◆掌編 夜更けの甘い香り

文字数 2,393文字

『ひとり旅日和』や『ソロキャン!』など、人気シリーズを手掛ける秋川滝美さんの新刊、『湯けむり食事処 ヒソップ亭3』が文庫書下ろしで発売! しかもたちまち重版決定! 発売即重版を記念して、ここでしか読めない書下ろし掌編を特別掲載いたします。

1巻、2巻の書下ろし掌編では、仕事を終えて帰ってきた章が簡単で美味しい【夜中飯】を作っていましたが、今回は少し違うよう……? ほんのり、いい匂いもしてきそうな書きたてほかほかの物語、ぜひお召し上がりください。

「まだいたのか」


 勢いよく引き戸が開き、勝哉が入ってきた。


『まだ』と言われるほど遅くないはず、と壁に目をやった章はぎょっとした。時計の針は午前十二時二十五分、普段ならとっくに帰宅している時刻だった。


「仕込みが終わってないのか?」


 章の手元を覗き込んだ勝哉が、怪訝そうに訊ねた。いつもならとっくに片付けられ、水滴ひとつ残っていない調理台にホットプレートやクリーム色の生地が入ったボウル、フライ返しまで出ている。仕込みが終わっていないと思われるのも無理はないが、今、章が取り組んでいるのは仕込みではなかった。


「仕込みは終わったよ。これはどら焼きだ」

「どら焼き? なんで夜中にそんなものを……」

「いやあ……『ヒソップ亭』の主としての矜持というか……」


 そこで章は、怪訝そのものの勝哉に事情を説明し始めた。

『猫柳苑』の庭にカフェを建てることが決まり、その運営が『ヒソップ亭』に任された。


 安曇がパティシエ志望だったと知っている章は、彼女にカフェを委ねることにしたものの、次第に不安になってきた。努力を惜しまない安曇とそれを助ける桃子を見ているうちに、自分だけが置き去りにされた気分になってしまったのだ。

 章の心中を聞いた勝哉が、慰めるように言う。


「置き去りになんてされてねえよ。でもまあ、そうやって比べて、このままじゃ駄目だって頑張るのは悪いことじゃない」

「だろ? で、俺は俺で『ヒソップ亭』ならではのデザートを作ってみることにした」

「それがどら焼きか。カフェはもっぱら洋菓子だから、『ヒソップ亭』で和菓子を出せば差別化できるってことだな。あ、でも……」


 そこで勝哉は、章が話しながらホットプレートの鉄板に流し込んだ生地に目を止めた。


「けっこうでかいな」

「ごく普通のサイズだけど?」

「そうかもしれんが、飯のすぐあとに出すにはボリュームがありすぎねえか?」

「確かに……じゃあ、ミニサイズにするか」

「それがいいと思う。あ、待てよ……それならいっそベビーカステラにすれば?」

「ベビーカステラって、よく縁日の屋台で売ってるやつか? そんなのどうやって……」

「たこ焼き器で似たようなのが作れるだろ? あの丸いやつを二つか三つ皿にのせて出したらどうだ?」

「面白いな。電気たこ焼き器なら生地と餡を流し込んで放っておけるし、蓋があればふんわり仕上がる」「蓋付きのたこ焼き器なんてあるのか?」

「そりゃあるよ」

「でも、お高いんでしょう?」


 テレビの通販番組みたいな台詞を口にした勝哉に調子を合わせ、章は人差し指をゆらゆらさせながら答える。


「お値段なんと、驚きのゼロ円」

「ゼロ円!? ただってことか?」

「ああ。このホットプレート、たこ焼きプレートも付いてたんだ」


 今使っているホットプレートは、章が『ヒソップ亭』を開いたばかりのころに買ったものだ。コンパクトで置き場所にも困らないと考えたが、いざ使ってみると一度に料理できる量が少なすぎて使い物にならなかった。やむなくしまい込んでいたのだが、どら焼きの皮の試し焼きにちょうどいいと出してきたところだった。

 勝哉がほっとしたように言う。


「うっかり変なアイデアを出したせいで、おまえに散財させずに済んでよかった」

「グッドアイデアだよ。そうだ、どうせまん丸なんだから、団子みたいに串刺しにするか」

「ベビーカステラの串刺しか。皿にのせたら絵になるな……って旨そうじゃねえか!」


 勝哉の目は、ホットプレートの上で膨らみつつあるどら焼きの皮に釘付けだ。じっと見たあと、ボウルに残った生地の量を確かめつつ訊ねる。


「これ、いっぱい出来たりする?」

「もちろん。あとで事務所に持っていくよ」

「やったー! どら焼きは大好物なんだ。よろしくな!」

 

 上機嫌で去って行く幼馴染みを見送り、章はにやりと笑う。

 長い付き合いだからわかっている。どら焼きが大好物なのは、勝哉ではなく雛子だ。相変わらず嫁さんが大好きなんだな、と思う反面、ふたりの仲の良さがちょっと辛い。雛子に特別な思いを抱いたことはないが、最高の伴侶を得た幼馴染みが羨ましくなるのだ。

――でもまあ、諦めることはない。俺にだって、まだまだこれからいい出会いが……


 そこまで考えて、章は我に返る。


 いい出会いは次から次へと訪れている。桃子、『魚信』の主夫婦、安曇、宮村や高橋だってそうだ。こんなにいい人ばかりに囲まれて仕事も順調。いったいなんの不満がある、悔い改めろ! と自分を戒め、章はどら焼きの皮をひっくり返す。


 『ヒソップ亭』の中は甘く香ばしい匂いでいっぱいになっている。皮からわずかに上がる湯気の向こうに、出来立てのどら焼きに歓声を上げる雛子、妻の姿に目を細める勝哉が見えるようだった。



 

秋川滝美(あきかわ・たきみ)

2012年4月よりオンラインにて作品公開開始。同年10月、『いい加減な夜食』(アルファポリス)で出版デビュー。著書に『居酒屋ぼったくり』『きよのお江戸料理日記』『深夜カフェ・ポラリス』(以上、アルファポリス)、『放課後の厨房男子』『田沼スポーツ包丁部!』(ともに幻冬舎)、『向日葵のある台所』『おうちごはん修業中!』『ひとり旅日和』(以上、KADOKAWA)、『ソロキャン!』(朝日新聞出版)、『幸腹な百貨店』『マチのお気楽料理教室』(ともに講談社)などがある。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色