短編小説「神の両目は地べたで溶けてる」(斜線堂有紀)
文字数 22,685文字
五歳の頃の僕にとってハイセンスとは洞穴のことだった。
勿論、実際の洞穴ではない。僕が指しているのは『洞穴』という名前の、その名の通り洞穴の如き内装をしたレンタルDVD店だ。
恐らく店主の趣味だったのだろうが、どんな趣味を持てばレンタルDVDと洞穴が合体することになったのかは分からない。ともあれ、誰向けか分からないその店は、僕には刺さった。
隙あらば僕は洞穴に行きたがり、レンタルをねだるでもなくニコニコと店内を歩き回った。薄暗い店内は肝心のDVDが見づらく、入り組んだ配置の所為でよく迷子になった。それでも僕は洞穴が好きで、潰れるまでの半年間は毎週のように通っていた。
だから、閉店した時の衝撃といったらなかった。入れなくなった洞穴の前で、僕は転げ回って泣いた。しかし母親はそんな僕を見て、何処か安堵したように言ったのだった。
「こんなとこ、好きだったのアンタだけだよ」
その時、僕は初めて他人の存在を知ったのかもしれない。
この世には他人というものが存在していて、自分の好きなものを他人も好きとは限らない。その衝撃的な事実を知ってから十年が経った。高校生になった僕は、もう全人類が洞穴を好きになるとは思わない。
「なあ、舞立! お前も水浦しずの小説が好きなんだな〖縦中横:!?〗」
岬布奈子がそう言うまでは洞穴のことだって忘れていたくらいだ。岬は僕の読んでいた本をがっしり摑んでいて、端的に言って逃げ場が無かった。
「こんなクラスに水浦先生の良さが分かる人間がいるなんてな! 舞立もなかなか趣味がいい」
岬の声は恥も外聞も無く大きい。甲高いその声に釣られて、クラスのみんなが一斉に僕らを見るのが分かった。岬の背は女の子にしては高いし、芸能人しか掛けないような大きな眼鏡を掛けているし、おまけに女子なのにうなじを刈り上げた強いボブヘアーをしている。田舎にいるには相応しくないくらい戦闘力の高い格好をした女子高生。それが岬布奈子だ。
そんな彼女に絡まれるのは耐え難い拷問だった。さっきから視線が矢のように刺さっていて心底気まずい。それでも、岬は構わずに話を続ける。
「授業中に本読んでるから何かなーって覗いたらさ、なんと水浦しず作品じゃん! もう、気づいてから話しかけたくてたまんなかったんだ! なあ、いいよなそれ、いいよな!」
「……ま、まだ序盤しか読んでないし」
「序盤からいいだろ? やっぱ分かる奴には分かるんだよな!」
どうしようかと迷った。このまま岬と一緒に注目を浴び続けるのは嫌だが、強く拒絶して、更に面倒なことになっても困る。彼女を興奮させている水浦しずの本を持ったまま、僕は硬直する。目の前にいる岬が酷く恐ろしいものに見えた。
永遠に続くかと思った時間は、岬の「あ」という言葉で唐突に終わった。
「これ、図書室の本じゃん。買えよ、死ね」
岬は大袈裟に舌打ちをすると、憤懣やるかたない様子で僕の後ろの席に戻っていった。
手にした小説の中では、世にも美しい出会いの場面が描かれている。本に視線を戻した僕の後ろで、また舌打ちの音がした。
これが僕と岬布奈子、そして水浦しずとの出会いだった。
東京まで電車で二時間。この微妙な距離に、僕の住む町がある。
住みたい田舎ランキング六位、というこれまた微妙な成績を残すここには、あまり娯楽が無い。ファミレスや病院やショッピングモールなどの必要最低限の文化はあるけれど、映画館に行くのは骨が折れる。そんな立地だ。
こういう場所で金の無い高校生がコンテンツに触れるのは難しい。
そんなわけで、僕は入学当初から高校図書室のヘビーユーザーだった。予算内で出来る限りの新刊を入れてくれるので、ここに通うだけで話題の本には触れられる。おまけに、意外とこの図書室は利用者が少ないから本が借りやすい。
そんな図書室の新入荷コーナーに、ひっそりと追加されていたのが水浦しずの本だった。
ここに入る本はどれも厳選されたベストセラーだ。タイトルだけは何処かで聞いた、というものが多い。その中で水浦しずの本は唯一の例外だった。センスの良い表紙を捲った先の著者紹介には『恋愛小説家』という思い切りのいい肩書きだけが載っている。
だから、思わず手に取った。正直、岬布奈子に絡まれると知っていたら、僕はこの本を手に取ったりしなかっただろう。ある意味で岬は水浦しずに迷惑をかけている。
「おい、舞立」
あれだけ怒っていたのに、翌日になると岬はまたしても僕に話しかけてきた。帰ろうとした僕の肩を摑み、早口に言う。
「あれ、図書室に入れるように言ったの私なんだ」
その言葉で、新入荷コーナーの謎が解けた。利用者が少ない図書室ならリクエストも簡単に通る。
「……なのに借りたら怒ったわけ? 流石に矛盾してるだろ……」
「確かに水浦しずの新規読者が増えたらいいとは思ったよ。でも実際にああして借りられてるの見ると腹立つな。買わないと水浦先生の利益にならないだろ」
何の理屈も通っていない無茶苦茶な言葉だった。第一、僕だって本を買わないわけじゃない。図書室で借りて、本当に好きだと思ったものはちゃんと買っている。水浦しずの本だって序盤を読んだ感じ、結構好みだ。このままいけば本棚に並べていたかもしれない。それでも岬は納得がいかないのか、苦虫を嚙み潰したような顔で唸っている。
「そんなにこの小説が好きなの?」
「好き。水浦先生の作品が世界で一番好き」
そう言う岬の顔は張りつめていた。
「だから、舞立が水浦先生の小説を読んでるって知った時は嬉しかった。でも、今はかなり複雑だ。こんなのないだろ」
「じゃあどうしろっていうの?」
「そう、それを言いにきた」
岬はうって変わって笑顔を浮かべた。屈託の無い、と形容するには凶悪すぎる笑顔だった。
「今から一緒に水浦先生の小説を買いに行こう。それで解決だ」
どうしてこうなったのだろう、と本屋に辿り着いてもなお考えていた。
今日は履歴書を買ったらそのまま家に帰るつもりだった。駅前のレンタルDVD屋さんが、タイミングよくアルバイトの募集を始めたからだ。時給も高い上に、レンタルの時に社割が利く好条件。これで僕の文化レベルが上がる、と思っていたのに。
「水浦先生の本はあっちにあるから。レーベル別じゃない文庫棚にある」
逃亡防止の為か、学校を出てから岬はずっと僕の肩を摑んでいた。傍から見てどう映っているのかが怖くて仕方ない。さっさと買ってしまうしか逃れる術は無いのだ。
「ほら、この棚の下の……ほら、そこだよ」
場所まで熟知しているのか、岬がはっきりとそこを指し示した。
小さな本屋に水浦しずの本は一冊しかなく、しかも隅に棚差しされていた。取り出す時に、軽く引っ掛かりを覚える。長らくここに収まっていたからだろう。その本は、選ばれることを想像もしていなかったように見えた。
「よしよしいいぞ。じゃあ会計だ」
「別に逃げたりしないから放せよ……。買いづらいし」
「あ、ごめん」
岬は思い出したように手を放すと、笑顔で手を振った。旅立つ人間を送るかのようなその仕草を背にレジに向かう。会計をしている間中、岬の視線が痛かった。水浦しずの本を買うのが嫌なわけじゃないが、これはこれで酷く落ち着かない。
「これで安心したよ。やっぱり水浦先生に貢献するには紙の本を買わせないとな」
会計を済ませて店を出ると、岬はうって変わってご機嫌な様子だった。烈火の如く怒っていた時とはまるで別人のようだ。
「……じゃ、今日はありがとう。僕もいいきっかけになったよ。また」
「待ってくれ、ちょっと話がある」
早々に事態を収めようとした僕を、またも岬が引き留める。
「話って? もう水浦先生の本は買っただろ」
「……水浦先生の小説は、本当に面白い。私はその本がさ、新刊棚にぽつんとあった時に見つけたんだ。正直知らない作家だし、買おうか迷ったんだけど……なんか気になって。それで読んだら……マジで人生が変わったんだ。こんな物語を書ける人間がいるんだって信じられなかった」
「それは……良かったね」
「そういうわけで、私にとって水浦先生は特別な作家なんだ」
歯切れの悪い口調で脈絡の無い言葉が連ねられていく。一体何なんだ、と思っていると、不意に岬が真面目な表情になった。そして、言う。
「お前、SNSやってる? ツイッターは?」
「え? 見る専のアカウントなら持ってるけど……」
好きな作家やバンドの公式アカウント、後はアートイベント情報を流してくれるbotだけをフォローしたアカウントだ。自分で何かを呟いたりはしていないから、殆ど死んでいるアカウントだけれど。
「そうか。そうかそうか、なるほどな」
その声を聞いてぞっとした。何か分からないけれど嫌な予感がしたのだ。その悪寒から身を引くより先に、僕の目の前にスマホの画面が突きつけられる。そこには誰かの──いや、『Misaki』の呟きが大量に表示されていた。
一見しただけじゃ詳しい内容は分からない。けれど、その画面いっぱいに「水浦しず」の単語が躍っているのだけは分かった。スマホを印籠のように掲げる岬の目が輝いている。けれど、それは場違いなクリスマスイルミネーションのような、電灯が切れる寸前の異常な明滅のような、そういう異様さがあった。
「これは私の水浦しず用のアカウント。水浦先生の小説の感想と、水浦先生の小説のどんなところが好きかを書いてる」
「はあ、そ、そうなんだ……」
「日本で一番水浦しずについて呟いてるのは私じゃないかな。まあ、そういうわけだ」
「そうみたいだね」
「で、だ。丁度仲間が欲しいと思ってたんだよ。これからは一緒に水浦先生の話をしよう。ああ、その前に水浦先生の本の感想を八百字程度に纏めて提出してもらう。それは読書感想投稿サイトにも載せて、他の本好きにも水浦先生の存在を知らせるんだ。とにかく必要なのは新規読者だからな。見つけてもらえるように布教しないと。明日から早速始めるぞ」
「ちょっ、ちょっと待って、どういうこと?」
「どういうこともなにも。水浦先生の小説を読むんだから、舞立も布教活動に参加してもらわないとだろ。まずは水浦先生の小説を読むんだ。んで、明日口頭で感想を言ってもらう。感想文はその後でいい」
「待って、何で感想文を書くってことになってるの?」
「新規読者を呼び込むのに一番いい方法だからだよ」
一応の回答は貰っているのに、全く話が嚙み合わない。目の前にいる岬が得体の知れないものに見える。実際、話しかけられた時から嫌な予感はしていたのだ。
「だから、その新規読者を呼び込むとか、何で僕が……」
「だってお前はリアルで遭遇した初めての水浦しずファンだぞ! 布教活動に取り込まないでどうする!」
どうやら岬はもう既に僕を水浦しずファンの一人に数えているらしい。僕はまだ最初の数ページしか水浦作品を読んでいないのに。当然ながら、僕が水浦しずの小説を好きになれない可能性だって十二分にある。何せ岬は僕の読書傾向なんか少しも知らないのだ。
しかし、岬は惑うことなく預言者のように言うのだった。
「まずは明日だ。お前は水浦しず先生のファンになる。一緒に少しずつ先生の読者を増やしていこう」
その言葉を聞いた瞬間、鞄の中の文庫本が急に重くなったように感じた。
本というのはその内容も勿論だけれど、出会い方というのも重要だと思っている。岬の所為で、水浦しずに対する印象は地の底に落ちていた。そもそも、誰も知らないようなマイナーな本を、周りから浮いている妙な女子高生が推しているという時点で信用がならなかった。そこらの石ころを拾い上げて宝石だと騒ぎ立てるのに似た行為なんだろうと。
でも、違った。
結論から言おう。水浦しずの小説は面白かった。
一般的な高校生よりは小説を読んできたけれど、その中でも一、二を争うくらい衝撃的だった。恋愛小説家、という素っ気ない肩書きが指し示すように、水浦しずの物語はシンプルだ。この世界の何処かにありそうな恋物語を描いているだけ。それなのに、この小説は息が止まりそうなほどスリリングだった。二人の行く末が見たい、という一点だけでページを捲る手が止まらない。正統派な恋愛小説でありながら、推理小説的でもあった。
それでいて、この物語は酷く優しい。
この小説を書いた人間は、きっと世界のことも人間のことも好きなのだろう。そう思えるような小説だった。
本を閉じて溜め息を吐く。岬の言う通り、僕はこの小説のことがすっかり好きになっていた。これで水浦しずファンといっていいのかは分からないが、少なくともこの小説のファンになったことは間違いない。
いてもたってもいられず、スマホでタイトルを検索する。この小説にはラストに少しだけ解釈が割れそうな描写があった。他の人はこの小説を読んで、その部分をどう解釈したのか知りたかったのだ。
そして驚いた。水浦しずの小説にはレビューが殆ど付いていなかった。感想投稿サイトにも、書籍の通販サイトにも数件しか感想が無い。しかも、その中で目立っていたのは『Misaki』の感想だ。──恐らくは、岬布奈子のものだろう。
こんなに面白い小説なのにどうして、と心の底から疑問に思う。けれど、僕だって図書室で見つけるまで水浦しずなんて作家のことは知らなかったし、この本はお店でも目立たない棚に差さっていた。おまけに水浦しずはこの小説がデビュー作らしく、他には何の実績も無い。知名度が無いから、読んでいる人数が少ないのだろう。
それを思うと、何故か胸がざわついた。
今まで、売れていない小説は単純につまらない小説なのだと思っていた。反対に売れている小説は面白い小説だ、と。現に、ベストセラーには外れが無い。あれもこれもそれなりに楽しめる。
でも、その法則に則れば水浦しずは矛盾している。
デビュー作なのに文章力が高く、構成も台詞回しも信じられないくらい上手い。これなら、書評家とか、それこそ文壇のお偉いさんなどが取り上げていてもおかしくないのに。一年以上前に発売されたらしいこの本は未だに初版で、しかも殆ど読まれていないのだ。
──ならやっぱり、水浦しずの小説は世間的に見たらそんなに名作でもないのだろうか? ふと、洞穴の店が頭を過ぎる。
挙げ句の果てに、数少ないレビューの中にこんな感想も見つけてしまった。
『期待しないで読んだけど、面白かった。ちょっと不動詩凪の影響受けすぎだけど』
『不動詩凪フォロワーって感じ。及第点かな。不動詩凪自体そこまで個性的ってわけじゃないけど、要するに没個性。ラストは割と好き』
水浦しずの文体は、どうやら不動詩凪という小説家のものに似ているらしい。
その評価を見た時、すっと温度が下がった。さっきまで感じていた熱が輪郭から抜けていく。そうして自分の中から抜け出た熱は、途端に場違いで恥ずかしいものに思えた。参加していたパーティーを外から眺めた時のような気恥ずかしさがあった。
そのまま件の『不動詩凪』を検索する。水浦しずを検索した時と違って、夥しい量の情報がヒットする。
マイナー作家の水浦しずに対し、不動詩凪は人気作家だった。
エンターテインメント系の新人賞を受賞し華々しくデビューした彼女は、何冊も本を出している。売り上げは上々で、評価も高い。そして何より、彼女は若くて美しかった。『現役美人女子高生作家』の肩書きを、何の憂いもなく戴けるくらいに。
インタビューに答える不動詩凪の姿は、純粋無垢な印象を受けた。気取らないその様を見た瞬間、僕の感動は完全に醒めていた。
「先に不動詩凪のこと教えといてくれれば良かったのに……」
ここにいない岬に向かって恨みがましくそう呟く。
こう言っては悪いけれど、すっかり水浦しずは不動詩凪の下位互換だという印象になっていた。似たような作風であっちの方が格段に売れているということは、つまりそういうことだろう。
似たような小説を書ける人間は他にもいて、しかもその作家の方が有名なのだ。その事実を知ったことで、水浦しずの小説で覚えた感動が安っぽいものに変わってしまった。自分でも勝手な話だと思う。でも、こういう印象は理屈じゃどうにも出来ないものだろう。
買った方の本を棚に収める頃には、僕の感動はすっかり落ち着いていた。
水浦しずの小説は確かに面白かったけれど、それは本当にいいものじゃなく、単に岬の洞穴だっただけのことだ。
それに一も二もなく感動して、一瞬でも岬と同じような興奮を味わってしまったのが気恥ずかしかった。そうだよな、とわざわざ口に出して言ってから眠りにつく。
「どうだ、最高だっただろ」
それなのに、岬は全く疑うことなく洞穴を愛していた。
わざわざ放課後を待って話しかけてきたのは、僕への配慮じゃないだろう。多分、水浦しずの話をたっぷりする為だ。そのあまりの無邪気さが少し恐ろしい。水浦しずの小説の素晴らしさを欠片も疑わないのは異様だ。ともあれ、僕は言う。
「……なんていうか、結構良かった。小説で泣くことってほぼ無いんだけど、終盤はかなり涙腺にきた。ほら、あの台詞がラストで別の意味で出てくるじゃん。あそこで、上手いなー……って」
「そう! そうなんだよ! 水浦先生は伏線回収の仕方が凄く上手くてさあ! ああして出てきた時に『確かにこの言葉ってそういう風にも取れるな』って気づけるんだよ」
水を得た魚のように岬の目が輝き出す。僕が水浦しずの小説を褒めたことがよっぽど嬉しかったのだろう。
「私は特に中盤のあのシーンが好きでさ、ずっと」
「知ってる。初めて自分の気持ちを自覚するシーンだろ」
先回りして言うと、岬は嬉しそうに頷いた。そのことは知っている。何しろ昨日、僕は岬のレビューを読んだのだ。
岬の書いたレビューはまっすぐだった。
決して大袈裟な言葉を使っているわけじゃない。この小説の好きなところ、好きな文章、好きな場面をバランスよく配置し、それでいて目を惹くものに仕上げている。検索してあんなレビューが出てきたら、確かにその本を読みたくなるかもしれない。ある意味で『Misaki』のレビューは人の目を過剰に意識したものだった。
それでも、岬のレビューは僕の気になっていたラストの解釈にもちゃんと触れていて、胸によく響いた。その台詞をそう捉えたのか、と素直に感動する。あの小説を読んだばかりの僕だったら、もしかしたら岬と同じテンションで熱く語れていたかもしれない。
ただ、不動詩凪の存在は、僕の心にかなり大きな引っ掛かりを作ってしまっていた。何の躊躇いもなく水浦しずの素晴らしさを語る岬が気に食わなくて、僕はわざと明るい声で続ける。
「でも、これって不動詩凪の小説っぽかったよね」
「え?」
「言葉選びとか構成とかさ」
ネットに書いてあったことをそのまま流用する。そこそこ小説を読んでいそうな人のレビューだ。きっとこれは的外れじゃないんだろう。
正面からこの言葉をぶつけられた岬はどう感じるんだろう。怒るだろうか。弁明するんだろうか。こう思うと、僕のこの気持ちは八つ当たりに近いものだったのかもしれない。水浦しずの小説を読んで覚えた感動に水を差された分、岬の方にも同じ気持ちを味わって欲しかった。
ややあって、岬は冷静に返した。
「不動先生の作品も読んだことあるし、似てるのも分かる。というか、シャッフルして読めば殆ど分からないと思う」
「その不動詩凪っていうのの方が売れてるんだろ。なら、やっぱり水浦しずより不動詩凪の方がいい小説を書くってことなんじゃないか」
乱暴な論理を敢えて口にした。当然ながら、一概にそうとは言えないだろう。売れているものは良いものである可能性が高いが、生前に全く評価されなかったゴッホの例もある。
例外が存在すると知りながら言い切ったのは、岬の反応が見たかったからだ。岬は分かりやすく眉を吊り上げて、僕のことを睨んでいる。問題はこの後、岬が何を言うかだ。
予想では、分かりやすいカウンターを放ってくるんじゃないかと思っていた。即ち、水浦先生は顔出しをしていないが、不動詩凪は美人小説家として持て囃されている。おまけに本人も美人だ。だから売れてるだけ、実力じゃない──なんて批判を。
実際、不動詩凪という小説家を知った時に、僕が抱いた感想はそうだった。耳目を集める肩書きと、アイドルみたいな可愛いお顔があれば、小説の中身とは関係なく売れるんじゃないかと思ってしまった。不動詩凪の小説の紹介には書影と共に必ずと言っていいほど彼女の写真も添えられていた。まるで不動詩凪の美しさが、その本の価値を担保しているかのように。
「いや、」
けれど、静かに反論する岬の言葉は、僕の予想とは違ったものだった。
「違う。不動詩凪の方はちゃんと世界から見つけてもらってるだけ」
悔しさも諦めも滲んでいるのに、随分凪いだ声だった。
「不動先生の作品はちゃんと面白いよ。構成もしっかりしてるし、表現力も確かだ。伝えたいことを描くのに、単なる数行の描写だけじゃなくエピソード単位で積み重ねをしてるから凄く丁寧に響く。女子高生作家だってことが無闇に取り上げられがちだけど、あの人はちゃんと実力がある」
普段の岬からは想像も出来ない、理知的で整然とした言葉だった。その所為で、僕は口を挟むことも出来ずに聞いてしまう。
「不動詩凪は実力がある書き手で、美人な女子高生であることは取っ掛かりだ。彼女の才能を正当な位置まで連れて行くアリアドネの糸だ。そうして彼女の才能は沢山の人の目に触れた。だから売れたんだよ。あくまで実力があって面白い、っていうのが最初。対する水浦先生にはその取っ掛かりがない。一月に何冊の本が出版されると思う? 数百冊だ。その中でぽんと出てきたばかりの水浦先生の小説が売れるはずがない。だって、誰も水浦しずを知らないから。水浦しずって恋愛小説家がとても面白い小説を書くって知らないから。不動詩凪と水浦しずの違いはそれだけ。二人とも才能はある」
そこでようやく岬が言葉を切った。浅く息を吐いてから、らしくなく真面目な顔をする。
「だから私らが水浦しずを陽の当たるところに連れ出さなくちゃいけないんだよ。誰も知らないけど私は見つけた。私が見つけたんだ」
岬の言葉はレビューと同じくまっすぐだった。僕が何を言おうと、全く揺らぐことがない。
「というわけで不動詩凪の話をするんじゃなくて、水浦先生のレビューを書けっての。大枠は決まった? もしかして下書きくらいは持ってきてくれた?」
「まだ書いてないけど……まずは読めって言ってただろ」
「なんだよ、期待させといて。はあ、無駄だったな。挙げ句の果てに他人の言葉で殴り掛かってきやがって」
舌打ち交じりに岬が言う。あっさりと見抜かれた『他人の言葉』に顔が赤くなった。
「何で……」
「やっぱりお前、不動詩凪の作品読んでないんだな。そんな気がした」
「カマかけたのかよ。卑怯者」
「他人の評価で本の面白さが上下するなんて大変だな。相場師」
岬はありったけの軽蔑と憎しみを込めて僕のことをせせら笑った。
腹は立った。けれど、今回ばかりはそう言われても仕方がなかった。
岬の顔は強張っていて、今にも感情が決壊してしまいそうだった。半開きの口の中で、舌が震えているのが分かる。彼女はあからさまに傷ついていた。
僕は軽蔑されても仕方がない相場師だった。
岬の言葉が頭から離れず、家に帰ってから改めて水浦しずの小説を読んだ。
読むのは二度目だ。話の内容は頭に入っている。この先に何が起こるのかも、どんな会話が続くのかも知っている。
なのに、涙が出た。一度目に読んだ時よりもずっと内容が心に響く。堪え切れない嗚咽が口から漏れ出して、部屋の中に大きく反響した。買ったばかりの文庫本にぼろぼろと涙が落ちていく。止められない。
僕はこの小説が好きだった。
岬に素直に言えば良かった。水浦しずの小説は凄かった。面白かった。感動した。それを伝えるのが何だか気恥ずかしくて、褒めなくてもいい理由に読んだこともない不動詩凪の名前を使った。
だって、これが洞穴じゃない保証なんて何処にも無い。自分が好きなものを屈託無く晒すのは恐ろしい。それが否定されたら、きっと傷ついてしまう。……今日の岬のように。
それでも、岬は怯えることなく水浦しずへの愛情を語るのだ。
岬に謝らないと。そう思いながらノートパソコンを開く。悩んだ末に最初の一文字を打ち込んでから、手元にある水浦しずの本を拠り所のように撫でる。
翌日の岬は不機嫌さを隠そうともしていなかった。話しかけるのが躊躇われるほど発せられる負のオーラに、一瞬身が竦む。岬の手には少し汚れた水浦しずの小説があった。それは彼女にとってのお守りなのかもしれない。強い髪型と芸能人ライクな眼鏡のように、岬布奈子を彼女たらしめるもの。
「……言いたいことあるなら言えよ」
目の前に立った僕に、岬が吐き捨てる。
「……その、流石にごめん」
具体的なことは何も言わなかった。けれど岬は「別にいい」とだけ返し、それ以上何も言おうとしなかった。責められなかったことに安心するけれど、このままじゃいけないことは分かっている。
だから、行動で示すことにした。僕は四つ折りにした紙を岬の机に置く。
「何これ」
「誠意だよ、僕の」
岬の手がゆっくりと紙片を開く。
それは、昨日僕が必死に書いた水浦しずの小説のレビューだった。
「岬に言われて、ちゃんと考えたんだ。……下手かもしれないけど、自分なりに考えたことを」
「そうだね、下手すぎ」
岬が食い気味にそう言った。そのまま紙片が突き返される。
「やり直し。悪いけど、これじゃ水浦作品の良さが全然伝わってこない。これで何も知らない未来の読者に伝わると思う? 未読者に向けて期待を煽って、この読書体験が人生を変えるかもって思ってもらわないといけないんだぞ?」
そうまくし立てる岬は、もうすっかり元の岬布奈子に戻っていた。
「ポエムを書けって言ってるんじゃないんだよ! レビューっていうのは宣伝なの! 水浦しずの名前を検索する新規読者を逃がさないようにするんだよ!」
「絶対その努力の方向性は間違ってるって! 岬の思いは一周回って不純になってきてるだろ……」
「不純でも何でもいいんだよ! このレビューで水浦先生を好きになる人がいればいいの!」
「でも……」
「そもそも誤字脱字もあるだろ! 三度読み直して二度音読しろ! 私はそうしてる!」
それはその通りだった。岬が指し示した場所には変換ミスで「m」の文字が入ってしまっているし、助詞が抜けているところもある。書き上げてからすぐ印刷したから、そもそも文章として綺麗とは言えなかった。
それでも、僕はそのレビューに愛着があったし、文句を言う岬も何処となく嬉しそうに見えた。
「……ていうか文章の下手さとか、誤字脱字については僕が悪いと思ってるけど……。感想自体については、僕が素直に感じたことだし。……宣伝目的で狙った感想書くより、素直に今の気持ちを記録しておいた方がいい……んじゃないか」
そう言った後で、わざとらしくならないように「そっちの方が水浦先生も喜ぶと思う」と付け足す。これは半分本心で半分打算だ。
「……分かった。でも、誤字は直せよな。次誤字脱字あったら殺すから」
あの繊細な物語を好きだとは思えないような、強くて粗雑な言葉だ。ただ、岬がそんな言葉を口にするのは、そうでなければ折れてしまいそうだからだろう。
『殺す』というあまりにも強い言葉の裏で、岬は僕に約束を強いている。
もう水浦しずから逃げたりしない、もう水浦しずを軽んじたりしない。約束しろ。そう言っている。
「うん、それでいい」
僕はその裏まで勝手に汲み取って、はっきりとそう言った。
何しろ僕は、水浦しずのファンなのだ。
その後、十数回のリライトを経てようやく、岬から合格が言い渡された。練りに練った僕のレビューは、自分でも恥ずかしくなるくらい愛に満ちていた。
しかし、サイトに僕のレビューを載せても、世界は別に変わらなかった。当然だ。僕は高名な書評家でもなければ、アルファツイッタラーでもない。ただの片田舎の高校生だ。
ただ、こうして目に見える形で自分の感想を載せるというのはいい経験だった。小説を読んで感じたことをずっと抱えておくよりも、気恥ずかしさから外に追いやってしまうよりも、ずっと適切な出力だ。数少ない水浦しずのレビューの中に、整えられた僕の感想が並んでいるのは、素直に嬉しい。
それでも、水浦しずの小説が爆発的に読まれることはない。
「でもな、この一個が世界を変えるかもしれないだろうが」
何も言っていないのに、岬が嚙みつくようにそう言った。
まるで、水浦しずの読者が増えなかったことを気に病んでいるみたいだった。その辺り、岬は妙に気負ってしまっている節がある。
「水浦先生だって喜んでるはずだから」
その言葉には素直に頷いた。水浦しずがこれを読んでいるとは思えなかったが、あなたの小説が届いた人間がここにいますよ、と示せるのはいいことだと思った。
「ファンレターとか送らないわけ?」
「馬鹿だな。送ってるに決まってるだろ。でも、読んでるか分からないな。ファンレターはむしろ出版社に圧をかける為に送ってんの。ここにファンがいるんだから水浦しずのことをちゃんと推せよなって。だから、どっちかっていうと水浦先生のキャンペーンをやって欲しいとか、そういうことを書いちゃう」
あれから僕は、レビューだけじゃなく、岬の呟きや布教活動にも目を通した。殆どフォロワーのいない、誰が見ているかも分からないアカウントで、岬は水浦しずを推している。あれだけの情熱を保ち続けていられるのには素直に尊敬した。単なる高校生が水浦しずの未来を背負っているかのように振る舞うのは、不遜な上にちょっと怖い。
僕にレビューを書かせようとするのも、それが水浦しずはおろか世界にとっても正しいことだと信じているからなのだろう。
「でも岬の愛はどう考えてもやりすぎだろ」
「ファンってのはファナティックからきてるんだぞ。意味分かるかー? 狂信的だ! つまり、このくらいの熱量が無い人間なんかファンじゃないね! 水浦先生だってこれだけ推されたら嬉しいはずだ! エゴサで見つけやすいようにフルネームで呟いてるからな、毎日嬉しいと思う」
「そういう作家の人ってエゴサとかしないんじゃないの。モチベーションに影響が出るだろうし」
「する作家もいるだろ! 水浦先生がそういうタイプだったら、きっと嬉しいよ」
届いてたらいいな、と岬が嬉しそうに口にする。
その姿だけは、報われて欲しいと思うくらいに純粋に見えた。
しかし、概ね岬の愛は見当違いな方向を向いている。クラスメイトに無理矢理水浦しずの本を買わせ、レビューを書かせて悦に入っている場合じゃないとも思う。
「とにかく、これで終わりじゃないからな。今回は読書レビューサイトだったから、今度はインスタグラムにしよう。案外こっちの方が同じ高校生に響くかもしれない。早速書影が映える写真を撮ろう」
「インスタグラムにも投稿してるの?」
「当たり前だろ。この世のありとあらゆるSNSに水浦しずの名前を出すのが私の使命なんだ。レビューサイトにはまだ人が多いけど、インスタは私だけなんだ。ほら、舞立も写真を撮れ。そうしたらインスタ用の文章を書くぞ」
「……本当にこれを延々と続けるつもりなの? しかも、僕を巻き込んで」
「ああ、私は延々と続けてきたんだ」
岬は笑顔でそう言った。岬の愛情は根を張り、小さいながら空に手を伸ばしている。
ところで、レビューを投稿してからすぐ、水浦しずの本を買った駅前の本屋を覗きに行った。
水浦しずの本は僕が買ったきり、補充されていなかった。水浦しずの本が差さっていた場所には別の本が収まっていて、水浦しずの本が戻ってくる様子は無い。これで、この本屋を訪れた人間が水浦しずの小説と出会うことはない。そのことがやけに恐ろしく、岬の言っていたことはこういうことなのか、と改めて思った。水浦しずの小説は面白いのに、この辺りに住んでいる人は背表紙にすら出会うこともない。
岬のように水浦しずの小説を注文し続ければいいのだろうか。確かに良い手かもしれない。注文した本は二、三冊入荷するというのなら、この棚には水浦しずの本が戻ってくるのかもしれない。
でも、本当にそれが最善だろうか、とも思う。
僕が水浦しずの本を手に取る前のように、棚に収めて誰かが見つけてくれるものだろうか。
平台に詰まれている小説には『二十五万部突破』や『アニメ化決定』の華々しい帯が巻かれている。素人の僕には、どんなプロセスでメディアミックスが決まるのかも、そもそも売れる本がどうして売れるのかもよく分からない。店頭で確認出来るのなんて表紙とあらすじくらいだ。そこに部数という目を惹く実績が付いていなければ選んではもらえない。
水浦しずの本を手に取ってもらう最初の一歩。それの想像がつかなかった。
本棚の面積は限られていて、全ての小説を置くことは出来ない。読者の時間だって切り売りされているし、コンテンツは飽和状態だ。
なら、そこから見出されるのは、それこそ小説の神様に見初められるようなものなんじゃないだろうか。自分の考える神様は、やけに商業的だ。けれど、神様の加護というものはストーリーテリングや台詞回しの才だけじゃない。光あれ、と誰かの目の高さに置いてもらう祝福もある。
不動詩凪の小説は今日も大々的に展開されていた。POP用に印刷された不動詩凪の顔は、相変わらず美しかった。けれど、彼女の表情はインタビュー写真の時の無垢さとはまた別の方向にチューニングされていて、何だか別人のようにも見える。現役女子高生小説家、に使われている明朝体がやけに煽情的だった。
「結局のところ、必要なのはジャスティン・ビーバーなんだよ。ふざけてる」
そのことを話すと、岬はそう言って憤っていた。思えば、岬は水浦しずに関することでいつも怒っているような気がする。岬にとって、水浦しずに対する愛は炎なのだろう。岬と関わることになってから、その愛に焼き尽くされそうだ。
「小説の神様はどうやら水浦しずを見つけられない節穴らしいからな。後はもうそういうマスの力を持った有名人だよ。ほら、何だっけ。ジャスティン・ビーバーが面白いって言ったから滅茶苦茶売れて紅白にも出た芸人。結局のところそういうことなんだよなー! はー、クソですわ。ジャスティン・ビーバーが推したら水浦しずだって紅白出られるもんな。キレそう」
「……あんまりそういうこと言うなよ」
「影響力のある人間が褒めれば売れる。何だか目立つ賞取れば売れる。それってもう天運に近いじゃん! どうして早く水浦しずがそういう場にいかないのかな? 業界の人間、水浦しずの本ちゃんと読んでるのかよー! だったらみんなで水浦しずを推していこう! になるはずだろうが」
岬の愛はエゴイスティックで他を顧みない。話していて分かるけれど、彼女は僕よりもずっと小説を沢山読んでいる。その上で、ひたすら水浦しずに執着し続けるその様は、彼女の言葉通り狂信的に見えた。
「私が権力者だったらな。国を挙げて水浦しずを推すのに。大ファンである岬布奈子推薦、じゃ駄目なのか。駄目なんだろうな」
「まあ、僕とか岬だけの推薦じゃ、ってことなんだろうね」
「でも一人よりは二人がいい。一億人が推薦してればジャスティン・ビーバーにだって勝てる。私が舞立に水浦しずのレビューを投稿させようとしてるのはそれが理由。ほら、早く写真撮れって」
今日の僕は、インスタ用の写真を撮るのに苦戦していた。夕暮れの教室という定番のシチュエーションに、水浦しずのエモーショナルな書影を併せよう、というのが岬の提案だったが、これがなかなか難しい。本にピントを合わせれば背景が見えないと文句を言うし、反対に教室ばかりが目立っても駄目だ。岬のお眼鏡に適うものを撮ろうとしている内に、陽はどんどん傾いていって、難易度はどんどん上がっていく。
「ねえ、大分逆光が厳しくなってきたよ。これ本当に撮れる?」
「舞立が気合いの入った写真を撮らないからだろ? 愛が足りないぞ」
「普通に写真を撮るんじゃ駄目なの? 感想ならしっかり書くからさ」
「駄目。全然興味を惹かれない」
当の岬の写真は、確かに気合いが入っていた。作中の場面に合わせて、わざわざ海に行って撮影していたのだ。写真の腕もそこそこなのか、本も風景もいい具合に馴染んでいる。それを思うと、教室で適当に撮影した僕の写真は確かに愛が足りない。
「でも、インスタに綺麗な写真上げたって誰も見ないだろ。僕のアカウントとか作ったばっかだし」
「私が見るから!」
もっと意味が無いんじゃないか、と言おうとして、すんでのところで留まった。空は夕焼けのオレンジから、夜の紫に変わり始めている。風景としては綺麗だが、写真を撮るには向かなくなっていく。なおざりにシャッターを切る僕を見ながら、岬が言う。
「この写真がきっかけで誰かが目に留めるかもしれない。水浦先生の小説を読むかもしれない。そうしたらファンが一人増えるんだ。神様には見る目が無いけど、目のある読者もきっといる!」
暮れゆく陽の中で、岬の姿も段々と影になってきている。だから、力強くそう言う岬の表情はよく見えなかった。いつもの輝いた目がそこに付いているか心配になったけれど、僕は黙ってシャッターを切った。周りの暗さを感知したのか、目映いフラッシュまで焚かれてしまう。ここまでだ、と思ってスマホを仕舞った瞬間、岬がぽつりと言った。
「……水浦先生の新作が読みたいな」
恐らくは自然に出てきた言葉なのだろう。影になった岬が慌てて否定する。
「水浦先生の小説は読む度に新しい発見があるから、これでも十分すぎるくらいなんだけど」
この小説は水浦しずのデビュー作であり、唯一の著作だ。それきり他の小説は発表されておらず、岬が語る愛はこの本だけに基づいている。
直接口にしないけれど、岬の行為は全てたった一つの願いに続いている。水浦しずの新作小説が読みたい。彼女の愛にくべられている薪は、ただひたすらその一念だ。それを汲み取るように、僕は言う。
「僕は新しいの読みたいけどな。これの後にどんな小説書くのか知りたいし」
「……まあそうだよな! 絶対面白いよ。だって水浦先生だもん」
「とにかく、今日はこれでおしまい。粘りたい気持ちもあるだろうけど、こんなの意味無い」
とっぷり闇に沈んだ教室の中でそう言うと、岬がまたきゃんきゃん吠え始めた。面倒だったので、フラッシュを浴びせかけて撃退する。目の眩んだ岬は、そこでようやく帰り支度を始めた。
「別に今日限りってわけじゃないんだからさ。また明日やればいいだろ」
「そうかもしれないけど」
「ほら、水浦先生だってもう帰ろうって言ってる」
「水浦先生はそんなこと言わない!」
いつか水浦しずの新作が発売されたら、岬はまた張り切って宣伝し、水浦しずの小説の好きなところを挙げるのだろう。派手で耳目を集めるような大袈裟な言葉で。
その中に、自分の心の柔らかいところに刺さったものを紛れ込ませながら。
けれど、岬のアカウントが水浦しずの新作について呟くことはなかった。
何のことはない。岬のアカウントが凍結されたのである。
その時の一連の流れを、僕はリアルタイムで見ていた。タイミングが良かったのだ。お風呂上がりにタイムラインを眺めていると、今日も今日とて水浦しずについて呟く岬がいた。これだけ大量に呟いているのに、呟くネタが尽きないことに素直に感嘆した。
誰かに届くか分からなくとも、必死に愛を捧げる岬は尊くもあった。……尊い? と、自分で不思議に思う。思い返すまでもなく、僕は岬に引いていた。今でも気持ち悪いし、愛の方向性もズレていると思っている。
ただ、揺らぐことのない岬は尊かった。岬のようなファンがいる水浦しずは幸せなんじゃないか、と思うほどに。
岬がいつまで水浦しずのことを推し続けるのかは分からない。こんな熱を人間はいつまでも保ち続けていられるものなのだろうか。
その時、何故か僕の方がそれを寂しく思った。別に、毎日水浦しずのことを呟かなくてもいい。クラスメイトを捕まえてレビューを書けと脅さなくてもいい。ただ、水浦しずという小説家のことをずっと好きでいて欲しい。そう思った。
そうして出所の分からない感傷に浸っている内に、もう流れが変わっていた。いつものように水浦しずに関する呟きをし続ける岬に、一件のコメントが付いたのだ。
『とかいって、水浦しず全然売れてないだろうが』
プロフィール欄に何の記載も無い、知らないアカウントだった。どうやって岬の呟きに辿り着いたのかは分からない。丁度水浦しずの小説を読み終わって、何の気無しに検索したのだろうか。そして、熱っぽい呟きを見て揶揄してやりたくなったのだろうか。
それでも、通りがかりの悪意ある言葉は僕の心を冷やし、岬の怒りに火を点けた。
『いきなりリプライしてきて何? お前、水浦先生の小説読んだことあんのかよ』
それを見た瞬間、まずい、と思った。煮え立つような岬の声が想像出来る。
『あるよ。確かにそこそこは読めたけど、既存の作品に似すぎ。影響受けすぎ。一言で言っちゃうと陳腐です! 結局一作出しただけで枯れてるし。断言するけど水浦は二作目書けないよ』
相手も煽られたのか、更に攻撃的な言葉が返ってくる。傍から見てもまずい連鎖だった。こうなってくると、岬もあっちももう止まれない。
『陳腐? 水浦先生の小説の何を読んだんだよ。水浦先生の小説は本物だよ。第一、小説に関して偽物だの本物だの言い出す感性どうなってんの』
『クソだからクソだって言ってるだけだろ。水浦しずの本は資源の無駄』
『は? そのリプライ消せよ。先生を馬鹿にするな。先生の小説は傑作だ』
動揺する岬の姿が目に浮かぶようだった。岬はいつだってこの世の何処かにいる水浦しずを気にしている。先生にこの言葉が届いてしまうかもしれない、という懸念は、彼女のことを揺さぶるだろう。そこが岬の分かりやすいウィークポイントだった。
『いいものは売れる。クソは売れない。従って水浦しずはクソ。はい論破』
そんな岬の怯えを見透かしたかのように、相手が勢いづいていく。
『水浦しずは劣化不動詩凪だろ。だから二作目も出ない』
『それっぽい言葉を並べてあるだけのポエムで感動出来るなんて頭お花畑ですね』
『これを褒めるような文盲だからまともな反論が思いつかないのでは?』
岬の返信を待たずに、相手が矢継ぎ早にコメントを送る。
もうやめてくれ、と思うのに目が逸らせない。この場に不動詩凪の名前が出てくることすら耐え難かった。不動詩凪にも水浦しずにも等しくファンがいて、二人とも岬が認めるくらい素晴らしい小説を書くのに。自分が同じ言葉を吐いていたことを思い出して眩暈がした。
ややあって、争いは唐突に終わった。岬が最後のリプライを送ったのだ。
『おい、直接n出てこい。住所教えろ。頭の形変わるくらいぶちのめしてやる』
結局、岬布奈子はこの発言が原因でアカウントを凍結されてしまった。
当然だ。彼女のやったことはれっきとした脅迫だった。然るべき場所に出せば大変なことになる、犯罪行為だ。
岬布奈子は最初から最後まで間違い続けていた。
こんなことがあった翌日も、岬は普通に登校していた。そして、怒っていた。
「あのクソアカウントの所為で私のやったことが全部パーだよ、はー、ふっざけ、この、あーもう駄目。世の中はクソ、クソです」
放課後を待って話しかけて、最初に聞いた言葉がそれだった。ややあって、僕は冷静に返す。
「あれはどう考えても岬が悪いよ」
「ちょっと! 舞立はどっちの味方だよ!」
目を吊り上げ、牙を剝き出さんばかりの勢いで岬が吠える。この辺りまではいつもの岬だ。けれど、その怒りは長続きすることなく、徐々に弱っていく。そのまま、岬が深い溜め息を吐いた。よく回る舌が、言葉を見つけられずに彷徨っている。
「……分かってるだろ。あんな言葉無視すれば良かったんだ」
「……うるさいうるさい。後出しで正論言いやがって。私がどんな気持ちで戦ってたか分かんないの」
「しかもあの脅迫ツイート、誤字ってただろ。何だよあの脈絡の無いnは。三度読み直して二度音読するんじゃなかったのかよ」
「…………nも読んだ」
「雑な噓を吐くな」
本当は分かっている。誤字脱字に厳しい岬があんなミスをしたのは、それだけ平静でなかった証だ。傍から見ていた僕だって動揺していたくらいだ。岬が傷ついていないはずがない。
反論しようとする岬の口がぱくぱくと開閉して、結局閉じた。ここまでくると、もういつもの岬だとは言えない。
「あんまりへこむなよ。またアカウント作ればいいだろ」
「凍結された後だと大変なんだよ。メールアドレスとか電話番号認証とかで今は複アカに厳しい時代なんだ。というかそういうことじゃなくてさ……」
「いいからまた始めろよ。何なら僕がアドレス貸してやるから。あ、でもやっぱり岬にそういうこと言うと独創的な悪用しそうで嫌だな」
「あのさ、前から思ってたんだけど、私のこれって意味あるのかな」
「は、」
それは言わない約束じゃないのか、と心の中で叫ぶ。確かに岬の呟きは全く影響を及ぼしていなかったし、岬の功績といえばあの面倒なアカウントに絡まれたくらいだ。地元の書店に水浦しずの本が再入荷されることもない。
岬の前髪が机に掛かる。殆ど机に伏せてしまいそうな格好で、彼女は静かに言った。
「私はもう、駄目かもしれない」
明日の天気を告げるような、他人事の声だった。
「どれだけダメージ受けてるんだよ」
「だって、私負けてただろ。あれ」
「勝ち負けじゃないって。そもそもあんな煽りに乗る方が馬鹿だ」
「それでも私はあいつの言葉を撤回させて、改宗させて、水浦先生のファンにしてやりたかった」
不遜で傲慢な言葉はいつもの岬を連想させる。ただ、その声からはあまりに精気が感じられなかった。
「でも、そんなの無理なんだよな。分かってる」
「岬、」
「愛に力なんて無い。いや、違うな。力の無い人間の愛なんて意味が無い、が正しいか。水浦先生は天才だよ。でも、それを見つけたのがよりによって私だったのがいけないんだ。私がもっと影響力のある人間だったら、水浦先生の力になれたのに……」
岬布奈子の愛には意味が無い。と、岬ははっきりと繰り返した。
「水浦先生の新刊が出ていないことは知ってるよな。水浦しずの小説はあの一冊だけで、それ以外は無い」
「……うん」
小説がどのくらいの間隔で出るものなのかはよく知らないが、奥付に書いてあった出版年月日からは、結構空いている。それでも、水浦しずの新作は出ない。
「……出版業界が厳しい世界だってことくらい分かる。もしかしたら商業的に……その、水浦先生の本は出せないのかもしれない。……よく分かんないけど。私は、水浦先生の小説が評価されない世界の方がおかしいと思ってるから、世界が水浦先生を見つけるまで出し続けて欲しいと思ってるし、いつか正当に評価される日が来るって信じてる……けど、」
「けど、なんだよ」
その時、今まで堪えていた岬の目に、初めて涙が滲みだした。みるみる内に溜まっていくそれが、机の上に小さな水溜まりを作る。
「水浦先生は、もう小説なんか書きたくないのかもしれない」
そして岬は、絞り出すような声でそう言った。
「頑張った小説が誰にも届かなかったんだって思って、小説が嫌いになってしまったのかもしれない。自分の物語に自信が持てなくなって、筆を折ってしまったのかもしれない。……こんなことなら、この小説を書かなければ良かった、とすら……」
そこから先は殆ど言葉になっていなかった。岬にとって、それがどれだけ絶望的な事態かは想像に難くない。岬布奈子をここまで魅了した小説は、当の水浦しずにとって忌まわしい失敗になってしまっているかもしれない。それを否定したくて、岬はあれだけの愛を語っていたのだろうか。届くかも分からないところで、水浦しずの為に。
「あんなことが言いたいわけじゃなかったんだ、私が伝えたかったのは、水浦しずの物語を愛している人間がここにいるって、それだけだったんだ。たとえ売れてなくても、たとえ沢山の人に評価されてなくても、ここにいる私に届いたんだって伝えたかった。でも駄目だ。私は好きな小説家一人救えない」
最後の言葉は殆ど聞こえなかった。何故なら、そのまま弱音を吐きそうだった岬の机を、僕が思い切り叩いたからだ。岬の目が驚きに見開いている。
「お前らしくない。神様に見る目が無いって怒ってたお前は何だったんだよ」
「…………」
「水浦先生の小説があんなに好きなお前が、水浦先生が小説を嫌いになったって本気で思ってるのか。どうしてそこを信じられないんだよ」
自分でもどうしてこんなに憤っているのか分からなかった。岬が弱々しい声を出す度に、見ず知らずのアカウントの言葉が蘇ってくる。あの声を搔き消すくらいの強さが、岬にはあったはずなのに。
「……先生の作品を読んで、水浦先生が小説のことを凄く好きなのは伝わってきたし、分かってる。でも、だからこそ、ってのもあるじゃん」
岬の言うことは理解出来る。水浦しずの小説は密度が濃く、繊細で、美しかった。あれだけのものを書くには相当小説に向き合わなければいけないだろう。なら、その愛が反転してしまうこともあるかもしれない。その愛の重みに耐えられず、自重で潰れてしまった可能性もある。
それでも、岬布奈子がそれを言うのは違うだろう、と手前勝手に思った。水浦しずの小説が素晴らしいものだと心の底から信じ、飽くなき愛を捧げていた人間が、よりによってそこを盲信してくれないなんて困る。
岬の怒りを丸ごと引き受けたかのように、僕の中で言いようもない激情がうねる。そこで僕は、自分が傷ついていることを知った。手を放された子供の気分だ。本当なら、岬と一緒に泣きたかった。
「もういい」
これ以上一緒にいると、酷いことを言ってしまいそうだった。突き放された岬が、怯えた目で僕を見る。
でも僕は何も言わない。言ってやらない。
それから、僕と岬は学校で一言も話さなくなった。元より水浦しず以外に共通項の無い二人だ。元に戻っただけでしかない。岬はたまに僕に視線を向けたけれど、結局話しかけてくることもなくなった。気まずいと思っているのか、はたまた怒っているのかも分からない。
僕に残されたのはたった一つのレビューと、結局投稿されなかった下手な写真だけだった。
そういうわけで、僕らが次に言葉を交わしたのは、それから一ヵ月後、あの例の本屋でのことだった。
「…………あ、」
察しの悪い岬は会計が終わるまでレジに立っているのが僕だと気づかず、袋を受け取ったところでようやく小さく声を上げた。まるで幽霊でも見たかのような反応が少しおかしい。
「言っておくけど、僕は駅前のレンタルDVD屋にも受かってたから。それでもこっちを選んだんだ」
岬に何か言われる前に、早口でそう言った。その所為で余計に言い訳がましく響いてしまう。
「何で……」
「バイト始めて一週間だし、売り場を好きに出来る権力とかは無い。発注とかもまだ無理だ。でも、お前よりは多分僕の方が水浦しずに貢献出来る」
僕に岬以上の情熱は持てない。でも、僕は正しい方向性を知っている。
ここは片田舎の本屋で、僕はしがないアルバイトだ。仮にここで売り場を任せてもらえるようになって、必死に水浦しずの本を売ろうとしても、岬の望むようなムーブメントを生み出すことは出来ないだろう。
でも、岬や僕のように水浦しずの物語に新たに出会う誰かは生み出せるかもしれない。
あるいは奇跡が起きて、ここから水浦しずの小説が爆発的に売れるかもしれない。
小説の神様の目は節穴で、水浦しずをまだ見つけてはくれない。けれど、ここには水浦しずの物語が届いた僕らがいる。なら、神様の目を抉じ開けることだって出来るかもしれない。
「……なんだよ。なんだよお前、そんなさあ。……そんなの、水浦しずの……いや、私の為にここにいるみたいじゃん」
「そうだよ。僕は岬がいなかったら、本屋でバイトしようとは思わなかった」
僕ははっきりとそう言った。
水浦しずはまだ殆ど知られていない無名の作家で、それを推している岬も何の力も無い女子高生だ。布教活動は殆ど効果が無さそうだし、そもそも岬の情熱は何処かピントがズレている。
それでも、岬布奈子は水浦しずの救いであって欲しい。
存在を認知されていなくても、メッセージが届いていなくても、それでも岬は水浦しずを愛し続けてきた。今も愛している。それが欠片も救いにならないなんてあるだろうか? そんな悲しい話は無いだろう。岬布奈子は何処かで水浦しずを救っていてくれなければ。
暗くて孤独な執筆活動のただ中で、水浦しずは岬布奈子に励まされていて欲しい。世間に評価されなくても、沢山の人間に読まれなくても、たった一人の読者がいるだけで嬉しくなって欲しい。岬の存在があったから小説家でいられるのだと、どれだけ苦しくても岬の為に書き続けるのだと誓って欲しい。岬布奈子はそれだけの力を持っているはずだ。けれど僕は水浦しずじゃない。僕は水浦しずとして岬に報いてやることは出来ない。
それでも、僕は岬布奈子を見つけたのだ。なら、僕に出来る最大限で、岬の愛に報いてやってもいいじゃないか。
「どうだよ神様、世界を変えた感想は」
「悪くないね。悪くない」
確かめるように岬がそう繰り返す。強気な表情を形作っているのに、その声は弱々しく震えていた。
あの棚にまだ水浦しずの本は戻ってきていない。
けれど、僕はその内、なけなしの職権を行使するつもりだ。
その後、僕は岬に「洞穴を模したレンタルDVD店についてどう思う」と聞いてみた。幼い僕にとってハイセンスとは洞穴のことであり、流行りはしなかったが今でも愛している場所だ。
すると彼女は少し考えてから「見づらそう」と尤もなことを言った。
そのコンセプトにロマンを感じられないなんて、岬布奈子にはセンスが無い。でも彼女は、僕より先に水浦しずを見つけたのだ。
その点は褒めてやってもいい。
『小説の神様 わたしたちの物語 小説の神様アンソロジー』
https://bookclub.kodansha.co.jp/buy?item=0000340870
『小説の神様』映画、近日公開予定!
〈内容紹介〉
「小説は、好きですか?」
わたしたちはなぜ物語を求めるのか?
新作を書けずに苦しむ作家、作家に憧れる投稿者、物語に救われた読者、作品を産み出すために闘う編集者、それを届けてくれる書店員……わたしたちは、きっとみんなそれぞれの「小説の神様」を信じている。だから物語は、永遠だ。
当代一流の作家陣が綴る、涙と感動、そして「小説への愛」に溢れた珠玉のアンソロジー。
〈収録作品〉
降田 天「イカロス」
櫻いいよ「掌のいとしい他人たち」
芹沢政信「モモちゃん」
手名町紗帆「神様への扉」
野村美月「僕と”文学少女”な訪問者と三つの伏線」
斜線堂有紀「神の両目は地べたで溶けてる」
相沢沙呼「神様の探索」
紅玉いづき「『小説の神様』の作り方ーーあるいは、小説家Aと小説家Bについて」