遠田潤子『人でなしの櫻』スピンオフ小説「ギャラリスト浅田壇の邂逅」

文字数 10,369文字

これぞ令和の「失楽園」--。

2009年のデビュー以来、独特で濃密な世界を描く遠田潤子さんが

ついに「創作者の業」を描いた『人でなしの櫻』。

作家の村山由佳さんから「ひとは、こういうカタルシスを覚えたくて、物語を読むのだろう」と

コメントがあった圧巻の本作は、2022年上半期の話題作になること間違いなし!


『人でなしの櫻』本編からスピンオフした掌編小説「ギャラリスト浅田檀の邂逅」を特別寄稿していただきました。

主人公の清秀が光輝く若き日に出会った浅田の恋の話、本編から読んでも掌編から読んでも堪能できます。

ギャラリスト浅田壇の邂逅 




 浅( あさ)()(まゆみ)がはじめて(たけ)()(きよ)(ひで)の絵を観たのは画廊を開いて間もない頃だった。



 京都学生美術展の入賞作で「(びゃく)」と題された絵だ。しんと静まりかえった池にぽつぽつと白い花が浮いている。遠くから観れば白い蓮か睡蓮かと思った。だが、近寄ってよく観ると櫻の花だ。しかもどの花も分厚く盛り上がっている。



「これ、(くさ)()(ふん)?」



 胡粉は日本画で使われる白の顔料だ。それを腐らせて使う技法がある。腐れ胡粉を使って描かれたのが()(しゃく)(いん)にある国宝「(さくら)()」だ。長谷(はせ)(がわ)(とう)(はく)の息子、長谷川(きゅう)(ぞう)はこの絵を(のこ)して二十六歳で死んだ。



 浅田檀はじっと水に浮かぶ櫻を見つめた。真白い花なのにすこしも清々しくは感じられなかった。華やかでもない。軽やかでもない。どちらかというと重々しくて硬い。まるで生命が感じられない。まるで白い石つぶてのような気がした。



 この櫻は暴力的だ。観る者をその白さで打つ。観ているだけで痛い。なのに、打たれる快感がある。だから余計に観る者を不安にさせるのか。



 櫻の花はそれぞれ水に影を落としている。水は濃く鮮やかな(ろく)(しょう)色で水面に映る影は(きん)(でい)だ。その描き方は様式化されているようでよく観ると一花一花違う。絵に破調が生まれさらに混乱をかき立てる。



 だが、眼を引くのは花だけではない。この池はなんだ。引きずり込まれそうだ。どこまでも深く暗く、一度沈んだら決して浮かびあがれない。櫻の木の下には死体が埋まっているように、この池の底には何千何万という真っ白な死体が沈んでいるのだ。



 浅田檀は背筋に冷たい(しび)れを感じた。一歩下がって再び絵を観る。それでもこの絵は美しい。(けん)(のん)だけれどたしかに美しい。



 作者は竹井清秀。まだ高校一年生だという。才気溢れる絵だ。だが、まだ若いせいか青臭い気負いが前面に出ている。観る者を力ずくでねじ伏せようとする傲慢な絵だ。



 そのとき、横に大学生くらいの若い男が二人並んだ。一人は黒縁眼鏡、黒ずくめの尖った服装をして、もう一人は全身ユニクロだった。



「こいつ知ってる。画塾で一緒やった。竹井(やす)(のり)の息子や。だから、こいつが入賞してもコネや」



 黒縁眼鏡が絵を指さし言った。はっきりと悪意の感じられる声だった。



「竹井康則ってあの『たけ井』の?」



 ユニクロが驚いて問い返すと、黒縁眼鏡が吐き捨てるように言った。



「そう。ついでに言うと伯父(おじ)さんは小説家の竹井(はる)(ちか)」黒縁眼鏡が顔を歪めた。「この竹井清秀ってな、めちゃくちゃ嫌な奴なんや。いつも黙って独りで描いて絶対に誰ともつるまへん。俺はおまえらとは違うんや、ってオーラ出しとった。他人を見下してるんや」



 黒縁眼鏡は小声で話しているが誰かに聞かせようとしているのは明らかだった。



 なるほど。わかりやすい芸術家同士の嫉妬だ。どこにでもあることだ。浅田檀は男たちから離れ歩き出した。



 だが、驚きもあった。あの絵の作者竹井清秀はあの竹井康則の息子なのか。



 竹井康則は誰もが知る老舗(しにせ)料亭のカリスマ料理人で、日本料理界のトップに君臨し「帝王」と呼ばれている。浅田檀は一度だけ竹井康則の料理を食べたことがあった。独立前、老舗画廊で修業していたとき客に連れて行ってもらったのだ。



「たけ井」は(かみ)()()(しゃ)()の並ぶ一角にある。店の前には水路が流れ小さな石橋が架かっている。店の構えはひっそりとしていてどこにも押しつけがましさはない。政財界の大物、海外の要人、(ひん)(かく)が訪れる店には見えなかった。



 料理は「桐」というお任せのコースだけだった。浅田檀は声も出ないほど圧倒された。どの皿も食べる者のことなど一切(そん)(たく)しない潔いほどの(ゆい)()(どく)(そん)だ。それはまるで神の施し、天上から降ってくるマナのようなものだった。浅田檀は納得した。天才の仕事とはこういうものだ、と。



 もう一人名の出た竹井治親は康則の兄だ。有名な小説家で京都を代表する文化人としてテレビにもよく出ている。つまり、竹井一族に生まれた竹井清秀は絵に描いたようなサラブレッドだ。光り輝く未来が約束されている。すぐに(にっ)(てん)(いん)(てん)の常連になりいずれは芸術院会員か。



 あの黒縁眼鏡が嫉妬するのも当然だ。浅田檀はため息をついた。駆け出しの浅田画廊の出る幕はない。声を掛けても相手にされないだろう。諦めよう。



 だが、浅田檀は死の匂いしかしない櫻とどこまでも暗い池を忘れることができなかった。そして疑問に思った。なぜ竹井清秀はあんな絵を描くのだろう。誰もが羨む恵まれた環境にいるのに、と。





 小学生の頃、浅田檀は学年で一番足が速かった。短距離も好きだったが長距離はもっと好きだった。十二月に行われる全国高校女子駅伝も、年明け一月に行われる都道府県対抗女子駅伝も必ず沿道で応援した。(たすき)を掛けて(みやこ)(おお)()を飛ぶように駆け抜ける女の子を見ると、自分もいつかはと思っていた。



 だが、その夢は(あっ)()なく消えた。予防接種の副反応で高熱が出た。以来、身体には麻痺が残って歩行には杖が必要になった。



 一人娘の不幸を両親は大いに嘆き悲しんだので、浅田檀は四六時中自分は傷ついてなどいない、ポジティブな障害者であるというアピールをしなければならなかった。そして、障害者手帳の有効利用をすることにして片端から美術館巡りをはじめたのだ。



 大学卒業後は老舗の画廊に就職した。経験を積んでいつか独立するのが夢だった。仕事と勉強に没頭し、三十五歳のとき貯金と親の遺産で画廊を開くことになった。



 画廊には大きく分けて二種類ある。



 一つは「貸し画廊」だ。画廊を貸し出して賃料を取る。相手はプロの画家だけではなく、学生、趣味の絵画サークルなどだ。画廊の収入はレンタル料金で、そこで絵が売れた場合に手数料を取ることもある。



 もう一つは「企画画廊」だ。これは画廊が企画を立てて絵を集めて展示する。画廊主、つまりギャラリストの仕事はプロデュースだ。画廊の収入は絵の販売代金でこれを作家と配分して利益とする。浅田檀は絶対に「企画画廊」をやると決めていた。



 (てら)(まち)(どおり)に空店舗が出た、と不動産屋に教えられて駆けつけた。この近辺は画廊、美術工芸品、(こっ)(とう)などを扱う店が並んでいる。願ってもない立地だった。以前は薬局だったという石造りの建物は薄暗くて床にも壁にも薬の匂いが染みついていたが、天井が高いところが気に入った。大がかりなリノベーションが必要で、知り合いから紹介されたデザイナーに依頼することになった。



 (うえ)()(ひろ)()は浅田檀より五つ年上で古いダットサントラックに乗っていた。大柄で無口でよく陽に焼けている。アニメ「アルプスの少女ハイジ」に出てくる「アルムおんじ」のような雰囲気があった。



 はじめての打ち合わせの際、手土産に(さば)寿司を持っていった。すると、大阪出身の上野博巳はぼそりと言った。



「京都の鯖寿司は棒寿司やな。大阪では鯖の寿司はバッテラて言うて押し寿司や」



「へえ、私、食べたことあれへんわ」



「今度持って来たる」



 翌日、上野博巳から連絡があった。バッテラを()うてきた、と。そして、浅田檀のマンションで二日続けて鯖の寿司を食べることになった。



 バッテラは鯖寿司とはまるで違っていた。鯖寿司は巻き()で巻いて作るので出来上がりは棒状だ。鯖は半身を使い分厚い昆布で包んである。一方バッテラは木枠で押して作るので出来上がりは四角い。鯖の身は削ぎ切りだ。その上に甘酢で煮た(しろ)(いた)昆布を載せてある。



「この昆布も食べるん?」



「どっちでもええ。俺は食べる」



 上野博巳に(なら)って白板昆布を剝がさずにバッテラを食べた。すると、ふいに胸の中に冬の風が吹いた。甘酸っぱい昆布はなんだか子供の頃に食べたお()つのようで、一瞬で駅伝の記憶が甦った。そうだ、あの頃、私は都大路を走りたかった、と。



「私、駅伝の選手になりたかったんや」



 その夜、ベッドの中で上野博巳は黙って浅田檀の麻痺の残った脚を()でた。ゴツゴツと節くれ立った熊のような手で触れられるのはとても不思議な感覚だった。まるで三軒隣の家のドアをノックされているような、日暮れに遠くの寺で鐘が鳴っているような、もどかしいが心をざわつかせる気がした。



「ほんまやで。私、小さい頃、学年で一番速かってんさかい」



「ああ、わかる。速そうな脚や」



 上野博巳はまた黙って脚を撫でた。突然眼の前が(にじ)んで気付いた。ああ、今なら傷つくことができる、と。浅田檀は上野博巳にしがみついてほんのすこしだけ泣いた。



 二人で何度も打ち合わせを重ねた。壁は(しっ)(くい)、床は自分の杖の音が客の鑑賞の妨げにならないようコルクを敷く。薬局時代の名残、()(かげ)(いし)のカウンターは残して客が気軽にコーヒーを飲めるようにした。



 画廊のオープンを明日に控えた夜だった。緊張して震えていると上野博巳は抱きしめてくれた。



「いろいろ落ち着いたら家を探そうや」



 だが、上野博巳はオープニングセレモニーに現れなかった。ダットラで信号待ちをしていたら前方不注意のワゴン車に追突されたのだ。たいしたスピードではなく普通なら命に別状はないはずだった。だが、上野博巳には本人も知らなかった(のう)(どう)(みゃく)(りゅう)があって追突のショックで破裂した。



 浅田檀の恋は呆気なく終わった。そして、気付いた。もう誰かを好きになることはない。これからはただギャラリストして生きていくのだ、と。





 浅田画廊がオープンして八年が経った。



「企画画廊」ではギャラリストのプロデュース能力が試される。どんな作品を置くかでその画廊の質、目指すものが評価されるのだ。だから、どれだけ頼まれても納得できない絵を展示することはできない。



 浅田檀が専門に扱うのは「現代日本画家」だ。人脈を広げるためオークションの場である交換会にこまめに顔を出し、有望な新人画家を求めて個展をハシゴする。地道な努力が実を結び、すこしずつ画廊の知名度は上がっていった。



 ある年の暮れ、雪の舞う中、全国高校女子駅伝が行われた日だった。



 大通りが交通規制されているので迂回しなければならない。沿道の観客を横目で見ながら、とある大きな公募展の会場にダットラで向かった。



 展示会場に入ると、雪のせいか思ったよりも()いていた。そこで黒縁眼鏡を掛けた男が近づいてきた。



「浅田画廊さんですか?」



 全身黒ずくめの服装に見憶えがある。ずっと昔、竹井清秀への嫉妬を口にしていた男だ。



(たま)()(しょう)です。よかったら、僕の絵を浅田画廊さんに置いていただけへんでしょうか」



 玉野将の入選作を観た。卒業式だろうか。(えん)()(はかま)姿の少女たちが笑みを含んでこちらを見つめている。だが、その絵は浅田檀の好みではなかった。テクニックがあって見た目はいかにもコンテンポラリーな美人画といった佇まいだが、観る者におもねるようなところが感じられた。



「入選おめでとうございます。とても素敵やと思いますけど、うちみたいに小さいとこでは勿体のうて。申し訳ないけどお力にはなれへんと思います」



 やんわりと断ると、玉野将は心外そうな顔をした。



「僕の絵、ネットで公開してて海外でも人気がある。新しい絵に抵抗がありはるようやけど、それは勉強不足やと違いますか」



「海外で評価されてはるんは素晴らしいと思います。でも、単純に画廊の方向性の問題なんです。玉野さんの絵はうちには向いてへん。合えへんとこに展示してもその絵が不幸になるだけです。別のギャラリーに声掛けはったほうがええんでは?」



 言葉は柔らかいが意味は一つ。あなたの絵はお断り、だ。玉野将の顔からさっと血の気が引いた。



「そうですか。じゃ、失礼」



 玉野将は吐き捨てるように言うと足早に行ってしまった。



 気を取り直して再び絵を観て回った。すると、一枚の絵の前で足が動かなくなった。



 蓮の葉を捧げ持った裸婦が正面を向いて立っている。大きな葉で顔は隠れているが身体つきからまだ若い女だと知れた。



 一目見ただけでわかった。この特選に選ばれた「蓮を持った女」を描いたのは竹井清秀だ。あの「白」を描いた男だ。噂はよく聞く。今は院生だが気鋭の若手画家として順調に売り出し中だ。



 浅田檀の眼は女の()()った紅色の(むな)(もと)に引き寄せられた。だが、顔を隠しているから視線が向くのではない。控えめな癖をしてなんて乱暴で傲慢な乳房なのだろう。強制的に人の眼を奪う。まるでこの乳房の奴隷になったようだ。



 近寄ってもっとよく観た。ごく薄いのに張り詰めた皮膚だ。でもたとえ針で刺しても破れたりはしない。弾力があるからだ。そして、(さくら)(ねず)色で淡くぼかすように描かれた乳首も美しい。この乳首は(つま)んではいけない。そっと触れるだけにしなくては。指では駄目。唇でなくては。そんなふうに思わせる、壊れそうなほど優しい乳首だ。



 首から鎖骨の下あたりまではごく淡い薔薇(ばら)色、()(ほん)()茶碗の紅だ。乳房そのものは胡粉を生かした白で塗られている。だが、ただ白いわけではない。柔らかな(ふく)らみには青紫色をした血管が描き入れてあった。



 ぞくり、と震えた。これほど美しく誘う血管を観たのははじめてだった。ごくごく細い水路のような、(かん)(にゅう)のような血管が薄い薄い皮膚の下を流れている。でも、この生々しい血管はなんだろう。ここを流れる血はきっと熱い。唇を付けたら火傷(やけど)するくらいに熱い。欲情しそうや、と心の中で呟いた。自分が吸血鬼にでもなったかのようだった。



 ため息をついて一歩下がった。今度は蓮の葉を観る。



 浅田檀は蓮が好きだからちょっとうるさい。また、蓮は繰り返し描かれてきたモチーフなので手本も多い。誰が描いてもそれなりのものになる。それ故、無神経な蓮も多い。



 だが、この蓮は違っていた。蓮の葉の淡い緑は岩絵具なのに岩の硬さがない。なのに、ぴんと張って水を弾く。水の玉が転がる音まで聞こえそうだ。そして、この蓮の茎はちゃんと中空で水が通っている。しかも、この茎を通る間に()()されて透き通った甘い水になるに違いない。



 いや、違う。杖でコツンと軽く床を鳴らし首を左右に振った。濾過ではない。浄化だ。この蓮は水を(きよ)める。



 いやいや、違う。もう一度コツンと杖を鳴らす。この蓮は人を浄める。いや、人を浄めて欲しいと願って作者が描いた蓮だ。なのに(なまぐさ)い。



 肌がざわざわと粟立っている。この絵は素晴らしい。女も蓮も圧倒的な存在感がある。絵ではなく「生きたもの」として現前している。でも、致命的な欠陥がある。



 かつて観た「白」はねじ伏せようとしてきた。だが、今、眼の前にある絵は違う。ここに描かれているのは作者の私的な屈折であり、欲であり歓喜であり、切実な願望であり至福だ。



 この絵は作者が前に出すぎている。あまりにもあからさまでそれ故に強い。強いが観る人を選ぶ。この絵を観た瞬間、反射的に嫌悪という感情を選択する者もいるだろう。だが浅田檀は否応なしに惹きつけられた。この絵は突き刺さってくる。観ているだけで肌が粟立ち背筋が震える。



 そのとき、背中にひやりとした気配を感じた。驚いて振り向くと若い男が立っている。思わず息を吞んだ。一目でわかった。この男が竹井清秀だ。



 竹井清秀は父親の康則と雰囲気がよく似ていた。敢えて違いを言葉にするなら、父親が雪すら積もらない強風の吹き荒れる凍り付いた岩山だとしたら、息子は万年雪と氷河で人を寄せ付けない真白く鋭い針の山という点だ。そして、息子の方がずっと美形だった。竹井清秀は俳優でも通りそうなほど整った顔立ちをしている。背が高くスタイルがいい。



 なるほど、と思った。毛並みが良くて才能があって容姿にも恵まれている。これを売り出したいと思う人間が群がるはずだ。浅田画廊には手の届かない男なのか。だが、この絵が欲しい。この男の絵が欲しくてたまらない。



「あの、竹井さん」



 竹井清秀がちらりとこちらを見た。瞬間、息が止まりそうになった。なんという眼だろう。固く固く凍り付いている。永久凍土、絶対零度の眼だ。



 竹井清秀は返事もしない。ただ黙ってこちらを見ている。浅田檀は心臓が高鳴って息が苦しくなってきた。二十も下の男になにを動揺しているのだろう。自分を叱ってバッグから名刺入れを取り出した。

「あの、私、浅田檀と申します。寺町通で画廊をやってます」

 名刺を差し出そうとしたとき手から杖が落ちた。油を引いた床に倒れて高く音が響く。周囲の者が思わず振り返るほどの大きな音だった。

「え?」

 握りの部分にストラップを付けて手首に巻いている。手から落ちるはずがない。驚いて手を見るとストラップがちぎれていた。

「え? え?」

 まだ新しいストラップだ。革だからこんな簡単に切れるはずがない。困惑していると、竹井清秀が杖を拾って無言で差し出した。指が長くて爪(つめ)は短い。痛々しいほどの深爪だ。その爪を見た途端ふっと全身の力が抜けた。

「おおきに」

 礼を言って杖を受け取った。竹井清秀は黙ったままだ。この沈黙は針の山どころか呪われた剣だ。四方八方、見境無しに世界を切り裂く。

「うちで竹井さんの企画展をやりたい。っていうか、これからうちで全部あなたの絵を扱わせて。専属契約結ばせて」

 一息に喋ると、竹井清秀が黙って眉を寄せた。

「この蓮、凄い。この女の人も凄い。どっちも清らか。でも血の匂いがして腥い。蓮の中には血が流れてるみたいだし、この女の人の身体には血の代わりに透き通った綺麗な水が流れてるみたい。あなたの絵は祈りであると同時に呪い」

 あまり勢い込んで口にしたので途中声が裏返った。

 竹井清秀は浅田檀の顔をじっと見てかすかに鼻で笑った。そして、そのまま背を向け行ってしまった。

 なんやのあの態度、とむっとした。たしかに非常識な申し出だ。初対面で口にすることではない。相手にされなくて当然だ。だが、あんな人を馬鹿にしたような態度はないだろう。いくら才能があっても人間性は最低なのか。

 わだかまりを抱えたまま歩き出す。次の部屋へ行こうと廊下へ出たところで再び玉野将に出くわした。軽く頭を下げそのまま行き過ぎようとしたら呼び止められた。

「さっき竹井清秀に振られてはりましたね。僕の絵は断るけどあいつにはヘコヘコしはるんや。やっぱ大事なんはコネか」

 嫌な感じがして思わず杖に眼を遣(や)った。こういうときに走って逃げられる人が羨ましい。

「玉野さん、コネとか関係ありません。何度も申し上げましたけど、うちの画廊にはあなたの絵は合えへんのです。うちに飾らしてもうても勿体ないだけです。あなたの絵が生きる、もっと良いところがあると思います」

「世の中不公平やと思いませんか。あいつはコネでなんぼでも賞がもらえる。僕はやっと今日はじめて入選したのに」

「コネの有り無しでお断りしたんやありません。うちの画廊に合えへん。それだけのことです」

 この世界、コネなどないとは言えない。だが、コネだけとも言えない。こういった鬱屈を抱える売れない画家はいくらでもいて、浅田檀にはその気持ちがよく理解できる。だが、コネの有り無しを言い訳にしたらおしまいだ。

「なにがうちの画廊や。偉そうに」

 ふいに玉野将の顔が朱に染まった。吐き捨てるように言う。驚いて思わず浅田檀はよろめいたが杖のおかげでなんとか倒れずに済んだ。

「そりゃあいつは男前や。僕みたいな不細工と違うわ。でも、ええ歳したおばはんがデレデレして気(き)色(しょく)悪いんや。なあ、あんた、もてへんやろ? 日頃男に相手にされへんから、あんなんにキャーキャー言うんや」

 玉野将は激昂して声を震わせた。

 ただの八つ当たりだ。画家の激情など慣れている。いつもなら流せる言葉だ。なのに今日は涙が出そうになった。きっと駅伝の日だからだ。沿道の人波を見たからだ。走りたかった、と思い出したからだ。脚を撫でてくれた上野博巳の手を思い出したからだ。

 それでもこんな奴に負けるわけにはいかない。懸命に涙を堪(こら)え顔を上げた。

「なんやの。コネとか顔のせいにしてみっともない。浅田画廊にあんたの絵を飾るなんて死んでも御免や。私の画廊に置く絵は私が選ぶ」

 きっぱりと言い返したとき、こちらにやってくる人影が見えた。竹井清秀だった。

 玉野将が竹井清秀を見てさっと顔色を変えた。だが、竹井清秀は玉野に一(いち)瞥(べつ)もくれず、浅田檀にいきなり声を掛けてきた。眉を寄せ、いかにもうっとうしそうに言う。

「さっきの話、俺からも頼む」

「え?」

「俺の絵、あんたんとこに置いてくれ。あんたに俺の絵、すべて任せる」

 呆然と竹井清秀を見つめていた。無礼で乱暴で人にものを頼む口調ではなかった。だが、すこしも不快ではなかった。

 玉野はぽかんと口を開けてこちらを見ている。気を取り直してなにか言おうとしたが、竹井清秀がじろりと玉野をにらんだ。途端に玉野が震えた。誰の眼にもはっきりわかるほどだった。竹井清秀の眼は凄まじかった。これ以上はどうやっても冷たくできない。きっとこの眼は絶対零度を軽々と下回る。

「竹井さん、ほんまにええの?」息が苦しくなってそれ以上言葉が出なかった。慌(あわ)てて頭を下げる。「おおきに。ありがとうございます……」

 頭を上げたときにはもう竹井清秀は背を向けていた。

 そのとき、竹井清秀に女が近づいていくのが見えた。色の白い地味な顔立ちの女だ。細身で立ち姿がはっとするほど美しい。見た瞬間わかった。この人が「蓮を持った女」だ。

 女が竹井清秀になにか言った。竹井清秀は女を見たが返事をしなかった。だが、次の瞬間、浅田檀は驚いて息を吞んだ。

 竹井清秀は笑っていた。眼を細めほんのすこし唇の端を上げただけだが明らかに笑っていた。

 ああ、あの人、笑いはるんや。あの女の人の前やったら。


 だが、その笑みは一瞬だった。すぐに竹井清秀は先程までの氷の朴(ぼく)念(ねん)仁(じん)に戻った。

 浅田檀はまだ竹井清秀を見ていた。驚きは治まったがなんだか胸が痛かった。そして、気付いた。今、自分は傷ついたのだ、と。その事実に当惑して思わず出た言葉がこれだった。

「竹井さん、鯖寿司好き? それともバッテラのほうがええ?」

 竹井清秀が振り向いた。あの竹井康則の息子になにを言っているのだろう、といよいよ混乱し恥ずかしくなった。

「私、駅伝の選手になりたかってん」

 竹井清秀がまた鼻で笑って背を向けた。浅田檀は二人を黙って見送った。

 その日の夜遅く、ダットラで自宅に戻るとソファに座ってテレビを点(つ)けた。都大路を飛ぶように駆ける選手を見ながらビールを飲みバッテラを食べる。まだ高揚しているのが自分でもわかった。私は竹井清秀の絵を扱えるのだ。きっと浅田画廊の目玉になる。

 瞬間、女に笑いかける竹井清秀の顔が浮かんでずきりと胸が痛んだ。

 あれほど恵まれた境遇にありながら、なぜあの男はあんな絵を描くのだろう。櫻も池も蓮も女もどれも死の匂いがして痛々しいほど狂おしい。

 竹井清秀は一体なにを求め、なにを願っているのだろうか。

(了)


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