◆掌編【章の夜中飯】しらす茶漬け

文字数 3,014文字

秋川滝美さんの『湯けむり食事処ヒソップ亭2』文庫化を記念した掌編を、再びお届けいたします!


温泉旅館『猫柳苑』の中にある食事処『ヒソップ亭』をきりもりする店主・章。

くたくたになって帰宅したあとに彼が食べる、簡単!至福!の夜中飯とはーー?

 ガチャリ――深夜のアパートにドアを閉める音が響く。

 どれほどそっと閉めようとしても、重くて古い鉄製のドアは、無口になってはくれない。

アパートは各階二部屋ずつの木造二階建てで、章は二階を借りている。隣に住んでいる男は章同様ひとり暮らしで、おそらく七十代ぐらい。補聴器をつけているところを見ると耳が遠いようだが、年を取っている分眠りが浅い可能性もある。章の帰宅は遅いし、帰ってきたときに隣の部屋に灯りがついていたことはない。起こしては気の毒、と細心の注意を払っている章だった。


 狭い玄関で靴を脱ぎ、壁のスイッチを探る。すぐにパチリという軽い音がして、部屋の中が明るくなった。着替えを済ませて洗濯機のところに行き、持って帰った調理服と一緒に放り込む。

風呂は帰り際に『猫柳苑』で済ませてきた。深夜の入浴は近所迷惑でしかない。職場が温泉旅館の中にあり、客の利用が減る深夜なら自由に入れる、というのはありがたい話である。

 今日は珍しく千客万来、揚げ物の注文も多かったので調理服にも油の匂いが染み込んでいる。いつもより洗い時間を長めに設定し、洗濯機の予約ボタンを押す。章以外のアパートの住人はみな朝が早いようだから、洗い上がりを章が起きるころに設定しておけば、うるさがられることもない。南向きで居心地のいい、おまけに家賃も格安というアパートだけに、隣人と揉め事を起こして退去というのは避けたい事態だった。


 洗濯機をセットしたあと、なにか飲もうと冷蔵庫を開けた章は、にわかに空腹を覚えた。『ヒソップ亭』で賄いを食べたが、それは夜の営業が始まる前、午後五時過ぎのことである。日付が変わったあとまで腹が減らないとしたら、それはそれで問題だろう。

 ここでなにも食べずに布団に潜り込めれば、中年太りの心配はしなくて済むのだが、空きっ腹では寝るに寝られない。一日の大半を『ヒソップ亭』で過ごす章が、この部屋でちゃんとした食事を取ることはほとんどない。とはいえ、できるだけ贅肉にならなそうなものを少しだけ、時には軽く晩酌……というのは、一日しっかり働いたあとの章の楽しみだった。

――さて、なにがあったかな……お……

 冷蔵庫の奥から章が引っ張り出したのは、小さなプラスティックの容器。百円均一ショップでよく見かけるタイプで、中にはしらす干しが入っている。『ヒソップ亭』と取引のある魚屋の主からもらったものだった。


「酒のつまみにもいいし、飯のおかずにもなる。なによりカルシウムがたっぷりだ。草臥れた身体にはぴったりだ。大根でも下ろして一緒に食えば、腹にもいい」

 章の釣りの師匠でもある魚屋の主は、日頃から章を気に掛けてくれている。こうやって身体に良さそうなものをくれるのは言うまでもなく、おすすめの食べ方まで教えてくれる。時々毒舌家になるものの、まっすぐで気持ちのいい男だった。

 しらす干しをもらった日は、魚屋のおすすめどおり『しらす干し下ろし』を拵えて熱燗で一杯やった。今日ほど客が多くなく、それほど疲れていなかったから、大根を下ろす元気が残っていたのだ。


 だが今日はとてもじゃないがそんな気にはなれない。ただ皮を剥いて摺り下ろすという行為すら億劫。晩酌に時間を費やすよりさっさと寝たい、という感じだった。

 とにかく簡単に食べられるもの、ということで、ご飯をレンジで温める。

ご飯はまとめて炊いて冷凍している。ストックがなくなったので、朝からご飯を炊いたが、その際夜食用に一膳分だけ冷蔵庫に入れておいた。冷えてはいるが、凍っているわけではないのでレンジに入れる時間もずっと短くて済む。ほんのり温まればいいだけだから、なおさらである。明日の朝食べようと思っていたのだが、明日は明日の風が吹く、だった。

――OK。あとはしらす干しを乗せて醤油を……そうだ、海苔も入れよう。

 再び冷蔵庫を開け、味つけ海苔を取り出す。本当は焼き海苔が望ましいが、一袋五枚入りという量が一人前にぴったりなのでよしとした。

 ご飯が見えなくなるほどたっぷりしらす干しを乗せ、千切った味つけ海苔を散らす。その上から醤油を一回し、手を止めてちょっと考えて、もう三分の一周させた。疲れた身体に塩分は必要、と言い訳したところで、電気ポットがカチャリと音を立てた。あとは茶碗に湯を注げば、しらす干し茶漬けの完成だった。

――そりゃあ、ちゃんと出汁を作るか、せめて茶を淹れたほうがいいことぐらいわかってる。俺だって料理人の端くれだもんな。でも、ひとりのときぐらい手抜きしたっていいじゃないか。ああ、せめてこいつをぶちこんどくか……

 流しの上の棚から旨味調味料の容器を取り出す。赤いパンダのイラストに『おまえは天然素材だからセーフ』などと話しかけながら振りかけ、ポットの湯を盛大に注いだ。

――はい、優勝! それにしてもいいしらす干しだよな。細かくて塩加減もばっちり……お、『チリモン』発見!


 しらす干しはカタクチイワシの稚魚であるが、ときどきそれ以外のものが混ざっていることがある。ごく小さなタコやイカ、ほかの魚の稚魚、珍しいものではタツノオトシゴなどもあるそうだが、それらをチリメンモンスター、略して『チリモン』と呼ぶらしい。昔からしらす干しに混入しているほかの魚介類を探して楽しむ人はいたが、近頃ではワークショップまでおこなわれるようになり、一躍有名になった。

 かく言う章も、子どものころはモンスター見つけたさに冷蔵庫の中のしらす干しのパックを勝手に探っては、母親に叱られたものだ。大人になった今でも、しらすの中に小さなタコやイカがいないか探す癖はやめられない。近頃は品質管理がしっかりしてきて、モンスターを見つけることも減った。それだけに、出会ったときの喜びはひとしおで、それが珍しいものだった日には写真まで撮りたくなる。じっくり観察し、写真を撮って、そのあとぽいっと口に放り込むところまで含めて、楽しくてほっとするひとときだった。

 本日出てきたのは小さなタコで、『チリモン』としてはよくある類いだ。出会えたのは嬉しいけれど、わざわざ写真を撮るほどもない。ということであっさり口に放り込む。

 

 リスのように前歯を使って噛み、染み出てくる微かな塩気を味わう。そうこうしているうちに、茶碗の中ではご飯が湯をどんどん吸い込み、海苔も散り散りになっていく。慌てて掻き込んで終了。美味しいと楽しいを同時に味わえ、海の香りたっぷりの夜中飯だった。

※この掌編は、単行本刊行時の書下ろしです。

秋川滝美(あきかわ・たきみ)

2012年4月よりオンラインにて作品公開開始。同年10月、『いい加減な夜食』(アルファポリス)で出版デビュー。著書に『居酒屋ぼったくり』『きよのお江戸料理日記』『深夜カフェ・ポラリス』(以上、アルファポリス)、『放課後の厨房男子』『田沼スポーツ包丁部!』(ともに幻冬舎)、『向日葵のある台所』『おうちごはん修業中!』『ひとり旅日和』(以上、KADOKAWA)、『ソロキャン!』(朝日新聞出版)、『幸腹な百貨店』『マチのお気楽料理教室』(ともに講談社)などがある。

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