『匿名』刊行記念エッセイ

文字数 1,469文字

 体重

 二〇キロくらい、体重が落ちたように思う。
 小説を書こうと決めたのはいまから約二年前。YouTuber「ぶんけい」として、自身の半生を綴ったエッセイを出版したころだった。エッセイのために過去の自分を思い返していたことで、自分は「物語」に恋い焦がれているのだとはじめて気付いた。映画・漫画・小説・演劇・その他さまざまなエンタメの、とくに物語の部分に翻弄されているのだと知った。
 だから、それに向き合ってみたいと思った。はじめて挑戦する分野だから「さぞかし時間がかかるだろう」と予期していたものの、想定の倍の月日があっという間に流れ、YouTuberとしてコツコツ積み立てていた貯金はみるみる減っていった。冗談抜きに、びっくりするぐらい減った。生活リズムが見事に崩れて、口元にニキビを従えながら、それでも必死に書いた。
 体重が落ちたと感じる原因は、生活のせいではない。これまでに経験してきた数々の出来事や、日常生活のなかで感じた疑問、憤り、悲しみ、それらをふんだんに物語へと注ぎ込んだからだと私は思う。三〇年弱かけて育んできた己の身体を、すこしずつ削ぎ落とすような、そんな感覚だった。飲み会で自分の失敗談をおもしろ可笑しく話すみたいな、あの自虐的な行為に似ていた。いま思えばYouTuberとしての活動も、そんな要素があったかもしれない。誰かに楽しんでもらうために、自分の身を削る。簡単に言えばマグロの解体ショーみたいなものだと思ったけれど、マグロは自ら解体しているわけではないからこの比喩は撤回する。むしろ、マグロのほうが立派だとすら思う。
 マグロほどではないけれど、執筆時、私もかなり身を削った。というのも、どうやら私は「無」から創作物を生み出すのが苦手らしく、実際に体験したことや感じたことからしか物語を書けなかった。たとえば、映画館に響き渡るポップコーンの咀嚼音や、歩道を走る自転車にベルを鳴らされたとき、そういうシチュエーションに私は憤りを感じる。静かにポップコーン食べてくれよ……てか、なんでわざわざ音が出る食べ物を売るんだよ……歩行者優先なんだから、あなたが停まりなさいよ……そもそも道交法違反ですよ……といった具合に、器が小さすぎてここに書くことすら恥ずかしい感情が、常日頃から私の脳を占拠している。何を指してかはわからないが「結婚できなそうだね」とよく知人に言われる。
 できないんじゃなくて、しないんです!
 こういうところもまた、「結婚できなそう」らしい。
 そうやって脳に溜まったあらゆる感情の断片を切り出して、つなぎ目がわからないくらい丁寧に編んだものが、私にとっての小説なのだとわかった。なんて大変な世界に足を踏み入れてしまったのだろう。でも、そんな畏怖と同時に、高揚している自分がいる。
 初稿を書き終え、担当編集さんからフィードバックをもらい、何度も書き直してようやく完成した『匿名』の、たった二〇〇キロバイトのデータを見てちょっとだけ泣いた。このときウミガメの気持ちがはじめてわかった。書き上げた自分へのご褒美に焼肉を食べ、ゆっくり湯船に浸かり、お気に入りのパジャマに着替えて、いつもより丁寧に歯を磨く。それから就寝前のルーティンとして体重計に足をのせると、しっかり三キロ、増えていた。



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