第1回 ウィングストップとトレイダー・ジョーズ 【前編】/三浦哲哉

文字数 7,482文字

 アメリカに着いて最初に食べたのは、LA空港内にあるセブン・イレブンの菓子パンとサンドイッチだった。


 成田から北京経由で十数時間のフライトを終えて到着したとき、さすがに家族全員疲れ切っていて、もうどこか外で食べる場所を探す気力は残っておらず、いちばん手早く買えるものをホテルに持ち帰り、とにかく空腹を満たして寝てしまうのが最良の選択であると思われた。そこにちょうどよくあのセブン・イレブンのネオンサインが見えたものだから、入って子どもの口に合いそうなものを見つくろって会計を済ませて出た。すでに夜8時を廻っていた。


 到着したホテルの一室で、ビニール袋から商品を取り出し、テーブルの上に並べて食べ始めたのだが、5歳になる娘は、自分に与えられた菓子パンを一口かじるなり、まずい、と言ってそれ以上食べようとしない。なにしろ無難さを規準に選んだつもりだったので、そんなはずは……と思って味見してみると、シナモンの匂いがきつい。そしてものすごく甘い。トーンと舌にダイレクトに来る甘みである。日本には存在しないたぐいの味だった。  


 ほかに買っていたサンドイッチのたぐいも勧めてみたが、すべてだめだった。もともと娘は、この年齢並みにと言うべきか、けっこう多くの好き嫌いがあって、とくに新しい味や香りにとても警戒心が強い。私がチョイスしたものはどれも日本の食品とは風味がちがったものだから、舌が受けつけなかったようだ。結局、食べられたのはバナナだけ。たいして空腹が満たされないままの子どもたちを尻目に就寝した。不安が募った。     


 翌日からはアパート探しである。私は在外研修制度を利用して、1年間、映画研究をするために、妻、娘、2歳になる息子とLAに来たのだった。所属先はUSC(南カリフォルニア大学)の映画芸術学部である。住居に関しては、インターネットなどを使って日本で決めてから来る、という場合もあるようだが、自分たちは直接見てから決めることにしていた。というのも、少し調べ始めたら家賃の相場が想像よりはるかに高いことがわかり、簡単に決めることができなかったからだ。途中から日系の不動産業者に物件探しを依頼したのだが、最初にこちらが伝えた要望は、月2000ドル以内というもの(これでもだいぶ頑張っているつもりだった)。だが、担当してくださることになったKさんという方が一押しする物件は、なんと3250ドル。受け入れられるわけがない。USCまでの移動時間、安全性に加えて、娘を通わせることになる公立幼稚園の「学区」が重要なファクターで、それらを考え合わせると、どうしてもこの家賃になってしまうのだという。  


 Kさんの車に乗って、安い物件から順番に、3日間ほどアパートめぐりをしたのだが、「掘り出しもの」が見つかるかも、という甘い期待はみるみるうちに潰えてゆき、結局は最初の一押し物件に決まった。一押しとは言えど、特段広くもゴージャスでもない庶民的な部屋である。もしこれが一人暮らしだったならば、汚く狭くとも、少しは節約できるところをチョイスしていただろうが、家族と一緒だとそれはありえない。貯金を切り崩すしかない。  


 LAの家賃はここ5年間ほどで急激に上がったのだそうだ。かつてならば同じレベルの物件が2000ドル前後で借りられたかもしれないとKさんは言う。だが、いまこの土地には、いわゆるIT企業の高給取り、それから、おなじくIT系で起業して大金を手にした者たちがつぎつぎに流入し、とてつもなく家賃が高騰している。Kさんの車からは、ホームレスたちの姿がとてもよく目についた。驚いたのは、こちらでは家賃までも、まるで株価か何かのように、日々変わりつづけているということだった。一度入ってしまえばもちろん支払う金額は一定するのだが、契約時の家賃が、需要供給のバランスに応じて高くなったり安くなったりする。  


 住居はこうして決まったのだが、しかし、入居まではさらに1週間ほど待たなければならず、そのあいだはホテル住まいである。そしてこの期間は私たち家族にとってなかなかに過酷なものになった。食べものに大いに困ったからである。


 好き嫌いの多い、小さな子どもとともに、外食できる適当な場所を探すのは、この土地に慣れる前の私たちにはとてもむずかしかった。たとえばハンバーガー・ショップに入ってみても、ピクルスが気に入らないからと言って、娘は一口でやめてしまう。ピクルスを取り出しても、ピクルスが触れた部分にあの甘苦い味が残っているからやはり食べられないのだという。食べ慣れた日本料理を出す店が見つかれば入ることもあったが、ご飯とみそ汁はOKだとして、主菜の味付けが濃過ぎて気に入らない、などということもあった。中国料理店の麵料理と餃子はたいがい大丈夫なので、たまたま近くにあればそれでしのぐことができたのだが、それ以外は、本当にあらゆるものを警戒し、少しでも気に入らない要素があると、もう手を付けてくれない。サラダも、ほとんどの種類のパンもだめ、チーズは大嫌いで、豆のスープなど完璧に無理、辛いものはまったく受け付けない。大人が好む、複雑な味の構成の料理はほぼNGである。  


 そんななか、娘が最もよろこんで食べたのがフライド・ポテトだった。これにケチャップをつけて、ぱくぱくと口に入れてゆく。栄養的観点から望ましくないのはもちろんわかっているのだが、食べないよりははるかにましだ。こうして、ホテルからホテルへと転々としているあいだ、娘は、麵と餃子とフライド・ポテトを交替で食べつづけることになった。  


 2歳の息子のほうはまだ物心がついたばかりなので、なんとか騙して少しは体にいいものを食べさせていたが、しかし、好き嫌いはそれなりに多く、口に入れられるものは似たりよったりだった。救いだったのは、小さく切り分けられた果物がプラスチック・パックに詰められて売店に並んでいることが多かったから、それで栄養補給できたことだろうか。だが、値段は高く、たとえばメロンが八切れぐらい入って5ドルとか6ドルほどもした。  


 こういう食事の結果どうなったかというと、子どもたちの体調が悪くなっていった。時差ボケと重なっていたこともあったのだが、娘と息子はすぐに車酔いしては嘔吐した。途中からなるべく電車で移動するようにしていたのだが、とはいえ、LAは車がないと非常に不便な街なので、Uber(専用アプリを使った自動配車システム)に頼らざるをえないときがどうしてもある。そのときは、私と妻とで、戦々恐々としながら、子どものかたわらでビニール袋をスタンバイして待機することになる。最後はこちらも嘔吐物を受け止めるのに慣れてきて、怪訝な顔をするUberの運転手さんに、「こぼれていないから大丈夫」と説明したりしたものだった。  


 この時期は食事の質が限界ぎりぎりまで下がっていたのだと思う。まだ情報も少なく、子どもたちはだいたい疲れて不機嫌で、ゆっくり店を探すことなどできない。日本とちがい、飲食店が密集しているストリートはごく限られている。めぼしいところへ行くにはいちいち車を使わなければならないのだが、その車に、子どもは乗りたがらない。それでまた場当たり的に、質の良くないものを食べ、体調が悪化し、という悪循環に陥ることになった。  


 この時期に入ったなかでとくに忘れられないのが、ウィングストップ(Wingstop)という、フライド・チキンを出すチェーン店である。NBAのLAレイカーズ公式スポンサーということらしく、チームカラーの紫が街角でひときわ目立っていた。入ってみると、この店では、フライド・チキンにいろいろなフレイバーの粉や特製ソースをまぶして食べさせる仕組みであることがわかった。フライド・ポテトに粉をまぶすというものなら日本にもあって知っていたが、そのチキン版ということか。子どもでも食べられそうという理由から、辛くないフレイバーのものを何種類かチョイス。テイクアウト用の紙袋に入れてもらったそのチキンを、公園のベンチでさっそく一口頰張ってみて愕然とした。子どもはおろか、大人の私たちにとってもかなりハードルの高い味だったのだ。  


 とくに強烈だったのが「ハワイアン」の透明なソースをまぶしたチキンで、なんとも人工的な、ツンときつい甘酸っぱさなのだ。ハワイの郷土料理の、柑橘果汁でマリネされた鶏肉料理か何かの風味が、このソースで再現されているということなのだろうか。「ハッピーターン」という、甘酸っぱい粉をまぶした日本のスナック菓子があるが、「ハッピーターン」のその粉を湯で溶いてからめたフライド・チキンと言えば、だいたいこれに近い味を想像していただけるだろうか。このチキンがたんまり入った紙袋をもてあまし、私たちはしばし呆然自失するほかなかった。ダウンタウンの外れにある科学博物館に、スペースシャトル・エンデバー号を見に行く前の、真昼の公園でのことだった。


⇒「LA・フード・ダイアリー 第1回 ウィングストップとトレイダー・ジョーズ 【後編】へ続く


【三浦哲哉(みうら・てつや)】

映画批評、研究。表象文化論。1976年生まれ。『サスペンス映画史』『映画とは何か フランス映画思想史』『『ハッピーアワー』論』『食べたくなる本』など。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色