江戸川乱歩名場面対決 高原英理✕穂村弘✕和嶋慎治(人間椅子)
文字数 10,190文字
作家・評論家の高原英理さん、歌人の穂村弘さん、ミュージシャンの和嶋慎治さんという
3人のディープな乱歩ラヴァーが選ぶ「名場面」から
大乱歩作品の多彩な魅力を語り尽くす、異種格闘技的特別鼎談!
構成/宮田文久
高原英理さん選
魔術師
「アア、俺はまだ悪夢の続きを見ているのかしら」
二郎はともすれば、そんな気持になる。そして、一寸気を許すと、眩暈の様に、青や赤の風船玉みたいな物が、目の前を、滅多やたらに飛び違う。
さて、愈々美人解体が始まった。笑の面の道化師は、滑稽な程物々しい大ダンビラを、真向にふりかぶって、ヤッとかけ声諸共、裸体人形の腿に打ちおろした。パッと上る真赤な噴水。コロコロと舞台前方に転がり出す美人の片足。猿轡の中から、幽かに漏れる悲痛なうめき声。
人形がうめく筈はない。きっと黒幕のうしろで誰かが声丈け真似ているのだとは思いながら、二郎は、そのうめき声を聞くと、ハッと飛び上る程、驚かないではいられなかった。アア、やっと分った。あの身体、あの声、何から何まで、裸体人形は、花園洋子に生き写しなのだ。
已に両足を切落したダンビラが、右腕に及ぼうとした時、二郎は我を忘れて、座席を立上ると、いきなり花道へ飛上り相にしたが、ハッと気がついて、やっとのことで自から制した。
だが、この余りにも残虐なる魔術を見て、気が変になったのは二郎丈けではなかった。見物の婦人の多くは、悲鳴を上げて顔に手を当てた。中には脳貧血を起しそうになって、席を立った者もある。
舞台では、美人解体作業がグングン進んで、両手両足の切断を終り、次には、重いダンビラが横ざまにひらめいたかと見ると、チョン切られた美人の首が、毬の様に宙を飛んで、切口から仕掛けの赤インキが、滝津瀬とほとばしった。
紅に染まった生首、両手両足が、舞台のあちこちに、人喰い人種の部屋みたいに、ゴロゴロと転がっていた。
残虐シーンの筆の冴え
高原 今回のお題は江戸川乱歩の「名作」ではなく「名場面」を選ぶというものなんですが、その皮切りに私が挙げたいのは長編『魔術師』の一場面です。
主人公が町を歩いていて行きついた古めかしい小劇場で奇術ショーをやっている。
誘われるように入っていくと「美人解体の大魔術」が始まる、というシーンです。
お読みいただければわかる通り、それ現実なのかと思えるような残虐な場面です。
舞台で裸体人形の手足や首をダンビラで切り落としていく、というはずなんですが、驚くほどの血糊が飛び散る。
この人形は自分が知っている生身の女性ではないだろうか。だが判然としない……。
生々しいのに現実味が薄くて、白昼夢みたいなシーンです。
和嶋 表現がいいですよね。「美人解体作業がグングン進んで」とか(笑)、この残虐なシーンを乱歩はとても楽しそうに書いている。筆が冴えていますね。
穂村 この時代の表記でもありますが、「アア」「コロコロ」「グングン」といったカタカナの違和感も効いています。
高原 乱歩は「残虐への郷愁」という随筆で、自分はおそらく現実の残酷な場面には耐えられないだろうけれど、現実ではない無残絵は好きだ、と書いていますが、このシーンには乱歩のそうした感覚がよく表れていると思います。
しかもこのシーン、ストーリーにはさほど関係がない。要するにただ美人が無残に殺されたっていうだけで(笑)。
和嶋 それだけのシーンにこんなに文字数を費やして、熱を込めて書いてしまう。
穂村 書きはじめると夢中になっちゃうんでしょうね。
「人喰い人種の部屋みたいに」とか言っちゃってる。「部屋」って……。
高原 乱歩本人の言葉を借りれば、「玩具部屋」のような感じなんでしょう。
いかにも乱歩らしい、視覚的に引きの強い「見せ場」として、こういう場面はとても記憶に残っています。
高原英理
1959年生まれ。小説家、文芸評論家。85年「少女のための鏖殺作法」で幻想文学新人賞、96年「語りの事故現場」で群像新人賞評論部門優秀作を受賞。著書に『高原英理恐怖譚集成』『観念結晶大系』『エイリア綺譚集』、編著に『リテラリーゴシック・イン・ジャパン-文学的ゴシック作品選』『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』などがある。
穂村 弘さん選
孤島の鬼
母というのは女のやさしい人だということですが、私には母というものが、少しも考えられません。母と似たもので、父というのがあることも知ってますが、父の方は、あれがそうだとすると二三度逢ったことがあります。その人は、「わしはお前のお父つぁんだよ」と申しました。
人外に生きる少女
穂村 僕はまず『孤島の鬼』という長編に出てくる手記の一節を挙げます。
主人公の恋人が殺され、その調査を依頼した友人も殺され……と事件が続き、亡き恋人がかつて生まれた島の謎へと物語は進んでいく。
そこで作中作のように登場するのが、十七歳の少女による非常にたどたどしい文章で綴られたこの手記です。
親がいないとか顔を知らないとか生き別れになったとかいうようなことは、いわばこの世の理の内の悲劇ですが、この手記の語り手である少女には、そもそも母や父といった概念がない。
この世の外の世界、人外に生きる少女が書いた手記であると、この数行でわかってしまうんです。
この世の外に別の世界が広がっていて、そちらが自分の故郷じゃないか、と考えるような感受性って、今日ここにお集まりの皆さんは思春期に持っていたと思うんですよ。自分は学校の先生や友達、親とは決定的に違う存在なんじゃないかっていう。
そこからSF方面にいくと「自分はミュータントだから仲間外れにされるんだ」というような妄想になるけど、そっちに行かず乱歩方面に行くと、この世の外の世界にあこがれるようになる。
この数行だけで「この作品は絶対に読まなくては」と思うはずだし、この人外に生きる少女を好きにならずにはいられない。それぐらい強い吸引力があります。
高原 物語が進むにつれて、この少女が置かれた尋常でないショッキングな境遇がわかってくる。
つまりこの手記は、現実と人外境との接地点なんですね。
乱歩は「現実の外に何かがある」というのが好きだったから、現実と切り離されたSFには向かわなかったんじゃないでしょうか。
和嶋 SFだと完全にあちら側の話になってしまう。非現実的な世界を書いていても、乱歩はやっぱり現実を意識しているんですね。だから妙にリアリティがある。
穂村 弘
1962年生まれ。歌人。2008年『短歌の友人』で伊藤整文学賞評論部門、『楽しい一日』で短歌研究賞、17年『鳥肌が』で講談社エッセイ賞、18年『水中翼船炎上中』で若山牧水賞受賞。他の著書『シンジケート』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』(歌集)、『ぼくの短歌ノート』(評論)、『君がいない夜のごはん』『野良猫を尊敬した日』(エッセイ)などがある。
和嶋慎治さん選
屋根裏の散歩者
多分それは一種の精神病ででもあったのでしょう。郷田三郎は、どんな遊びも、どんな職業も、何をやって見ても、一向この世が面白くないのでした。
学校を出てから──その学校とても一年に何日と勘定の出来る程しか出席しなかったのですが──彼に出来相な職業は、片端からやって見たのです、けれど、これこそ一生を捧げるに足ると思う様なものには、まだ一つも出くわさないのです。恐らく、彼を満足させる職業などは、この世に存在しないのかも知れません。長くて一年、短いのは一月位で、彼は職業から職業へと転々しました。そして、とうとう見切りをつけたのか、今では、もう次の職業を探すでもなく、文字通り何もしないで、面白くもない其日其日を送っているのでした。
遊びの方もその通りでした。かるた、球突き、テニス、水泳、山登り、碁、将棊、さては各種の賭博に至るまで、迚もここには書き切れない程の、遊戯という遊戯は一つ残らず、娯楽百科全書という様な本まで買込んで、探し廻っては試みたのですが、職業同様、これはというものもなく、彼はいつも失望させられていました。だが、この世には「女」と「酒」という、どんな人間だって一生涯飽きることのない、すばらしい快楽があるではないか。諸君はきっとそう仰有るでしょうね。ところが、我が郷田三郎は、不思議とその二つのものに対しても興味を感じないのでした。酒は体質に適しないのか、一滴も飲めませんし、女の方は、無論その慾望がない訳ではなく、相当遊びなどもやっているのですが、そうかと云って、これあるが為に生き甲斐を感じるという程には、どうしても思えないのです。
「こんな面白くない世の中に生き長えているよりは、いっそ死んで了った方がましだ」
ともすれば、彼はそんなことを考えました。併し、そんな彼にも、生命を惜しむ本能丈けは具っていたと見えて、二十五歳の今日が日まで「死ぬ死ぬ」といいながら、つい死切れずに生き長えているのでした。
世になじめぬ青年
和嶋 『孤島の鬼』を始めに長編作家になっていくあたりから、乱歩作品には視覚的表現が増えて人気を博していきますが、僕が選んだのはそうなる前の初期の短編『屋根裏の散歩者』の冒頭の場面です。
長編で視覚的に表現される凄惨さが、初期短編では内面描写として表現されていると思うんです。
「世になじめない青年」という主人公の姿、これはほぼ乱歩の私的な心情の吐露だったんじゃないでしょうか。
乱歩自身、小説家になる前は仕事が長続きしない、一般の社会になかなか溶け込めない人だったんじゃないかと思うんですが、推理小説という当時の新しいジャンルに、「あ、これなら自分を表現できる」とのめり込んでいったのではないかと。
高原 乱歩の青年時代の頃は私小説が盛んでしたが、乱歩から見たら色恋や金や内輪のことばっかり書かれていて、これが純文学というのならもういいや、と探偵小説に向かったようですね。
その後、同じ純文学でも谷崎潤一郎や宇野浩二は高く評価したようですが。
和嶋 そうか、文学シーンという面でもなじめていなかったんですね。
僕自身も幼い頃、「友情、努力、勝利」みたいな少年漫画の世界に違和感を抱えていて(笑)。乱歩作品はそういう子供たちを救ってくれるんですよね。
穂村 「ためにならないものの王様」ですよね(笑)。
子供向けの本って「ためになるもの」でなければと思われがちで、ためにならない本はそもそも少ないけれど、そうした「子供向けのためにならない本」のなかでは王様級。しかもいっぱい作品がある。
和嶋 この主人公のように、就職しない大人もよく描かれますし(笑)。
高等遊民的な登場人物が、世の中が面白くない、つまらないからいろんな遊びをやってみるけど満たされない、それで遊びとして犯罪をやってしまう。
それはもちろん恐ろしいことなんですが、世へのなじめなさという点では、バブルの頃に青春時代を過ごした僕にはしっくりきた。
同じように浮かれた世になじめない友人とロックバンドを始めた自分に近しい人物像が描かれていると感じたんです。
乱歩が描く青年たちは犯罪に手を染めるけれど、僕たちの場合はそれがロックだった。推理小説というよりは、普通の小説として感情移入して読みましたね。
和嶋慎治
1965年生まれ。スリーピースロックバンド「人間椅子」ギター、ヴォーカル。87年「人間椅子」を結成し、90年にアルバム『人間失格』でメジャーデビュー。以後32年間にわたり活動を続ける。近年は海外でも注目され、2020年に欧州ワンマンツアーを敢行。21年、通算22枚目のアルバム『苦楽』を発表。乱歩を始め文学作品から着想を得た楽曲を多数発表している。
高原英理さん選
黒蜥蜴
明智を包んだ長椅子は、一瞬間、船尾に泡立つ燐光の中に、生あるものの如くグルグルと廻転していたが、忽ちにして、その黒い影は水面下に没してしまった。
「水葬礼って奴ですね。これで我々の邪魔者がなくなった。だが、あの元気な明智先生が、もろくも水底の藻屑と消えたかと思うと、ねえマダム、ちっとばかし可哀相でないこともありませんね」
雨宮潤一が、黒蜥蜴の顔を覗き込むようにして、憎まれ口を利いた。
「いいから、お前達は早く下へ降りておしまい」
黒衣婦人は、叱りつける様に云って、男達を船室へ追いやると、たった一人、艫の欄干に凭れかかって、今長椅子を吞んだ水面を、じっと見下していた。
同じリズムを繰返すスクリュウの音、同じ形に流れ去る波頭、湧き立つ夜光虫の燐光。船が走るのか、水が流れるのか、そこには永劫変ることなき律動が、無神経に反覆されているばかりであった。
黒衣婦人は、寒い夜の風の中に、殆ど三十分程の間も、身動きさえしないで立ちつくしていた。それから、やっと船室へ降りて来た時、そこの明るい電燈に照らし出された彼女の顔は、恐ろしく蒼ざめていた。頰には涙の痕がまざまざと残っていた。
* * *
「あたし、あなたの腕に抱かれていますのね。……嬉しいわ。……あたし、こんな仕合せな死に方が出来ようとは、想像もしていませんでしたわ」
明智はその意味を悟らないではなかった。一種不可思議な感情を味わないではなかった。併し、それは口に出して答える術のない感情であった。
断末魔の女賊の告白は、謎の如く異様であった。彼女はこの仇敵を、彼女自身も気づかずして、愛しつづけていたのであろうか。それ故にこそ、闇の洋上に明智を葬った時、あのように烈しい感情に襲われ、あのように涙をこぼしたのであろうか。
「明智さん、もうお別れです。……お別れに、たった一つのお願いを聞いて下さいません? ……唇を、あなたの唇を。……」
黒衣婦人の四肢はもう痙攣を始めていた。これが最期だ。女賊とは云え、この可憐な最期の願いを退ける気にはなれなかった。
明智は無言のまま、黒蜥蜴のもう冷くなった額にソッと唇をつけた。彼を殺そうとした殺人鬼の額に、いまわの口づけをした。女賊の顔に、心からの微笑が浮んだ。そして、その微笑が消えやらぬまま、彼女はもう動かなくなっていた。
ロマンティック乱歩
高原 そんな乱歩がロマンティックな恋愛も書けるということを示しているのが、後に三島由紀夫が戯曲化した長編『黒蜥蜴』です。
この二場面は対になっています。
最初の場面は女賊黒蜥蜴が明智小五郎を陥れるところで、人間椅子のように明智が隠れている椅子を、椅子ごと船上から海に落としてしまう。
ここで黒蜥蜴は、明智を殺しておきながら深く悲しみます。
そして終盤の場面では、追いつめられた黒蜥蜴の今際の際の可憐な訴えに明智が応える。
どちらも相手の死を隔てることで愛が成立する、ちょうど呼応する形になっていて、乱歩はこういう関係も描くんだなと驚かされました。
和嶋 乱歩が恋愛を描くと、いわゆる普通の書き方になりませんよね。
ドロドロの情念とか肉体関係といった生々しい男女の感触は希薄で、女性の描き方が観念的に見えます。
高原 多くの見方がありますが、「乱歩にとって愛とは現実離れするほど純度が高まるもの」と僕は考えています。
三島由紀夫が戯曲化したのもそのへんに反応したからでしょう。
穂村 世界中の恋人同士はお互いを唯一無二の「運命の人」だと思っているかもしれないけど、多くの場合そんなことはない。
一方、たとえば『蜘蛛男』で殺人鬼が名探偵に送りつける挑戦状に「来れ好敵手」と書いてありますが、あれは明らかにラブレター。受けて立つ名探偵も、殺人鬼が必ずや来ることを確信している。
乱歩作品における犯人と探偵は、お互い鏡に映し合った「運命の人」なんです。
将棋の棋士でもテニス選手でも、同じ時代に二人だけ突出した天才がいた場合、自分の真価、つまり魂の価値をわかってくれるのはもう一方の好敵手だけなんですね。
だから相手への深い信頼とリスペクトがある。
かつて『人間豹』という乱歩作品中の明智の台詞をほぼそのまま恋愛関係にあてはめて、「こんなめにきみを会わせる人間は、ぼくのほかにはありはしないよ」という短歌を作ったことがありますが、黒蜥蜴と明智の関係も、お互い替えの利かない「運命の人」同士なんだろうと思います。
高原 怪人二十面相も、毎度小林少年を窮地に陥れておいて実は大好きですしね(笑)。
穂村 そうそう。あの関係、いいよねえ。小林少年を水責めにして、悲鳴が聞こえてきたら焦って思わず助けに行っちゃって、逆に小林の策略でひどい目に遭ったり。
和嶋 確かに二十面相はいい人ですよね(笑)。
むしろ明智のほうが酷薄で、ヒューマニズムに欠けているとさえ感じます。
和嶋慎治さん選
蟲
縄でからげて貰った小さな氷を持って、車に乗ると、彼は又当てもなく運転を続けた。運転台の床で氷がとけて、彼の靴の底をベトベトにぬらした時分、彼は一軒の大きな酒屋の前を通りかかって、そこの店に三尺四方位の上げ蓋の箱に、鹽が一杯に盛り上っているのを発見すると、又車を降りて、店先に立った。だが、不思議な事に、彼はそこで鹽を買う代りに、コップに一杯酒をついで貰って、車を止めたのはそれが目的でもあったかの様に、グイとあおった。
* * *
どこをどれ程歩いたのか、彼には少しも分らなんだけれど、三十分も歩き続けた頃、余りに心の内側ばかりを見つめていたので、つい爪先がお留守になり、小さな石につまづいて、彼はバッタリ倒れてしまった。痛みなどは感じもしなかったが、その時ふと彼の心に奇妙な変化が起った。彼は立上る代りに、一層身を低く土の上に這いつくばって、誰にともなく、非常に叮嚀なおじぎをした。
ヒューマニズムの欠落
和嶋 短編『蟲』の主人公も、かなわぬ恋を無理やり成就させるために相手を殺し、その死体を独占するという点でヒューマニズムが欠落しているんですが、面白いのは、殺人を犯したあとの異常心理をこれでもかと描いている箇所です。
死体がだんだん腐っていってしまってワタワタするのが笑えるほどリアルで、ひょっとしたらこれを書きたいがために乱歩は『蟲』を書いたんじゃないかと思うくらい。
死体の腐敗を抑えるべく氷を買おうとするけど、なぜかほんの少量しか買わず、すぐに溶けてしまう。
塩を買おうと酒屋に入っても、これまたなぜか店先でコップ酒をあおるだけ。
笑ってしまうような意味不明な行動が次々に書かれる。
挙句の果てに焦って転んじゃうんだけど、立ち上がるでもなくその場で丁寧にお辞儀をする。
穂村 太宰治の『人間失格』みたいな(笑)。
和嶋 人を殺めてしまって、事態をどうにも処理できなくなったらこうなるだろうと思わせられる。
異常な状況下における行動をこんなふうに書くって、普通できないんじゃないかと思いますね。
そもそも我々はなぜヒューマニズムが欠落した乱歩の小説に、こんなにも惹かれてしまうのか。
普通だったらヒューマニズムが邪魔して書けないような悲惨な場面も、乱歩は平気で書くんですよね。
高原 大正期から都市化が進んでいく中で、乱歩は「群集の中のロビンソン・クルーソー」という随筆を書いています。
都会にはたくさんの人がいて、自分のことを知っている人はほとんどいない。自分もまた他人のことを知らない。
閉塞的な田舎だとお互いのことがすべてわかってしまうわけですが、そこから逃れた人たちによる社会が都市というもので、そのことを乱歩は強く意識しながら作品を書いたのだと思います。
都会では隣で人が死んだとしても、自分の身内や知り合いでない限り「ああ、死んだか」くらいのものでしょう。
それはヒューマニズムの欠落に見えますが、実際に我々はそういうふうに暮らしている。
つまり、我々自身にヒューマニズムが欠落しているから、乱歩の小説に共感するわけです。
和嶋 そうか、乱歩のヒューマニズムの欠落というのは都会的なんですね。
高原 個の時間がないとつらい都会人にとっては、『屋根裏の散歩者』の下宿のような暮らしが理想でしょう。
部屋で区切られていて、隣は何をしているかわからない。そこを自分だけが覗いている……これが乱歩ミステリの原点だと思います。
穂村 弘さん選
魔法博士
赤と白のだんだらぞめのとんがりぼうしに、おなじ道化服をきて、顔をまっ白にぬり、ほおに赤いまるをかいた男が、しわがれ声で映画の説明をしています。この道化師が、オート三輪の小型自動車を運転して、紙しばいのように、町から町をまわっているのでしょう。
それじゃ、子どもたちにおかしを売っているはずだとおもって、あたりをながめますと、子どもたちは手に手に、ロケット砲弾の形をした長さ二十センチぐらいのチョコレート色のおかしを、もっています。なかには、それをしゃぶっている子もあるのです。
「それ、なんておかし?」
と聞いてみますと、
「オネスト・ジョンだよ」
と答えました。中は、あまいせんべいのようなもので、そのそとがわに、チョコレートがぬってあるのです。
小型自動車のよこがわを見ますと、上のほうに、映画のスチールが、がくぶちに入れて、いっぱいならべてあります。その下に、大きな字で「移動映画館」と書いてあるのです。
異界の扉を開くもの
穂村 乱歩作品の底には「本当に世界ってこれですべてなのか」という疑念があるみたい。
『屋根裏の散歩者』の主人公も、酒と女がこの上ない快楽だとみんな言うけれど、自分には全然そうは思えない。
これが世界のすべてであるはずがないだろう、世界にはもっとすごいポテンシャルがあるはずだ、と。
でも日常生活ではそんなすごいことはそうそう起きない。
だから乱歩は自分で書いちゃうんですよ。
面白いのは、そのとてつもないポテンシャルの扉を開く「きっかけ」のようなものが描かれること。
『魔法博士』のこの場面はその典型です。
赤と白のだんだら染めのとんがり帽子をかぶった道化師、オート三輪の移動映画館、そういうものが出てくるたびに「ほら来た!」と思う(笑)。
当時は実際に街中で見ることができただろうし、今で言うゆるキャラの着ぐるみみたいなものでしょうが、僕はああいう着ぐるみを街で見かけると一瞬で乱歩的感覚に陥る(笑)。
そのまま付いて行っちゃうととんでもない目に遭うんだけど、乱歩的には退屈な日常よりよっぽどいいわけです。
普通はそうしたきっかけを目の当たりにしても、現実圧のようなものに押されて「いや、あれは着ぐるみだ」と冷静に納得しちゃうけど、乱歩は世界を書く側の人だから、その可能性をグーッと押し広げていくんですね。
和嶋 ああ、それはよくわかるなあ。乱歩を愛読していたからかもしれないけれど、子供の頃、着ぐるみってとても怖かったもの(笑)。傍に寄れなかったですよ。
穂村 いきなりとんでもないものは現れなくて、まず日常の中にちょっとだけ奇妙なものが出るんですよね。
あれ、錯覚かな、と目をこすっているうちに、いやあれは生首だ! とか、すごいことになる(笑)。
高原 そうした世界の扉の開け方ということだと、『魔法博士』のような子供向け小説のほうが、乱歩は好き放題やっていますね。
和嶋 大人はリアリティがないと説得されませんからね。
穂村 これから何かが始まるという場面の乱歩本人のときめき方がただ事じゃなくて、とても無視できない(笑)。
ああ、乱歩先生はこんなにも世界のポテンシャルに飢えていらっしゃるのだ、って。
和嶋慎治さん選
ぺてん師と空気男
わたしは横浜駅で、早くも駅弁とお茶を買った。わたしは駅弁が大好物なのである。あの折詰めの固いごはんに、固い煮肴、卵焼き、かまぼこ、牛肉、蓮根、奈良漬などの、普通の人には少しもうまくない駅弁が大好きなのだ。だから、汽車にのると、時分どきでなくても、何度でも駅弁を買ってたべるくせがある。駅弁がたべたいために汽車にのるのだといってもよいほどである。それも鰻丼や鯛飯や洋食弁当ではなくて、あの折詰め弁当に限るのだ。
「普通」が退屈だから
穂村 乱歩とは一見思えないのが、和嶋さんが選んだ『ぺてん師と空気男』の駅弁描写。
これはすごい。読むだけで食べたくなる。
まずい折詰めの駅弁が好きなのだと、なぜここまで熱弁するのか(笑)。
和嶋 僕もこの文章のせいで、電車に乗ると駅弁が食いたくなって仕方ないんですよ。
ほんの数行ですけど、内田百閒『御馳走帖』の世界に匹敵すると思います。
小説の筋とは全然関係ないんですけどね(笑)。
高原 駅弁によって醸し出されるワクワク感がありますね。今から旅に出るんだ、という。
和嶋 食べるとうっすら現実が遠ざかっていく、そんな旅情が生まれるんでしょうね。
エッセイのような文章でもあって、「あ、つい乱歩の本音がこぼれたな」という感じがして、とても好きです。
穂村 「普通の人には少しもうまくない」って、ちゃんと乱歩はわかっているんですよね。
高原 乱歩はいつも、その「普通」が退屈だから、ってところから始めますね。
穂村 「普通の人が好きなものと自分が好きなものは違うのだ」と必死に力説して、その思いを次々に作品化していった乱歩は勇気があると思います。
だから、我々のように惹かれ続ける読者が跡を絶たないんでしょうね。