(2/2)呉勝浩『爆弾』の冒頭を無料先行公開!
文字数 4,397文字
スズキの指紋は前科者データベースに引っかからなかった。持ち物は空っぽの財布だけ。金がないという意味でなく、ほんとうに空っぽの財布である。
「住所も聞きだせないのか?」
「忘れたの一点張りです」
等々力の返答に、自宅から駆けつけたばかりの鶴久課長が歯ぎしりをした。休日の夜を台無しにされた男は電子タバコの器械を握り、ストレスをぶつけるように蓋の開け閉めを繰り返す。
「一点張りですって、そんな泣き言が通じると思ってんのか」
「通じるも通じないも、本人が割らないんだからどうしようもないでしょう」
「それを割らすのがデカだろが」
等々力は腰の後ろに手を組み、色白の上司を見下ろした。デスクを殴って金切り声をあげる姿がこれほど似合う男もめったにいない。
「秋葉原のほうは?」
「担当がこちらへ向かっているそうです」
鶴久が嫌そうに吐く。「マンセーだけじゃなく本庁もだろ?」
うなずきながら、秋葉原を管轄する万世橋署に知り合いがいただろうかと記憶を探ってみたが思い出せない。等々力たちがいる野方警察署の最寄り駅はJR総武線中野駅。秋葉原まで、山手線の囲いを挟んで東西に十キロほど離れている。
事件の性格は、まだなんともいい難いものだった。爆発があったのは繁華街から外れたビルの、往来に面した三階の部屋。テナントが去った空きビルの防犯対策はいいかげんで、わずかな努力で破れる代物だったという。
爆発物の種類はわかっていない。状況からして不慮の事故とは考えにくく、時限式の何かが使われたと推測される。専門家の所感はガスを使った自家製爆弾ではないかとのこと。
正確には九月二十七日二十二時一分。轟音とともに同ビル三階の窓がいっせいに割れ、路面に降りそそいだ。中心から外れた立地とはいえ日曜日の秋葉原だ。不運にもそばを歩いていたふたり組が爆発の衝撃でその場に倒れ、窓ガラスの破片をまともに浴びた。もうひとり、自転車に乗っていた青年が路肩で意識を失った。常識外の轟音は通りかかった若者たちを一瞬で前後不覚にしたのである。幸い、ガラスで傷を負ったふたりもふくめ命に別状はないらしい。
現場周辺に怪しい人物の目撃証言はなし。付近の防犯カメラは精査中。犯人を名乗り出る者や犯行声明もなく、マスコミには差し当たり事故のニュアンスで伝えているが、それも次の爆発が起これば白紙になる。
現在手がかりと呼べるのは、同時刻、ここ野方警察署に傷害の容疑で連行されたスズキタゴサクを名乗る自称酔っ払いが取り調べのさなか、突如その爆発を予言したという一点だけだ。
身長一七〇センチくらい、体重八〇キロ少々。日本語を解する中年男性。
「つまり何もかもが不明。マンセーや本庁の奴らに、そういって頭を下げろってのか?」
「がんばりますよ。お顔に泥を塗らないように」
親の仇を見る目でにらまれた。できるなら、もっと聞き分けのいい部下と替えたい。それが鶴久の本音だろう。おれだって同感だと、等々力はため息をつきたくなった。けれど相手の指名がある以上、降りるも降ろすもリスクがあった。
スズキの予言がまったくの偶然とは思えない。第二、第三の爆弾は「ある」と想定するしかない。そのうえで馬鹿げたテロ行為を未然に防ごうと思ったら、みずから警察署にやってきた予告犯の協力を得るのがいちばんの近道なのだ。反対に機嫌を損ね、だんまりを決め込まれても得はない。その結果、どこかで何かが爆発し、誰かが亡くなりでもしようものなら、警察は袋叩きにされるだろう。
まっ先に殴られるのは、おれか──。
等々力は取調室へ踵を返す。時刻は二十二時十五分過ぎ。スズキが予言した第二の爆発まで残り四十五分をきっている。
2
等々力が戻ったとき、スズキは取調室の曇りガラスの窓をぼうっと眺めていた。見張り役の伊勢がこちらへ顔をしかめ、小さく首を横にふった。席を外しているあいだに探りを入れろと命じてあったが、試みは徒労に終わったらしい。
「スズキさん。起こったよ、爆発」
スズキが正面を向いた。等々力はパイプ椅子に背をあずけ、大げさに弱り顔をつくった。
「当たったね、霊感。でもあんなギリギリのタイミングじゃどうしようもない。爆発しちゃったら助言の意味がないからな」
「そうですか。いや、たしかにそうですね、たしかに」
面目ないと自嘲するスズキを見ながら、等々力は告げた。
「爆発に巻き込まれて大怪我をした通行人が三人。ひとりは、もうすぐ亡くなりそうなんだって」
スズキが、眉間に皺を寄せた。「そうですか」しかしそこに動揺らしきものは見てとれない。
等々力は机に腕をのせ、世間話のように語りかけた。「女の子のふたり組でね。休みを合わせて地方から遊びにきてたらしい。ホテルに帰る途中で被害に遭って、割れた窓ガラスの破片が、片方の子の右目と喉に突き刺さったそうだ」
「お気の毒さまです」
それは、見事な「お気の毒さまです」だった。哀しみを模した声と表情。安っぽい同情の、まるで教科書に載りそうな猫背。
「やっぱり、あんたに十万円は貸せないな」
「え? なんでです?」
「人間に貸すならともかく、バケモノには一銭だってやりたくない。だってバケモノは、金を返しちゃくれないだろ?」
「わたし、こんな身体で、たしかにメタボですけども、れっきとした人間ですよ」
「そうかな。人を傷つけて平気な顔をする奴を、おれは人間とは呼ばないけどな」
「わたしが? やめてくださいよ。わたしが爆発を起こしたんじゃありません。霊感がピピンと働いただけです」
「あんたが女の子を死なせてへらへらできる爆弾魔でも、霊感で犯行を予知できる超能力者でも、どっちにしたってふつうの人間とはいえないだろ」
「ふつうの人間、ですか」
「そう。名前も顔も知らなくても、この社会をいっしょに回してる仲間だって思える人間はいるんだ。無愛想な宅配のニイちゃんだろうと、公園で鳩にエサやってるおっさんだろうと」
「犯罪者もですか?」
等々力は腕を組んで感情を殺す。
「刑事さんにとって、わたしはそれ以下だと」
「いまのところはな」
「どうしたら、その、ふつうの人間の仲間入りができますかね」
「とりあえず、次の爆発がどこで起こるか教えてくれよ」
「そんなことでいいんです?」
「とりあえず、だよ」
丸い目をくりっと見開き、スズキが顔を突き出してくる。
「でも、爆発したって、べつによくないですか?」
「なんだって?」
「どこかで何かが爆発して、誰かが死んで、誰かが哀しむんでしょうけど、でもべつにその人は、わたしに十万円を貸してくれるわけじゃない。わたしが死んでも哀しまないし、わたしが死ぬことだって止めようとしませんよ、きっと」
スズキの吐息を近くに感じ、思わず等々力は身を固くした。
「──目の前で倒れてたら、救急車くらいは呼ぶだろ」
「目の前じゃなきゃ駄目なんです? じゃあいま、わたしの目の前には刑事さんしかいませんよ。わたしを助けてくれるのも、わたしが気にかけなきゃいけない人も、刑事さんただひとりってことですね」
腹の底で、ざわめきが生じた。平坦だった心の凪ぎに、波がひと立ち起こった。
等々力は、唇の片端を不自然なほど上げた。喉の奥から乾いた笑いがこぼれ、それをごまかすように腕時計を見た。二十三時まで、あと二十分。
「じつは噓なんだ。女の子が死にそうってのは噓。被害者は、みんな軽傷で済んだ」
そうですか、とスズキはいったが、それが安堵なのか安堵の演技なのかは見抜けない。
「だからまだ、あんた殺人犯じゃない」
きょとんとした表情のスズキに、等々力は尋ねた。
「次の場所、わからないの?」
霊感でも第六感でもいいからさ、と付け加え、「二度目も、周りの人が助かるとはかぎらない。けっこうな確率で、人は死ぬ。あんた、殺人犯になる。それも無差別殺人犯に」
反応を待ってみた。じっと見つめ、どんな言葉を返してくるか。あるいは目をそらすか。
スズキは最初、意外そうにぽかんとし、つづけて愛想笑いを浮かべた。落ち着かないそぶりでもじもじしはじめた。見つめられ、照れている。そんなふうにしか表せない振る舞いだった。
一分ほど耐え、等々力は切りだした。
「どうしたら、教えてくれる?」
「え? いや、刑事さん。教えたいとか教えたくないとか、そういうんじゃないですよ」
「いいから。どうしてほしいのかいってみてよ」
「ええ? うーん、弱ったなあ」わざとらしく首をかしげ、「何せ霊感ですからね。完全にコントロールできるわけじゃないですし」大げさに肩をすくめる。
「でも、もしかしたら、もっといろんな刺激があったら、閃きがおとずれるかもしれません。たとえばテレビとかラジオとか。ほら、そっちの刑事さんが使ってるノートパソコンでもいいです。iPadでもかまいません」
「自分のスマホは?」
「さあ。どっかになくしちゃったみたいです。いかんせん、酔ってたもんで」
等々力には疑問があった。秋葉原の爆発は派手に窓ガラスを割ったが、一方で被害を最小限にしようとしていた節もある。人通りのさみしい場所、遅めの時刻。二階でなく三階を選んだのも爆風の影響を抑えるためではないか。
目の前の男が、心底イカれた殺人鬼じゃないのなら。
──二個目の爆弾は、ガセか。
「駄目ですかね、テレビ」
「……駄目だよ。ここ、アンテナのプラグがないし」
「WiFiはありますでしょ?」
「駄目だよ」
そうですかと落胆し、うつむく頭頂部に十円というには大きすぎるハゲがある。
「何か刺激があるほうが、いいと思うんですけどねえ」
等々力は腕時計を見た。まもなく二十三時だ。あと十秒。九秒、八秒……。
時刻になって、ふり返る。伊勢がうなずき、ネットにつないだノートパソコンを操作する。
一分経っても、後輩は何もいってこない。
「──外れたみたいだな、霊感」
「テレビを観たかったです。プロ野球ニュース。あれだけが楽しみなんです」
ふっと鼻で笑ったとき、ガッと立ち上がる音がした。伊勢が、ノートパソコンを手に駆け寄ってきた。差し出された14インチのディスプレイにニュース番組が映っていた。音はミュートにしてあるが、緊急速報の慌ただしさがペーパーへ目をやるアナウンサーの形相に表れていた。
字幕が出ている。『東京ドームそばで爆発』
思わず顔が、スズキへ向いた。
スズキは唇を尖らせ「だからいったのに」とすねていた。
「特番で、今夜はもう試合のダイジェストが観れないかもしれません」
爆発を“予言”する男・スズキタゴサク。警察はその正体を見破り、残りの爆発を止めることはできるのかーー!
タゴサクと警察の白熱する心理戦は、この先からが本番。
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