『マーブル』 試し読み!

文字数 7,211文字

『檸檬先生』で小説現代長編新人賞を史上最年少受賞した珠川こおりさんの、最新作『マーブル』の試し読みを公開します!


キャンパスライフを謳歌する姉の茂果(もか)は、TwitterでBL作品を投稿する弟の穂垂(ほたる)が同性愛者なのではないかと、過干渉してしまいます。


普通とは、幸せとは何か。

境界の曖昧さや線引きの難しさを姉弟の視点から見つめた物語です。


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一 明日はアースカラーのネイルをする

 

 ちゃぶ台の上はひどく散らかっていた。教科書と参考書が積み上げられていて、はみ出た付箋などから勉強した跡は見られるが、それよりも漫画と落書き帳と絵の描き方の本の方が目立った。その中にタブレットを置いて、オレンジ色のヘッドホンをし、弟の穂垂は一心不乱に絵を描いていた。グレーで描かれた大雑把な線の上から細い黒でおそらく本番の線を描いている。釣り目のそのキャラクターはヒライスという漫画に登場する少年、よつきだ。

 穂垂の自室である和室はちゃぶ台と棚とタンスがある以外はシンプルだ。リビング側と廊下側の二ヵ所にふすまがある構造は少し違和感もあるが、それも一年で慣れた。リビング側のふすまに背を向けた穂垂は、入ってきた茂果に全く気付いていない。

「穂垂?」

 肩を叩くと穂垂はびくっと肩を跳ねさせた後にヘッドホンを首にかけ茂果を振り返る。

「茂果ちゃんか。びっくりするじゃん」

「声かけたけどね。またイラスト描いてるの? 投稿するやつ?」

「これは漫画。ツイッターには上げるけどね」

 穂垂はいつもこうだった。趣味に没頭しているときはたいてい周りの声に気付かない。先ほどもリビングから大声で呼びかけたが、耳に入らなかったのだろう。ヘッドホンをしているのも原因ではあるのだろうが、一度聴いてみたところ穂垂の流している曲は思いのほか音が小さい。歌詞ありの曲を聴くから音量が大きいと集中できないのだそうで、それでは作業用のBGMの意味をなしていない気もするが、ただの景気づけというか、聴きたいだけだからと穂垂は言った。

「公式からの供給が過多すぎてさあ、もう描きたいこといっぱい」

 穂垂はヒライスの二次創作をよくしている。ヒライスは公式の方からガイドラインをしっかり提示して二次創作などの許可が出されており、穂垂はツイッターのアカウントを持って二次創作の作品やコスプレ写真をほかのファンとシェアしている。穂垂はほかにもいろいろな漫画を好んで見ているけれど、それらにはガイドラインがないらしい。そのあたりグレーだから、明確にガイドラインあるやつしか上げない、と穂垂は言った。とはいえ穂垂が一番好きなのは多分ヒライスだし、本人はとにかく楽しそうだ。

「見てもいい?」

「線画ほぼ描いてないから完成してから見れば? だいたい茂果ちゃん俺のアカウント見てるんでしょ、今週中にはアップするよ」

 穂垂は素っ気なくペイントソフトを閉じる。

 ヒライスの物語なんて何度聞いても覚えられないし、キャラクターも、主人公のさんごと、副主役のよつきと、ヒロインのはななしか覚えていない。だが穂垂の描く絵が好きだから、茂果は穂垂のツイッターを毎日のように覗いていた。穂垂の絵はプロの絵と比べても見劣りしない。昔から絵を描くのが好きだったしな、と思う。カラーの絵は繊細な塗り方が魅力的だし、キャラクターの瞳がきらきらしているのが宝石みたいだ。漫画なども絵のうまさがわかる線のきれいさで、数コマ漫画でさえストーリーがしっかりしていて面白い。

 ヒライス自体は今アニメ放送中ではあるもののファン層はそれほど厚くない。そんな中、穂垂は人気のイラストレーターで、ツイッターのフォロワーは一万人いる。基本的には絵を上げるばかりだが、茂果はこの一万のフォロワーの誰よりも自分が穂垂のイラストのファンであると自負していたしフォロワーたちに対して確かに優越感を持っていた。

「夕飯できたよ」

 穂垂は散らかったものを片付けて、ちゃぶ台を部屋の端にやる。照明の紐を引くと暗くなった室内に縁側からぼんやり光が差した。それで雨戸を閉めていないことに気付いて、穂垂は茂果を一瞥しカーテンだけ閉めた。

 

 言い合いは無駄だし疲れるから黙ってはいるが、やはり少しは腹が立つものだ。特に虫の居所が悪い日は感情を制御するのがどうにも下手になってしまう。とはいえ、茂果にとって、由紀は大学における数少ない友人のうちの一人だったし、ないがしろにしたくはなかった。パスタをとっくに食べ終えた茂果の隣で、由紀はパンを食べながらもう片方の手にはスマホを持ち、しきりに茂果に話しかけている。スマホの画面に映し出されているのは、モノクロで統一されたアニメの公式サイトだ。

「春クールはこれ見ようかなってさあ。新歓とかで忙しかったからまだ見れてないんだけど、とりためてるの」

「へえ。そう」

 スマホを覗き込むふりをして、死角でストローの包み紙をこよりにした。こうして由紀はたびたび茂果の興味のない話をしてくる。それをきちんと聞けるほどの忍耐力は持ち合わせていない。由紀はパンをハムスターみたいに小さくかじって、スマホをスクロールする。指に従ってキャラクターの顔が流れていく。スマホの上部をタップしてページの先頭に戻り、主人公の少年を見つめた。ピンク色の髪が目に鮮やかな、穏やかな表情をした少年だ。ループタイが上品さを演出している。「江口さんご」と明朝体で表記されているが、緑色の目の彼はおよそ日本人には見えない。この少年は、穂垂のよく描いているあのさんごだろう。江口という苗字なのは印象になかった。

 アイスティーに入っていた氷は溶けかけ、その冷たい水をストローで吸い込む。意地汚い音に由紀は眉を顰め、「ちょっとやめなよ」と言った。茂果はあいまいに頷いた。

「ヒライス、っていうアニメなんだけど。この主人公のさんごって子、CV田町優翔なんだって」

「田町優翔って、確か由紀の推しの声優さんなんだっけ? なんか、前も主役級やってなかった?」

「そーなの、たまちゃん最近キてるんだよね」

 窓に面したカフェテリアのカウンターからはキャンパスの様子がよく見えた。空は晴れ、風は凪ぎ、穏やかな春である。一年生だろうか、次の授業へと急いでいるのであろう少女二人が手を取り合って走っていく。焦りの見える足取りではあったが、そのどちらの顔にも笑みが浮かんでいた。茂果たち二年生になると多少の遅刻は気にしなくなる。名簿に名前さえ書けば出席になるためそれに間に合えば関係ないのだ。教授だって授業開始時間通りには来ないし。初々しい姿にどこかうらやましく感じてしまった。フレッシュマン。一年前の私もああだったのだろうか。果たして、できたばかりの友人と楽しそうに笑い合っていただろうか。全く記憶にない。友達と遊ぶ時間があるならば家に帰ってその分、家族との時間を増やしたいと思ってしまうのだった。友人より家族。協調性がないことは前から自覚していたが、キャンパスライフはそれを助長させた。

 本当は茂果だって「パリピ」みたいなことをしてみたかった。都会に憧れてわざわざ田舎からこの東京の中心にある大学を受験して、一浪してまで入ったのに、陽キャの友人ができるビジョンが見えなくて、結局見た目だけ気取って、仲良くなれたのはたった数人だった。そのうちの一人である由紀ともやはりうまくやっていけていないし、この先やっていける自信もない。つい自分の都合を優先してしまって、他人を尊重することがなかなか難しいのだった。

「あーかわいい。もうさ、ビジュで優勝だよね。茂果はどの子が好き?」

 スマホを差し出され、茂果はつい眉を顰めてしまい、慌てて眉間を揉む。由紀はそれに気づかなかったようで、変わらずににこにことスマホを押し付けてくる。しぶしぶスマホを受け取り、スクロールして悩んでいるふりをした。実際にはあまり何も考えていなかったし、しいて言うなら夕飯のことを考えていた。この子、と結局主人公の次に記載されている少年を指さす。

「よつきかあ。まあ、かっこいいよね。ザ・副主役って感じ。この子も人気出そうだよね」

 茂果はまた適当に頷いた。話はまさに右耳から入って左耳から抜け出ていってしまう。もう一度ストローを吸って音を立てると由紀はあからさまな嫌悪を示した。由紀を不機嫌にさせるのは本意ではない。ただ茂果の機嫌もそろそろ限界だった。どうしようもなくなって立ち上がり、皿とグラスの乗ったトレーを持ち上げると、由紀もスマホをしまいそれに従った。

「もー、茂果ってば、相変わらず気が短いね。そんなだから友達できないんだよ。このままじゃ彼氏もゲットできないよ?」

「うっさい。そんなんわかってるし。ていうか彼氏くらいいるもん」

 歩調を速める。由紀が困惑の声を上げるのが聞こえたが、構わずにいたら由紀は走って茂果の隣に並び、いくつも質問をせわしなく投げつけてきた。それらすべてを無視しても、彼女はご機嫌だった。笑顔は花のようにかわいらしいけれど、言わなければよかったという気持ちが湧き起こった。

 最寄り駅の改札口で由紀と別れる。妙に浮かれた服装をしていると思ったが、これから彼氏に会うのだと言った。露出が激しいんじゃないと言ってみたけれど、由紀は「これくらいがいいの」と取り合わなかった。先月付き合い始めたというサークルの先輩はすでに紹介してもらい会ったことがあるが、でかい、というのが第一印象で、小柄な由紀と比較すると頭一個分の差がある。背が高いだけでなく肩幅も広い。それでもこぎれいな格好をしていたからさわやかさを感じた。彼が露出をあからさまに好むタイプには見えなかったが、由紀がしたいならそうすればいい。

 由紀はかなり短いスパンで恋人が入れ替わっていて、前に付き合っていた男子学生はちょうど十五センチの理想の身長差だなんだと言っていた。さらにその前は茂果よりも背の低い男性と交際をしていたが、それが一番長続きしなかった。

「茂果今度彼氏紹介してよー。ダブルデートしよ」と言われた。おそらくダブルデートをすることはない。今回の彼氏も長くは続かない。きっと背が高すぎだ、おくてだ、などと文句が増えていって、茂果が彼氏を紹介する間もなく別れるのであろう。くだらない。しかし小動物のような愛らしさのある由紀は相手に困らないのだろう。恋しては別れ泣き悲しみに暮れ、と思ったらもう恋をしている。華やかな青春の乙女だ。うらやましくはあった。

 定期券で改札を通る。お昼時の電車は会社員が多い。汗の染みたワイシャツの中年男性が集団で入ってきて、ドア付近に固まり大声で話しているのが、茂果はとにかく嫌いだった。それよりもさらに、着飾ったメイクの女性たちがコーヒーのプラカップを持って同僚の悪口に花を咲かせている方がもっと嫌いだ。それを見ていると、大学デビューを気取って結局うまくいかなかった自分が惨めだった。私もそういう輪の中にいるはずだったのに、と何度でも思った。電車通学にはやはり慣れないままだった。自転車で友達と並走して登下校したあの田圃道が懐かしい。たわいもない話をしながら、砂利のために全身が震えるあの夕暮れの帰り道はどんなに輝いていたことか。今となってはもう故郷にすべて置いてきてしまって、取り戻すことができない。

 高校のクラスメイトの多くは家業を継ぐために地元に残った。向こうの友達は好きだけれど、それよりも東京への憧れが勝ったから、受験に失敗したにもかかわらず予備校に通うことを理由に東京の祖母の家に居候した。わがままを言った茂果をそれでも笑顔で送り出してくれた両親はなんともおおらかだ。もちろん茂果の居候を喜んでくれている祖母も。東京に移り住んでからはそんなことばかり考えていた。

 リュックのポケットに入れていたスマホを取り出しホーム画面を見る。LINEのアイコンの右上で赤い通知マークが「1」を表示していて、タップするとトーク画面を開きっぱなしだったようでダイレクトにメッセージが目に入った。

『今度デートしよ』

 朗からだった。即座に『うん』と返信をすると、向こうもちょうどトーク画面を開いていたのか既読がついた。

『行きたいとこある?』

『ろーは?』

『もかにきいてるんだけど笑』

 数十秒遅れて写真が送られてくる。タップして拡大表示すると、どうも最近池袋にオープンしたばかりのカフェのウェブサイトをスクリーンショットしたものらしい。それからもう一枚写真が送られてきて、そちらは公開中の映画のポスターだった。アクションシーンが上映前から話題のコメディ映画。

『カフェと映画?』

『はい』

 つい口元が緩んで、慌てて引き締める。

 URLを送ってくればいいのに、そういうところが朗らしくて笑ってしまう。朗はコンピュータ類を扱うのが苦手らしかった。下手な操作をして訳がわからなくなるより、確実な操作で意図を伝えたいなどと彼は言っていたが、言い訳に過ぎない。いかにもスマートそうに見える朗だが、そういうところがかわいくて、ギャップがあって好きだ。

 いつ行こうか、というメッセージと共にスマホのカレンダーのスクリーンショットを送った。既読がついてしばらくは返信が来ない。動きのないトーク画面を見つめてただ待つ。

『今週の土曜』

『おけ』

『予約しとくね』

『よろ』

 彼との画面上のトークは奇妙なテンポを刻む。それがまた心地よい。画面の向こうで彼がぽちぽちと何回もスクリーンをタッチしておぼつかなくメッセージを書いているのだと想像すると、愛おしくて仕方がなかった。

 朗からサムズアップの絵文字が送られてきたと同時に、画面上部に通知が一件入る。由紀からだった。

『さっきの話、この土日どう???』

 さっきの話というのが何か一瞬わからなかった。あ、ダブルデートのことかと思い至り、のろのろ返信を作成する。

『予定ある。ごめん。今度ね』

 由紀のことは嫌いではないし、由紀の彼氏も嫌いじゃない。でも由紀に朗を紹介するのは必要ない気がしたし、由紀の彼氏の横に朗が並ぶとしたら、それは由紀の彼氏に非常に申し訳ないと思った。まあ、どうせあと少しで別れるであろう彼氏なのだが、そうはいっても今は由紀の彼氏なのだから尊重はしたい。

 もう一度朗との個人チャットを開く。『ろ』と送ると少し間が空いて『なあに?』と返ってきた。それが脳内で、朗のあの甘い声に変換されてなんだかくすぐったくなった。

『呼んでみただけ笑』

『もー!』

 もー! のたった三文字も打つのに一苦労しているのだろうな、とまた頰が緩んだ。けれど実際に会っても茂果と朗はこんな雰囲気にはならない。茂果は別に実際の朗とそういううきうき恋愛みたいな、睦言のようなことをやり合いたいわけではないのだ。お互い居心地がいいというのを目指しているのだ。トーク画面の浮かれようと、実際デート中の二人が並ぶと、その温度差は大きく奇妙なほどだ。胸が高鳴ることは時たまあるけど、フラットにスマートにいられる今の朗との関係はお気に入りだった。もうすぐ二年経つのか、と考えて、今週の土曜がちょうど二周年記念日だとふと思い当たった。また口元が緩んだ。

 二時前には家の最寄り駅についてしまい、隣接しているショッピングモールのソファに座る。今日の夕飯は何にしようかなどと考えながら、またLINEを開いた。ホタルの飛ぶ夜の池のアイコンに触れトーク画面にいく。

 高校のクラスメイトと七並べをして最下位だったから罰ゲームでLINEの名前を変えさせられたらしい。それを聞いたときにひどく驚いたのを覚えている。地元にいたころ、家に呼んだ茂果の同級生と穂垂を交えてカードゲームをよくした。頭脳戦ゲームでは穂垂は負けなしだった。何手も先を読む彼を出し抜ける人などいなかったから。東京の進学校に行くと言ったときは、さすがは我が弟、と思ったけれど、進学校はやはり強豪揃いだった。しかし一年生のころから頻繁に行われているこの勝負事で穂垂が負けたのは今回が初めてだ。

『樽くん、今日買い出し一緒に行こ』

 メッセージを送ってから、今ちょうど授業中であることに気付いた。通知は鳴らないようにしていたと思うけど、と不安を覚えた時に既読がつく。すぐにOKとスタンプ一個で返事が来た。授業中にスマホをいじっていたのか、すぐに問いただしたがそれは既読スルーされた。

 二時間ほどのウィンドウショッピングなどすぐに終わる。駅の改札前に穂垂を迎えに行く。改札の向こうから現れた穂垂はロングカーディガンを着ていた。これから伸びるからと見栄を張られたから大きなサイズのものを買ってやったのだが、シーツを被っているかのように見えて、やはりサイズに合ったものを買い直してやろうと考える。

「お出迎えありがとうございますー」

「どもども」

 大きなリュックを背負う穂垂は小柄で、中学生にしか見えない。丸い輪郭線と、茂果と違って柔らかな顔立ちをしているというのも要因の一つだろう。年が離れていることも相まってかわいくて仕方のない自慢の弟だ。

 家に帰る道中にスーパーマーケットがあり、そこで買い出しをする。買い出しは一応当番制になっているが、茂果が頻繁に穂垂を呼び出すために毎回一緒に行っていた。大学の最寄り駅は穂垂の高校からのアクセスもいいため、大学付近で買い物をすることもある。東京の鉄道はとにかく多くて複雑だ。

この続きは本書で、お楽しみください!!
著:珠川 こおり(タマガワ コオリ)

2002年東京都生まれ。小学校二年生から物語の創作を始める。高校受験で多忙となり一時執筆をやめるも、高校入学を機に執筆を再開する。『檸檬先生』で第15回小説現代長編新人賞を史上最年少で受賞し、デビュー。

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