②「ディープな鎌倉」/高田崇史

文字数 1,654文字

幕末の日本にやって来たイギリスの写真家、フェリーチェ・ベアトが残した無数の写真の中に、鎌倉・鶴岡八幡宮一の鳥居を撮った一枚があります。

中央に延びる段葛の先には二の鳥居が、更にその先には鶴岡八幡宮が小さく映っているのですが、段葛の左右に広がるのは一面の荒れ野原で、二の鳥居近くになってようやく民家らしき物が散見されるという荒涼たる景色です。

▲二の鳥居

この光景は、鎌倉時代ではありません。幕末から明治初期です。

とすれば、それより五百年も前に頼朝がこの地に乗り込んできた時、彼の目に映った情景は一体どんなものだったか、容易に想像できるでしょう。

事実、鎌倉に入った時に頼朝は、高祖父・頼義が建立した「元八幡宮」にたどりつくことが叶いませんでした。

▲元鶴岡八幡宮

当時は、若宮大路でさえ、それほど酷い泥湿地帯だったのです。

おそらく、家康が初めて江戸に入った時と同じような――思わず頭を抱えて呆然としてしまう、そんな光景が頼朝の眼前に広がっていたのではないでしょうか。

では、どうして頼朝はそんな地にやって来たのか。

まさか「三方が山、一方が海という地の利――云々」という教科書に載っているような理由のわけもありません。現実的に、馬が歩ける道すらなかったのですから……。

しかし、ここから頼朝や北条氏を中心とする「鎌倉」が始まりました。

その頼朝が平氏に捕らわれてしまった時の、池禅尼による命乞いも、また非常に不可解です。

亡くなった自分の子と顔が似ていようはずもない頼朝のために、禅尼が絶食――ハンガー・ストライキまで行い、自らの命を懸けて助けようとした、その真の理由は?

おかげで頼朝や義経たちの命が助かり「源平合戦」が始まったわけですが、物理的・時間的に見て不可能な、一の谷・鵯越の坂落としが、まるで義経によって実際に行われたかのように書かれている、その政治的な意図は?

義経の怨霊が出現したという伝説も残っているのに、きちんと祀られていない、その理由は?

その義経たちとの最終決戦の場、壇ノ浦で二位尼・時子は、なぜ自身や孫の安徳天皇と共に「三種の神器」を海中深く沈めたのか?

そもそも、安徳天皇が入水する理由など全くなく、むしろ鎌倉からは、天皇を神器と共にお救い申せという命令が出され、時子はそれを知っていたにもかかわらず、どうしてそんな行動に出たのか?

余りに理屈が通りません。文字通り、謎だらけです。

これらの謎に関わる事実を突き合わせていくと、全ては「たった一つの原因」に収斂されて行くのです。

解けてみれば実に単純な話でした。

むしろ非常に論理的で、最初から最後まで首尾一貫した綺麗な意図がそこに働いていることが判明しました。

後の世の北条氏の隆盛は、池禅尼による頼朝の命乞いから始まっていたといっても過言ではないでしょう。

それは一体どういうことなのか――ということが、この本のテーマです。

また、本書ではとても書ききれませんでしたが、

境遇に不満もなかったはずの源頼政が、なぜ七十七歳(今で言うと九十歳越えでしょうか)という高齢で挙兵したのか?

松尾芭蕉が、自分の遺骸は義仲の隣に葬ってくれと言い残したほどに憧れた英雄・木曾義仲がこれほどまでに貶められ、征東(征夷)大将軍でもあったはずなのに、その事実までもが抹殺されてしまっている理由は?

という二つの大きな謎に関しては、書を改めて『QED 源氏の神霊』(講談社ノベルス)に書かせていただきました。

ご興味がおありの方は、こちらも併せてお読みいただければ幸いです。


この著作を手に取っていただいた皆さまには、主人公たちと一緒に一般に考えられているより遥かにディープな「鎌倉」を、じっくり堪能していただければと願っています。


高田 崇史(たかだ・たかふみ)

東京都生まれ。明治薬科大学卒業。『QED 百人一首の呪』で第9回メフィスト賞を受賞し、デビュー。歴史ミステリを精力的に書きつづけている。近著は『古事記異聞 鬼統べる国、大和出雲』『QED 源氏の神霊』『采女の怨霊 小余綾俊輔の不在講義』など

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色