一穂ミチ『スモールワールズ』文庫発売記念掌編「ムーンライダー」

文字数 5,349文字

共感と絶賛の声をあつめた一穂ミチさん『スモールワールズ』が、いよいよ文庫化!

文庫には書下ろし掌編「スモールスパークス」が収録されているのですが、なんとさらに最新の書下ろしショートストーリー「ムーンライダー」をこのページにたどり着いてくださった方にもそっとシェアします。

「ムーンライダー」/一穂ミチ

 本当に、本当に、こんなとこ、来なきゃよかった。ていうか来るんじゃなかった。

 本日何度目かわからない後悔が胸の内に吹き溜まっていく。外側からは物理的に上半身を拘束されているので息苦しいったらなかった。

 ――ねえ、まだ?

 ――まじ、つらくなってきたんだけど。

 背後でそんな話し声が聞こえてきて、「だよねー」と会話に加われたらいいのに、なんてできもしないことを考える。実際にわたしの口から出たのは細いため息だけだった。すっかり暗くなった空に目をやれば、雲に覆われて星のひとつも光ってやしない。頭の角度を変えなくても勝手に目に入ってくる。窮屈な身体を軽くもぞつかせると、足下の金属がキイッ……と耳障りに軋み、ぎくっと全身が強張る。

『ただいま、機械の不具合により、ムーンコースターは一時停止をしております』

 聞き飽きたアナウンスがまた繰り返される。

『現在、お乗りのお客さまに安全に降りていただくための安全確認を行なっております。誠に申し訳ありませんが、もうしばらくそのままでお待ちください』


 しばらく、と言われてから、何分経っただろう。十分? 三十分? 一時間? 腕時計をしていないし、スマホを含む手荷物は全部ロッカーに預けたのでわからない。このアナウンスを耳にしたのが十回じゃ利かないことは確か。

 最前列に座るわたしの目の前には、二本のレールが延びている。それは空中でぶった切られているように見えるけれど、実際はちゃんと下に続いている。かたんかたん、とゆっくり上り、束の間の静止ののち、悲鳴と歓声をぶっ放しながら急降下していくはずだったのに、その手前でコースターは突然停まってしまった。くるりと宙返りの軌道にいる最中じゃなくてまだよかったとありがたがるべきだろうか? 逆さ吊り待機はいくら何でも拷問すぎる。でもこの、斜めに傾いた体勢のまま後方確認すらできないのもなかなかスリリングだった。何かの拍子に後ろ向きのままコースターが進み出し、乗り場に激突して止まる、という可能性だってゼロじゃない。そうなったら最前列のわたしは、きっと死にはしないだろう。むち打ちくらい? これだけがっちりU字の安全バーで固定されているから無傷かもしれない。でも後ろの席の人たちは……悪い想像に身ぶるいし、くしゃみが出た。


 上空からバラバラと乾いた音がする。ヘリコプターだ。さっそうと乗客を吊り上げてくれるレスキューじゃなく、たぶんどこかのマスコミ。誰かが「見せ物じゃねえよ」と忌々しそうにつぶやいていた。同感だけど、当事者以外には見せ物でしかないだろう。地上ではいつの間にか規制のロープがぐるりと張り巡らされていて、その外側からみんな取り憑かれたようにスマホを向けている。ゾンビの群れみたい。わたしも逆の立場だったらゾンビの一員だったかもしれないから、まあ仕方がないかと思う。でも、あの人混みの中にあいつがいたらぶっ殺す。

 ――テレビに映っちゃうのかな。

 ――変顔する?

 ――は? やめてよ、こんな状況とか最悪。恥ずすぎんですけど。

 ――逆に中指立てとけば向こうも映せねーだろ、ほらほら。

 ――やめてってば。

 頭の悪いカップル(きっとそう)の会話が夜風に乗って運ばれてくる。わたしはまたため息をついた。何が不幸って、今、この不運を分かち合える相手がいないことだ。嘆いたりぼやいたりべそをかいたり、そういう時間を共有できるパートナーが。


 二列シートの隣にいるのは、見知らぬおじさんだった。「シングルライダーのお客さまはこちらからどうぞー!」と係員に誘導されて隣り合ったおひとりさま同士。何で中年男性がひとりでジェットコースターなんて乗ろうと思ったんだろう、という疑問を、向こうもわたしに抱いているに違いない。いい年した女がひとりで遊園地なんてみじめだな、と。

イケおじでもキモおじでもない、ほどほどにたるんだ量産型おじを横目に見て、もう二十、いや十五若い男だったらな、と考える。吊り橋効果で仲良くなって、そのまま結婚して、このアクシデントを馴れ初めの鉄板ネタとして語り継ぎ「元が取れたね」と笑い合う。あるいはこの遊園地の運営会社の社長の息子か何かがお詫びにやってきて……いや、こんな寂れたしょっぱい遊園地の御曹司なんてたかが知れてる、むしろ負債ありそう、パス。まあ妄想ですけど。


 またくしゃみが出た。ついでに鼻水まで。ハンカチもティッシュもかばんの中、もう最悪。手や服で拭きたくないし、どうにか鼻腔の内部に留めようと懸命に吸引していると、隣から「大丈夫ですか」と声をかけられた。

「これ、よかったら」

 おじさんが、バーに阻まれつつズボンのポケットに手をやり、ポケットティッシュを差し出してくれた。

「あ、すいません」

 一枚引き抜いて鼻にあてがい、垂れかけていた鼻水を受け止める。セーフ。

「ありがとうございました」

 ティッシュを返そうとするとおじさんは「いいですよ、持っててください」と言う。

「夜は冷えますから」

「そうですね、昼間はあんなに暑かったのに」

「ほんとに」

「ねえ」


 当たり障りなくてつまらない、いかにも知らない人同士の会話だな、と思いながら相槌を打つ。

「それにしても災難ですね」

「いつになったら動くんでしょうね」

「もう、困りますよ」

 そりゃそうだ。この場の全員が困っている。おじさんは、何となく事情を聞いてほしそうに見えた。普段ならそんな誘い受けは気づかないふりで無視するところだけれど、今は手ぶらで拘束されている状態だし、一蓮托生みたいな連帯感もうっすらあったので「何か用事でもあるんですか」と尋ねた。

「娘が結婚相手を連れて来る日なんです」

「え、きょうですか?」

「はい。だから夜は家にいなきゃいけないのに、朝からそわそわしちゃって。昼過ぎ、ふらっとここに来たんですよ。娘が小さい頃はよく連れて来てたんで……ぶらぶらして、最後にジェットコースターでも乗って帰るか、と思ったらこんなことになってしまって。スマホがないと連絡もできないし、娘も妻もカンカンだろうなあ」


 カンカン、って久しぶりに聞いた気がする、と思いながらわたしは丸めたティッシュを握り込んだ。きょうの服にはポケットがない。万が一落下して死んだら、最後に手の中にあったのが鼻水付きティッシュなんて最悪だ。

「きっと、結婚に反対して逃げたんだと思われてるでしょうね」

「反対なんですか?」

「うーん……」

 おじさんはバーに顔を埋めるように俯いた。

「反対というわけではないですね、ただ、積極的に賛成できないというか……娘はまだ十九ですから」

「じゃあ何歳だったら賛成できるんですか?」

 わたしの問いに、おじさんは驚いて顔を上げる。

「十九だったら出し渋って、二十九だったらどうぞどうぞもらってやってください? 三十九だったらこれは奇跡だって泣いちゃいますか?」

「いや、具体的に考えたことは」

「父親として反対する権利はあると思いますけど、もし結婚が駄目になっても何年も経ってから手のひら返して『いい人いないのか』とか『自分の老後考えてるのか』なんて言わないでくださいね。さもないと……」

「どうなるんですか」

「焦ってマチアプに手を出したはいいけど、遊園地デートで男に撒かれるようなアラフォー独身女が爆誕します」

「えっ……」

「わたしですけど」

「撒かれたって、単にはぐれただけでは?」

「電話してもフルシカトですし、LINEは既読もつかなくなりました。探し回ってへとへとになって、やけくそでシングルライダーしまくって、乗り納めしようと思ったらこんなことになってますし。ていうかシングルライダーって。ネーミングが切なすぎんだよ」


 わたしの何がいけなかったんだろう。服もメイクも無難な「大人の休日」モードで、チケットは割り勘だったし、「ちょっとトイレ」と言って消えるまで、楽しそうに笑っていたのに。悪いところがあればその場で言ってほしかったし、それすらめんどくさかったんだとしても、「急にお腹壊した」とか、いくらでも嘘はつけたでしょう?

「何でだよ」

 ぼそっとつぶやいた声はふるえていて、自分で聞いて涙が出そうになってきた。

「こんなとこで身動き取れずに晒し者になるべきなのは、どう考えてもあいつのほうじゃん。バチ当てる相手間違ってない?」

「いいえ」

 おじさんが、急にきっぱり言った。え、何なのこいつ。使用済みティッシュを握った拳を思わずぐっと固めると、おじさんはすっと宙に人差し指を向ける。

「見ていてください。内緒ですけど、私にはちょっとだけ超能力があるんです」

「やば」

「あ、でもほんとにちょっとですよ」


 そういう「やば」じゃないって。おじさんの顔を直視するのは怖いから(目がイッちゃってたりしたら失禁しかねない)、従うつもりはなくとも空しか見るものがなかった。リフレインする謝罪のアナウンスは もはやお経と変わらない。馬鹿馬鹿しくて空しくて、涙も引っ込んだ。この心の隙間を埋めてくれるのは男なんかじゃない。酒と炭水化物と甘味だ。コンビニで爆買いするものリストを頭の中で列挙しているう ちに、灰色の雲の一部がぼんわり明るんでいるのに気づいた。

「ほら――もうすぐです」

 力強いおじさんの声に応えるように、雲がどんどん晴れていく。頭上に現れたのは、金貨のような満月だった。そうだ、きょうは中秋の名月だった。

「特等席ですよ、つまらない男に座らせるのはもったいないでしょう」

 わたしは返事もせず、頷きもせず、遮るものなく黄金の光を浴びていた。月が美しい、ただそれだけで泣けるなんて知らなかった。さっきの涙、取っておいてよかった。


 満月の描く軌道をずっと見ていたい、なんて思った途端「大変お待たせいたしました」というアナウンスに変わり、コースターの乗客たちからは不満そうな「えー」が漏れた。わかる、もうちょっとお月見したかったよね。コースの横にある点検用の階段を歩いて下りるよう指示され、安全バーのロックが解除される。

「大丈夫ですか、気をつけてくださいね」

 コースターを跨ぐ時、すこしふらついたわたしにおじさんが手を差し伸べた。

「あ、大丈夫です。お構いなく」

 依然ティッシュを握ったままだったので、その親切を受け取るのは憚られた。わたしは会釈とともに初めておじさんの顔を正面から見て、あれ、と思った。どこかで会ったことがあるような――いやそんなベタな。これも吊り橋効果? でも、どうも見覚えがある。会社、電車、飲み屋……思い出せない。

 もしや前世か? それとも異世界で? 覚えていないタイムリープのどこかの世界線で? ふわふわした気持ちで階段を下り、乗り場まで戻ると、「あの!」と興奮したようすでおじさんに話しかける人がいた。


「いつも見てます、お天気コーナー。握手してもらっていいですか?」

「ありがとうございます、どうぞどうぞ」

 ああ。ようやく思い出した。テレビで見てた、お天気おじさんじゃん。名前覚えてないけど。ファンとの触れ合いを終えたおじさんはわたしを振り返ってちょっと恥ずかしそうに笑った。

「……超能力は?」

「嘘です」

「え、でも、ほんとに雲が」

「勘ですよ。雲の厚みとか風の具合とかで。何十年も毎日毎日空を見上げてたらそれなりにわかるようにはなるもんです。雲が晴れなくても、わたしが恥をかくだけの話ですから。でも、よかったです」

「はい、ありがとうございました」

「何もしてませんよ」

 そうなんだけど、そんなことないと思った。下で待機していた偉い人(たぶん)に謝り倒され、ギャラリーからはなぜか拍手で出迎えられ、ようやく帰路に就いた。おじさんは歩きながら電話で必死に弁解していた。

 ――いや、ほんとだって、停まっちゃったコースターに乗ってたんだよ。今から急いで帰るから、待っててもらって……。

 笑いが込み上げてくる。やっぱり、手くらい握っとけばよかったな。さっきよりすこし遠い月はまだわたしの上にあって、シングルの帰り道につき合ってくれるみたいだった。


一穂ミチ(いちほ みち)

2007年『雪よ林檎の香のごとく』でデビュー。『イエスかノーか半分か』などの人気シリーズを手がける。『スモールワールズ』(本書)で第43回吉川英治文学新人賞を受賞し、2022年本屋大賞第3位となる。『光のとこにいてね』が第168回直木賞候補、2023年本屋大賞にノミネート。『パラソルでパラシュート』『うたかたモザイク』『砂嵐に星屑』など著作多数。

夫婦、親子、姉弟、先輩と後輩、知り合うはずのなかった他人――書下ろし掌編を加えた七つの「小さな世界」。生きてゆくなかで抱える小さな喜び、もどかしさ、苛立ち、諦めや希望を丹念に掬い集めて紡がれた物語が、読む者の心の揺らぎにも静かに寄り添ってゆく。吉川英治文学新人賞受賞、珠玉の短編集。

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