伊東潤さん『浪華燃ゆ』刊行記念インタビュー

文字数 3,134文字

命も家も失うことが分かっていながら、民のために立ち上がったこの男は、すべての不正を許さない。伊藤潤さんが江戸幕府瓦解の端緒となった大塩平八郎の乱を描く『浪華燃ゆ』が絶賛発売中! 歴史時代小説の実力派は、江戸時代の商都・大阪、大塩平八郎をどう見たのか――。好評を記念し、たっぷり語ってきただきました!

江戸時代の商都大坂に惹かれた



――本作を書こうと思ったきっかけは、何だったのですか。

講談社の担当編集さんと話し合い、いくつかのテーマを出し合いました。その時の『伊東さんに大塩平八郎を描かせたら面白いものになるかも』という言葉に乗せられたという感じですね(笑)。また以前から、幕府の威光が強く天下泰平の雰囲気が残っていた時代の商都大坂を描きたかったという思いもありました。この時代の大坂を舞台にした時代小説はありますが、歴史小説はほとんどありませんからね。



――つまり大塩平八郎という人物だけでなく、江戸時代の商都大坂に惹かれたのですね。そのほかに何がありますか。

もう一つ大きかったのは、自分の強みと題材のマッチングですね。大義に生きた大塩の苦悩と葛藤を描いていくことこそ、主人公の心の内に分け入るように、その心理を描いていく私の強みを生かすことだと思ったわけです。



――伊東さんが常々言っている「自分の強みを生かした題材を選んでいけば、ハズレはない」ということですね。では、本作で苦労した点は何ですか。

朱子学や陽明学といった儒学をマスターすることですね。江戸時代の思想を支配していた儒学を知らないと、大塩の行動を理解できないからです。その点を少し説明していきましょう。源頼朝と鎌倉幕府の成功は、『御恩と奉公』というギヴ・アンド・テイクな関係の創出に尽きます。しかし平穏な時代になると、それだけでは主従の関係が弱まると、徳川家康は見越していたんですね。つまり主君と家臣の関係に新たな概念を導入し、下剋上を防ごうとしたわけです。そこで家康は『仁義礼智信』を旨とする儒学の一つの朱子学を採用し、武士の若者たちに『無償の忠義』をすり込もうとしました。それが成功し、江戸幕府は二百六十年余も続くわけです。宗教や権威主義国家も同じですが、上下の間でギヴ・アンド・テイクな関係を築くよりも、たとえ理不尽であっても、無償の忠節を求めた方が、強い吸引力が生まれるのです。そうしたことから儒学、とくに朱子学は江戸時代の学問の主流になっていきました。ところが大塩は、当時亜流扱いされていた陽明学に傾倒していきます。陽明学は行動を重んじる学問です。それが大塩平八郎の乱につながっていくわけです。



――儒学の内容をいかに分かりやすく伝えていくか、確かに苦労の痕跡を感じました。

「儒学はもちろん、大塩の書き残したものは現代的価値観とは合っておらず、ただ読むだけでは理解できないことが多々あります。それを参考文献片手に解読し、現代の読者に理解できる言葉にしていく作業はたいへんでした。しかも学んだことすべてを書くわけにもいかず、まさに会得した知識の氷山の一角を描いていくという感じでした。でも次第に、そうした勉強が面白くなっていくんですね。歴史の評価に堪えてきた古典には、とてつもない力があります」

大塩平八郎は革命家ではなく、構造改革家



――本作は、「歴史を学ぶ」こと以上に、人間ドラマとしての凄味もあると思います。

大塩という題材を選んだ理由も、そこにあります。大塩も浮世から超然とした存在ではなく、大坂奉行所の与力という生業を持つ一人の人間です。つまり武士として、先祖から受け継いだ地位と家名を子孫に伝えていかねばなりません。しかし彼は命も家も失うことが分かっていながら、民のために立ち上がりました。その人としての相克を描くことが、本作のテーマでもあるのです。



――しかし大塩というのは、必ずしも革命を起こそうとしたわけではありませんよね。

そうなんです。大塩は武士階級に属し、江戸幕府の体制を守っていかねばならない立場でした。しかも家康に対する尊崇は一方ならぬものがありました。つまり正義を重んじる古典的な武士だったんですね。だからこそ武士の時代と徳川家の天下を永続させるために、汚職が日常化している幕閣や幕府諸機関に警鐘を鳴らすような行動が必要だったのです。つまり大塩は私利私欲の暴徒でもなければ、新しい政治体制を構築しようという革命家でもなかったわけです。いうなれば原点回帰を目指す構造改革家だったのです。そんな大塩の心情にどれだけ肉薄できるかが、本作の挑戦でした。



――その挑戦がうまくいったかどうかは、個々の読者に委ねるとして、まさに後世に伝えていくべき価値のある人物だったんですね。

その通りです。これほど後世に伝えていくべき人物はいないと思います。ところが有名作家の小説としては、森鴎外の短編や北方謙三さんの『杖下(じょうか)に死す』以外ありません。しかも二作とも大塩本人の視点ではないので、本作が大塩視点の初の長編小説と言えるでしょう。

近藤重蔵や頼山陽も登場



――当時の大坂の情景も丁寧に描かれていますね。

先ほど『天下泰平の雰囲気が残っていた時代の商都大坂を描きたかった』と申し上げましたが、本作は、当時の大坂の情景や雰囲気を再現することにも力を注ぎました。一読いただければ、江戸とは一味違う当時の大坂が味わえると思います。



――そしてその大坂を舞台にして、近藤重蔵や頼山陽といった有名人も登場してきます。

二人とも、実際に大塩と関わりがあった人物です。とくに山陽は大塩のよき理解者でした。山陽は大塩の蜂起の前に病没してしまいますが、もし存命なら、大塩の蜂起についてどのような感想を持ったか聞きたいですね。また冒険家の近藤重蔵の生き様が、大塩に何らかの影響を与えたことも確かです。二人についても史料や文献を読みこみ、綿密にキャラクターを練っていきました。二人のことを調べれば調べるほど、彼らを主役にした長編小説を書きたいという思いが募りました。



――本作も、さすがとしか言えない筆致で楽しませていただきました。最後になりましたが、読者へのメッセージをお願いします。

誰もが大塩のように生きられるとは限りません。おそらく私が大塩と同じ立場だったら、事なかれ主義でいたことでしょう。しかし自分の命や家名断絶を恐れず、大義に生きた大塩やその同志たちがいたことを、われわれは忘れてはいけません。現代の価値観で生きてきた人の中には、大塩の生き方を否定する人もいるでしょう。しかし否定からは何も生まれません。虚心坦懐に大塩の声に耳を傾けてほしいですね。

伊東 潤(いとう・じゅん)

1960年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学社会科学部卒業。2013年『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞作品賞、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞および第1回高校生直木賞(2014年)、2014年『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を受賞する。近著に『天下大乱』『一睡の夢 家康と淀殿』などがある。

わしは己に厳しくあらねばならぬ。

陽明学を究めた学者でもあり、大坂町奉行の敏腕与力でもあった大塩平八郎は、家族、門人たちをも巻き込んで、命を懸けた世直しに挑む。

立場にあぐらをかき、豪商と結託して私腹を肥やす上役ども。立身出世に目がくらみ、悪事に立ち向かえない同僚、同輩。世のため人のためにならぬ御託ばかりを並べる学者たち。

この男は、すべての不正を許さない!

江戸幕府の瓦解はここから始まった。歴史時代小説の実力派・伊東潤が大塩平八郎の乱を描く傑作!


定価:1980円

講談社

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