『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』序章試し読み

文字数 5,274文字

第48回大佛次郎賞を受賞した傑作ノンフィクション、堀川惠子さん『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』が文庫化です! 

なぜ人類初の原子爆弾は”ヒロシマ”に投下されなくてはならなかったのか。

『死刑の基準ー「永山裁判」が遺したもの』(第32回講談社ノンフィクション賞)、『教誨師』(第1回城山三郎賞)『原爆供養塔ー忘れられた遺骨の70年』(第47回大宅壮一ノンフィクション賞+第15回早稲田ジャーナリズム大賞)など数々の受賞に輝く、日本を代表するジャーナリストが描く旧日本陸軍船舶司令官たちとヒロシマが背負った「宿命」とは──。

文庫化を記念して、「序章」をまるまる掲載!

序章


 明治27(1894)年、日清戦争を機に、東京の大本営が広島に移されたことはよく知られている。帝国議会も衆議院・貴族院ともに広島に議場を移し、議員たちが大挙して押しかけた。首都機能が丸ごと地方に移転した、近代日本で唯一の例である。その特異な様子は、広島市中に陣取った文武百官の住所にもうかがえる。


 たとえば総理大臣・伊藤博文の居宅は大手町四丁目。参謀本部次長の川上操六は大手町三丁目。第一軍司令官の山県有朋は比治山の麓。山県の後を継ぐ野津道貫は大手町八丁目。新聞社主筆の徳富蘇峰が滞在した旅館は大手町四丁目。人力車で数分の距離に国内の要人すべてがそろった。


 極めつきは広島の一丁目一番地たる広島城に、明治天皇その人が寝起きしていることだ。「廣島大本営職員録」によれば、侍従長はじめ大膳職(食事や儀式を担当)、庶務、会計、警備担当など66人の職員が広島に随行した。


 開戦から三ヵ月後の10月5日、明治天皇は勅令第174号を以て「臨戦地境(戦時にあって警備を要する地域)」の戒厳令を布告。広島を「戦場」並みに位置付けた。天皇自ら就寝するまで決して軍服を脱がず、侍従にも軍服を着用させた。戦地の兵隊と同じように過ごさねばと城内への女官の立ち入りを禁じ、ストーブを持ち込むことすら拒んだ。約七ヵ月の広島滞在の間、大本営から外に出たのはわずかに四度だけだった。


 その広島でもっとも繁忙を極めた場所が、瀬戸内海の沿岸にあった。大本営が陣取る市内中心部から南に4キロ離れた埋め立て地、宇品だ。宇品港は毎日のように輸送船を吐き出し、吸い込んでいた。兵隊のみならず、近代史に名を刻む明治の武人たちがこの港を玄関に戦地を往来。宇品はまさに物流と情報の中心地であった。


 それから50年の後、広島は本当の戦場になった。


──人類初の原子爆弾は、なぜ〝ヒロシマ〟に投下されなくてはならなかったか。


 本書の取材は、このシンプルな疑問を突き詰めることから出発した。


 多くの人は、広島が国内有数の軍事都市であったからと答えるだろう。確かに広島の中心部には旧日本陸軍の最強師団のひとつと言われた第五師団があり、大戦末期には、アメリカ軍の本土上陸を迎え撃つための第二総軍司令部も置かれた。


 しかし当時、国内でそれなりの人口集積を持つ都市には、大小の差はあれど広島と同じように旧軍の基地があり、軍需工場が稼働していた。たとえどの町に原爆が落とされていたとしても、相応の理由はついただろう。ただ広島にはひとつだけ、他の都市にはない特殊な事情があった。


 太平洋戦争末期、アメリカは原爆投下候補地を選定するための「目標検討委員会」を設置。昭和20(1945)年4月から7月下旬まで、日本のどの町にその運命を負わせるか議論した(以下「目標検討委員会会議要約」アメリカ国立公文書館所蔵)。


 第1回委員会は、4月27日。B29の航続距離や爆撃効果、未空襲の地域などの要素を勘案して、「広島・八幡・横浜・東京」を筆頭に、川崎・名古屋・大阪・神戸・呉・下関・熊本・佐世保など17の都市を研究対象とした。


 第2回委員会は、5月10、11日。ここで四つの勧告目標が固まった。「京都・広島・横浜・小倉」である。特に京都と広島には「AA級」の記号が付され、「A級」の横浜・小倉より高い順位に置かれた。この時点で後の被爆地はキョウト・ヒロシマであったが、最終的に古都を破壊すると日本人の反発が強まり、占領後の統治が難しくなるとの懸念から京都は外された。


 いずれにしても広島という地名だけは、議論の最初から最後まで常に候補地の筆頭にあがりつづけた。

 広島が標的として選ばれた理由の冒頭には、こんな記述がある。


 an important army depot and port of embarkation(重要な軍隊の乗船基地)


 広島には、重要な「軍隊の乗船基地」がある。これに加えて、町に広範囲な被害を与えられる広さがあり、隣接する丘陵が爆風の集束効果を生じさせて被害を増幅させることができる、と説明は続く。


 広島で軍隊の乗船基地といえば、海軍の呉ではない。陸軍の宇品である。日清戦争を皮切りに日露戦争、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、この国のすべての近代戦争において、幾百万もの兵隊たちが宇品から戦地へと送り出された。


 何度も討議が重ねられた目標検討委員会で、広島が一度たりとも候補から外れなかった理由。それは広島の沖に、日本軍最大の輸送基地・宇品があったからである。


 私は広島で生まれ育ち、2004年まで広島で記者として働いた。当時、宇品の海岸あたりは古びた倉庫群や船会社、小さなドックが建ち並び、ときの流れが止まったかのような、さみし気な場所という印象があった。取材で足を運ぶこともあまりなかった。


 その宇品地区も近年、一気に再開発が進み、人の流れも風景もすっかり変わった。埠頭一帯には美しい公園が整備され、かつての倉庫街はベイエリアと呼ばれるようになった。若者たちをターゲットにしたカフェやセレクトショップ、ショッピングセンター、最近では新しいマンション群も目立つ。


 いま宇品の埠頭周辺を歩いてみても、ここに人類初の原子爆弾の標的として狙いをつけられるような重大な軍事拠点があったことを思わせる痕跡は何ひとつない。戦争のたび数多の兵隊を送り出した旧陸軍桟橋はとうに埋めたてられ、わずかに石積みの一部を残すだけ。港のあちこちに立つ看板も観光案内ばかりで、軍港宇品にかんする史料館もない。逆にここまで見事に何にもないと、まるで意図的に消されたかのような印象すら受ける。


 世に出ている文献をあたれば、通りいっぺんのことはわかる。宇品地区の中心にあったのが「陸軍船舶司令部」だ。年配の広島市民にとっては、この正式名称よりも「暁部隊」の呼び名のほうがしっくりくるだろう。


 船舶司令部は、戦地へ兵隊を運ぶ任務とともに、補給と兵站(前線の部隊に軍需品や食糧を供給・補充すること)を一手に担った。船員や工員ら軍属をふくめると三〇万人を抱える大所帯で、数えきれないほどの雑多な下部組織が存在し、その規模は前線の方面軍ひとつに相当するほど巨大だった。


 司令部の周辺には、糧秣(兵隊の食糧や馬の餌)を生産する陸軍糧秣支廠、兵器を生産する陸軍兵器支廠の工場群と、それを備蓄する倉庫群がひしめき合っていた。近年、「被爆建物」として保存が議論されている全長九四メートルもの巨大な赤レンガ倉庫も、軍服、軍靴、飯盒、毛布などを生産した陸軍被服支廠のほんの一部だ。これら膨大な軍需品が宇品から輸送船に載せられ、方々の戦地へと運ばれた。


 宇品の心臓部、船舶司令部とは一体どんな組織だったのか。その実態については、現在に至るまでほとんど情報がない。ペリーの浦賀来港以降の海事にまつわる全事項をまとめた大著『近代日本海事年表』にも、なぜか船舶司令部は一度も出てこない。船舶砲兵や船舶工兵といった端末の部隊の手記は存在するが、司令部については何も見当たらない。原爆投下の目標とされたにもかかわらず、研究者もいない。世界中から人々が訪れる平和記念資料館にも、展示の片隅に小さなパネルだけ。船舶司令部そして軍港宇品を知る手掛かりは完全に封じられてしまっている。


 かたやアメリカ側の資料は、宇品の重みを雄弁に物語る。


 アメリカはすでに日露戦争の直後から、日本を仮想敵国とした作戦の立案に着手している。「オレンジ計画」と呼ばれるその作戦は、島国日本の海上封鎖を行って資源を断つ〝兵糧攻め〟を基本とした。


 実際に太平洋戦争が開戦すると、ルーズベルト大統領はただちに「無制限作戦」を発令。武装していない日本の輸送船にいっさいの警告なしに攻撃を加え、撃沈するよう命じた。国際法は船員や乗客を非戦闘員とみなし、これを攻撃する際には事前に彼らを安全な場所に避難させるよう定めたが、それを犯してまで輸送船に狙いを絞った。


 国土の四方を海に囲まれた日本は、平時から食糧や資源の輸入を船に頼っている。戦争になれば戦地に兵隊を送り出すのも、戦場に武器や食糧を届けるのも、占領地から資源を運んでくるのも、すべて船。シーレーン(海上交通路)も長い。その日本を屈服させるには、輸送船や輸送基地を攻撃することがいかに効果的であるかをアメリカは研究し尽くしていた。


 太平洋戦争中に撃沈された輸送船は小型船まで含めると7200隻以上、出征した船員の二人に一人が戦死するという甚大な犠牲を招いた。陸軍船舶司令部の命によって送り出された者たちの眠る場所に墓標を立てるとすれば、茫洋たる大海には果てしない純白の墓標が林立することだろう。


 太平洋戦争とは輸送船攻撃の指令から始まり、輸送基地たる広島への原子爆弾投下で終わりを告げる、まさに輸送の戦い〝補給戦〟だった。その中心にあったのが、広島の宇品だったのである。


 2021年、太平洋戦争開戦から80年の節目を迎えた。陸軍船舶司令部について、当時を語ることのできる生存者は、もはやひとりもいない。当事者の証言を取材の柱とできる時代は完全に終わった。80年という歳月はそれほどの長さである。


 本書は、宇品に生きた三人の軍人が残した未公開史料などを発掘、分析し、知られざる宇品50有余年の変遷をよみがえらせる。


 そこには陸上の部隊であるはずの陸軍が海洋で船舶を操るという、世界に例を見ない足跡が見えてくる。名も無き技術者たちが、この国の貧弱な船舶輸送体制の近代化に奔走した。先人たちが苦悩の末に宇品に集約させた、島国としてもっとも重要な兵站機能はやがて軍中枢で軽視されてゆく。


 誰よりもこの国の船舶事情を知り尽くし、開戦に反対して罷免された軍人がいた。自ら開戦決定の歯車となり、破綻する輸送現場に立ち尽くす参謀がいた。そして敗戦を確信し、海ではなく原子野に立つことを選んだ司令官がいた。彼らの存在が、そして軍港宇品の記憶が、あまりに早く忘却の彼方に追いやられてしまったのは、世界で最初の被爆地となったヒロシマの宿命でもあった。


 陸軍船舶司令部に生きた軍人たちの足跡、その海洋輸送のあり方を辿る先に見えてくるもの。それは、日本が明治の世から必死に築き上げてきたすべてを一瞬にして失った太平洋戦争破綻の構造そのものである。

 旧日本軍最大の輸送基地・宇品には、この国の過去と未来が凝縮されていた。

人類初の原子爆弾は、なぜ"ヒロシマ"に投下されなくてはならなかったのか。

第48回大佛次郎賞受賞の傑作ノンフィクション
NHK BSスペシャル 2024年12月放送予定


人類初の原子爆弾は、なぜ"ヒロシマ"に投下されなくてはならなかったのか。
日清戦争から始まり満州事変、日中戦争、太平洋戦争に至るわが国の近代戦争の中枢にあった、旧日本軍最大の輸送基地・宇品。
その司令官たちとヒロシマが背負った「宿命」とは何だったのか。
第48回大佛次郎賞受賞の傑作ノンフィクション。


堀川 惠子(ホリカワ ケイコ)

1969年広島県生まれ。ジャーナリスト。『チンチン電車と女学生』(小笠原信之氏と共著)を皮切りに、ノンフィクション作品を次々と発表。『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』で第32回講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命―死刑囚から届いた手紙』で第10回新潮ドキュメント賞、『永山則夫―封印された鑑定記録』で第4回いける本大賞、『教誨師』(以上、すべて講談社文庫)で第1回城山三郎賞、『原爆供養塔―忘れられた遺骨の70年』(文春文庫)で第47回大宅壮一ノンフィクション賞と第15回早稲田ジャーナリズム大賞、『戦禍に生きた演劇人たち―演出家・八田元夫と「桜隊」の悲劇』(講談社文庫)で第23回AICT演劇評論賞、『狼の義―新 犬養木堂伝』(林新氏と共著、角川文庫)で第23回司馬遼太郎賞を受賞。本書『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』は2021年に第48回大佛次郎賞を、'24年に山縣勝見賞・特別賞(同作を通じて船舶の重要性を伝えた著者とその講演活動に対して)を受賞した。

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