戦百景 山崎の戦い完全ガイド④

文字数 1,799文字

全国の合戦好きの皆様、歴史をもっと深く知りたい皆様に贈る、日本の歴史に残る有名な合戦を活写&深堀りして大好評の矢野隆さんの「戦百景」シリーズ、第6弾が刊行です

第6弾は、明智光秀と羽柴秀吉の天下を分けた一戦を描いた『戦百景 山崎の戦い』


「戦百景」シリーズ既刊

第1弾『戦百景 長篠の戦い』は「細谷正充賞」を受賞!

第2弾『戦百景 桶狭間の戦い』

第3弾『関ヶ原の戦い』

第4弾『川中島の戦い』

第5弾『本能寺の変』


今回は、山崎の戦いを時系列に沿って深堀りします!

コラム《もし「中国大返し」がなかったら》



 山崎の戦いは、本能寺の変からわずか9日ほどで羽柴秀吉が備中国(現・岡山県)から摂津国(現・大阪府)に引き返した、いわゆる「中国大返し」によって起こった合戦だ。


 ほかの宿老たちと比べるなら、筆頭家老の柴田勝家はこのときやっと越前国(現・福井県)と近江国(現・滋賀県)の境の柳ヶ瀬峠に差し掛かったところだったので、そのまま清州に向かっている。


 では、勝家と同じくらいのスピード感で秀吉が還って来ていたらどうなっただろう。光秀には充分な時が与えられることになり、朝廷工作を推し進めることができたはずだ。うまくすれば「綸旨」が発せられ、信長の後継者としてのお墨付きを得られたかもしれない。すると、光秀の寄騎となっていた畿内の武将たちの多くが光秀に与したにちがいない。山崎の戦いのキーマンだった細川幽斎・忠興父子もその陣に駆け付けたのではなかろうか。


 こうなると光秀と秀吉の決戦は、摂津と播磨の境あたりで行われたのかもしれないし、そもそも決戦の相手が秀吉ではなく勝家に替わっていたかもしれない。


「天王山」という成句がほかの言葉になっただろうことを考えると、歴史のロマンを感じずにはいられない。

「山崎の戦い」を時系列で追う!

「中国大返し」は現岡山市から現京都府までの約230kmをわずか1週間ほどで移動した史上屈指の強行軍。あまりのスピードに、光秀は何も手が打てなかった。

●6/2 本能寺の変、勃発。信長が横死

●6/3 備中高松城攻めの秀吉、変を知る

●6/4 秀吉、対峙する毛利軍と和睦

●6/5 羽柴軍、備中高松城から撤兵開始

●6/7 羽柴軍、姫路城に入る

●6/11 羽柴軍、尼崎に到着

●6/12 明智軍羽柴軍、山崎の地で対陣

●6/13夕 天王山付近で戦端が開かれる

●6/13日没後 明智軍、壊滅

●6/13夜 光秀ぐるにて落命

▲姫路城

織田信長を斃した明智光秀と、中国大返しを果たした羽柴秀吉。

天下を賭けた二人の決戦の真相に、シリーズ史上最大の深掘りで迫る!


1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長が横死すると、収まりかけていた天下の趨勢が大きく動き始める。備中高松城で毛利方の城主・清水宗治を攻めていた羽柴秀吉は、軍師・黒田官兵衛の助言に従い毛利家と和睦。電光石火の早業で畿内に取って返した。世に言う「中国大返し」。他方、信長を斃した明智光秀は、頼みとしていた縁戚の細川藤孝・忠興父子や寄騎だった中川清秀、高山右近、筒井順慶らを味方に引き入れられず、劣勢のまま秀吉軍を迎え撃つことになった。信長三男・三七信孝と丹羽秀長を加えて4万に膨れ上がった秀吉軍に対し、武田元明、京極高次などわずかな加勢にとどまった明智軍は1万余。そして天下人を決めるであろう運命の6月13日、京への入り口にあたり隘路でもある山城国・山崎を決戦の地に選んだ光秀は、天王山を占拠していた秀吉軍とついに激突を……。

矢野隆(やの・たかし)

1976年福岡県生まれ。2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞。その後、『無頼無頼!』『兇』『勝負!』など、ニューウェーブ時代小説と呼ばれる作品を手がける。また、『戦国BASARA3 伊達政宗の章』『NARUTO-ナルト‐シカマル新伝』といった、ゲームやコミックのノベライズ作品も執筆して注目される。また2021年から始まった「戦百景」シリーズ(本書を含む)は、第4回細谷正充賞を受賞するなど高い評価を得ている。他の著書に『清正を破った男』『生きる故』『我が名は秀秋』『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』『大ぼら吹きの城』『朝嵐』『至誠の残滓』『源匣記 獲生伝』『とんちき 耕書堂青春譜』『さみだれ』『戦神の裔』『琉球建国記』などがある。

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