸から帰還したと言っていた。その警備だろう。
 新しい天皇がどういう人物か、国民はほとんど知らない。タキには眼鏡をかけた無表情な人という印象しかなかった。ヨーロッパ遊学の経験があるそうだから、少しは進歩的であって欲しいのだが、期待するのは無理だろう。天皇制そのものが旧弊な家制度そのものだ。
 銀座に着くと、デパートのショーウインドウには内側から幕が吊るされていた。これも天皇崩御による自粛らしい。年末商戦の時期に商店は被害甚大だ。
 服部時計店前で椿の会と合流し、配置分けの指示を仰いだ。「森村さん、佐藤先生は日比谷交差点にいるわよ。一緒にしてあげようか」と顔見知りのメンバーが言う。
「いい、いい。妊婦は家にいろって、叱られるから」
 タキはかぶりを振って辞退した。実のところ、ここ最近は安治と関係がぎくしゃくしていて、会うと喧嘩ばかりだった。安治は、頭は切れるが子供のように我儘で、ときには暴力も振るった。だから怒らせたくないのだ。
 タキは救世軍のタスキを肩から掛け、街頭に立った。うしろには看板が掲げられ、そこには《関東大震災 被災者支援》という赤い文字が躍っている。
「募金お願いしまーす」
 声を張り上げると、すぐに道行く人たちが反応し、寄付金を鍋に入れてくれた。震災があってからというもの、助け合いの精神が国民の間に浸透し、募金活動がしやすくなった。日本人も捨てたものではないと、タキは三十一歳なのに感心している。
 しばらく続けていると、袴にマント姿の男たちがやって来た。一直線に向かってくる。目つきが悪く、全員が口髭をはやし、高下駄を履いている。右翼団体だとすぐにわかった。飯塚が言っていたように難癖をつけに来たのだ。
「やい、貴様たち。大正天皇の御霊柩が宮城に還御された翌日に何をしておるのか。不敬だぞ。家に帰って喪に服せ」
 男の一人が胸を反らせて大声を発する。タキは気圧されて思わず一歩下がったが、それでも顎を突き出して言い返した。
「震災の被災者支援のどこが不敬なのかしら。陛下も被災者には心を痛めてらしたはずだと思うんですけど」
「生意気言うな。女のくせに陛下を持ち出すとはますます不敬。話の出来る男はおらんのか」
 たちまち数人の男たちに取り囲まれた。慌てたメンバーの女学生が助けを求めに駆けて行く。
「話ならわたしが聞きますが」タキが落ち着き払って言った。右翼の抗議にはすっかり慣れた。そもそも群青社が彼らの標的で、年に一度は押しかけてくる。
「女郎じゃわからんと言っておるだろう」
「女郎とは何ですか。あなた方はいったいいつの時代に生きているのですか。もう昭和になったんですよ。きっと今にわたしたちも欧米のように参政権を得ます。そうなったらあなたたちは時代の遺物ですよ」
「わははは。ぬかすな女郎。お天道様が東の空から昇る限り、そんな時代が来るものか」男は芝居じみた笑い声をあげると、前に進み出て、立て看板を持ち上げた。「こんなものは──」
「何をするんですか。やめてください」
 男が立て看板を道路に放り投げた。走行中のタクシーがタイヤを鳴らして急停車する。交差点で交通整理をしていた警官が騒ぎに気づき、こちらへ駆けてきた。同時に、仲間の報せを受けた椿の会の男性メンバーも駆けつけた。いきなり歩道が人で一杯になる。
 その中に安治がいた。タキを見て「君もいたのか」と顔をしかめている。
「おまえたち、通行の邪魔だ。解散しなさい」警官が居丈高に声を発した。
「おい警官。けしからんのはこの女どもだ。国民が喪に服すべきときに、左翼活動とは何事か、直ちに取り締まるべし!」
 右翼の男たちがつばきを飛ばしてわめく。
「募金がどうして左翼活動だ。おまえらこそ家にいろ。天皇をダシにして暴れ回っているやくざ者じゃないか!」
 安治が大声で言い返した。安治は気が小さいくせに、人前で大見得を切るところがあった。女の前だととくにそうだ。
「貴様、我ら憂国の士をつかまえてやくざ者とは──」
 男たちが顔を真っ赤にして安治につかみかかった。たちまち揉みあいになる。
「おい、やめろ、やめろ」
 警官が割って入ろうとするが一人ではどうにもならなかった。団子状態になり右に左に人の塊が揺れる。いつの間にかタキもその中に入ってしまった。
「ちょっと押さないで」咄嗟にタキはおなかを抱えた。「押さないで!」何度も叫ぶが、男たちはみな興奮状態で、殴り合いまで始まっている。
 うしろから押され、バランスを崩した。危ないと思う間もなく地面に転んだ。次の瞬間、誰か男が背中に倒れ込んだ。地面と挟まれる。激痛が腹部に走った。全身から血の気が引いた。
「森村さん、森村さん」仲間に名前を呼ばれた。手首をつかまれ、人の輪から引きずり出される。
 女たちはタキの顔色を見て蒼ざめた。「ちょっと、この人、妊婦なんです!」大声を上げる。それでも男たちはお構いなしに争っている。
 産まれるとタキは直感した。初産なので経験はないのだが、出てくる感じがある。事態を察したのか、女たちが「病院! 病院!」と何度も叫んだ。
 やっと男たちが争いを止めた。タキを見下ろしている。
「森村君、大丈夫か」安治が駆け寄った。「おい、誰かタクシーを呼んで来い。裏の通りに並んでるだろう。病院へ運ぶ。ここだと築地の聖路加病院だ」
 あまりの痛さにタキは意識が遠のきかけた。人に担がれ、現れたタクシーの後部座席に押し込まれる。安治と仲間の女たちと定員一杯で乗り込んだ。車が発進する。いっそうの痛みが腹部を襲った。脂汗が顔中から噴き出ている。
「もう少しだ、頑張れ」
「森村さん、頑張って」
 タキは奥歯を嚙みしめ、必死に痛みを堪えた。
 五分とかからず聖路加病院の玄関に到着した。安治が中へ駆けて行き、看護婦を数人連れてきた。担架で病院内に運ばれる。分娩室らしき部屋の天井とライトが目に映った。その照明を人の頭が遮る。医師らしき中年の男が、タキを上からのぞき込んでいた。
「大丈夫だよ。今聞いたけど、早産って言ってもたかが四週早いだけなんでしょ?」
 慌てた様子もなく吞気に言う。その言葉を聞いたら、安堵感だけは湧いてきた。少なくとも医師がここにいる。
 ただし痛みが和らぐことはなかった。こんなに痛いものなのか。世の母親たちはみんなこれに耐えたのか。女は不公平だと思った。タキは耐え切れず嗚咽を漏らした。

 二時間後に女児が産まれた。体重二千六百グラムで、かろうじて未熟児と宣告されることはなかった。お湯で洗った猿のような赤子を胸に抱くと、自然と涙がこぼれてきた。
 赤ん坊と一緒に病室に運ばれると、そこにはたくさんの仲間が待っていた。口々に祝福の言葉を発する。千尋も駆けつけ、「よく頑張ったね」と抱きしめてくれた。同志がいることをこれほど心強く思ったことはなかった。安治は笑顔ではあるものの、どこか居心地が悪そうだった。この男は、昭和と一緒に産声を上げたこの子を、たぶん認知しないだろう。異存はない。産むと決めたのはタキ自身なのだから。
「名前は決めてるの?」千尋が聞いた。
「名前は……」タキは一拍置いて答えた。「ノラにしようと思うんですけど」
「あら、イプセンね」
 千尋はすぐにわかってくれた。ノラはヘンリック・イプセンによって書かれた戯曲『人形の家』の主人公の名だ。その戯曲は、新たな女性の姿を世に示した社会劇の始まりと言われている。女の子ならその名にしようと、密かに思っていた。森村ノラ。いい名前だ。
 みんなでノラをのぞき込む。真っ赤な顔をした新生児は、ぐふぐふと呼吸ともうめき声ともとれる音を口から発し、ベッドで小さく身を動かしていた。



 中国・大連は遼東半島の南端にある港町で、緯度で見ると日本の仙台あたりに相当する。夏になると海辺の丘に色とりどりの花が咲き乱れ、その美しさは地上の天国かと思えるほどだが、冬になるとその報いとでも言わんばかりの厳しい寒気に包まれ、天も地もが色をなくす。気温がマイナス十度を下回ることは日常で、馬車を引く馬たちの吐く白い息が、街の景色のわかり易いアクセントだった。
 十二月三十一日の大晦日。始まったばかりの昭和元年は今日、たった一週間で終わりを告げる。五十嵐譲二は、アパートで商売道具のトランペットを磨きながら、窓の外の港を眺めていた。ちょうど大型客船が入港するところで、デッキには白人の姿が多かった。大連はシベリア鉄道でヨーロッパへ向かう人には玄関口にあたるため、国際都市の様相を呈していた。今夜、街はにぎわいそうだ。
「あんた、なんか今日あたり来そうな気がするんだけどねえ。仕事休んで家にいてくれない」
 妻の恭子がソファでおおきなおなかをさすりながら言った。すでに出産予定日を一週間過ぎていて、今にも破裂しそうな膨らみ方だった。
「馬鹿言え。ヤマトホテルの仕事を断れるわけがねえだろう。部長さんが五十嵐ならってお声をかけてくださったんだ。急な仕事だろうが受けるのが男ってものよ。それに内地で音楽の禁止が解けたんだ。今日からやっと演奏が出来るってめでたい日に、バンドマンが休んでどうする」
 譲二が目を剝いて言い返す。譲二はジャズ楽団を主宰し、自ら唄ってトランペットを吹いていた。普段は浪速町のダンスホールを根城としているが、今夜は特別にヤマトホテルの宴会場を使っての年越しパーティーの仕事が入った。この一年で一番大きなステージになりそうだ。代役がいたとしても、休むなどとんでもない話である。
 おまけに、大正天皇が死んで大連でも歌舞楽曲が禁止されていた事情もあった。満鉄総裁が「内地に倣う」と言い出し、そうなると日本人は誰も逆らえず、全員で自粛していた。それが今日、解けたのだ。
「裏の長屋に産婆がいるんだから、産気づいたら来てもらえばいいだろう。心配するな」
「中国人の産婆さんって大丈夫なの?」恭子が不安そうに言う。
「そりゃあ大丈夫だろう。ほかの日本人だって、こっちの産婆さんに取り上げてもらってんだ。腕は確かなもんさ」
「今からでも満鉄の病院に入れてもらえないかねえ」
「それはむずかしいな。満鉄の幹部にでも知り合いがいねえと、入れてはもらえねえだろう」
「知らない土地で子供を産むとは思わなかった」
「講釈たれるな。初産じゃねえんだし、どんと構えてろ」
 譲二が言うと、恭子は口をすぼめて「そうだけど」とつぶやき、テーブルに足を載せた。その顔には、なんで大連なんかに来たのかと書いてある。

 譲二と恭子は再婚同士で、一年半前に横浜で結婚したばかりだった。山下町のダンスホールに譲二が出演したとき、そこで女給をしていたのが恭子だった。一目見て惹かれるものがあり、譲二が声をかけると、互いに離婚歴のある似た者同士だとわかり、磁石のようにくっついた。
 恭子は相模原の農家の四女で、二十歳のとき鎌倉の商家に嫁いだが、亭主がとんでもない好色家で、浮気ばかりすることに愛想をつかし、離婚した女だった。そのとき一歳の男児がいたが、跡取り息子は渡せないと言うので、あきらめて一人で家を出た。恭子は、傷物になった自分はもうまともな結婚は出来ないだろうと悲観し、夜のダンスホールで女給を始めた。もっとも始めてみれば、案外自分は社交家で、男あしらいも下手ではないことに気づくのだが。
 一方の譲二は明治二十四年、横浜は保土ケ谷で開業医の家に生まれた。次男坊で甘やかされて育ったせいか、十代の頃から遊び呆け、慶應大学に進むと、その頃はやり始めたジャズに夢中になり、卒業するのに六年を要するありさまだった。
 卒業後は財閥系商社に就職し、親の勧める縁談で良家の娘と結婚し、一男一女をもうけるものの、染みついた遊び癖は直らず、サラリーマンでいながらジャズの興行に手を出して失敗。多額の借金を作って嫁の実家から離婚を迫られ、ついでに父親からは勘当され、さらには会社も馘になる。そうとなれば昔取った杵柄で歌手兼トランぺット奏者として再出発し、音楽の才はともかく、譲二には世渡り上手なところがあって、それなりに売れっ子となる。そして恭子と知り合った。
 二人で大連に渡ったのは、ひとえに譲二の山師的性格によるものだった。日露戦争勝利の「戦利品」として、大連・旅順を中心とする南満州の租借権を得た日本は、大陸に領土を広げようとしていた。その尖兵役を果たしたのは「南満州鉄道株式会社」で、莫大な資金を投入して満州は好景気に沸いていた。仕事を求めてたくさんの日本人が海を渡る中、ならば自分も一旗揚げようと思ったのだ。人が集まれば、娯楽が必要となる。やくざがまだいない新地にいけばショバ代なしで自由に興行が打てるというわけで、予想通り、譲二は渡来して半年で、大連の芸能関係者を取りまとめる地位を得るまでになった。
 今こうして石造りの高級アパートに住めるのも、発展する日本のおかげである。元号も昭和に変わり、大連に住む日本人たちは、新しい時代はもっとよくなるものと信じていた。譲二は大連の活気が好きだった。

「ねえ、わたしを置いて行くなら、晩御飯をホテルから届けて。ローストビーフとパンでいいから」
 出かける譲二をつかまえて、恭子が贅沢な注文を付けた。
「浪速町でチキンでも買って来いよ」
「いやよ。寒いのに。外は何度だと思ってるのよ」
 恭子は寒さが大の苦手だった。大連の冬の厳しさには心底閉口した様子で、毎日不平をこぼしていた。
「わかった。ボーイに届けさせる。それからもし産気づいたら、一階のフロントに頼んで産婆を呼んでもらうこと」
「早く帰って来てね」
「それは無理。おれの仕事をわかってくれよ」
 譲二はそう言って恭子に近寄り、頰にキスをした。白人たちの習慣を見ているうちに、すっかり染まってしまった。
 オーバーコートを着込み、トランペットのケースを下げてアパートを出た。念のため、一階のフロントには、妻をよろしくとひとこと断っておいた。中国人青年が愛想よくうなずく。大連に来る前は、日本語が通じるかどうか不安だったが、商売関係は中国人もロシア人も大半が器用に日本語を操るので驚いた。戦争に勝つとはこういうことなのかと、譲二は痛感した。自分は戦勝国民なのだ。
 十分ほど歩いて、ヤマトホテルに到着した。円形の大広場に面した一等地に位置する、大連一の高級ホテルである。経営は南満州鉄道で、その権勢を誇るような荘厳な石造り建築だった。通用口から入り、一階裏手の事務室に行くと、催事部長が椅子から立ち上がり、握手を求めてきた。
「五十嵐君、急な頼みで悪かったね。楽団員は揃いそう?」
「大丈夫です。せっかくのクリスマス休暇に仕事がなくて困ってたところなんで、みんなよろこんでます」
「そうか。それはよかった。今夜のパーティーは満鉄のお偉方が揃うので、くれぐれもよろしく。楽しく盛り上げてくれたまえ」
「承知しました」
 続いて楽屋に行くと、すでに何人かの楽団員が来ていて、音合わせをしていた。メンバー十人中、半分が日本人で、ほかは中国人とロシア人だ。一人、曹平という白系ロシア人と中国人の混血がいて、譲二の片腕的な存在だった。貴重な太鼓叩きで、若くて大柄で、喧嘩が強かった。半分は用心棒である。
「おいタイラ、今夜は一流のお客さんばかりだからな。ゴロなんか巻くんじゃねえぞ」
「キャプテンこそ、客のモダンガールに粉かけないでくださいよ。きっと満鉄幹部の妾だから」
 スネアの調整をしながら笑っている。譲二は楽団員にキャプテンと呼ばせていた。
 大連は南満州鉄道株式会社、通称満鉄が事実上統治する都市だった。役人も警官も、満鉄相手だと使用人同然となる。資本金二億円の一大コンツェルンで、幹部には日本政府の要人や陸軍関係者が名を連ねていた。勘のいい譲二は、こちらへ移り住んですぐに、満鉄が植民地経営のための国策会社なのだと得心した。ならば満鉄に食い込むことが、大連で成功する秘訣である。
 楽団員が揃ったところでリハーサルをした。譲二が楽譜を配って指示を出す。
「最初はアメリカの曲を三曲ほどやって、温まったところで日本の流行歌に移るからな。『ゴンドラの唄』『船頭小唄』『カチューシャの唄』……」
「辛気臭えなあ。キャプテン、寄席の芸じゃねえんだから、ディキシーランドで行きましょうよ」
 曹平が茶々を入れる。
「やかましい。いつもの客とちがうんだ。客の注文があれば浪曲だってやるからな」
「あーあ、いつになったらこっちでジャズが流行るのかねえ」
 曹平だけでなく譲二たちブラスバンドの楽団員にとって、アメリカのジャズは何よりの憧れだった。情報は船で遥々輸入されるジャズのレコード盤だけで、それを手に入れては楽団員みんなで聴き入り、まだ見ぬ新大陸を想っていた。ルイ・アームストロング、ベニー・グッドマン、ジャズメンの名前だけは何人も知っている。
 リハーサル中、ホテルから蕎麦の差し入れがあった。
「さすがはヤマト。年越し蕎麦とは気が利いてるねえ。日本が恋しくなっちまうね」
「キャプテンは日本に帰りたいんですか」蕎麦をすすりながら曹平が聞いた。
「馬鹿言え。もう日本に帰るところなんかないよ。おれの家は大連だ」
「おれは東京に行ってみてえなあ。浅草で牛鍋食って、日本橋で鰻を食って──」
「そんなもん、そこの浪速町でも食えるだろう」
 浪速町は大連の銀座ともいうべき繁華街である。床屋も、呉服屋も、乾物屋も、日本がそっくり引っ越してきた感があった。
「でも本場じゃねえとなあ」
 曹平は日本人楽団員と付き合ううちに、すっかり日本かぶれになった。タイラという日本名を自分で付けるほどだ。
 係の人間がやって来て、そろそろステージだというので、全員で柳屋のポマードを髪に塗りたくり、オールバックにした。ひまし油の臭いが楽屋に充満する。
 譲二たちは宴会場に行き、ステージそでから客席をのぞき見た。着飾った男女がいくつものテーブルを囲み、豪勢な西洋式晩餐を楽しんでいた。おっと、女房にローストビーフを届けるのを忘れた──。譲二は思い出したが、手遅れなので諦めることにした。
 前方の客たちはいかにも身分が高そうだ。勲章を胸に付けた紳士もいる。あまり煽らない方がよさそうである。
「こりゃ勝手がちがうかな」譲二がつぶやいた。
「ガツンと行きましょうや。ニューイヤー・イブ・コンサートですよ」曹平は指の骨をポキポキ鳴らしている。
 時間が来てステージに上がった。スポットライトが当たる。譲二はマイクを手にし、気分を高めて挨拶した。
「みなさん、こんばんは! 大連ヤマトホテルのニューイヤー・イブ・コンサートにようこそ! 本国では大正も終わり、新しい時代・昭和が始まりました。ここ大連でもよき新年を迎えられますよう、まずは過ぎ去る年に感謝の一曲を!」
 譲二は楽団員に向き直り、指で出だしのカウントをした。ワン、ツー、ワンツースリーフォー!
 一曲目は、この年アメリカでヒットした「バイ・バイ・ブラックバード」。譲二はこの曲を一度聴いて大好きになった。歌詞の中に出てくる黒い鳥は不幸、青い鳥は幸福の象徴である。さようなら黒い鳥よ、ぼくはしあわせの青い鳥を探しているのさ──。まるで海を渡った自分たちへの応援歌のようだ。今夜演奏するのにもふさわしい。さようなら旧年、こんにちは新年──。
 よく見れば後方の客席には白人客も多かった。船でやって来た旅人たちだろう。羽根飾りのついた帽子を被った婦人もいた。いきなり歓声を上げているので、どうやらアメリカ人らしい。大連では珍しいことだ。
 続いては少しテンポを落として「セントルイス・ブルース」を演奏する。またしてもアメリカ人客が大喜びする。三曲目もアメリカの曲をやると、日本人客から「貴様らは毛唐か」という野次が飛んだ。
「いえ、すいません。では日本の歌を……」譲二は低姿勢で腰を折った。
「『ストトン節』をやれ」と客の誰かが言う。
「へい。わかりました」
 不承不承、三味線の代わりにクラリネットを吹かせて民謡を唄う。するとアメリカ人がブーブーと不満の声を発して騒いだ。やがて両者の間で言い争いが始まった。
 大連の日本人は威勢がよくて白人を恐れなかった。酒が入っているせいで、下品な言葉も飛び交った。婦人たちは顔をしかめている。困った譲二が、ステージそでにいた催事部長に助けを求めると、「君らが何とかしろ」と廊下へ逃げて行ってしまった。
 そのとき、曹平がスネアで波音のようなロール奏法を始めた。続けてドンドンとタムを連打する、顎でコントラバスに指示を出し、アップテンポのビートを刻み始めた。曹平はダンス・ミュージックを始めるつもりなのか。
 譲二は焦ったが、客席ではすでに取っ組み合いの喧嘩が始まっていた。酔っ払った関東軍の軍人がチキンを投げつけている。アメリカ人が負けじと果物を投げ返す。皿が割れる音が響いた。会場は騒然となり、ボーイが数人出て来て止めに入った。
 誰もステージなど見ていない。こうなりゃディキシーでもブギーでもやっちまえ──。譲二は自棄になってミュートでトランペットを吹いた。アル・ジョルスンが唄ってヒットした「アヴァロン」だ。楽団全体がアップテンポでスイングする。ピアノが呼応し、強いタッチでメロディーラインを奏でた。アメリカ人たちが喧嘩を中断し、ステージを向いた。顔をほころばせ、前方に出てくる。夫婦でダンスを始めた。
「レッツ・ダンス! ドント・ファイト!」
 譲二がマイクを引き寄せて叫んだ。楽団の音量が一段と上がる。
「毛唐の音楽で踊れるか!」軍人らしき男たちから怒声も上がったが、踊り出す日本人客もいた。本国なら踊らない人たちも、外地では解放されるのだろうか、人前で体をくっつけている。
「さあ、みなさん、今夜は踊り明かしましょう。たった一週間の昭和元年が今日で終わります。みなさんとこのときを共に過ごせることを楽団員一同、大変光栄に思っています」
 壁際を見ると、催事部長が戻っていて啞然とホールを見回していた。その隣にいるタキシード姿の中年はヤマトホテルの支配人だ。譲二はチャンスとばかりにステージを下り、支配人に駆け寄って挨拶した。
「大連三田ボーイズの五十嵐と申します。お初にお目にかかります」
「うん? 何だね君は」
「大連で楽団員を取りまとめている日本人です」
「ほう。三田ボーイズというのか」
「そうです。以前は横浜で横浜三田ボーイズという楽団をやってました。ですから大連に来たので大連三田ボーイズです」
「君は元塾生なのか」
「はい。慶應を出て、三井物産におりましたが、ちょいと道を踏み外して、今は楽団のバンドリーダーです」
「ふうん。それで、これはどういう音楽なんだい?」
「ジャズです。これから時代を変える新しい音楽です」
 譲二は大きな声でアピールした。
「はは、面白い男だな。実はぼくも慶應出身だ」支配人が白い歯を見せる。
「そうでしたか!」
 譲二は思わず飛び跳ねた。三田ボーイズを名乗るのは、日本人社会のある所必ず慶應出がいて、贔屓にしてくれるからだ。こんなところで当たりくじを引いてくれるとは。我が昭和は縁起がよさそうだと、譲二はほくそ笑んだ。
「ぜひ今後ともよろしくお願いします! 年が明けたら、またあらためてご挨拶を!」
 深々と頭を下げ、ステージに戻る。高揚した気持ちでトランペットを吹いた。
 宴会場はすっかりダンスホールと化していた。婦人たちがよろこんでいるので、男たちも文句を言えない様子だ。
 そこへアパートのボーイが現れた。ステージを見上げ、何か言っている。譲二は手招きして足元まで来させた。
「五十嵐さんの奥さん、子供が産まれましたね」
 ボーイがしゃがんだ譲二の耳元で言う。恭子のことをすっかり忘れていた。なんて不届きな亭主だ。
「すぐ帰らないと離婚すると言ってます」
「そんなことをいちいち言いに来たのか」
 譲二は顔をしかめた。恭子はいつもこうやって脅すのだ。しかしそれは、母子ともに健康だという証拠だろう。
「で、男か女か、どっちだ」
「男の子です。元気な男の子です」
「わかった。ローストビーフを手土産に帰るから、もう少し待ってろって伝えてくれ」
 譲二はボーイを帰すと、演奏を続けた。そうか、自分は満州で再び父親になるのか。そう思ったら人生が愉快に思えてきた。人生は楽しき集い。おれは昭和を楽しく生きてやるぜ──。
 譲二は思った。男の子の名前は満にしよう。満州生まれの五十嵐満だ。
 一週間だけだった昭和元年最後の夜に、譲二はこれまでで一番の演奏をしていた。

(つづく)



「普天を我が手に 第一部」は「小説現代」2015年5月号〜2017年7月号〈2015年10月号、2016年9月号は休載〉まで掲載されました。今回の特別公開は、2015年5月号掲載分です。第三部まで完結してから、単行本発売の予定です。

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