第一章
文字数 8,159文字
第一章
1.
死んだ弟の元恋人は、すでに十九分遅刻している。
四月頭の土曜日、午後一時近く。八王子駅北口のカフェはにぎやかだ。奥のソファ席では肩をくっつけ合った若い男女がクリームとベリーをたっぷり盛ったパンケーキを楽しんでおり、その斜向かいでは中年の女性数人のグループが本日のランチの八王子ナポリタンとハンバーグのセットを食べながらひっきりなしに笑い声をあげ、二人掛けのこぢんまりしたテーブル席では、上品な老夫婦がコーヒーを味わっている。
『今どちらですか? ご都合が悪くなったのならご連絡ください』
普段なら末尾に文章の印象をやわらかくするクローバーや花などの絵文字を付けるのだが、彼女へのメッセージには一度も付けたことがない。相手がそういうものを一切使わないので、こちらも必要最低限のテキストだけ送るようになった。
「あ」
送信したばかりのメッセージに既読マークがついた。九ヵ月前に一度顔を合わせただけの相手だが、彼女の姿はくっきりと記憶に残っている。すらりとした長身に、どこか不敵さを感じさせる立ち姿、そして鋭い眼光。
五秒待ち、十秒待ち、三十秒待った。液晶画面上部のデジタル時計が一分進んだ。じわりと眉が吊り上がる。
なぜ何も返してこない、小野寺せつな。
メッセージを見ることができているなら、事故に遭ったりしたわけではないのだ。ならばなぜ十九分、いやすでに二十分だ、遅刻するに至っているかを説明するべきではないか。私だったらそうする。遅刻したことなんて四十年間の人生で一度たりともないが、きっとする。
イライラしてパンプスの踵で床を蹴りつけた途端、赤ん坊の泣き声があがった。
びっくりして隣のテーブル席を見ると、友人とランチセットを食べていた若い母親が、テーブル脇に停めたベビーカーから小さな子を抱き上げた。ふっくらとまるい顔は、まだ男の子なのか女の子なのかわからない。皮をむいた白桃のようになめらかな頰が涙に濡れていくのを見ると、自分がとんでもなく嫌な人間に思えて薫子は顔を伏せた。
まだ二十代とおぼしき若い母親と連れの女性は、甘い声で赤ん坊をあやす。意識するまいとすればするほど、赤ん坊の声はくっきりと耳に届いてしまう。
薫子は見ていることを悟られないように、母親の腕に守られる赤ん坊をうかがった。
いつものように、あの子をさらう方法を考える。今回はこの通り、人目が多い。赤ん坊をひったくって逃げるのは無理だ。外に出る前に捕まってしまう。
こういうのはどうだろう? まずはにこやかに、若い母親に声をかける。
「少し代わってみましょうか?」
彼女はきっととまどいを浮かべてこちらを見るだろう。それでもたっぷりと年上のほほえみを浮かべながら両手をさしのべれば、まだ母親になって日が浅いと見える彼女は、赤ん坊をおずおずと渡してくる。薫子が堂に入った手つきで赤ん坊を抱きとり、やさしく揺らしながら一言二言歌うような調子であやすと、あら不思議、赤ん坊はぴたりと泣きやみ、愛らしい声をあげて笑いさえする。
尊敬と羨望のまなざしを向けてくる母親に薫子は聖母の微笑を返し、赤ん坊を抱いたままゆったりとドアに向かう。あまりに自然にそうするので、誰も怪しまない。赤ん坊を風に当ててやるそぶりで外に出れば、カフェの前の路肩にはちょうどよくタクシーが停まっている。薫子は優雅に手を上げて合図し、うやうやしく後部ドアを開けたタクシーに乗り込む。あとは簡単だ。自宅マンションの住所を告げて、支払いはスカートのポケットに忍ばせたスマートフォンですればいい。
そこまで空想した時には、赤ん坊の泣き声はやんでいた。いつも妄想のあとにやってくる空虚な気分をハーブティーでごまかしながら、薫子はつぶらな瞳の赤ん坊を見つめた。あの子に出るはずのない母乳を与える自分の姿、寝不足の目をこすりながら夜泣きする子をあやす姿を思い浮かべる。やがて乳児は立って歩いておしゃべりする幼児になり、手をつないで保育園に向かう自分、運動会で走る子に渾身の声援を送る自分、小学校の入学式で号泣する自分の姿が映画のように頭の中を流れていく。きっと小学校に通うようになっても、最初は心配で昼休みに様子を見にいってしまう。そしてある日子供に気づかれて「お母さんやめてよ」と迷惑そうに言われるのだ。
「一人目の時は赤ちゃん泣くたびに大あわてだったのに、今は落ち着いてるよね」
「慣れだね。慣れないとやってけないもん、ほんと」
ぎょっとして妄想映画の上映が止まった。初心者と思っていたら実は中堅だった若い母親の、二人も産んだという子宮のあたりを凝視していると、目の端に影が映った。
「遅れてすみません」
どこの作業員だ?
北欧風の内装の上品なカフェで、テーブルの横に立った女はかなり浮いていた。ブルーデニムのつなぎ服に、ごつい黒のコンバットブーツ。髪は頭の高い位置でおだんごに結っており、小ぶりな逆三角形の顔は化粧っ気がない。戦闘機の整備士が、ひと仕事終えて基地からふらっと出てきたような雰囲気だ。
体育の成績は良かっただろうと思わせる身のこなしで向かいの椅子に腰を下ろした彼女は、メニューを一瞥することもなく水を運んできた女性スタッフに声をかけた。
「ミルクティー、お願いします」
「かしこまりました」
薫子は自分のカップもほとんど空になっていることに気づいた。ハーブティーを、と言いかけてやめる。別に、もうカフェインを気にする必要も、体を冷やさないようにと温かいものばかり飲む必要もないのだ。
「すみません、私もアイスコーヒーを」
「かしこまりました」
笑顔で一礼した女性スタッフの後ろ姿を見送ってから向かいに顔を戻すと、二十分遅刻してきた相手は、椅子の背もたれに寄りかかった上に腕組みしていた。悪びれるどころか、何だ、この態度のでかさは。
「おひさしぶりです、小野寺さん。お忙しいところ、お呼び立てしてごめんなさいね」
「そうですね。このあと予定があるので、三十分以内で済ませてもらえると助かります」
連絡もなしに遅れてきたことをチクリとやったつもりが、まるでこっちが無理やり時間を取らせたかのような返答だ。いや、こちらが会ってくれと頼んだのは確かなのだが、それにしたってもっと言いようがあるだろう。
盛大にイラッとしていると、腕組みしたまま小野寺せつなが口を開いた。
「春彦さんは、どうして死んだんですか?」
店内に流れていたクラシックがジャズに変わった。陽気な伴奏に合わせて、バイオリンの甘い音色がマイペースに、ほがらかに歌う。
まるで、春彦のような曲だ。
「心不全だったの。本当に突然のことで」
「それは死因じゃありませんよね。人間死ぬ時は誰だって心臓が止まるわけだから心不全になります」
切りこむような口調にひるみ、その反動でむかっ腹が立った。
「あなたね、そういう重箱の隅をつつくことを言う前に、ご愁傷様のひと言でもかけるのがマナーってものじゃないの?」
「それはお姉さんから連絡をいただいた時に書いたと思いますけど」
「あらそうでした? ごめんなさいね。ですが今後、あなたの親しい方が私のように突然家族を亡くした場合は、顔を合わせた時にもう一度心をこめて言ってさしあげるのがいいと思いますよ。あなたに一グラムでも思いやりの心があるならね」
そこで女性スタッフが「ミルクティーとアイスコーヒーでございます」と注文の品を運んできた。まず薫子の前にアイスコーヒーを置いたのは、見た目だけで薫子のほうがだいぶ年上だとわかるからだろう。
「せつなさん、俺と同い年で誕生日も同じなんだ。面白いよね」
彼女を南陽台の実家につれてきた時、春彦は快活に話した。せつなと話すうちに目に見えて機嫌が悪くなっていた両親も、春彦が笑った途端に頰をゆるませ、薫子も「じゃあ私と同じ戌年ね」なんて張り切って相槌を打った。春彦には人の心をなごませる力があった。そばにいるだけで幸福な気持ちにさせてくれる不思議な空気が。
薫子は気持ちを静めるためにアイスコーヒーにミルクとガムシロップを入れ、ストローでひと口飲んだ。相手はひと回りも年下だ。私が大人の対応をしなければ。
「ご連絡した時にもお伝えしましたけど、春彦は生前に遺言書を作成していました。あの子が遺した株や預金なんかの財産を、両親や私を含めた相続人に、このように分けてほしいという指示が書かれています。小野寺さん、あなたも春彦が指定した相続人になっているんです」
小野寺せつなは黙っている。
「あなたは春彦の配偶者でも親族でもないので、正確には相続人ではなく、受遺者というんだけど。私は春彦から遺言の執行者に指名されています。私は法務局に勤めているので、多少はこういったことの知識もあるから、あなたの手はなるべく煩わせないように手続きするつもりです。ただ、やっぱりあなたにも確認してもらわなければいけないことが諸々あるので、一度改めて機会を作ってもらって一緒に──」
「いりません」
頰を引っぱたくような、鋭く速いひと言だった。
「いらないって」
「もらう理由がないですから。相続とか面倒くさいし」
「面倒って、あなたね、何なのその言い草は!」
ふやぁ、と泣き声があがった。ぎくりとして隣のテーブルを見ると、母親が赤ん坊をベビーカーから抱き上げ、やさしい声をかけながらあやす。けれど赤ん坊はますます泣き声を張り上げるばかりだ。突然の大声にぶたれて、痛くて怖いと訴えている。
母親は友人に目配せをすると、赤ん坊をベビーカーにそうっと寝かせて腰を上げた。母親と友人とベビーカーが通りすぎる時、薫子は水滴の浮かんだアイスコーヒーのグラスに視線を固定して息を殺した。
「ごめんなさい、びっくりさせちゃって」
真摯な声に驚いて顔を上げた。母親はとんでもないという表情で小野寺せつなに手を振り、薫子にも、すみませんというように小さく頭を下げていった。
数秒静まった店内に、明るいざわめきが戻ってきた。中年女のヒステリックな声も、赤ん坊の泣き声も、何もなかったことにされて軽快なバイオリンジャズが似合う春の土曜日が修復されていく。
薫子は荷物置きのかごからバッグをとり上げ、常に持ち歩いているスケジュール帳を開いた。
「遺産相続については項目ごとに期限が決まってるんです。まずは三ヵ月以内に、借金なんかのマイナスの遺産もプラスの遺産もすべて相続するか、マイナスの遺産からプラスの遺産を差し引いた限定承認をするか、それとも相続放棄するかを決定して、家庭裁判所で手続きしなければいけないの。まあ春彦には借金なんてありませんでしたから、あなたは春彦が遺したものをそのまま受け取ってくれたらいいです。可能ならすぐにでも手続きを進めたいところですけど、あいにく今は年度初めのあれこれで私も忙しいので、できれば四月の中旬に改めてお時間を取ってもらえますか?」
「勝手に話を進めないでください」
「心配しないで。あなたは私の言うとおり書類に名前を書いたり判子を押したりするだけでいいの。相続税も払う必要はありませんから」
「そういうことじゃなく、本当に心からいらないんです。私は放棄しますから、あとはそちらでよしなにやってください」
薫子は、どんどん水位を上げていく苛立ちを鎮めるために腹式呼吸をした。
「小野寺さん。もしかしたらちゃんと理解してもらえていないかもしれないので、もう一度言うわね。春彦が死んだの。まだ二十九歳だったのに。春彦はわざわざ遺言書を用意していて、あなたに自分の財産を分け与えたいという意思を遺していた。つまり、これはあなたに対する春彦の人生最後の真心といっていい。それをいらないだなんて、失礼ですけどあなた、血の色がモスグリーンやコバルトブルーなのかしら?」
「その二色ならモスグリーンのほうが好きですね」
「茶化さないで!」
「血の色とか吹っかけてきたのはそちらじゃないですか。私ももう一度言わせてもらいますけど、遺産なんてもらう理由がないです。お姉さんだって聞いてるはずですよね。私と春彦さんは、もう何の関係もありません」
ふっと、今のせつなのようにテーブルの向かいに腰かけた春彦の姿がよみがえった。スーツのジャケットを脱いで紙製のエプロンを着けた恰好は、二週間余り前の三月十四日、二十九歳の誕生日のお祝いに焼肉屋につれていった時のものだ。
春彦が好きなコブクロを焼いてやりながら、あの子とはどうなの、とお決まりの話題として訊ねた。結婚とか将来とか、そんなものを含めたニュアンスで。キムチで真っ赤になった冷麺をすすっていた春彦は、淡い茶色の目を細めて微苦笑した。
「せつなさんとは別れたんだ」
驚いた。両親にはすこぶる不評な小野寺せつなだったが、春彦と彼女は仲睦まじく見えたし、春彦の幸せが一番だ、姉として精いっぱい応援しよう、と思っていたのだ。
「どうして? 私たちに紹介したってことは、結婚を考えてたんでしょう?」
「んー」
「まさかあの子が浮気したとか」
「ないない。せつなさんはほかに好きな相手ができたら、そういうわけだから今すぐ別れてくれってきっぱり言う人だから」
「そういうわけで別れろって言われたの?」
「いや、違う違う」
眉を吊り上げる姉に、困ったように笑いながら両手を振った春彦は「説明が難しいんだけど」と続けた。
「俺も思い切ってやりたいことがあるし、せつなさんにはできるだけ楽しく自由に生きてほしい。だからこれが一番いいって思ったんだ」
納得できたわけではなかったが、もともと不思議なところのある弟なので、それ以上は追及しなかった。
「でもあなた、あの子のこと好きそうだったのに」
「今もそうだよ。せつなさんには、とびきり幸せになってほしいって思ってる」
春風のようにほほえんだ弟は「うるさいこと言われそうだから父さんと母さんにはまだ話してないんだ。薫子さん、機会があったら二人に穏便に伝えておいてくれる?」とちゃっかり面倒ごとを姉に押しつけ、真っ赤な冷麺をおいしそうにすすっていた。
春彦がひとり暮らしのマンションで息を引き取ったのは、その夜だった。
人ひとりが死んだ時、生じる雑務は膨大だ。しかも春彦は死因がはっきりしない状態で急死したため、警察とのやり取りや、春彦が勤めていた会社への説明など、なおさら大変だった。悲しむ暇もなく奔走して吹き飛ぶように数日が過ぎた頃、東京法務局から通知が届いた。春彦が生前に遺言書を本局に預けており、死亡時にそれを通知する相手および遺言の執行者として薫子を指定していることを知らせるものだった。
千代田区の東京法務局で弟の自筆証書遺言書を閲覧し、両親と自分のほかに小野寺せつなの名前が記されているのを見た時、まず驚き、次に胸が苦しくなった。少なくとも春彦にとって、彼女は関係を清算したあとでも心に残り続ける存在だったのだ。
もっとやってあげたかったことも、ちゃんと伝えておけばよかったと思うことも、あとからあとからこみ上げてきて涙が止まらなかった。せめて、春彦の最後の願いは叶えてやりたい。その一心で高齢の両親に代わって煩雑な手続きをこなし、最愛の息子を失って抜け殻のようになった二人の様子を見に実家に通うかたわら、小野寺せつなと連絡を取る方法を探した。
手掛かりは春彦の遺品のスマートフォンくらいだったが、これは当然ながらセキュリティロックが掛かっている。メーカーのサポートサービスに問い合わせると、丁寧な説明を受けたが、要するに遺族であってもロックの解除には応じられないということだった。確かにユーザーの個人情報をおいそれと開示するわけにはいかないだろう。それで今度はデジタル遺品の専門業者に相談した。スマートフォンのロックを初期化してデータを閲覧することは可能らしいが、それには二十万円前後の料金がかかる上に、数ヵ月の時間を要するという。料金はさておき、そんなに時間をかけることはできない。困り果てた時、ふと思い出した。春彦を発見してくれた会社の同僚だ。春彦と親しかった友人ならば、弟が交際していた相手のことも知っているのではないか? 急いで彼に連絡を入れると『個人的な連絡先はわからないが彼女の勤務先なら知っている』という返事をもらった。安堵のあまり、肺がつぶれてしまいそうなほどのため息が出た。
『カフネ』という家事代行サービス会社にすぐさま連絡を入れた。身元を名乗り、自分の携帯電話番号とメールアドレス、勤務先を伝えて、小野寺せつなさんから連絡が欲しい、なるべく早くお願いしたい、と伝言を頼んだ。せつなからメールが来たのは翌日だった。春彦の死を伝え、用件を伝え、直接お会いしたいと伝え、彼女からの返事を待ち、日程を調整し、やっと迎えた対面の日が今日。苦労の末に、今こうして春彦の遺言を伝えたのだ。
それを、この女は。
「あなた、冷たすぎるんじゃないの。別にあなたに何かをさし出せと言ってるんじゃない、ただ春彦が遺したものを受けとってほしいと言ってるだけよ。どうしてそれをそんなに嫌がらなきゃいけないの? あなたは何も損をしないじゃない」
「損とかの問題じゃなく、自分がもらう理由のないものはもらいたくないと言ってるだけです。プレゼントをさし出されたら絶対に受け取らなければいけないんですか? そんなことはありませんよね。受け取るかどうかは私が決めていいはずです」
「ええそうね、そうでしょうね。でもね、それでもあの子はあなたに贈り物を残したかったのよ。それが人生最後の願いだったの。だったら黙って受け取っておけばいいじゃない、それが生きてる人間の甲斐性ってものじゃないの? せっかくの気持ちをこんなに粗末にされて、あの子がどんなに悲しむか」
「死んだ人間は悲しみませんよ」
赤い血が流れる人間のものとも思えない、冷淡な声だった。
椅子の脚が床を擦る乱暴な音がして、薫子は自分が立ち上がっていることに気づいた。胃の中で胃液の代わりにマグマが煮えたぎっているようだ。何もかも手当たり次第に壊したい。たとえばこの木目調のテーブル。あるいは小野寺せつながまだ一度も手をつけていないミルクティーの花柄のカップ。そうでなければ、今すぐ奥の厨房に乗り込んでいって食器を片っ端から床に叩きつけたい。
ここしばらく鳴りをひそめていた怒りの発作が心拍を加速させる。少し体をゆらしただけで爆発してしまいそうだ。だめだ、落ち着け。
「──あなたのこと、わからないわ。どうしてそんなに春彦をないがしろにできるの? 別れたっていっても、一度は愛し合って一緒にいたんでしょう?」
「それは今、関係なくないですか。前はどうだったとしても私と彼は合意の上で関係を終わらせたし、それなのに今さら人生最後の願いがどうのなんて理由で蒸し返されたくない。それだけです」
薫子は、立ち上がった相手から見下ろされても眉ひとつ動かさない女を凝視した。この女は、春彦にもこんな情のない目を向けたことがあるんだろうか。もしかして最後に会ったあの夜、春彦は姉に心配をかけまいと無理をして笑っていただけで、本当は深い傷を負っていたのではないか。この女のせいで。
「ねえ、春彦が死んだのは、あなたが原因なんじゃないの? そうなんでしょ!? あなたのせいで春彦は──」
ぐらりと視界が大きくゆれた。
え、と声をこぼした途端、視界がテレビの砂嵐みたいな細かい白黒にどんどん浸食されていく。え、何これ? いたずらに引っかかったような気分で膝を折りながら、意識が途切れた。