『クジオのさかな会計士』刊行によせて/内田洋子
文字数 4,747文字
イタリアでは「子どもが最初に手にする本」と言われるイタリア児童文学の巨匠ジャンニ・ロダーリの作品。その最新邦訳『クジオのさかな会計士』(講談社文庫)の刊行を記念して、翻訳者である内田洋子さんが、ロダーリについて、そして東京パラリンピックで出会ったイタリア選手について語ってくださいました。

▲『クジオのさかな会計士』(講談社文庫)
イタリアの児童文学の巨匠ジャンニ・ロダーリの3作目刊行
2021年11月、ついにジャンニ・ロダーリ著『クジオのさかな会計士』が講談社文庫から刊行された。
2009年に刊行された『パパの電話を待ちながら』、2020年の『緑の髪のパオリーノ』に続いて3作目となる。数行の詩から散文詩、短いおはなし、中篇が60篇も詰まって、この一冊でロダーリ文学の多様性を楽しめるように編まれている。
今回も表紙の装画は、荒井良二さんの夢あふれる描き下ろしだ(クリスマスのサプライズ・ギフトもお楽しみに!)。
荒井さんは『緑の髪のパオリーノ』のあとがき「ぼくのロダーリ」で、
「ロダーリの書く短い物語は、僕のだいじなあめ玉のようなもの」
と記している。楽しいときや寂しくなったときこの本を開いて、ドロップを缶から取り出すように、色とりどりの物語を味わっていただければうれしい。

特別な一篇
さて、この『クジオのさかな会計士』という書名は、原著 “Fra i banchi(机と机のあいだで)”の一篇のタイトルから取ったもので、いわゆる「おはなし」とは毛色の異なる一篇だ。
ロダーリの故郷、北イタリアのかつてクジオと呼ばれていたオルタ湖が舞台となっている。小さなサン・ジュリオ島が湖に浮かぶ、幻想的な世界遺産だ。
その湖へ、作家である<私>は執筆のために取材に来ている、というところから始まる。<私>がしたためる取材メモは、そのままロダーリの身上の説明にもなっている。文体も構成も、幼い子ども向けではない。鋭い眼差しで人の心の内を観る。発想や創作の秘訣が明かされる。ファンタジーの世界へようこそ、と行間からロダーリの声が聞こえてくるようだ。
疫病禍でロダーリを読むということ
2020年冬に世界を猛襲した新型コロナウイルス感染拡大は収まることなく、まもなく3年目に突入しようとしている。長引く不安と不自由に、私たちはすっかり疲れている。疫病は、身体だけではなく心も蝕む。この非常事態のなかロダーリの著作の邦訳に関われたのは、訳者としても報道に関わる一人としても、大きな役得だった。
イタリアで始まった爆発的な感染拡大を、私は一時帰国で日本に留まった状態で見ていた。
特に幼い子どもたちの様子が気になった。友だちと会えず、外で遊べず、誕生パーティーもクリスマスも大好きな祖父母たちと祝えないばかりか、あの教室に初めて入るときのドキドキやワクワクを、子どもから奪った運命は残酷だ。
気力を失い、泣いたり怒ったり、あるいは自他を励まそうと努めたりした。周りが思うようにならないと、非難し監視する人も現れた。いつもどこかで誰かが文句を言い、悪者探しに躍起になる毎日が続いている。問題を抱えるのは皆同じだというのに、イライラの吐け口を自分よりも弱いものに向ける。人種や身体の特徴、経済的な環境や政治の傾向や思想、職種、年齢、性別や土地柄、風習や文化の多様性を貴重と思わずに忌み、排斥しようとする。あるいは、一様に揃うまで責め立てる。
自分と異なることを嫌悪するのは、自分が身を寄せている多勢のまとまりが崩れるのが恐ろしいからではないか。
憎悪は、弱さの隠れ蓑だ。世界中でくすぶり、あるいは爆発するこうした負の感情は、いつの時代にも人間社会の悪阻(つわり)だった。
今、疫病がそれを浮かび上がらせている。

内田さんは、日本に帰国中にイタリアのコロナ感染が深刻化、全土でロックダウンの措置がとられたため、そのまま日本に留まり仕事を続けることになります。
その中で、イタリアの若者たちに呼びかけ、失われた日常に対する戸惑いや恐れ、その中でどう折り合いをつけて生活を続けていこうとしているのかという声を集め、『デカメロン2020』と題した本を出版しました。もちろん、タイトルはボッカッチオが書いた、10人の若い男女が、ペストの危機から逃れるためにフィレンツェ郊外に籠り、10日間に渡って10話ずつ物語を語り合う…という名作『デカメロン』に由来します。
そんなある日、内田さんは、パラリンピックボート混合舵手つきフォア・イタリア代表キャプテンのグレータさんと出会います。
東京2020パラリンピックとグレータ
「こんな人がいる!」
と、ミラノの大学生からグレータを紹介されたのは、ロックダウンの中で東京2020五輪の一年延期が決まった直後だった。
グレータ・エリザベス・ムーティ・シュネンマン。ドイツ生まれで、アメリカやカナダを経て、現在はイタリア、ミラノの大学医学部に通う27歳の女性だ。
「スイーツ作りの腕は、プロはだし。オペラ歌手でもありチェロの演奏家としても活躍しているのだけれど、パラローイングのイタリア代表として東京五輪に行くの」
パラローイング。障がい者の手漕ぎボートレースである。グレータは先天性の神経叢(そう)損傷で、生まれたときから左腕が動かない。菓子作りに歌劇、オーケストラ、勉強、病院での研修、家事、そしてスポーツ、と幼い頃から挑戦してきた。どれも左腕とともに生きていくためのトレーニングだ。そして現在、どれもがトップレベルである。
父親はドイツ人で母親はイタリア人。母方の祖父は、イタリア国営放送局のスポーツ担当のカメラマンだった。あらゆる競技やトレーニング、アスリートを撮ってきた。
小学校の頃から夏休みになると、祖父とイタリアの海で過ごしてきた。初めて舟に乗ったのは、14歳の夏だった。心身が解き放される海が好きだった。
「水から離れたくない」
それでボート競技を選んだ。
団体競技の中でも最もチームワークが必要とされる種目、混合舵手付きフォアのキャプテンを務める。ボートには男女二人ずつの漕ぎ手(クルー)とコックスと呼ばれる舵手の計五人が乗り、2kmという長距離コースで競う。チームメイトは、バイク事故で足の機能を失った男性、地元で第二次世界大戦中の不発弾が爆発して視力と半身の自由を奪われた男性、先天的に目の不自由な女性だ。
「各人各様の問題は、それぞれの唯一の特質でもあるでしょう⁉」
グレータのポジションは、ストロークだ。訳して、<整調>。その名の通り、レースの戦略とメンバーの心身の安定に気を配り、チームの結束を担う。どんな逆風にも動じない。彼女が強いのは、弱いという意味を知っているからだろう。

東京2020五輪の延期が決まったとき、
「健康は、何よりも優先すべきことだから」
グレータは粛然としていたが、辛かっただろう。綿密なトレーニング計画を立て心身を調整してきたところに突然、振り出しに戻して再起動するには強靭な胆力が必要だ。ロックダウン下では共同トレーニングも禁じられ、独りで自己管理をしてきた。
「世の中、独りでは何もできないでしょう? スポーツも同じです。自分を鍛えれば、チームを高めることにつながる。疫病禍にあって、スポーツがいかに利他的なのかあらためて実感でき、アスリートであることが誇らしいです」

San Giulio e Orta San Giulio - Distretto Turistico dei Laghi
うしろを振り返らずに
東京五輪を前にした冬、チームで合宿に行った先が、『クジオのさかな会計士』の舞台、オルタ湖だったという。湖は、深い青色を湛えて静まりかえっていた。
「とても寒くて厳しかったけれど、漕ぎながら仲間と息を揃えていくうちに、<独りじゃないよ>と、オルタ湖から励まされている気がした」
と、男性クルーの2人は言う。
「自分がオルタ湖から生まれてきたのだと信じています。私には見ることができませんが、オルタ湖の隅々までを知っています。湖は家であり、平和と自由を守ってくれるところです。ロダーリさんが、この湖を舞台に物語を書いてくれていたなんて! それが日本に届くだなんて……」
ボート最後部を担う、その目の不自由な女性クルーは湖畔に生まれ育ち、今も住んでいるというではないか。
「ヨーコ、本当に不思議ね! ロダーリの邦訳新刊にオルタ湖が関係していて、そこで私たちもボートを漕いでいただなんて。
オルタ湖は大きくて、どこまでも曲がらずに、うしろを振り返ることもなくまっすぐに進めた。<前へ!>とエールをかけてもらいながら、自由に向かって漕ぐようだったの」
まるで魔法みたい、とグレータはロダーリと日本と自分たちのつながりに感嘆していた。
『クジオのさかな会計士』ジャンニ・ロダーリ・著/内田洋子・訳

『パパの電話を待ちながら』 ジャンニ・ロダーリ・著/内田洋子・訳
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