『スイート・マイホーム』大ボリューム試し読み

文字数 21,813文字

第13回小説現代長編新人賞受賞作
『スイート・マイホーム』(神津凛子 著)



 彼女が狂ってゆく。
 それはじわりじわりと彼女を侵食し、狂気しか持たぬ人間ならざるものに変えた。
 間近でそれを見ていた私も直に狂うだろう。
 行き着く世界で見るものは一体何だろう。この世に生を受けた意味も分からぬまま逝ったあの子はそこにいるだろうか。死んだら逢えるだろうか。死なねば逢えぬだろうか。
 死ぬなら我が家へ帰ろう。
 かつて信じていたスイート・マイホームへ。


第一章 あたたかい家




〝まほうの家〟
 それがその家のキャッチコピーだった。
「冬でも半袖一枚で過ごせる暖かさ。居住空間に暖房器具は一切必要ありません。家中どこでも同じ室温で快適に暮らせます」
 チラシにはまだまだ魅力的な売り文句が列挙されていた。
 半纏を着こみ、炬燵にあたっていても顔と手は冷たい。室内にもかかわらず、吐き出す息は白い。
 数分前に新聞を取りに行った時には、ポストが凍っていてすぐには開かなかった。同じタイミングでアパートの隣人が車に向かったが、霜に覆われた車のドアは凍り付き、男の力でも簡単には開かないようだった。諦めたのか秘策があるのか、部屋に戻ろうとした隣人がポストと向かい合ったままの私に声をかけてきた。
「お宅もですか」
「毎朝これです」
「ポストに何かはさんでおくといいですよ。ウチはストローをはさんでいます」
 部屋の前に立てられたポストを指さし、隣人は笑った。
「最近、朝の冷え込みがひどいでしょう。車の暖気をしたくても、ドアが開かないんじゃお手上げですよ」
 隣人は苦笑いをした。
「スターターつけなきゃだめだな」
 そう呟いて、車との格闘に敗れた男はドアの向こうに消えた。
 先程のやり取りを思い出していると、妻が起きてきた。小柄の妻は寒さで背中を丸め、益々小さくなっている。
「やだ、ちょっと! エアコンつけてないの?」
 開口一番妻はそう言うと、壁にあるリモコンのスイッチを押した。
「寒いー」
 そう言って炬燵に潜り込む。
「またポストが凍っていた」
 私がそう言うと、妻は恨めし気に睨んだ。
「ポストくらいならちょっと力を入れれば開くでしょ。最近の冷え込みのせいで、午前中北側の窓は全滅」
「開かないのか」
「開かないどころか、その後も地獄よ。結露地獄。拭いても拭いてもまた結露」
 炬燵にあたったまま窓に目をやる。南側のこの部屋でさえ、朝は窓が凍り付いている。
「結露したところは拭いているけど、それでも窓枠にカビが生えてきているの。もう、結露ノイローゼになりそう」
「なんだそれ」
「結露しない家ってないのかな」
 もごもごと言いながら、更に炬燵の奥へ潜って行く。小さな炬燵によく全身が入るものだと妙な感心をしていると、二階からサチの泣き声がした。
「ケンちゃん、お願い。私、寒すぎて出られない」
 炬燵人間になった妻は、口は寒くないのか饒舌に話し出す。
「エアコンだとすぐには暖かくならないよね。でも石油ヒーターはサチがいるから置けないし。オイルヒーターだと暖まるまで時間かかるよねえ。何かないのかな、パッとあったかくなる暖房。それか、すっごくあったかい家」
 サチの泣き声が大きくなる。
「あの泣き方はおっぱいかな……寒いのにおっぱいだすの嫌だなあ」
 グチグチと言う妻を横目に、私は階段を上がる。
 三年前、結婚を機に越してきたこのアパートは田舎には珍しくメゾネットだった。そこに惹かれて決めた物件だったが、サチが生まれてからは長所だと思っていたメゾネットが欠点に変わった。サチが階段から転げ落ちないよう気を遣う。
 転落防止のための柵を開けようとした時、すぐ隣の寝室の引き戸が開き、サチが顔を出した。私を見るなり、演技がかった泣き方を始める。最近知恵がついてきて、大人の顔を見てより大泣きするのだ。サチが柵にしがみついてしまって、開けるに開けられない。仕方がないので柵から身を乗り出し、サチを抱き上げる。抱き上げた途端、サチは泣き止んだ。まだぐずぐずと鼻を鳴らしてはいるが、落ち着いたようだ。サチから乳児独特の匂いがする。耳の上の辺りに鼻を近づけると、その匂いが一層濃くなる。私はこの匂いが好きだった。
 リビングに戻ると、妻はまだ炬燵人間のままだった。
「ありがとケンちゃん。サチ、おっぱい?」
「どうかな。けど、飲めば機嫌がよくなるかも」
 妻は渋々炬燵から半身を起こした。栗色の髪がさらさらと肩の上で揺れる。パッチリと大きな目は、態度に反して愛おしそうに娘を見つめている。着ていたトレーナーを捲りあげ、恥ずかしげもなく乳房を出す。決して大きくなかった妻の胸は、妊娠中に驚くべき成長を遂げた。産後は益々大きくなり、別人の胸のようだった。私の視線に気付いた妻は、
「なによ。珍しくもないでしょう」
 と言った。
「……まあな」
 サチを妊娠したと分かった時点で妻は母になった。
 母になった妻は、女でなくなった。私のことも男としてではなく、サチの父親として見るようになった。世の母親は皆こうなのかもしれない。とすると、二人目、三人目は誕生しようがないが。
「どうしたの」
 妻の乳房を見ながらそんなことを考えていると、妻が不審そうに言った。
「なあに」
「いや。すっかりサチのおっぱいになったな、と思って」
 それを聞いた妻は小さく吹き出した。
「何それ。元々ケンちゃんのおっぱいじゃないでしょ。私のおっぱいは私のものよ」
 張り出した乳房は私の手のひらでは包めない程大きかった。もう二年、触れてさえいない乳房から目を逸らす。
「寒そうだな」
 話題を変える。
 妻は瞬時に切り替え、顔つきまで寒そうに変わった。
「寒いわよ、もちろん。でも朝より、夜中の授乳が辛いかな。火の気がないところで授乳するのはまるで拷問よ。ケンちゃんはスヤスヤ眠ってるけど」
 妻は私を責めるような目で見たが、すぐにサチに視線を落とした。
「でも、サチもかわいそうで」
 妻は、サチの小さな手を握った。
「手が布団から出てるから、すごく冷たいの」
 サチが生まれるまで知らなかったのだが、赤ん坊は両手を上げて眠る。万歳の格好で眠るので、どうしても手だけ冷たくなってしまう。
 一度、赤ん坊用の手袋をさせたが、指しゃぶりもするので手袋ごとしゃぶってしまい、余計に冷たくなってしまった。
「最近は靴下も嫌がって脱いじゃうから、足にしもやけができるんじゃないかって心配」
 子どもは皆そうなのか、靴下も帽子も嫌がる。寒さは感じるだろうに、不思議だ。
「ここ、行ってみないか」
 私は先程のチラシを妻の前に差し出した。
「え、なに」
 妻は授乳しながら器用に受け取る。
「まほうの家」
 呟き、その後の文句を目で追っている。
「まあ、誇大広告だとは思うよ。社名もどうかと思うし。HA──ほっこりあったか──ホームなんて。だけど、普通の家より暖かいのかもしれないと思って」
 妻はチラシから私に視線を移した。その顔は真剣だった。
「ケンちゃん。家、建てるの」
「俺もいい歳だし、サチも生まれて、いつまでもアパート暮らしってわけにもいかないだろう」
「それはそうだけど……お金の問題もあるし、第一、お義母さんが何て言うか」
 妻の心配はもっともだ。金の工面より、私の実家が抱える問題の方が余程手強い。
「相談してみるさ。まあ、この会社のモデルハウスを見てからでもいいだろう、話すのは」
「そうかなあ」
 実家の問題が障害になってはいるが、名残惜しそうにチラシに見入る妻の本音は一目瞭然だ。
「今日、予定ないだろう。ちょうどいいじゃないか。後で行ってみよう」
「サチも新しいお家に住みたい?」
 妻が授乳しながらサチに話しかけると、サチはまるで意味が解っているかのように足をバタバタと動かした。それを見て妻は大げさに表情を作ると、
「だって」
 と言った。

 長野の冬は厳しい。
 私は東京生まれだが、両親の離婚をきっかけに十三歳の時長野に引っ越してきた。母の故郷である長野に来たのはその時が初めてだった。
 離婚前、父は、私達が長野の実家に行くことを許さなかった。実家に限らず、どこへ行くにも父の許可が必要だった。家族を縛り付ける父から逃れ、自由になったのは良かった。しかし、祖母が母に残した古い家で長野の冬を体感した時、私は初めて、長野に移り住もうと言った母を恨んだ。それほど長野の冬は厳しかった。
 長野を脱しようと奨学金で東京の大学へ行った。その時は、やはり私の故郷は東京だと思ったし、骨を埋めるのも東京だと思った。思ったのだが……。
「ここ左折だって」
 ハンドルを握りながら、初めて体感した長野の冬を思い出していると後部座席から妻のナビが聞こえた。
「ナビする時くらい、助手席に座ればいいのに」
 ルームミラーで妻を見ると、妻はチャイルドシートのサチを愛おしそうに見つめていた。
「サチがかわいそうじゃない」
 そう言うと、チラシに視線を戻す。
「コンビニが見えてきたら、もうすぐみたい」
 妻はため息交じりに、
「住宅展示場って初めてだけど、大丈夫かな。しつこく勧誘されたりしないかな」
 と言った。
「その時はもっともな理由をつけてビシッと断るよ」
「もっともな理由って?」
「転勤になったとか、親が勧める住宅会社に決めたとか」
 ミラー越しに私をじっと見つめる妻と視線が合った。
「ケンちゃんて──」
「なに」
「そんなにスラスラ噓がつける人だったっけ」
 妻の強い視線を避けるために、私はミラーから目を逸らした。
「噓って……こんなの噓のうちに入らないよ。お互い嫌な気持ちにならないための方便さ。住宅会社の連中だって日常茶飯事だろう」
「そうかな」
 私の心の内を見透かそうとする妻の視線をまだ感じたが、あえて気付かぬふりをして話題を変えた。
「あのコンビニか?」
 しばしの沈黙の後、妻の返事が聞こえた。それと共に痛い程の視線が外れたので、ほっとした。
 同じ敷地内に何社も入っている住宅展示場を想像していたが、この展示場はチラシの一社だけのものだった。タイプの違う家が四軒並んでいる。私達が向かったのは、屋根が平たい真四角の家だった。深いグレーの外壁は、四季を問わず落ち着いた印象を与える。
 玄関ドア横のインターホンを押すと、目の前のドアが開いた。
 そこにいたのは、長身の若い女性だった。
 一目で社員と分かるスーツ姿で、真っ直ぐな長い黒髪をうなじのあたりで一つに束ねている。切り揃えられた前髪からのぞく黒目がちな一重の目で、真っ直ぐに私を見つめていた。口元にうっすらと笑みを浮かべている。ごてごての営業スマイルでないことに、僅かに安心した。
「どうぞ、お入り下さい」
 私は妻と目を合わせた。妻も女性社員の第一印象に安心しているようだった。
 サチを抱いた妻に先に入るよう促し、私もその家に足を踏み入れた。
 玄関に入った瞬間、ほんわりとした暖かさに包まれた。
「弊社のモデルハウスにお越し頂くのは初めてでしょうか」
「あ、あの、今朝のチラシを見て……」
 妻が、手にしていたチラシを掲げた。
「それはありがとうございます。本日担当させていただきます、本田と申します」
 本田と名乗る社員に案内され、家の中を見て回る。
 玄関横に設えられた、靴以外の物も収納できるスペース。大きな下駄箱。アパートの下駄箱は年に二回衣替えが必要で、その都度、入れ替えをしなくて済む大きな収納が欲しいと妻は愚痴を言っていた。
 バスルームは、脚を伸ばして浸かれる広々とした浴槽で、洗い場も広い。開放的なリビング。アイランドキッチン。使い勝手のよいキッチン収納。
 妻の目が見る間に輝きだし、本田の説明を聞きながら心を奪われているようであった。
 私は、家の暖かさに驚いていた。
 玄関に入った時から感じた暖かさが、家中どこでも同じように感じられるのだ。
 不思議だった。熱源が全く見当たらない。各部屋にはエアコンが取り付けられていたが、作動している様子はない。風を感じなかった時点でエアコンではないと思ったが、ヒーターらしきものも見当たらない。この包まれるような暖かさの正体が何なのか、見当もつかなかった。
 私は、熱源を探そうと足を止めた。そこに一つの扉。私の前を行く本田が素通りした箇所だ。部屋の扉ではないのだろうか。細かく説明している本田が開けないのなら、客に見せたくないものでも入っているのだろうか。
 他の扉が一般的な室内ドアなのに対し、ここだけが観音開きの扉だった。
 無意識に腕が伸びる。取っ手を摑みかけた時、サチを抱きながらキョロキョロしていた妻とぶつかった。
 サチを抱いた妻は、驚いたように私を見上げた。
「どうしたの」
「いや、扉が──」
「どうかなさいましたか」
 少し先の角で、本田がにこやかに問いかけた。
「ほら、行って」
 妻に促され、私は歩みを進めた。

「どうぞ、お掛け下さい」
 家を一通り見て回った後、二階の一角に設けられたソファに私たちは腰を下ろした。本田が席を外したので、熱源について妻と話そうとすると、彼女はうっとりと部屋を見回していた。
「素敵ねえ」
 妻の腕から自由になったサチがソファにつかまり、笑い声を上げた。
「エアコンがついていなかっただろう。ヒーターでもなさそうだし、なんだろうな」
「そうだった? あったかいなあ、とは思ったけど気にならなかった」
 妻は、最新のキッチンや風呂の設備に気を取られていたようだ。
 私が気になったのは暖かさと結露についてだった。どこの窓を見ても一切結露がない。モデルハウスとはこういうものなのだろうか。
「お待たせしました」
 戻って来た本田が、テーブルの中央に湯気の立つほうじ茶を置いた。さり気なくサチのことを気遣ってくれたのが、押しつけがましくなく好感が持てる。
「タイプの違う家がございますので、後ほどご案内致します」
「あの」
 私はこの家の暖かさの秘密を知りたかった。
「チラシにあった通り、この家には暖房器具が見当たらないのですが……エアコンもついていないですよね。一体どうしてこんなに暖かいのですか」
 本田は、笑みを絶やさぬまま説明を始めた。自身が座るソファに立てかけてあったパネルを差し出す。
「この家の建坪は約四十坪なのですが、この広さですとエアコン一台でこの暖かさです」
「エアコン?」
 動いていないエアコンを見やる。本田は私の視線に気付き、パネルを指した。
「この家の暖かさの秘密は、地下にあります」
「地下?」
 やっと話に興味がでてきたのか、妻が話に入ってきた。
「正確に言うと床下です。家の真下に家と同じだけの広さの空間があり、そこにエアコンを置き、作動させます。その暖気が、天井に配したダクトと壁の間を循環して家中どこでも同じ室温が保てるのです」
「結露しないのもそのせいですか」
「そうです。全くしないとは言い切れませんが、室内の暖房を使って部屋を暖める一般的な住宅と比べると、結露はしにくいです」
「それじゃあ、夏場はすごく涼しいってことですか」
 妻が身を乗り出して訊ねる。本田は申し訳なさそうに眉根を寄せると、
「温かい空気は上昇しますが、冷たい空気は滞留しますので、残念ながら暑さには対応しておりません。各部屋にエアコンをつけていただく必要があります」
 と答えた。妻はさほどショックを受けた様子でもない。長野では夏の暑さより、長い冬の厳しい寒さの方が問題だからだ。
「エアコンは、通常通りの使い方ですか? 設定温度とか、作動させる時間とか」
「通常の設定温度よりは多少高くされているご家庭が多いかと存じます。実際、この家は短時間で皆様に暖かさを実感して頂きたいので、設定温度は二十二度です。作動時間についてですが、冬中エアコンはつけておく必要があります」
 この答えに、妻はさすがに絶句した。私も、予想外の答えに驚いた。
「冬中と言うと、長野は五、六ヵ月ありますよ。つけっぱなしになんてしたら電気代が半端じゃないでしょう」
 本田はもう一枚のパネルを差し出した。そこにはコストがグラフになって記されていた。
「そうでもありません。家中一台のエアコンで済む、という点が大きいのですが」
 そう前置きして、本田はいかにこの住宅がコストパフォーマンスに優れているかを語った。
「私も弊社で家を建てたのですが」
 若いと思っていたが、実際は見た目より年がいっているのかもしれない。
「寒い時期の電気代は、オール電化でひと月二万円くらいです」
 妻が頭の中でそろばんをはじく音が聞こえてきそうだった。
「え? 二万円?」
 目を白黒させた妻は私の腕を摑み、
「ケンちゃん、ウチ、ガス代と電気代で冬場は二万円くらいかかってるよ。しかも節約してだよ」
 と、興奮した様子で話しかけてくる。その節約の代償が今朝の寒さだ。
「決して高いコストではないと思います」
 本田が柔らかな笑みを浮かべながら言う。
「お子さんがいらっしゃると、冬のお風呂も大変ですよね」
 妻は何度も頷きながら、そうなんですそうなんですと答えた。
「この家は脱衣所も浴室も暖かいので、うちの子はお風呂上りに裸で走りまわっています」
「え。本田さん、お子さんがいらっしゃるんですか」
 若いと思っていた本田の実年齢は、やはり私が想像するより上らしい。
「お風呂、洗面所、キッチン、トイレ。冬の水回りは女性にとって敵です。特に、朝早く起きて家事をする際、一番寒い時間、一番寒いところで水を使うのは本当に辛いことです」
 妻は本田の手を取りそうな勢いで頷いている。
「子どもがいると、より気を遣いますよね。熱源が危険でない物を選択するところから始まって、寝ている時でも、子どもが寝返りしただけで目を覚まし布団をかけなおします。家の中が常に暖かいというだけで、子どもに対する気の配りようも変わってきますし、大幅にストレスが軽減されますよ」
 見た目ほど若くない営業は、まず妻の心をつかむことに成功した。
「そもそも日本の古い住宅は、高温多湿な夏を快適に過ごすことを主に考えた造りになっているので、間口も大きく風通しがいいようになっています。そのため、冬は家全体が寒く、炬燵などで人を直接暖めて暖をとるよりなかったのです。今でもその名残があって、日本人の多くは、『居る場所だけを暖める』という考え方が多いですよね」
 本田の話に、いつしか私も引きこまれていた。
「日本より寒さの厳しいロシアや北欧では、考え方が根本的に違います。『居る場所だけを暖める』のではなく、『家全体を暖める』という考え方が主流なのです。暖炉や暖房器具の熱で家全体を暖められるように造られており、外壁も、寒風を通しにくいレンガや高性能の断熱材などを用いて、少ないエネルギーで高い保温性があります。弊社ではそれらを参考に、より日本人が生活しやすいよう設計しています」
『居る場所だけを暖める』ことが当然だと思っていた私にとって、『家全体を暖める』という考え方は革新的だった。
「この家の暖かさの秘密をご覧ください」
 そう言って本田は立ち上がった。本田に続き階下に向かう。
 家の中を案内された時、唯一、本田が開けなかった観音開きの扉の前に立った。
「ここがこの家の心臓部です」
 そう言って本田は扉を開けた。開けた途端、中から暖気が流れ出る。
「どうぞ」
 本田が一歩退り、中に入るよう促した。
「ケンちゃん。サチお願い」
 妻からサチを抱き上げる。この家に入ってからずっとご機嫌のサチの頰は、桃色に染まっていた。
 妻が中に入る。地下へ続く短い階段が見えた。その先の空間を想像し、私は息苦しさを感じた。
 しばらくして、感嘆の声を上げながら妻が戻って来た。
「ケンちゃん、見てみる?」
 気遣わしげな妻を安心させるように私は微笑むと、サチを妻に渡した。
「ああ」
 足を踏み入れた時、予感が当たっていたことに気付いた。
 剝き出しの板で囲まれた箱のような狭い空間。その空間に入った瞬間、真横の壁が徐々に狭まってくる。それを無視して階段を下りる度、鼓動が激しくなる。それに伴って息が苦しくなる。息を短く吐き出しながら呼吸を整えようとするが、上手くいかない。
 振り返り、扉が開いたままなのを確認する。心配顔の妻と目が合ったので、笑って見せる。笑顔が引き攣っていないことを祈りつつ。壁も、狭まるのを止めたようだ。
 すぐ後ろに出口があり、いつでも引き返せると自分に言い聞かせたことで多少動悸が治まってきた。胸を押さえ、階段を下り切る。
 五段の階段を下りると、そこから膝の高さの空間がある。これがこの家の秘密らしい。
 体を曲げて覗き込む。
 床下全体にこの空間が広がっており、私に近いところで一台のエアコンが作動していた。この空間から壁と壁の間を暖気が伝い、家全体を暖めているらしい。
 エアコンから暖かな空気が流れ出ていて、その暖気が床下を暖めている。この狭い空間を。そう考えが及んだ時、私は再び息苦しさを感じた。考えまいとしても、膝下に広がる空間に入り込んだ自分を想像してしまう。心臓が激しく脈打ち、息ができない。上体を起こし、這うようにして階段を上がった。
 開け放した扉の前で、本田は初めて笑みを消していた。

「そういうことでしたか」
 二階のリビングで、落ち着きを取り戻した私を横目に、妻が本田に説明した。説明を受けた本田はやっと笑みを浮かべた。
「私も、結婚するまで知らなかったんです。付き合っている頃は、本当に完璧な人だと思っていたので。私が言うとバカみたいですけど、主人は見た目も良いし、スポーツもできるし、頭もいいし」
 完全にのろけているが、本田はにこやかな表情を崩すことなく妻の話を聞いている。
「そんな主人が唯一苦手なのが狭いところなんて」
「だれにでも苦手なことくらいあるだろう」
 私が反論すると、
「それはそうだけど。初めてケンちゃんが閉所恐怖症でパニックになったのを見た時は、こっちも生きた心地しなかったんだからね」
 と、妻も反論してきた。
「気を失ったでしょう。救急車を呼んで、私だって負けないくらいパニックになったのよ」
 初めて妻を伴って私の実家に行った時のことだ。パニックになり、気を失ったのは後にも先にもあの時だけだった。
「そうかもしれないが、何もここで話すようなことじゃないだろう」
 言い合いになりそうだったのを力業で話題を変えたのは本田だった。
「奥様もかわいらしい方ですが、お二人はどんな風に出逢われたのですか?」
 その目は、妻を射すくめるようだった。柔らかい中に強さがある。唐突な質問だったが、妻は思い出すように答えた。
「私が通うスポーツジムのインストラクターが主人だったんです」
「まあ」
「私、元々スポーツは得意な方じゃなくて、体を動かすのも好きじゃなかったんですけど、会社の健康診断で運動不足を指摘されて、仕方なくジムに入会したら……」
 妻がちらっとこちらに視線を寄こした。
「こんなに素敵なインストラクターがいるんだなってびっくりして。何度か通ううちに親しくなって、私からデートに誘ったんです」
「あら。奥様が?」
 妻は高校生のように笑うと、
「タイプだったんです」
 と言った。
「俳優の、何て名前だったかな……とにかく、俳優でもおかしくないくらい格好よかったから」
 本田は穏やかな笑みをたたえたまま、
「私はモデルみたいだな、と思いました」
 と応じた。妻は嬉しそうに、
「よく言われます」
 と、恥ずかしげもなく答えた。女子高生の休み時間のような、埒もない話を目の前でされ、私は逃げ出したくなった。
「もういいよ」
 そう言うのがやっとだった。
「最近は中性的な顔の男性が好まれるみたいですけど、私は一重のきりっとした目の男性が好きで。鼻筋も通っているし、唇も厚すぎず薄すぎず……それに、声。声が良いと思いません?」
 私はいたたまれず席を立った。サチを抱き上げ窓辺へ移る。後ろから高校生と化した妻と本田の笑い声が聞こえた。
 大きな窓から外を見下ろすと、展示場の幟が寒風を受けてはためいていた。
 寒そうだとは思うが、アパートにいる時のような実感はない。それだけこの家は自然に暖かかった。
 風を感じないからだろうか。
 エアコンで暖めているとは言っても、輻射熱によって暖かいため、エアコンの気持ちが悪くなるような風は全く感じない。外の様子を見ながら、この家の暖かさを実感した。
 妻と本田の他愛ないおしゃべりはまだまだ続きそうだったので、私はサチと一階に下りることにした。アパートで、子どもを抱いたまま階段を下りることに慣れてはいたが、やはり神経を使うし危険だと感じた。金銭的に許せば広い土地で平屋もいいかもしれない、などと妄想を広げる。
 一階に着き、サチを降ろす。私の腕から逃れようと暴れていた娘は、解放された途端危なっかしい足取りで歩き出した。その後をついて行くと、地下に通じる扉の前まで来てしまった。思わず足を止める。
 大人三人も入ればぎゅうぎゅうの身動きのとれない空間。狭い階段を下りると足元に広がる高さのない空間。思い出すと、息苦しくなった。苦しいのに、考えることを止められない。あのエアコンを取り付けるのは業者だろうが、掃除は? フィルターの掃除は私がするのだろうか。立ち上がれない、這って進むような狭い空間へ? 私が?
 額に汗が浮かぶ。想像しだすと止まらなかった。あの空間を這って進む自分を想像する。余計に苦しさが増す。それに、あの壁。狭まってくる。私に向かって。
「どうかなさいましたか」
 不意に後ろから声をかけられ、激しく脈打っていた心臓が大きく跳ねた。ぎくりとして振り返ると、年齢の読めない男が立っていた。私より年下にも年上にも見えた。背の低いその男は、瘦せた体にスーツを着て首から社員証を下げていたが、裏返しになっていて名前は見えない。吹き出物だらけの顔に大きな鼻の目立つ男だった。
 私と目が合った瞬間、男が躊躇したのを感じたが、すぐに営業スマイルを顔面に張り付けると気遣わしげに声をかけてきた。
「お顔の色が優れませんね。どうぞ、こちらの椅子にお掛け下さい」
 僅かに息を切らしながら私は無言でそれに従った。心臓の音が聞こえるのではないかと心配になりながら、男が引いたダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。
「お水をお持ちしましょうか」
「いえ、結構です」
 ワックスでしっかりとセットされた頭に手をやりながら、男は大げさに、
「汗もかいてらっしゃるようですし、どこか具合が悪いのではないですか」
 と聞いてきた。
「大丈夫です。ちょっと暑くて」
 それが理由でないことは分かっているが、言い訳としては相当の理由だ──と言いたげな表情で男は笑った。笑ったが、その目は笑っていなかった。
「弊社のモデルハウスにお越しいただく方によく言われます。特にお子様は暑がって、上着や靴下を脱いでしまいます」
 話題を変えたかった。
「そうでしょうね。本当に暖かくてびっくりしました」
「秘密の地下は、もうご覧になりましたか」
 笑顔の中の笑わない目は、まるで私を値踏みするようだった。
「ええ。すばらしい構造ですね」
「ありがとうございます」
「エアコンは……」
 蚊の鳴くような自分の声にも、それを聞いて笑みを広げた男にも腹が立った。腹に力を入れる。
「エアコンは部屋付けの物と同じサイクルで掃除が必要ですか。その……地下だと埃っぽくなるとか、そういうことはありませんか」
「特別な理由がないかぎり、お掃除は年に一、二回で済むと思います」
 話題を変えたかったのに、自ら墓穴を掘るような質問をして後悔した。
「地下以外にも、天井裏に走っているダクトの掃除も必要です」
「……ダクトの掃除?」
 天井裏でうねるダクト。どれほどの大きさか分からないのに、口を開けたダクトに吞み込まれる自分の姿が思い浮かび、息が切れた。
「あの……随分苦しそうですが大丈夫ですか」
「平気です。ただ、ちょっと──狭いところが苦手なもので。地下とかダクトとか、掃除のことを考えると……」
「ご心配には及びません。地下のエアコンについては、掃除業者を紹介することもできますし、ダクトと言っても、なにも天井裏に入る必要はないので。天井の扉を開けて、ダクトの換気部を掃除するだけですから」
「そうですか」
 狭い空間に入る必要はない。息苦しさが治まった。
「ちなみに──」
 男が、断りもなく私の隣に腰を下ろした。
「他の住宅会社も回られましたか」
「いえ、今朝のチラシを見て来たので」
 男が膝を詰める。
「では、土地は? もうお決まりですか」
「いえ……それもこれからです」
 他社に顧客を奪われまいと必死なのか、男からは焦りがうかがえた。
「ご家族は何人ですか? 先程お見かけした限りでは奥様とお子様の三人のようでしたが。ご両親と同居なさる予定などは?」
 これが営業の「押し」というものだろうか。とはいえ、畳みかけるように質問を浴びせられるのは気持ちのいいものではない。しかも、必死な形相で間合いを詰める男はいささか気味が悪い。
 私が問いに答えると、男はニヤリと笑った。
「弊社をご検討いただけるようでしたら、是非私をご指名下さい」
 突然の申し出に言葉を失っているところに、能天気な女性二人の声が近づいてきた。
「ケンちゃん、ここに居たの。サチが階段よじ登っていたわよ」
 妻の腕の中にサチがいた。自分のことで精いっぱいだった私は、娘のことをすっかり忘れていた。
「甘利さん」
 押しの強い男は甘利というらしい。そういえば、この男は名乗りもしなかった。本田が甘利を見た時、明らかに顔が引き攣っていた。客の奪い合いだろうか。
「マネージャーの甘利さんが私のお客様に何か御用ですか」
 本田は例の穏やかな笑みを浮かべ、甘利に言った。強く言われるより余程怖い。本田の旦那はさぞ大変だろう。
「こちらのお客様の質問に答えていただけだよ」
 質問に答えていたのは私だが。
「後は私が対応しますのでご心配なく」
 本田にピシャリと言われ、甘利は顔から薄ら笑いを消したが、さして臆する様子でもない。
「では失礼します」
 慇懃に頭を下げ、身を翻した甘利はつと止まり、本田の耳元で何やら囁いた。
 本田の顔色がさっと変わった。怒りが全身に表れている。営業の鑑のような本田がお客の前でする顔ではなかった。何を言われたかは聞こえなかったが、余程腹に据えかねることを言われたのだろうか。
「あ! サチ!」
 またしても階段をよじ登りだしたサチに気付き、妻は娘に駆け寄った。妻が離れると、本田は甘利がいなくなったのを確認してから言った。
「ご不快にさせてしまったでしょうか。甘利は何と?」
「気分が悪くなった私を見て、咄嗟に声をかけてくれたのだと思います」
「こんなことをお客様にお話しするのは大変失礼だと思うのですが」
 本田は妻とサチを見たまま続ける。
「甘利は問題のある社員なのです」
「え?」
 思わず本田に目をやったが、本田の視線は揺らがない。
「一度、お客様とトラブルになったことがありました。そのお客様は清沢様のように整った顔立ちで、奥様もお綺麗な方でした。甘利は、その──容姿に対してコンプレックスを抱いているようでして。絵に描いたような素敵なご家族に嫉妬したのだと思いますが、お客様から担当を外して欲しいと申し出がありました。他の社員に引継ぎを済ませ、甘利は営業を外れました」
「え、でも──」
 自分を指名して欲しい。先程甘利はそう言った。その後二人の間で散った火花のようなものは、顧客の奪い合いをする営業ゆえのものだと思っていた。
「営業でないなら、甘利さんは──」
「展示場をまとめるマネージャーです」
「マネージャー……それじゃあ、昇進したってことですか」
「というより、裏方に回されたというところですね」
 辛辣な言葉同様、本田の横顔は厳しかった。
「マネージャーが担当になる場合もあるんですか?」
 え、というように本田が私を見た。その目を見て、甘利が指名を望んだことは言わない方がいいと私は判断した。
「甘利さんは押しが強そうでした。そういうのは、苦手なので」
「大丈夫です。甘利が担当になることはありません」
 そしてやっと正面から目を合わせた。
「弊社を気に入ってくださり、もしまたお越し頂けるようでしたら、甘利と会う機会が皆無とは言えません。その時は、なるべく甘利には関わらず無視して頂きたいのです。もちろん私が近づけないように配慮致しますが、今のようなこともありますので」
 本田が冗談を言っているのではないことはその表情から読み取れたが、初めて来た客にそんな話をして、本田の立場は大丈夫なのだろうかと心配になった。会社としては伏せたい内容だろう、顧客を失いかねない話だ。しかし逆に言えば、甘利の毒牙にかかりかけた私に対する配慮、誠実さとも受け取れる。
「こんなことをお聞かせしておきながら、またお越しくださいとは勝手ですよね」
 自嘲気味に笑った本田の顔に、初めて彼女の素を見たような気がした。
「サチ!」
 家の中を歩き回り、手の届く範囲全ての物を破壊しようとする小さな恐竜相手に、妻は奮闘していた。
「ご縁があれば、是非」
 そう言って本田はニコリと笑った。百点満点の営業スマイルだった。



〝まほうの家〟以外の住宅会社はどこも似たようなもので、ピンとくるものがなかった。
「ビシッと断ってくれるんじゃなかったの」
 しつこい営業マンを帰すのにどれだけ苦労したか語った妻は、最後にそう言って私を責めた。
「仕方ないだろう。昼間来られたんじゃ俺には対処しようがないよ」
 夕食の支度をしていた妻は炬燵にあたる私を睨めつけた。
「電話しておくよ」
 私がそう言うと、妻はぱっと笑顔を広げた。
「ありがとう」
 半纏を着たままだと家事をしにくいという妻はベスト姿だった。足元は靴下二枚履きに加えてレッグウォーマーも着けていたが、それでも足先が冷たいと言っている。
 東京生まれの私と違い、妻は生まれも育ちも長野だ。長野県民は寒さに強く、誰もがウィンタースポーツができるものと信じて疑わなかった私は、妻に出会い、それは思い込みなのだと悟った。
 妻は冷え性で寒がりな上に、スキーもスケートもからきし駄目だった。それなのになぜ長野に住んでいるのかと妻に問うと、環境に恵まれているからといって長野県民全員がウィンタースポーツができるわけではないと説教された。それに、好きで長野県に生まれたわけではないとも。
 十三で長野に越してきた時は冬の寒さに閉口したが、唯一の救いは長野に住んでいれば毎週のようにスノーボードができたことだ。ボードをすることだけを心の支えに冬を越して来た。そんな私にとって、生まれた時からウィンタースポーツができる環境に恵まれていながら、その恩恵に与ろうともしない妻が理解できなかった。
 思い切りインドアの妻との共通点はあまりなかったが、結婚するのに重要なのはその点ではなかった。
「はい、お待たせ」
 炬燵から僅か三歩のキッチンから、妻は湯気の立つ器を手にやって来た。
「早く食べよう。サチが起きちゃう前に」
 私の傍らでスヤスヤと寝息を立てるサチを起こさぬよう、妻は音を立てずに炬燵の上に器を置いた。妻が朝から煮込んでいたおでんだった。
 結婚に際して重要視した、私と妻の共通点がこれだった。
 食に対する好みが似通っている。
 以前、好き嫌いの激しい女と付き合ったことがある。食事する店を選ぶのにも一苦労で面倒だった。しかも小食で、食事を残すことが可愛らしいと勘違いしている女だった。見た目はタイプでセックスの相性も良かったが、食に対する好みの違いは致命的だと悟った。
 最大一日三食、平均して一日二食、日本の男の平均寿命が八十歳。死ぬまであと四十五年として、三万二千八百五十食を共にしなければならない相手だ。結婚相手には食の好みが合う、それが何よりの条件だった。
 それに、妻の料理は母の料理に似ていた。
「それで……家の件だけど」
 見ただけで味が芯までしみ込んでいると分かる大根に箸を入れながら、私は妻に切り出した。
「あの家に決めようと思う」
 妻は咀嚼していた玉子を飲み込むと、箸を置いた。
「お義母さんには?」
「言ってない」
 妻の顔に驚きと非難の色が浮かぶ。妻が何か言う前に、私は次の言葉を発した。
「引き返せないところまでいったら言うよ」
 先手を打ったつもりだったが、妻は私の言葉に被せるようにして言った。
「引き返せないところって、家を建ててからってこと? それまで秘密にしていられると思っているの?」
 私も、持っていた箸を置く。
「今の段階で言っても、反対されて終わりだよ。だったら、完全に家が出来てから言うくらいの気持ちで──」
「そんなに強引にしたって、誰も幸せにならないわ」
 幸せ。
 思いもよらない妻のセリフは、私の気持ちを逆なでした。私は家族の幸せを一番に考えているのだ。だからこそ、この結論に辿りついた。誰も幸せにならない? それを、他でもない妻が言うのか。
「じゃあどうするって言うんだ。反対されても、おふくろが折れるまで頭を下げ続けるのか。それとも無駄な努力ははじめから止めて、一生アパート暮らしをするか」
 私の言葉に、妻は傷ついた、という顔になった。しかもそれを隠そうともしない。それに腹が立った。
「俺はこんなアパートで暮らし続けたくない。ここからサチを学校に行かせて、ここから嫁がせるのか? その後は? マンションを買えるほどの家賃を払い続ける? おふくろが死ぬのを待って、それから家を建てるか。俺たちはいくつになっているだろうな」
 妻は涙目で私を責めるように見つめている。言い過ぎたことは分かっているが、止められなかった。
「今までだって充分過ぎるくらい親孝行してきただろう。おふくろが離婚してから、あの家とおふくろを支えてきたのは俺だ。今だって、毎月仕送りしている。これ以上どうしろって言うんだよ。同居すればいいのか? おふくろと兄貴と俺たちで? あのボロ家に?」
 あの家に住む。
 言葉にした途端、ぼんやりとしていた感情が恐怖なのだと確信した。
「絶対ごめんだね。どっちも嫌だ」
 恐怖を押し込めようと語気を強めた。
「落ち着いてよ、ケンちゃん。冷静に話し合おうよ、何かいい方法があるよ、きっと」
「解決策なんてない」
 私は炬燵に手をつき立ち上がった。足元でサチがグズグズと鼻を鳴らし始めた。私は半纏を脱ぎ捨て玄関に向かった。
「ケンちゃん!」
「今日は上林のところに泊めてもらう」
 私は同僚の名を出し、リビングの扉を閉めた。ダッフルコートを手に取り、下駄箱の上にある車のキーに手を伸ばした時、サチの泣き声が響いた。責めるような、すがるようなサチの泣き声は妻の心情を代弁しているかのようだった。
 迷ったが、私はキーを握りしめ、アパートを後にした。



 二十分程車を走らせ向かったのは、高台にある空地だった。そこから見下ろす町は灯りが少なく、寂れて死にかけているように見える。
 ここに住み続け、ここで死んでいくのかと思うと、なんだか全てがどうでもよく思えてくる。
 車の窓は外との寒暖の差で曇っていた。手のひらで窓ガラスを拭うと、隣に建つ二階建てアパートの階段を上がっていく人影が見えた。
 私はエンジンを切ると車から降りた。暖まった車内から脱出すると、外の身を切るような寒さが逆に心地良かった。冷気を吸い込むと、鈍った頭が冴えてくるのを感じる。考えなければならないことが山ほどあった。頭が冴えた今こそ、考えごとをするのに適していたが、今は何も考えたくなかった。面倒なことから目を逸らし、保留にしておきたかった。
 築五年というアパートは単身用で、全部で十戸。長野での生活には不可欠な車を全ての住人が停められるよう、アパートの前には十台駐車できるスペースがあるが、今は軽乗用車が二台停まっているだけだった。土曜の夜だ。独身の若者はアパートにじっとしていないのだろう。
 階段を上る。鉄製の階段は革靴だとカンカンとうるさい音をたてるが、ゴム製のサンダルは音を吸収し、気配を消して部屋まで行ける。ほとんどの住人が出払っている今、そこまで気を配る必要もないのだが。
 二階の一番奥の部屋まで行くと、インターホンを短く二度鳴らす。少し待って今度は長めに一度。
 初めの頃は短く二度が合図だった。せっかちな宅配業者が同じように短く二度インターホンを押し、私だと勘違いした友梨恵がランジェリー姿でドアを開けてしまった、というのを機に合図を変えた。
 ドアが薄く開いて化粧気のない顔がのぞく。
「また勝手に来る」
 言葉とは裏腹に、友梨恵は嬉しそうにドアを開けた。
「来て欲しかったくせに」
 言いながら、ドアの向こうに身を滑り込ませる。後ろ手にドアを閉め、鍵をかける。友梨恵が何か言おうとこちらに振り返った時、その口を塞いだ。友梨恵は驚いたように一瞬抗ったが、すぐに身を任せてきた。友梨恵の身体は引き締まっていて決して抱き心地は良くなかったが、小振りながら感度のいい乳房は柔らかく、その相反する感触が私を興奮させた。
 言葉も交わさず、何も考えず、ただ交わった。
「何か食べさせてくれないか」
 ベッドに腰かけ、素肌に部屋着のワンピースを身に着けようとしている友梨恵に言った。
 もこもこしたワンピースを被り、友梨恵は頭だけこちらに向けた。素直に驚いているようだった。
「夕飯食べてこなかったの?」
「食べ損ねた」
 友梨恵は意地の悪い顔つきで、
「こんな時間まで食べずにいたなんて、ケンカでもしたの?」
 と核心を突いてきた。
「家のことでもめた」
 立ち上がり、ワンピースの裾をくるぶしまで下ろすと、友梨恵は六畳間の奥のキッチンに向かった。途中、短い髪を撫でつけながら振り返りもせず、
「家って家族のこと? ケンて長男だっけ」
 と聞いてきた。私は友梨恵のこういうところが好きだった。深入りしてこない。三年の結婚生活で初めての浮気で、相手は友梨恵一人だった。浮気というものがこんなにあっさりとしたものなのか、それとも友梨恵だからセックスだけの関係でいられるのか分からなかった。
 私は家庭を壊してまでこの関係を続ける気はなかった。
 友梨恵との関係は、サチの誕生後に始まった。同じジムに勤める友梨恵は私より八歳年下の独身だった。彼氏はいるらしいが、遠距離恋愛だと言っていた。
「いや、そうじゃなくて。家を建てるか建てないかでもめた」
 早くもキッチンに辿り着いた友梨恵は、冷蔵庫に手をかけていたが、わざわざ振り返って大げさな表情を浮かべた。
「本気? うちのジムの給料で家建てられるの? あたしとケンの給料って、そんなに違うのかな」
「変わらないだろ。俺は副業もしてるし。そっちの稼ぎの方がむしろ多い」
「それって塾の先生のこと?」
 正確には予備校の非常勤講師だったが、私は頷いた。
「あと家庭教師」
「家庭教師? なになに、なんだかあぶない匂いがするけど。女子高生に手を出したりしないでよ」
 友梨恵はニヤリと笑った。そして立ち上がり、こちらににじり寄って来る。
「こんなオジサン、女子高生が相手にしないよ」
「じゃあ母親の方」
「年上はタイプじゃない」
「ケンは自分がイケメンだって自覚した方がいいよ」
 そう言いながら友梨恵は私にすり寄って来た。
「ほら、この目。あまい目をしてる。笑うと目尻に皺が寄るところもすごくセクシー。この目で見つめられたら大抵の女はおちるよ」
 友梨恵は上体だけ起こした私の上に跨り、頰を撫でる。勝気そうな友梨恵の顔がゆるむ。
「この無造作な感じの黒髪も反則よね。こんなにいい男なのにどうしてモデルにならなかったの?」
「身長が足りなかった」
 適当な受け答えをすると、友梨恵は笑った。
「こんなに長身なケンがなれないなら、モデルは巨人ね」
 私の胸を人差し指でなぞりながら、友梨恵は視線を上げた。
「歌手でもいけたんじゃない? いい声してるもの」
「音痴だから無理」
 友梨恵は片眉を吊り上げた。
「プロ並みに上手いじゃない」
「カラオケで歌うのと商売にするのじゃ違うだろ」
 あきれ顔だった友梨恵は意味深な目つきで私を見つめた。
「ジムのインストラクターで、女子高生といけないことする家庭教師のケン先生でよかった。モデルや歌手だったらこんなことできなかったもん」
 珍しくおしゃべりな口を押し付けられ、私はまた下半身が疼くのを感じた。
「けど家庭教師に塾の先生って」
 僅かに体を離すと友梨恵は言った。
「どうしてジムのインストラクターになんてなったの? マッチョな体だから?」
 職業のことに話が及び、私は一気に萎えた。
「事情があったんだ」
 それを友梨恵に話すつもりはなかった。
「多才で、何にでもなれたでしょうに。ケンはどこか──あたしでも知ってる有名な大学出ているんでしょ。もっとケンに向いた仕事があったと思うけどな」
「その話はもういいよ。飯、頼む」
 友梨恵の身体を押し返し、私は言った。友梨恵は納得しないような顔つきをしていたが、その実さほど興味がないことは分かっていた。
 不倫相手は妻や家族に異常な嫉妬心を抱くものだという定説は友梨恵には当てはまらなかった。家のことを私からぽつぽつと話すことはあったが、友梨恵が根掘り葉掘り聞いてくることは一度もなかった。不倫の代償で将来の夫と職を失うのはごめんだ、と友梨恵は言った。純粋という言葉を不倫に当てはめるのはおかしなことだが、友梨恵とは純粋にセックスだけの関係だった。
 キッチンで料理を始めた友梨恵の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、私はまほうの家のことを考えていた。



 実家へ帰るのは一年ぶりだった。
 小さなそのボロ家を前にした時、身体の全細胞が拒否反応を示した。
 眼前のボロ家がみるみる大きくなり、私を吞み込もうとしているかのように思えた。増殖した巨大な家は身震いするように震えた。建て付けの悪い玄関の引き戸が激しく開閉し、二階の窓にヒビが入り、粉々に割れ降りかかってくる。家が地鳴りのような呻き声を上げる。
 私は耳を塞ぎ、割れた窓ガラスから身を守るように身を屈める。そうしてもなお、家が巨大な悪魔のごとく形を変えるのが分かる。何かが、私の腕を引きはがそうとしている。まるで、家の声を聞けと言うように。私はもっと力を込めて耳を塞ぐ。何も見たくない、何も聞きたくない。この家に入りたくない。帰りたい帰りたい。
 帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい──。
「ケンちゃん、手伝って」
 妻の声で我に返った私の前には、記憶の中にある通りの、以前と何も変わらぬ崩れそうな家が建っていた。
 木造二階建ての家。
 都会暮らしの者からすれば、庭園ほどに感じる広さの庭。うっすらと雪に覆われたその下には、名も知らぬ花々が遅い春の到来を待ちわびている。
 母は庭の手入れを怠らない人だった。私達がここに越して来た時は荒れ放題だった庭を丁寧に手入れし、花と低木で満たした。この庭に雑草一本、生えているのを見たことがない。
 長野に越してきてから、母は昼も夜も働いた。なんの資格も持たない中年のシングルマザーは、私達兄弟を育てるだけでも大変だっただろう。そんな母がこの広い庭の手入れをするのにどれほど苦労していたのか、今なら分かる気がした。
「こんにちは」
 帰る旨を母には伝えていなかった。妻に説得され、家を建てることを母に了承してもらうために来たのだが、実家に帰ると予め伝えることで逃げられない状況に陥るのが怖かった。
 いつまでもグズグズと出発しようとしない私の尻を叩き、去年と同じく妻が私をここに連れて来たのだ。
「はーい」
 奥から母の声がした。
 年末に挨拶程度の電話をしたきりだった。電話が少ないことも、実家を訪ねないことも母は責めなかった。母の気丈なその声音が、実家を避けている私に益々罪悪感を抱かせた。責められた方が余程楽だった。
 エプロン掛けで姿を現した母は、髪に白いものが混じり、僅かに背中が丸まり、たった一年で十も年をとったように見えた。ショックだった。しかも、私の姿を認めると心から嬉しそうに微笑んだ。心に穴を穿たれたように感じた。
「ひとみさん。いらっしゃい。まあまあ、サチ、大きくなって」
 水仕事をしていたらしく、エプロンで手を拭きながらこちらに近づいてきた母は大きな笑顔を作った。母が笑えば笑うほど、私は苦しくなった。
「ご無沙汰しています、お義母さん。突然すみません」
 妻がそう言うと、母は、
「何言っているの、さあさあ上がって」
 と膝をついた。
「ほら、サチおいで」
 最近人見知りの始まったサチが、一年ぶりに会った母に腕を伸ばすとは思えなかった。隣にいる妻も私と同じ懸念を抱いているのが伝わって来た。が──。
「あらあら、重たくなって」
 私達の予想に反して、サチは嬉しそうに母の腕におさまった。
 思わず見合わせた妻の目に、安堵の色が広がっていた。
「さあ、上がってちょうだい。寒いでしょう」
 家の中は塵一つ落ちていなかった。あの体で、未だに丁寧に掃除機をかけ、丹念に雑巾をかけているのか。
 十畳の居間には炬燵が置かれ、部屋の隅で石油ストーブが赤く燃えていた。ストーブの上に置かれたやかんから蒸気が上がっている。炬燵布団の一部が捲れていた。まるで今までそこに誰かがいたかのように。
「炬燵にあたっていて。今、お茶を入れるから」
 母は台所かどこかで仕事をしていたはずだ。
 私の視線に気付くと、
「聡がさっきまで居たのだけれど、二階へ上がって行ったの」
 と、母は言いにくそうに口にした。私は返事をしなかった。
「お義母さん、手伝います」
 妻と母が台所へ向かったので、私はサチを抱き上げた。石油ストーブに興味津々のサチを自由にさせるわけにはいかない。サチは物珍しげにキョロキョロと辺りを見回している。
 何も変わっていない。学生時代にもらった賞状が壁に掛けられ、その隣で古い鳩時計が昔と変わらず時を刻んでいる。電話台の上に飾られた写真立ての中で、生まれたばかりのサチが笑っていた。一年前にここで撮られた写真だった。この写真を見ながら、母は誰と何を想って話していたのだろう。
 写真に見入っていると、ふと視線を感じた。振り返ったが、居間の入り口が僅かに開いているだけで誰もいなかった。
 サチを抱いたまま廊下に出る。居間から真っ直ぐに伸びる廊下を行くと客間に出る。気配はそこからした。
 そっと障子を引く。普段使われることのない部屋は棺の中のように冷たかった。
 六畳の和室は木目の光ったちゃぶ台があるだけで、あとは何もない。がらんとしたその部屋の奥に、今はぴたりと閉まった押入れがある。そこから気配がしていた。入るのを躊躇していると、腕の中のサチが身をよじった。サチを落としそうになり、私は慌てた。すんでのところでサチを畳の上に降ろした。サチはあっという間に部屋の奥まで進んで行く。よちよち歩きの幼児を侮ってはならないのだ。少し前にも、すぐに追いつけると過信して距離を開けてしまったことがあった。あの短い脚での一歩などたかが知れているのに、その速さと言ったらオリンピック選手並だ。
「サチ、おいで」
 我が子に話しかけていると言うのに、おべっかでも使っているような猫なで声になってしまったのはあの記憶のせいだ。一刻も早くここから出たいからだ。
 そんな私の気持ちなど知る由もない幼子は、腕をばたつかせ、キャッキャとはしゃいだ声を上げる。最近のお気に入りの遊びだった。私が腕を伸ばして腋の下をくすぐるように手を動かすと、サチは笑い声を上げながら逃げ回る。いつもなら楽しい親子の時間もここでだけは悪夢だった。
「サチ」
 自分の声が震えているのが分かる。
 冗談じゃない。私は泣きそうなのか?
「ば、ばー」
 サチが言葉らしきものを発したその時、押入れの襖が口を開け、サチを吞み込んだ。


☆気になる続きは書籍でお楽しみください!☆


登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み