メフィスト賞作家が、森 博嗣さんXXシリーズを読んでみた① 潮谷 験

文字数 2,193文字

メフィスト賞作家が、森 博嗣さんXXシリーズを読んでみた①
『馬鹿と嘘の弓』 潮谷 験




 なんておそろしい物語なんだろう。
 本作『馬鹿と嘘の弓 Fool Lie Bow』を読み終えた後、頭の中に浮かんだのはそんな感想でした。
 多くの場合、推理小説は謎が解き明かされることで終わります。
 トリックが解明され、隠されていた陰謀が明らかになり、犯人の正体が白日の下に暴かれることで、読者は解決のカタルシスと安心感を味わいます。
 しかし、真相を知ること自体が震えを呼ぶ作品もあります。
 思いもよらないストーリーや結末に驚かされるということは、それまで読んでいてどうして気づかなかったのだろうという疑問を生み出します。さらに気づかなかった自分は、日頃どのように物事を見ているのかという、鏡を眺めるような作業につながっていきます。そして鏡像の自分が、それまで思い込んでいた自分とは違う姿だったとき、読者は恐怖を感じます。そういう意味合いで、本作は厳しい鏡のようなお話です。
 物語は、匿名の依頼を受けてとあるホームレスの青年を調査する探偵事務所の所員()()()とそのボス()(がわ)、そして調査対象の()(はら)(のり)(ゆき)の視点をなぞる形で進行します。
 推理小説に登場する探偵といえば血なまぐさいイメージがつきまとうものですが、加部谷たちの案件はそこまで危険を伴うものではなく、緩やかな調子でストーリーは進みます。加部谷も小川も、柚原を一方的に見張り続けるだけでなく、時折言葉を交わしたり、彼を食事に誘ったりと、調査員と標的というより、友人同士のような関係を築き始めます。そこからは、殺人や陰謀の香りは漂ってきません。牧歌的な雰囲気が続くため、今回のシリーズは日常系ミステリィなのだろうかと考えてしまったくらいです。
 しかし、少しずつ、もやもやしたものが漂ってきます。なにかがおかしい。物語の中では比較的平穏な日々が続いているのに、その平穏さに、ほんの少しバランスが崩れるだけで台無しになってしまいそうな危うさを感じるのです。そのため、ページをめくる指は緊張感から解放されません。
 そしてある局面を迎えたとき、バランスが崩壊します。そのシーンを読んだとき、どうしてそうなってしまうんだよ、と心底驚かされました。
 詳しい経緯についてはネタバレを避けるため説明を控えますが、その衝撃は、作中の登場人物を脅かすだけでなく、読者の私をも貫いてくるものでした。
 なぜならその局面を予測できなかったのは、自分の常識が邪魔をしていたからだとわかったからです。常識にとらわれていたのは登場人物達も同様なので、ある意味では、物語内のキャラクターたちも、外側から物語を眺めている私も、同じ理由で、そのような状況に陥る可能性を把握できなかったことになります。
 推理小説には、叙述トリックという手法が存在します。何通りもの解釈が可能な文章や表現を駆使することで、それと知られずに真相を示唆するやり方です。しかし本作では、厳密な意味での叙述トリックは使用されていません。読者は言い回しやダブルミーニングに引っかかったわけではなく、普通に考えたらそうはならないだろうという思い込みに目隠しされていたため、重要な心の動きや変化を見逃していたのです。
 そのことに気づいたとき、底冷えするようなおそろしさを感じました。自分が当たり前で確かなものだと思い込んでいる考え方や感受性のせいで展開を予想できなかった。ある意味では、自分自身に騙されていたことになるからです。
 つまりこの作品は、真相を明らかにすることで、読者自身の物事のとらえ方や、常識だと思っていた考えが本当に正しいものなのか、そもそも正しい物事のとらえ方なんて存在するものなのか、という疑念を問いかけてくる仕組みになっているのです。 

 森ミステリィの名で親しまれている森先生の作品群の中には、読み手の常識や先入観を強烈に揺さぶるシチュエーションが度々登場します。中でも本作『馬鹿と嘘の弓』は、そうした揺さぶりを真っ向から仕掛けてくる、嘘のない凶器みたいな傑作です。これから森ミステリィを読み始めるという方は、ぜひこの作品を手に取って、思い切り揺さぶられてください。


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潮谷 験(しおたに・けん)プロフィール
1978年、京都府生まれ。第63回メフィスト賞受賞。デビュー作『スイッチ 悪意の実験』が発売後即重版に。「王様のブランチ」(TBS)で特集されるなど話題になる。2作目の『時空犯』は、リアルサウンド認定2021年度国内ミステリーベスト10選定会議で第1位に選ばれた。2022年には『エンドロール』『あらゆる薔薇のために』を次々と刊行。


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