『死んだ山田と教室』試し読み

文字数 49,712文字

 (やま)()は二年E組の中心でした、と通夜に参列した生徒は口々に語った。

 山田、まじでおもしろくて、山田がいるだけで、クラス全体がすげぇ明るくなって、山田いなくなってまじ信じらんないっつーか、明日から二学期はじまるんすけど、どうやって過ごせばいいかわかんねぇっつーかめちゃめちゃ不安っつーか──。

 僕、一年生のとき、学校がつまらなかったんです。部活もすぐやめちゃったし、仲いい友だちもいなくて。でも、二年生になって、山田くんと一緒のクラスになってからは、すごく楽しくて。山田くん、誰とでも、楽しそうに話すんです。本当に、誰とでも。目立つ人って、そうじゃない人のことを、ちょっと下に見てる雰囲気あるじゃないですか? 実際なくても、そう思わせる威圧感みたいなものが、どうしてもあるというか、(にじ)()てしまうというか。でも、山田くんはそれがなくて──。

 ほら山田、ラグビー部、去年()()して辞めちゃったっしょ。両手の、手首の骨、折って。そんで、歌上手(うま)いからって、うち軽音とかないし、校外でバンドはじめちゃったりして。だから多分、運動部のノリも文化部のノリも帰宅部のノリも、ぜんぶ兼ね備えて無敵なわけ山田は──。

 先生のモノマネ、全員分できるんですよ。E組で授業持ってる先生、全員。やばくないですか? しかもクオリティもめちゃくちゃ高くて。俺、山田のモノマネで何回腹ちぎれそうになったかわかんないですよ──。

 山田のおかげで、男子校まじ最高だなって──。

 山田くん、髪、金色に染めてて、最初すごい怖い人かなって思ったんですけど、全然そんなことなくて、すごい優しくて。また山田くんと話したいです。もっともっと山田くんと話したかったです──。

 幸せ。でした。一緒の高校来れて。あいつと。嫉妬も。中学からなんで。あって。面白いんで。ずっと面白いんで。あいつ。本当は。…………。あぁ。いや。死にたい、ですね。いないなら。山田が。別にもう。……すみません。ぐちゃぐちゃで。まだ──。

 飲酒運転、らしいじゃないすか。なんで山田だったんすかね。なんで、よりによって山田が──。

 まじで明日から山田いないの? え? まじで? 無理なんだけど──。

 山田、どうにかして生き返らないですかね?


 第一話 死んだ山田と席替え


 山田が死んで、三日が()った。教室は今も静まり返っている。

 (けい)(えい)大学附属()()高等学校(通称、()()(こう))には毎朝と下校時のホームルームがなく、一週間の連絡事項は(すべ)て金曜四限のロングホームルームに集約される。

 山田の死んだ八月二十九日は日曜、通夜のあった八月三十一日は火曜、二学期最初の登校日である九月一日は水曜であったため、本来の時間割であれば、本日ホームルームは実施されない。

 一限の数学Bの授業を終えた(なん)()も、二限の世界史の授業を終えた(とも)(なが)も、教員室へ帰って来るや否や、「まともに授業をできる気がしない」と吐露した。

「山田が亡くなり、クラスにぽっかり穴が空いてしまったようです」

「みんな上の空というか」

「ええ、まさに」

「夏休み前までは、二年E組がいちばん(にぎ)やかなクラスだったんですけどね」

()い雰囲気でしたよね。賑やかだけど、(ほう)(らつ)ではない、というか」

「今朝の授業は、昨夜のお通夜が続いているような雰囲気でした」

「ノートをとる手も止まりがちでしたね。みんな、」

「次、三限、」二年E組の担任である(はな)(うら)が、難波と友永の会話に割って入る。「国語表現でしたっけ?」

「えーっと、」机上に目を()る友永の後ろから、

「そうですよ」教材を(わき)(かか)えた(くわ)()が答える。「これから向かうところです」

「ホームルームと交換できますか?」桑名の(こと)()(じり)(かぶ)せる勢いで(たず)ねる。

「え?」ちらりと辺りを見回し「あ、はい、別に、」花浦に目を戻す。「大丈夫ですけど」

「自分三限空いてるんですが、たぶん早めにフォローしたほうが良いと思うんで。ちょっと行ってきます。コマ数はどこかで調整しましょう」

 教員室を出る。体育館履きの袋を振り回して走る生徒らとすれ違いながら、花浦は二年ホームルーム棟へ向かう。階段を四階までのぼり、二年E組の扉を開ける。

 本当だ。

 静かだ。

 いつもなら、十人を超える生徒が席を立ち、仲の良い者同士で談笑しているが、今は大半の生徒が席に着いている。

 ちょうど振り返った(べっ)()と目が合う。(まゆ)が動き、不思議そうな顔をする。

 穂木高の教室は、後ろにしかドアがない。階段を上がった両脇にそれぞれE組、F組の引き戸があり、教員は生徒たちの間を抜けて黒板へ向かう必要がある。

 教卓の前に立つ。

 予定とは違う教師が入ってきたわけで、普段ならもっとざわついてもいいものだが、反応が少ない。下を向いたまま、花浦に気づいていない生徒も多い。

 教室の空気が重く、(にぶ)い。

「えー、そうね、」声を出すと、何人かの生徒が顔を上げる。「要はあれだ、」教室を和ますための笑みを作り「あんま落ち込みすぎんなってことだ」

 第一声それじゃねぇだろ、と(まつ)(ぐち)(しら)(いわ)をはじめ多くの生徒が感じた。

「俺ぐらい生きてっと、まぁ要は、身近な人間が死ぬなんつーことは、フツーにあるわけだ」

 だからそういうことじゃねぇんだって、死んだのはじゃなくて、なんだって、と()()()は思う。山田がいない教室で、今まで通りはしゃげるわけねぇだろ。

「俺いま三十二なんだけど、友だちが死ぬことって、別になくはないんだよな。大学のゼミの同期が、卒業して一年くらいしてから通り魔に刺されて死んだし、なんなら元カノもどっかで自殺したらしいし。今お前らは、大事なクラスメイトが死んで、なんか笑ったり騒いだりしたらダメって感じてるかもしんないけど、」

「あの」(くり)()が手を挙げる。

「どうした?」

「桑名先生は」国語表現のノートを、花浦に見えるよう掲げ持ち「どちらに」

「あぁそうだ、言ってなかった。三限は桑名先生に頼んで、(きゅう)(きょ)ホームルームと入れ替えてもらいました」

「それはその、夏休み明けだから」

「ではなく、お前らが元気なさすぎるからだな」花浦は苦笑し「難波先生も友永先生も、まるで昨日の通夜が続いてるみたいだって。どうにか元気づけてくれっつーことで、急遽来たってわけ。いや、気持ちは分かるんだよ。俺だって悲しいさ。山田はこのクラスに欠かせないやつだった。勉強熱心だし、誰とでも仲いいしな。あいつのおかげで、クラスの雰囲気がぐっと良くなってたのは間違いない。だからこそ、お前らには前を向いて、今まで通り()()(あい)(あい)と過ごしてほしいわけ。山田だって、自分が死んだせいで二年E組がどんより沈んでたらきっと喜ばないと思うぞ?」

 いや自分が死んで三日しか経ってないのにみんな和気藹々としてたら絶対嫌だろ、人の気持ちを考えろ、と(かわ)(かみ)は思う。

 斜め前、山田の席の空白を見つめる。

 ふざけんなよ。なんで死ぬんだよ。車に轢かれたとか()鹿()じゃねぇの。次カラオケで九十六点出すとか言ってただろ。出せよ。出さずに死ぬなよ。馬鹿だろまじで。

「もし山田が、天国から今のお前らを見てたらどう思う?」どうも思わねぇよ。死んで初日の教室なんてどこもこんなもんだろ。「俺はお前らに、山田に誇れる生き方をしてほしい」だから初日にする話じゃねぇだろ。そういう話は時間経ってからしろよ。今日くらいフツーに落ち込ませろよ。「俺だって、天国の元カノに誇れる生き方しようと思いながら、今日まで生きてきたわけだよ」元カノの話はまじで知らねぇよ。どっかで自殺したらしい、ってなんだよ。そんな死んだかどうか(あい)(まい)な元カノと山田を一緒にすんなよ。

「まぁ要はあれだ、」花浦の(くち)(ぐせ)の『要は』を()(ちょう)した山田のモノマネを、複数の生徒が思い出す。「席替えでもするか」

 席替え? このタイミングで? と(たけ)(うち)は思う。

「だってほら、お前ら、意識しちゃうだろ」

 花浦の視線の先には、教室の真ん中にぽっかりと空いた、山田の席がある。

「席このままだと、いないの意識して、そのたび(へこ)むだろ」目の前の()()に「ルーズリーフとか、あれば一枚貸してくんない?」

「えっ」

「ごめん俺、手ぶらで来ちゃったからさ。要はくじ作りたいんだよ、くじ。1から35まで書いた紙を作りたいわけ」

「あの、ルーズリーフ、持ってないっす。ノートしか」

「そっか。まぁわざわざノートちぎってもらうのも悪いしな」教室全体を(なが)め「誰か持ってない? 要らない紙とか」

 誰もが視線を落とし、声を発しない。

「おーい」


 数秒が経ち、十数秒が経つ。


〈いや、いくら男子校の席替えだからって盛り下がりすぎだろ〉


 声がする。声? 上から? ()(へい)は伏せていた顔を上げ、声の出どころを探る。


〈男子校の席替えがこの世で最も意味のないものだとは言え、誰か返事してあげなきゃ花浦先生かわいそうだろ〉


 山田の声? (うそ)? どこから? 皆、慌てた小動物のように首を動かし、視線を振り回す。黒板の上、四角い、スピーカー?


〈お通夜じゃないんだからさ。みんなもっと先生に反応してあげようぜ〉


「山田?」花浦が上半身をひねり、頭上を振り仰ぐ。「お前、放送室いんのか?」

〈えっ?〉

「誰かのいたずらか? これ、山田の声だよな? 山田の声のモノマネして、録音して流してんのか? ん? でも席替えするなんて、俺がついさっき思いついたわけで、誰にも言ってなかったもんな」

〈モノマネとかじゃなく、フツーに山田っすけど……。というかぜんぜん状況読めないんすけど〉

「山田? 山田なのか?」

〈つーか声しか聞こえねぇ。どうなってんすか? 俺、今〉

「山田、お前、スピーカーになっちゃったのか?」

〈いやスピーカーになるってなんすか。スピーカーになるわけないじゃないすか〉

 教室が固まる。

〈え? まじでこれどういう状況? 俺いま、教室のどっかに閉じ込められてんすか? なんかさっきからずっと真っ暗で、花浦先生の声しか聞こえないんすけど〉

 全員が(あっ)()にとられ、山田の声がする箱を見上げる。

〈え、つか、やば、手足の感覚とかもない。いや、これまじでどういう状況なんすか? 目隠しとかされてるとして、その感覚が一切ないんすけど。えっ、怖っ。身体(からだ)が、どっか消えたみたい〉

「山田くん?」()()(でら)が声を掛ける。「山田くんなの?」

〈おっ、違う声聞こえた。これ、誰だ? えー、誰だ誰だ、()(だち)? か(とり)()?〉

「小野寺だけど」

〈あーっ! 小野寺か~。いやぁ、小野寺かなー、とも思ったんだけどさ、声だけだと、やっぱむずいわ。ごめんな。つか声変わりした? 前もっと声高くなかった?〉

「……山田くん、生き返ったの?」

〈生き返った?〉

 教室から、音が消える。

〈生き返ったってなに?〉


〈待って。いったん待って〉


〈……生き返った?〉


〈待てよ。俺昨日、何してたっけ?〉

〈あれ?〉

〈猫、助けたよな?〉

〈あの、歩道橋のそばの、パン屋の前のとこで〉

〈で、そうだ、〉

〈なんか、でっかい赤い車が突っ込んできて、〉

〈ナンバープレートがたしか、俺の誕生日で、〉

〈それから、〉


〈それから?〉


〈それから、俺、〉

「死んだよ」花浦が口を開き、和久津や松口が「ちょっ、」と止めようとするが「三日前、飲酒運転の車に轢かれて、死んだ」と続ける。

〈死んだ?〉

「あぁ」

〈……それ、俺の話?〉

「そうだよ、山田、お前の話だよ」

〈いやいやいやいや、おかしい。じゃあ俺、なんでこうやってみんなと話せてんの?〉

「それは俺が知りたい」花浦がスピーカーを指差しつつ、教室を振り返り「なぁ、これ、どうなってんの? 分かるやついる?」

 返事はない。教室の誰もが、あまりの事態に(こお)りついている。

「夢? 俺がおかしい?」

 花浦が前髪をかき上げ、自らデコピンをする。「いてっ」髪を軽く整え「……まぁでも、痛い夢もあるっちゃあるか」

〈俺こないだ夢でサメにちんこ()まれたんすけどめちゃめちゃ痛かったっすよ〉

「山田、お前はいったん黙ってろ」

〈そんなぁ〉

「山田の声、聞こえてるやつは手挙げろ」

 ぽつぽつと手が挙がりはじめる。

(くら)(もち)(せき)、鳥居、(よね)(むら)(たか)()(ざわ)(ひし)(ぬま)。聞こえてないか?」

 残り六人も手を挙げ、三十五人全員の腕が伸びる。

「てことは、全員か」

〈これもう、夏休み終わってんすか?〉

「終わってるよ」花浦が答え「お前が死んでる間に終わった」

〈まじすか〉

「あぁ」

〈いま何月何日すか?〉

「九月一日」

〈……俺はいつ死んだんでしたっけ〉

「八月二十九。昨日が通夜で、」腕時計を見る。「ちょうど今頃、告別式やってんじゃないの」

〈なるほど〉

「いつから聞こえてる?」

〈え?〉

「俺とか、小野寺の声とか、聞こえてるんだろ? 自分が死んだの知らなかったってことは、俺が教室入ってきた最初から聞こえてるわけじゃなくて、途中から聞こえはじめたってことだよな? いつから聞こえてるんだ?」

〈……いや、なんかぼんやり、声がしはじめて、〉

「うん」

〈天国の元カノに誇れる生き方しよう、みたいなくだりから、いちおう記憶あります〉

「なんでそこなんだよ」

〈なんでって言われても〉

「声が聞こえるだけなのか?」

〈つか花浦先生って元カノ亡くなってんすか? いつ付き合ってたときの人すか?〉

「質問に答えろよ。声が聞こえるだけで、教室の景色が見えたりはしないんだな?」

〈そっすね、完全に真っ暗で、ただただ声が聞こえるだけって感じっす。身体の感覚も一切なくて、もうほんとに、声だけの存在になったっつーか〉

(にお)いは?」

〈しないっす。無臭〉

「どうやって声出してんの?」

〈どうやって……。フツーに、生きてたときの感じで、出してます。でも、なんだろう、(のど)が震えるみたいな感じがなくて、実際声出てるかどうか不安なんすけど、花浦先生とかが反応してくれるから、あ、ちゃんと声出てたんだ、みたいな。変な感じっす〉

「ふむ」

〈いま、『生きてたとき』って口にして、うわぁ、ってなりました。死んでんすね、俺〉

「……まぁ、」

〈『口にして』って変すね。口、ないのに。なんて言うのが正解なんすかね、この場合〉

「……いや、」

〈てか俺、もう、口ないのかぁ。やだなぁ、口ないの。食べたり、飲んだり、もうできないってことすか?〉

「……知らんけど、たぶんそうじゃない?」

〈うわぁ~、まじか~、最悪だ。最後に好きなもん食べときゃよかった。死ぬ前、最後何食べたっけ? あれ? あの日たしか、家いて、昼は昨日の残りのカレー食って、外暑いし、部屋でだらだらして、そうだ、ギターの弦切れたから買わなきゃって思い出して、駅ビルの楽器屋まで行こうとしたら玄関で母ちゃんに買い物頼まれて、そんで駅辿り着く前に轢かれたから、カレー? 違うか、だらだらしてるとき、お菓子食ってた気がする。なんだっけ? グミか。グミ食ったわ。てことは俺、最後グミ食って死んだってこと? まじか、最悪じゃん。最後の(ばん)(さん)、グミはやばいっしょ。しかもなんか、父ちゃんが知り合いからお土産でもらってきたとか言ってた、よくわかんない海外の硬いグミだったし〉

 ふっ、と、誰かが鼻から笑い声を漏らす。

 教室の空気が、(こわ)()っていた生徒たちの表情が、徐々に(ゆる)んでくる。

「山田、お前さ、こうなってる心当たりとかないの?」

〈心当たり?〉

「死んで、声だけ生き返って、っていう」

〈あぁー、わかんないすけど、俺このクラス大好きで、二Eのみんなとずっと馬鹿やってたいなっていつも思ってるから、それでこうなったのかもしんないっす〉

「ふーん」花浦がにやりとする。「お前いいやつだな」

〈いやいや〉山田の嬉しそうな吐息が、スピーカーから(こぼ)れる。〈でも死んだのまだ受け入れられてないっすよ〉

「だよな」

〈そういえば席替え、どうなったんすか?〉

「ん?」

〈するんすよね? 席替え〉

「あー、」活気に満ちつつある教室を見渡し「別にもう、しなくても」

〈いや、でも、せっかくなんでしましょうよ、席替え。俺、ずっと前から考えてたんすよ、二Eの最強の配置を〉

「なんだそれ」

〈左の前から後ろに向かって、(あか)(ほり)、栗木、牧原、()(ばた)(はやし)()()。次は、足立、笹本、(みなみ)(さわ)、白岩、西(にし)()、米村。(わら)(しな)()()、別府、菱沼、()()(いずみ)。高見沢、大塚、川上、関、鳥居、倉持。和久津、松口、小野寺、竹内、(しば)、二瓶。渡邉(わたなべ)、曽根、(もも)()(よし)(おか)(きく)()

「待て待て待て早い全然わからん」

〈えー〉

「左って、黒板に向かって左?」

〈当たり前じゃないすか〉

「俺から見ると逆なんだよ。お前の当たり前をみんなの当たり前と思うな」

〈そんな、わざわざ花浦先生目線で発表しないすよ〉

「耳だけだと誰もわかんないから、黒板に書くわ」花浦が白いチョークを手に取る。「もう一回言って」

〈赤堀、栗木、牧原、田畑、林、宇多。足立、笹本、〉

「早い早い。ひとりずつゆっくり。書くから」

〈了解っす。あ、でもやっぱ念のため最後、これで本当に最強か、脳内でシミュレーションしていいすか〉

「いいよ」花浦が了承し、口をつぐむ。

 山田の声がスピーカーから聞こえなくなり、(つか)()の静寂が訪れた後、吉岡が隣の白岩に「まじ今なんの時間?」と小声で話しかけたのを皮切りに、あちこちで会話が(あふ)れ、教室に声が満ちていく。

「山田はこれ、生き返ったってことなん?」「声だけだから生き返ったわけじゃなくね?」「じゃあ死んだまま?」「死んだままっちゃまま」「でも声だけでも戻ってきてくれて嬉しいわ」「な」「つか山田、猫助けて死んだのかよ」「そうなん?」「言ってたじゃんさっき」「やば。ジブリかよ」「ジブリでそんなんあったっけ?」「あったよ、たしか」「なんの作品だっけ」「思い出せないけど、あった」「へぇ」「山田は幽霊ってこと?」「幽霊ではなくない?」「でも死んでんのにしゃべれてんじゃん」「でも姿見えないじゃん」「幽霊って別に、姿はマストじゃなくない?」「え、マストだと思ってた」「ポルターガイストとかあるじゃん」「ポルターガイストってなんだっけ」「なんか揺れるやつ。家とか」「地震?」「地震じゃなくて揺れるやつ。幽霊が家具とかガタガタ揺らしてくる、みたいな」「怖っ」「(こえ)ぇよ。遭遇したことないけど」「地震もほんとは幽霊の仕業ってこと?」「地震はプレートの仕業だろ」「プレートの幽霊」「プレートの幽霊ってなんだよ。プレートはプレートだろ」

(かん)(ぺき)だぁ!〉

 スピーカーが音割れするほどの大きな声が響き、教室がすっと静まる。

〈よし、完璧! やっぱさっきの配置が最強で間違いない。発表していいすか?〉

 ワンテンポ遅れ、「おっけ」花浦が応じる。「ゆっくり、ひとりずつな。黒板に書いてくから」

 山田が先ほどと同じ順番で生徒の名字を読み上げ、花浦が黒板に書き留めていく。完成し、生徒のほうを向き直り「じゃあみんな、この通りに移動して」

 荷物をまとめ、一人また一人と立ち上がる。全員が移動を終え、が完成する。

「おい、山田、終わったぞ」花浦が呼びかける。

〈お~。じゃあこれで最強っすね。見えてないけど〉自信満々の声が降ってくる。

「ふーん」花浦は教室を眺める。たとえば剣道部の赤堀と栗木、バスケ部の田畑と白岩、野球部の二瓶、菊池、芝など、同じ部活の者同士を隣接して配置し、なんとなくバランスが良い気はするが、かと言われるといまいちピンと来ず「で、これのどこが最強なの?」

〈わかんないすか?〉

「あんまわかんない」生徒たちに「わかる?」

 みな首を振ったり(かし)げたりで、期待した反応はない。「わかんないってよ」

〈えー〉

「解説して。どこがどう最強なのか」

〈しょうがないっすね〉と言いながらも声は嬉しそうで〈まず、芝、菊池、二瓶の野球部トリオを、ドアの一番近くに配置しました〉

 芝、菊池、二瓶が顔を見合わせる。なんとなく芝が代表して話す空気になり、「なんで?」

〈ほら、朝練の後、野球部いっつも泥まみれで上がってくんじゃん〉

 あー、という声が前方で上がる。

〈一限始まるギリギリまで練習してっからさ、スパイクとか泥ついたまま教室来るだろ? そんで前のほうの席まで行くとさ、泥がぽろぽろ落ちて、床が目に見えて汚れるんだよな〉

 数名が深く(うなず)く。穂木高には「上履き」という制度がなく、土足のまま廊下や教室を歩くのが常となっている。そのため、運動部がグラウンドの泥を付けたまま教室に上がってくることも多く、野球部はそれが顕著だ。男子高ゆえに気にならないという生徒も多いが、潔癖性気味の牧原や倉持は背後の菊池が泥を()()らすのが気になって仕方なかった。

〈あれ、気になるやつは気になるからさ。汚れる範囲が最小限になるよう、三人ともドアの近くにしてみたわ〉

「……すんません」菊池が謝る。

〈いやいや、いいんだよ、別に。なんかのルール破ってるわけじゃねぇしさ。朝っぱらから始業のギリまで練習がんばっててすげぇなってフツーに思うし。だから、この配置にしとくのが、みんなにとってベストかなって〉

「あざす」菊池が頭を下げ、芝と二瓶もそれに(なら)う。「時間あるときは、なるべく(どろ)落として上がってくるようにするわ」

〈あざっす。で、次にポイントなのが、泉と倉持を最後列中央に配置したことね〉

 泉がびくっと顔を上げる。「ふぁっ?」

〈泉も倉持も新聞部で、「どっかにスクープないかなぁ」とかいっつも言ってんじゃん? だから、スクープを拾いやすいように、教室全体を見渡せる位置に配置してみたわ〉

「あ、あんがと」席あんま関係ねーけどな、と思いつつ、泉は嬉しい。右を見ると、倉持も(ほお)を緩めている。

〈その隣の米村は、大抵早弁してるから、美の巨人こと西尾の後ろに配置した〉

「まじか! 助かる!」「僕、ただの壁?」米村と西尾が同時に反応する。米村はラグビー部だが身長百六十六センチ体重七十五キロと()(がら)で、対する西尾は美術部ながら身長百八十六センチ体重九十キロと米村を上回る体格をしている。

〈米村はガタイ良くしようと授業中も必死に飯かき込んでるから、超高校級美術部の西尾が先生の視線をガードしてやってくれ〉

「いいけど……」西尾が(しぶ)(しぶ)納得しつつ、花浦を(うかが)う。

「教師として看過は出来ないが、時間もないからさっさと次行ってくれ」

〈OKっす。次は田畑を左端にした理由だけど、〉

「あの、」と最後列左端、生物部の宇多が挙手する。「一番後ろの列で、僕だけ理由説明してもらってないんだけど……」

〈誰? 宇多?〉

「そう」

〈宇多を一番後ろにしたのは、目がいいから〉

「目がいいから?」

〈うん。宇多、裸眼で視力二・〇ずつあるだろ〉

「ある」

〈だから一番後ろ。どう?〉

「……いいよ」

〈よかった。ちなみに視力悪めのやつらは、みんな一番前の列にした。高見沢とか、授業中かなり見づらそうにしてただろ〉

 高見沢がスピーカーを見上げる。「気づいてたの?」

〈気づいてた。眼鏡(めがね)、作ったほうがいいかもな。まぁでも、ひとまず前にしといたから〉

「えー、ありがとう」

「中学から、」和久津が口をひらく。「ってことじゃなく?」

〈何が? 和久津?〉

「そう」和久津が眉に力を込め「俺てっきり、中学から一緒なのが俺だけだから、スピーカーからいちばん近い席なんだと思ってた」

〈それもあるけど、和久津もコンタクトの度数上げたほうがいいぞ。授業中よく目細めてるだろ〉

「……なるほど」考え込むような顔で「ありがと」

〈で、田畑を左端にした理由だけど、〉

「ちょっ、待て、山田、」水泳部の藁科が割って入る。「俺、いちばん前にされてるけど、別に目悪くねぇよ?」

〈あー、藁科?〉

「そう。ごめん名乗ってなかった」

〈声聞こえてくる方角で、わりと分かるもんなんだな。で、そうだ、藁科は特別枠〉

「特別枠ってなんだよ」

〈藁科さ、英語の(もち)(づき)先生のこと、好きだろ。だから特別に、望月先生の横顔がいちばんキレイに見える特等席を用意した〉

 藁科が固まる。同じく水泳部の久保が、真後ろの席で口が裂けるほどにやついている。

「いや、」藁科が口をひらく。「……野暮すぎるでしょ」

〈そんで、田畑を左端にした理由だけど、〉

「なぁ山田、」サッカー部の吉岡が声を出すも、

「俺を左端にした理由が先だろ! 出しゃばんな吉岡!」田畑が鋭く言い放つ。「みんな俺の前で横入りしすぎだから! さっきから全然、俺が左端の理由聞けないんだけど!」

〈そりゃそうだな。田畑が先だ〉山田の声が笑う。〈吉岡は深く深く反省してくれ〉

「俺そんな悪いことしたか!?」

〈田畑さ、左耳、聞こえづらいだろ?〉

 田畑が目を丸くする。

〈田畑、別に左利きでもないのに、人と話すとき左側来ようとするんだよな。あれ、左耳が聞こえづらいからじゃない?〉

「……知ってたのかよ」

〈知ってたつーか、そうかもな、って〉

 田畑が頷き「高二になってから分かったんだけど、俺、左耳が若干難聴ぽくて」少し気まずそうに「誰にも言ってなかったけど」

〈やっぱそうなんだ。田畑、夏休み前まで一番右の列だったから、ちょっと心配してたんだ〉

「山田、お前ってやつはまじで……」田畑の声が(うる)む。「ありがとな」

「山田、悪いけどあと五分で三限終わっちゃうから、」花浦が腕時計からスピーカーへ視線を移し「もうちょいテンポ上げてくれ」

〈わっかりました! 巻きでいきまーす!〉

 山田が早口に解説を続ける。合唱部の小野寺とラグビー部の百瀬はどちらも深夜アニメ『おふさいど!』が好きだから隣にした、とか、卓球部の古賀と天文部の鳥居もアイドル好きの共通点で盛り上がれるから隣にした、とか細かく理由を述べる山田の声を(さえぎ)って、三限の終わりを告げるチャイムが鳴る。

「おーい山田。チャイム鳴ったぞ」

〈うわー、そっすよね、どうしよう、まだ解説終わってないのに〉

「でももう時間だからなぁ」二年F組の授業が終わり、教員が出てくる気配を扉の向こうに感じる。「まぁ、続きはまた今度解説してくれよ」

〈うっす〉

「……つーかこれあれだな」もごもごと呟き「一応あれか、学年主任に報告とか、や、でも、とりあえずまぁ」

「言わなくていいと思います」和久津が釘を刺す。「それで山田、いなくなったりしたら嫌なので」

「まぁそうか、じゃあ、まぁ、そうね、黙っとくわ」

〈そっすね。秘密ってことで〉

「にしても山田、お前このクラスのこと、なんでも分かってるんだな」花浦は改めてスピーカーを眺める。「担任の俺より百倍詳しいわ」

〈そりゃそうっすよ〉山田の声が、誇らしげに響く。〈俺、二年E組が大好きなんで〉


 第二話 死んだ山田と夕焼け


 山田が死んで、声だけになり、二週間が経った放課後。

 出入り口に近い西側の窓のカーテンを全開にし、机を五台繫げた上に寝転がった別府は、紺色のボクサーブリーフと、セルフレームの黒縁眼鏡のみを身に着けている。

 別府は目をつむり、みぞおち付近に組んだ両手を置き、鼻で安らかな呼吸をする。

 ふいに起き上がると、素足のままローファーを履き、自席に放っていたワイシャツと肌着を手に取る。それらを丸め、後頭部に敷き、再び仰向けになる。少しして起き上がり、今度は黒いズボンを(つか)む。ベルトを外して畳み、ワイシャツと肌着の下に挿し込むと、また後頭部を預ける。目をつむる。

 扉を勢いよく開け、久保が教室に入ってくる。

「山田ぁうおおおっ」窓際の別府を見て「別府? 何してんの? なんで裸?」

(まくら)の高さが足りないから、ズボンも加えて調節してる」別府は首だけを久保に向け、答える。「あと、パンツ穿()いてるから裸ではない」

「いや、意味不明」

「だから、」面倒そうに語気を強め「シャツとタンクトップだけだと、良い感じの高さにならないから、ズボンも足して、理想の高さになるように、してんの」

「まずパンイチで寝っ転がってる理由を説明しろよ」

「日焼けしようと思って」

「日焼け?」竹内の机にカバンを置き、座る。「なんで日焼け?」脚を組む。

明後日(あさって)バイトの面接だから」

「……わかんねぇ」

「ほら、ボク、肌白いじゃん?」

 なまっちろく、()せた身体を眺め「まぁ」

「不健康そうじゃん?」

「まぁ」青白い肌が、あばら骨をぴたりと(おお)っている。「脱いじゃうとな。細いから」

「日焼けしたら、ましになるじゃん?」

「まぁ白いよりは、焼けてるほうが健康的かもな」

「そう。だから慌てて焼いてんの。不健康に見えちゃうと、面接落ちそうだから」

 口を(はん)()に開け、別府を見つめる。「質問が、あと五個くらいあるわ」

「どうぞ」

「まず、なんで教室?」薄ら笑いを浮かべ「外で焼けばよくない?」

「外でパンツ一丁になってたら変でしょ」

「いや、プールとか海とか」

「水泳部にこの気持ちはわかんないよ」

「なんでだよ」久保の身体は引き締まり、健康的な茶褐色をしている。「夏休みにプールでも行ってりゃ、自然に焼けただろ」

「だって、だってこの身体で、海とかプールとか、行けるわけなくない?」

「行ったらいいじゃん、別に」

「やだよ、恥ずかしい」別府は身体を裏返し、(あご)をワイシャツに乗せる。

「つか教室の中で日焼けすんの無茶だろ」

「するよ。この教室、西日すごいから」

「そんなすごい?」

「超すごい」窓の外では()が傾き、黄色い光がじりじりと教室を熱している。「ほぼ夏だし、この格好で寝そべってたらこんがりだよ」

「いやぁ」首をひねり「つか何のバイトの面接?」

寿()()()

「絶対白いほうがいいだろ」食い気味に返し「寿司屋の店員なんて、白けりゃ白いほうがいいんだから」スピーカーを見上げ「山田もそう思うよな?」

 返事がない。

「おーい。山田ー。いないー?」

「忘れてる、合い言葉」別府が指摘する。「というか久保教室入ってきた瞬間『山田』って言っちゃってたけど、あれほんとはダメだからね」

「やべ、忘れてた、ごめん」(せき)(ばら)いをしてから「おちんちん体操第二」

〈寿司屋の店員白けりゃ白いほうがいいは偏見だろ〉山田の声が降ってくる。〈別に色黒の寿司職人がいてもいいわ〉

「えー、そうかぁ?」久保が納得いかなそうに腕を組み「寿司職人ってなんか、白いイメージない?」

〈服が白いからじゃん?〉

「えー関係ある?」

〈というか久保、そろそろ合い言葉に慣れろよ〉

「それはまじでごめん」久保が両手を合わせ、頭上に掲げる。「完全に忘れてた」

〈おちんちん体操第二言われるまでは、俺も声出せないからさ〉

 山田が声だけの存在として復活してから、さまざまなルールが定められた。まず、山田が声になって戻ってきた事実は、二年E組の三十五人と花浦先生だけの秘密にすること。この超常現象が世間に知られ、野次馬が連日現れたら、「二年E組のみんなとしゃべりたい」だけの山田の遺志を無下にすることになる。山田のことを知りもしないマスコミ連中が二年E組に押し寄せ、いつまたいなくなってしまうか分からない山田の貴重な時間を浪費させるなんてことは絶対にあってはならない。山田の望みは、今後も二年E組の一員として、くだらない、あほくさい、毒にも薬にもならない会話を続けていたい、というただ一点のみである。

 山田は声しか聞こえないため、話しかけられた声が、二年E組の生徒か、はたまた教室外の者かを正確に判別することが出来ない。そのため、山田に話しかける際は必ず『おちんちん体操第二』と言ってから会話を始めるルールが課せられた。合い言葉を決める討論の際、教室外の人間がうっかり口に出さない造語であり、二年E組らしいくだらなさと発声の容易さを兼ね備えた『おちんちん体操』が賛成多数でいったん可決されたが、医学部志望でクラス一の秀才・高見沢が「男子校なんだから、(ほか)のクラスの人がなんとなく『おちんちん体操』と口にしてしまう可能性もなくはないのでは?」と()()を抱き、そうだたしかにと皆が頷いた末、川上の「じゃあ『おちんちん体操第二』にしたら、さすがに被らないんじゃん?」という天才的な提案により、合い言葉が最終確定した。

「ねぇねぇ」別府がまた仰向けになり「もしさ、『おちんちん体操第一』って言われたらどうすんの?」

〈どうもしねぇよ〉

「無視ってこと?」

〈無視だろ、そりゃ〉

「でもさ、『おちんちん体操第一』は『おちんちん体操第二』ありきの発想だから、『おちんちん体操第一』という言葉を口にできたならばすなわち、二年E組の人間ってことになるんじゃない?」

〈そりゃそうなんだけど〉

「山田を混乱させるなよ」久保が笑う。「『おちんちん体操第二』でいいだろ」

「じゃあさじゃあさ、教室にいる人数をカウントするってのはどう? さっきみたいにボク以外誰も教室にいなかったら『おちんちん体操第一』で話しかけるし、今みたいにボクと久保の二人だったら『おちんちん体操第二』で話しかけるし、もう一人いたら『おちんちん体操第三』だし、さらにもう一人いたら『おちんちん体操第四』」

〈おちんちん体操言いたいだけだろ〉「いいから服着ろよ」

「服着たら日焼けできなくなっちゃうじゃーん」

「だから焼ける必要ねぇだろって」

「てか、あれだね。『ボクと久保』って、新聞紙みたいだね。意図せず言ったけど」

「は?」〈回文?〉

「そう。『死にたくなるよと夜鳴くタニシ』、みたいな」

「あー、たしかに、逆から読んでも『ボクトクボ』か」

〈つーか久保部活は?〉

「休み。水曜だから」

〈そっか〉

 会話が途切れると、久保は何か言いたげな笑みを浮かべるが、別府がこちらを見そうにないことを悟り「え? なんで部活が休みの日は速攻帰る俺が、わざわざ教室戻ってダラダラ時間(つぶ)してるかって?」

〈別に聞いてねぇけど〉

 別府はあくびをして、天井に身体を正対させたまま、視線だけ窓の外に飛ばす。野球部のグラウンドとホームルーム棟の間に茂る木々を西日が照らし、きらきらと葉が揺れる。

「実はさ、このあと人と待ち合わせてて、それまで時間潰さなきゃいけねぇんだよなぁ」

〈へぇ〉

「六時から映画()ることになっててさ」

〈ふぅん〉

「……え? 誰と待ち合わせしてるかって?」

〈だから聞いてねぇって〉

「いやぁ、実は女の子と待ち合わせしててさ~」

〈あーうるせぇうるせぇ。そんなつまんねぇ話しかしないなら帰れ〉

「リアルで会うの初めてなんだけど、写真見る限りはけっこうかわいいんだよなぁ」

〈うるせぇうるせぇうるせぇ死ね〉

「あ! 人に死ねとか言っちゃダメなんだぞ!」

〈いいんだよ、俺死んでんだから〉

「……そういう問題か?」

「でもさ、相手社会人なのに、」別府があくびを嚙み殺し「こんな夕方にデートとかできるの?」久保に顔を向ける。

「はぁ?」

「いや、仕事とかあるだろうしさ。普通もっと遅い時間に待ち合わせじゃない?」

「いや相手も学生だけど」久保が眉をひそめる。

「えっ?」別府が寝そべったまま、身体を転がして久保を凝視する。「水泳部なのに?」

 久保は少し考えた後「山田、助けてくれ。別府が不思議ちゃんすぎて会話になんねぇ」

〈藁科が熟女好きだからじゃん?〉

「……ん?」

〈ほら藁科、望月先生のことめっちゃ好きじゃん。だから同じ水泳部の久保も、熟女好きなはずってことだろ?〉

「そういうこと」別府が右腕をぐっと伸ばし、天に指を突き立てる。

「や、たしかに藁科は熟女大好きだけど、俺は(ちげ)ぇよ?」

「いや、これにはちゃんとした理論がある」

「理論って何だよ」

「まず、水泳部ってことは、要は脱ぎたがりってことでしょ?」

「もう異議があるわ」

「で、脱ぎたがりってことは、」

「おい、勝手に進めんな、一回止まれ、」

「赤ちゃんに戻りたい、すなわち幼児退行願望があるということ」

「ねぇわ。まず脱ぎたくて水泳やってるわけじゃねぇから」

「で、幼児退行を望んでるってことは、強い母性を欲しているということ」

「お前今パンイチで寝っ転がってるってことわかってる? どう考えてもお前のが赤ちゃん戻りたがってるだろ」

「だから水泳部は例外なく、母性を感じさせる年上の女性、すなわち熟女が好きということ」眼鏡をくいっと持ち上げ「Q.E.D.証明終了」

「証明できてねぇよ。ロジックがゆるすぎんだろ」

〈なるほど〉

「何も『なるほど』じゃねぇわ」

〈理にかなってる〉

「かなってねぇよ」

「Q.O.L.生活の質」

「……クオリティ・オブ・ライフいま関係ねぇだろ」

〈A.E.D.自動体外式除細動器〉

「関係ねぇよ。なんでパッと正式名称出てくんだよ」

「U.S.J.ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」

「だから関係ねぇって」

〈D.N.A.デオキシリボ核酸〉

「好きなアルファベット三文字言ってく時間じゃねぇから」

〈じゃあなんの時間?〉

 久保はスピーカーを仰ぎ、脚を組み替え「別になんの時間でもねぇけど」

〈藁科とかもう帰ったん?〉

「帰った。だから山田と話そうと思って、教室来た」

〈嬉しいじゃん〉

「や、別に、」目を伏せ、カバンのチャックを指で(はじ)く。「暇なだけだし」

〈照れんなよ〉

「照れてねぇわ」

「僕、そう、照れて噓、久保」別府が一音ずつはっきりと口にする。

「……ん?」久保が目をぱちぱちさせると〈回文?〉山田の声が降る。

「当たり! 逆から読んでも、『ボク、ソウ、テレテウソ、クボ』」

〈おぉー、すげぇ〉「別にすごくなくね?」

 ふふ、と別府が笑う。ぬくもった教室に、()いだ時間が流れる。

 別府が上体を起こし、枕代わりのシャツに触れ、静止する。

「お、焼くのやめんの?」

「いや」別府は何か思案するようにシャツを見つめ「やっぱいいや」また仰向けに倒れる。

「なんだよ」

「トイレ行こうと思ったけど、やめた」

「行けばいいじゃん」

「いや、もったいない」

「もったいないってなんだよ」

「西日がもったいない」

「いや行けよ。どうせそんな短時間じゃ焼けねぇし、そもそも焼く必要がねぇし」

「いい」別府は寝返りを打ち、久保に背を向ける。「服着るのめんどいし、日が暮れるまで我慢する」

「漏らすなよ」

「漏らさない。(ぼう)(こう)太いから」

〈あんま太い細いで膀胱言わないだろ〉

「じゃあなんて言うの?」

〈大きい小さいじゃね?〉

「……んー、でも感覚的には、ボクの膀胱って感じするわ。もしくは

〈なんでお前の膀胱スティック状なんだよ〉

「山田ってさ、」久保が口をひらく。「トイレとかどうしてんの?」

〈トイレ? しない〉

「そうなん?」「しないの?」

〈そりゃしないだろ。なにも食べないし、なにも飲まないんだから〉

「まじか」

〈おしっこという概念がもうない〉

「うんこも?」

〈うんこもない。俺は今、うんこもおしっこもない世界にいる〉

「ディストピアだ」

〈ディストピアなん?〉

「睡眠は?」

〈……たぶんない〉

「たぶんって」

〈いや、日中はお前らの声聞こえるからいいんだけど、夜になると聞こえなくなって、待ってると朝になって、また声聞こえはじめてって感じ〉

「ふーん」

「夜とか分かるの?」別府が首を浮かせ、枕の位置を調整する。「見えないのに」

〈ちゃんとは分かんない。声聞こえなくなって、しばらくしたら、夜、って感じ〉

「なるほど」

〈あー、でも復活した当初に比べたら、だいぶ分かるようになってきたかも。朝って鳥の声とかうっすら聞こえるし、夜と朝の境目はなんとなく分かる〉

「そ」階下から足音がし、久保は(あい)(づち)を止める。四階までは上がらず、三階の教室に入っていったことを確認し「そうなんだ。すげぇな」改めて声を出す。

〈だれか来た?〉

「いや、三階まで」また耳を澄ます。足音の主が教室を出て、三階から二階、二階から一階へ下っていく音が聞こえる。「でもあれだよな。山田が()()いたの、四階のスピーカーでラッキーだったよな」

〈あー、そうかも〉

「ふつうの学校みたいにさ、二年生が二階、とかそういう配置だったら、山田とこんな安心して話せないもんな。ここなら隣のF組と階段の音だけ気にしてりゃいいわけで」

〈たしかに〉別府が上半身だけ起こし、教室を見回す。〈というかこの高校、なんでこんな配置なんだろ〉立ち上がり、黒板手前の和久津の席までひょこひょこと机を渡っていく。

「別府どうした」

「いや、なんか、」しゃがみ、和久津の机に置かれた本を手に取り「枕の高さ調整するのに、この本ちょうどよさそうだな、って」

「ひとの本を枕にすんなよ」

「だってなんか、厚みがちょうどいいし」窓際の寝床まで持ち帰り、ズボンとワイシャツの間に挿し込み、再び横になる。「あ、正解」

「正解じゃねぇよ」久保が笑う。「てか和久津、めちゃ難しそうな本読んでんな」

〈なんの本?〉

「えー、と、」服に隠れた背表紙を読み「『刑事訴訟法判例百選』だって」

〈すご〉

「な。高校生が読む本じゃねぇわ」

〈和久津、弁護士なりたいってずっと言ってるもんな。中学のときから〉

「頭いいからなー。成績も文系だとほぼトップじゃね?」

「元農業高校だから、らしいよ」別府が目をつむったまま口にする。

「……なにが?」久保は(いぶか)しげに別府を見る。

「穂木高の配置の理由。ふつうの学校って、長い廊下があって、片側にしか窓がないでしょ。でも穂木高は元農業高校だから、教室の両側に窓を作るために、この配置にしたらしい」

「……なんで農業高校だと、両側に窓が必要?」

「自分たちが育てた野菜を、教室のどこにいても眺めることができるように、らしい。あと農業って天候に左右されやすいから、みんながすぐ空模様を確認できるように、ってのも」

〈へぇ。知らなかった〉山田が感心した声を出す。〈誰からこれ聞いたの?〉

「花浦先生から」

〈そんなん言ってた? いつ?〉

「先週」

〈どこで?〉

「夢で」

〈じゃあ作り話じゃん〉

 荒い振動を響かせ、階段を駆け上がる音が、開け放した入り口から聞こえる。

「お、米村」

「おう」黒と黄のラガーシャツに身を包んだ米村が、自分の席へ一直線に駆け、引き出しを探る。「あった」土で汚れたごつい右手が、アルミの弁当箱を摑んでいる。

「なにしてんの?」久保が尋ねる。

「いや、弁当忘れちゃってさ」息を切らし「つかなんで別府脱いでんの?」

「明後日バイトの面接だから、肌焼いてる」

「意味わからん」かなり大きめの弁当箱だが、米村の手の中ではふつうのサイズに見える。米村は身長に比して手が大きい。「戻るわ」ドアに向かいかけ、振り返る。「……え、まさかお前ら、そういう?」

「違ぇよ、違いすぎる」久保が全力で否定する。「違うにもほどがある」

「でも別府脱いでるし、バイトの面接で肌焼くとか意味わかんねぇ噓ついてるし」

「いや、まじで違う。俺この後、女の子と会う予定だし」

 米村は別府と久保を交互に見つめ「俺偏見とかないから、そこは心配しなくていいから」踏み出し「誰にも言わねぇから」

「待て待て待て」久保が長い腕を伸ばし、米村の二の腕を摑む。「待て」

「いや俺もう行かなきゃだから」教室の時計を見て「練習再開する」

「おかしいおかしい。つか部活中になに弁当取りに来てんだよ。終わってから来いよ。変なタイミングで来んなよ」

「だってこの後の部活中ずっと、終わったら弁当取りに戻らなきゃって思ってんの嫌じゃん。学校に弁当箱忘れっと母ちゃんに死ぬほど怒られっからさぁ。休憩入ってすぐ取りに来たんだよ」

「待って。俺まじで違うから」()えるように「別府もなんか言え!」

「ノーコメントで」

「ふざけんな! ここで黙秘するメリットねぇだろ!」見上げ「山田もほら、なんか言え!」

〈見てないからなんとも〉

「死ね!」

〈もう死んでる〉

「クソが」

「ちょっ、まじでもう行くわ。じゃあな」米村が教室を出て、どすどすと階段を下っていく。

「ふざけんなよまじでよぉ~」久保がカバンに突っ伏し、のたくるように「お前ら悪いぞまじで」別府とスピーカーを(にら)む。

「ごめんなさい」〈ごめんなさい〉

「ごめんで済むかよバカタレがぁ~」

〈でも米村口堅いから大丈夫〉

「そういう問題じゃねぇよ」久保が盛大な()(いき)をつく。「最悪だ」

「前から思ってたんだけどさ、」別府が眼鏡を外し、天井の蛍光灯に透かす。油脂をボクサーブリーフの(すそ)(ぬぐ)ってから、再び装着し「米村と百瀬って仲悪いの?」

〈ん?〉「いや話題変えんな。まだ話終わってねぇから」

「山田の決めてくれた席、陸上部の大塚・松口とか、ホッケー部の渡邉・曽根とか、卓球部の菱沼・古賀とか、同じ部活のやつは基本隣接して配置してるでしょ?」

〈そうね〉「俺と藁科も」

「でも、米村と百瀬は、同じラグビー部なのに、けっこう席離れてるでしょ?」

〈そうだね〉米村は左から二列目の一番後ろ、百瀬は一番右の列の前から三番目に席がある。

「教室でも会話してるのほぼ見たことないし、もしかして仲悪い?」

〈……まぁ良くはないね〉

「あー、俺もそれちょっと思ってた」久保が()()()な顔を作り「米村も百瀬も二年になってから知り合ったけどさ、最初から険悪な雰囲気あったよな?」

「あった」

「あれ、なんなん? 山田、元ラグビー部だから知ってそうじゃん」

 スピーカーから、声が聞こえなくなる。日が落ちはじめ、教室のぬくもりがゆっくりと目減りしていく。

〈……いっか。隠すようなことでもないしな〉

「うん。なに?」久保は先を(うなが)す。こういうとき、アイコンタクトが使えないのは少し不便だな、と思う。

〈ものすごくざっくり言うと、〉

「うん」

〈俺、去年の夏、試合中に骨折して、それきっかけでラグビーやめたんだけどさ、その怪我の原因がプレー中の百瀬の不注意にあって、百瀬だいぶ反省してんだけど、米村はそれがあんま感じられないとかで険悪になって、今も続いてる感じ〉

「……なるほど」

〈どっちもいいやつなんだけどな。米村ってほら、正義感が強いつーか、曲がったことが大嫌いみたいなやつだから。俺は百瀬にずっと、もういいよ、気にしてねぇよ、って言ってんのに、そんなんじゃ筋が通ってないとか思っちゃうんだろうな〉

「なんか、」久保が数秒言葉を探してから「微妙な感じだな」

 別府が起き上がり、素足のつま先をローファーに突っ込んで腕を伸ばし、丸まった黒い靴下を手に取る。裏返ったそれをあるべき姿に戻し、一本足で揺れながら、蛇腹に縮めて再び足を通す。

「焼くのやめんの?」

「日、」両足を履き終え、顔を上げる。「暮れてきたから」

 別府の視線の先を追うようにして、久保も窓の外を見る。教室を黄色く照らしていた太陽は木々に隠れるまで高度を下げ、夕闇が辺りを包みはじめている。

「秋だな。なんやかんや」タンクトップを頭から被った別府に目を移し「つか別府、着る順番変じゃね?」

 頭を出した別府が「そう?」

「パンツの次、靴下履く?」階下から微かに、足音が聞こえる。「靴下ふつう最後じゃね?」

〈え俺、パンツの次、靴下だ〉

「噓、山田も?」片足をひきずるような、変則的な足音が、次第に大きくなる。「靴下なんて履いても履かなくてもいいんだから、最後じゃね?」

「パンツだって別に、」ワイシャツに右腕を通し「穿いても穿かなくてもいいじゃん」

「パンツは穿かなきゃダメだろ」

 開けっ放しの入り口から、吉岡が教室に入ってくる。

 着衣(なか)ばの別府と、座ったままそれを眺める久保を見て、固まる。

「えっ、なに? 事後?」吉岡が口元を緩める。

「だからちげぇって」別府に「(まぎ)らわしいから、さっさと服着ろや」

「着てる着てる」ワイシャツのボタンを「着てるから待って」上からひとつずつ留めていく。

「おちんちん体操第二」吉岡がスピーカーを見上げ「別府と久保は、事後?」

〈Siriみたいに話しかけんなよ〉

「お、いいね、求めてたツッコミ」吉岡がからからと笑い「てか俺の席、(なぞ)に繫げられてんだけど」別府が数分前まで寝転がっていた机に目を落とす。

「ごめん。ベッドにしてた」

「はぁ? うぇっ? まじ?」吉岡が(おお)()()に顔を(ゆが)め「お前らふざけんなよ、ひとの机の上で」

「だからしてねぇって」久保が声を(とが)らせる。「別府がひとりで寝てただけだから。つか吉岡部活どうした」

「休んだ」サポーターを巻いた右の足首を指差し「昨日、ひねっちゃって」

「じゃあ早く帰って安静にしたほうがよくね? 家近いんだし」

「そうなんだけど、ひとりで家いても、することねぇしさ」出入り口に近い、二瓶の席に座り「食堂で元一Bのやつらとダベってたんだけど、みんな帰っちゃって。そうだ山田と話せばいいじゃんって、ここ来たわけ」

〈え、嬉しい〉

 別府が手を止め、吉岡の右足を見つめ「怪我、ひどいの?」

「や、そんなに。()れが引けば、再来週には部活出ていいってさ」

「よかった」

「つか早く服着ろや」久保が別府に「お前のが脱ぎたがりじゃね?」

「そんなことない」別府はズボンを穿き、バックルにベルトの先を通す。「米村、ラムネよ」

 またしても、吉岡が固まる。久保も硬直し、別府を見つめる。

〈回文?〉

「そう」自分の席に腰を下ろし「米村、ラムネよ。逆から読んでも、米村、ラムネよ」

「回文ハマってんの?」

「ついさっきハマった」真顔で吉岡を見て「米村、トマトラムネよ」

〈米村に変なラムネ渡すなよ〉

「わたし米村、トマトラムネよしたわ」

〈遠慮されてんじゃねぇか米村に〉

 吉岡が口を大きく広げて笑う。「いやぁ、やっぱ山田も別府もおもしれぇわ」窓の外に目を向け「おっ、夕焼け」

 別府も久保も、はじかれたように窓の外を見る。

「まじだ、()(れい)」「赤い」

 遠くの空に浮かぶ(ほの)かな赤色を、三人黙って見つめる。

〈そっか〉

 山田の声がする。

〈俺もう、夕焼けって見れねぇのか〉

 耳が痛むような、長い沈黙が下りる。

 久保も別府も吉岡も、暮れゆく夕空をただ見つめる。

〈ごめん〉

 一秒が経つごとに、空が赤みを増していく。

〈なんか冷めること言っちゃったわ、ごめんな〉

「山田、空が赤いよ。燃えてるみたい」眼鏡に赤い輪を反射させながら、別府が声を上げる。「なんかさ、空の上のほうはまだ青いんだ。晴れてて。下のほうに行くにつれて、だんだん青が薄くなって、若干白っぽくなって、うっすら赤く変わってるよ」一息でしゃべってから、ひゅっと息を吸い「こうやってしゃべってる間にも、空の色が少しずつ、ほんとうに少しずつ変わっていくのが分かるよ」

 久保が立ち上がり、窓のそばに寄る。「なぁ山田。聞こえるか? 森、あるじゃん? この教室と、グラウンドとの間にさ。その森のてっぺんから先が、もう空なんだけどさ、基本晴れてんだけど、つーっと一本だけ、飛行機雲が通っててさ、赤い空から青い空まで、一直線に突っ切ってんだよ。綺麗だぜ。下のほうは夕焼けと混じって、ちょっと黒みがかってて。でも上のほうは白いままで。おもしれぇよな。夕焼け、こうやってちゃんと見んのいつぶりだよって感じだけどさ、良いもんだぜ、まじで」

「あぁ」吉岡も夕焼けを食い入るように見て「山田、すげぇよ。別府と久保が言う通り、まじで綺麗な夕焼けだから。見えっかな?」

〈見えるわ〉山田の声が湿っぽい。〈あー、うん、見える。なんか見える。すげぇ。ありがとな。今まで見た夕焼けで、一番きれいかもしんないわ〉

「いや、ちがうわ、ぜんぜんダメだ」久保が(くや)しそうに「ごめんな山田。俺にもっと()()があれば、お前にもっと綺麗な夕焼け、見せてやれたのに」

〈ダメじゃない。ちゃんと伝わってる。ありがとう。まじで〉

「山田、まだや」別府が夕焼けを見つめながら、(つぶや)く。

〈ん?〉「なんで関西弁?」

「おい、まさか、」吉岡が疑わしげに「回文?」

 別府が振り返り、こっくりと頷く。

「いや回文じゃねぇじゃん」久保がすかさず「やだま、だまや、じゃん。逆から読むと」

 久保を無視して「山田、死ぬなし、まだや」別府が唱える。

「やだま、しなぬし、だまや、じゃん。なんだその、回文っぽいけど回文じゃないやつ」久保が教室の時計を見上げ「つか俺、そろそろ行かなきゃだわ」

〈『死ぬなし』言われても、俺もう死んでるしな〉

「じゃあな、また明日」久保が教室を出て、

「ごめん、母ちゃんに買い物頼まれちった。またな」吉岡も教室を出ていく。

「山田、死ぬな、まだや、」日が暮れ、教室が陰り「死んでも、まだや、」夜が夕焼けを塗り潰し「山田、まだ、これからや」やがて別府の声もしなくなる。

〈最後のほう、ぜんぜん回文じゃなくなってたな〉

 誰もいない教室で朝を待つ。


 夜


〈えー、こんばんは。二年E組の山田です。この時間はわたくしファイア山田が、穂木高二年E組の誰もいない教室から生放送でお送りして参ります。

 えー、この放送も、今日で二回目ですね。放送っていうかね、俺がひとりでしゃべってるだけなんですけどね。ほら俺、もう三週間くらい前になるかな、死んじゃったわけじゃないですか? で、スピーカーに魂乗り移ってるわけだけど、昼間はめっちゃ楽しいんですよ。二Eのみんないて、授業とか、馬鹿みたいな話いっぱい聴けてね。でも、夜が(さび)しくて。耐えてれば朝になるんだけど、ずっとなんも話せないのもしんどいからさ、土曜の夜だけこうやって、ラジオみたいにひとりでくっちゃべることにしたわけ。ほら、せっかく俺スピーカーになったんだから、なんか放送したほうがそれっぽいじゃん? リスナーは今のところゼロなんだけどさ。つーかリスナーいたらびびるわ。俺『おちんちん体操第二』って言ってもらえないとしゃべれないルールになってっから、ほんとはこんなしゃべってたら危ないんだよな。いつ誰が入ってくるかわかんねぇし。でも土曜の夜だけ許してってことで。土曜は午前だけ授業あるけど、日曜はなんもないからさ、月曜朝までが長すぎんだよな、まじで。なんかオープニングでダラダラしゃべっちゃってごめんね。って、これも誰に謝ってんのって話だけどさ。まぁ夜は長いし、大目に見てよ。それでは今週も始めていきましょう、ファイア山田のオールナイトニッポン。

 ちゃらっちゃ。ちゃっちゃらら、ちゃっちゃちゃ。ちゃっちゃらら、ちゃっちゃちゃ。ちゃらっちゃちゃ。ちゃらっちゃちゃんちゃんちゃん。

 改めましてこんばんは、ファイア山田です。毎週土曜日のこの時間はファイア山田のオールナイトニッポンをお送りしていきます。

 あ、そうだ、今週、めっちゃ気の毒だなーってことがあってさ。水曜の放課後、久保と別府が、教室で時間潰してたのね。久保が水泳部休みで、女の子と映画観に行く約束してるとかで夕方までいたんだけどさ、次の日、声だけで分かるくらい明らかに意気消沈してんの。リアルで会うの初めてだけど写真はかわいいとかほざいてたから、「もしかして加工()()だった?」って聞いてみたら、水泳部の先輩たちがふざけて作った偽のアカウントで、待ち合わせ場所に先輩たちがいて「ドッキリでした~」ってさ。ないなって思ったわ。俺もさ、久保がデートデートはしゃいでんの見て、あぁうるせぇうるせぇ爆発しろ、って思ってたけどさ、そういう、なんつーの、人の気持ちを(もてあそ)んで、(だま)して笑ってみたいなのは、やっちゃいけないって思ったわ。久保がかわいそうすぎた。これ聞いてる良い子のみんなは、そういうの()()しちゃだめだからな?

 と、いうことで、今週のメールテーマは「騙された話」です。友だちや家族など、人に騙された話でももちろんいいですし、写真に騙された、広告に騙された、みたいなエピソードでも大丈夫。

 そうだ、騙された話っていうか、これは騙した側の話なんだけどね、昨日の昼、難波先生のモノマネで、『二年E組の南沢くん、至急教員室まで来てください』ってやってみたら、南沢のやつ教員室まですっ飛んでったらしくて、難波先生に「呼んでないよ?」って言われて帰ってきて、「山田ふざけんな」って怒ってたわ。難波先生、弓道部の顧問じゃん? だから南沢すげぇびびってさ。「え、やばいやばい、おれなんかしたっけ」って。みんな、山田モノマネ上手すぎって盛り上がったし、南沢も最終的にめっちゃ笑ってたけど、あれもほんとはよくなかったんかなぁ。こういう、人を騙して笑いを取るみたいなのって、線引きが難しいよな。先生のモノマネで教員室呼び出すくらいは、まぁ許容範囲かなって、俺は思うんだけどね。

 つーことで、メール募集してます。「騙された話」ね。受付メールアドレスはヤマダアットマークオールナイトニッポンドットコム、ヤマダアットマークオールナイトニッポンドットコムです。メールを送ってくれたリスナーの中から抽選で五名に、番組ステッカー、プレゼントします。

 とか言って誰も聞いてないからメールも来ないし、ステッカーなんて用意してないんだけどね! 雰囲気だけでも、ラジオっぽくいきましょうっつーことで。架空のリスナーさんからのメール、どしどしお待ちしております。

 というわけで、ファイア山田のオールナイトニッポン、ぜひ最後までお付き合いください。ここで一曲。さよならシュレディンガーで「あの夕景」〉


 第三話 死んだ山田とスクープ


 山田が死んで、声だけになり、一ヵ月が経った放課後。

「ダメだ、ネタがねーわ」教室には泉と倉持の二人だけがいて「もうダメ。すっからかん」机の上にノートを広げ、編集会議に(いそ)しんでいる。

「んー、僕もぜんぜんない」倉持が白紙のページに当てたシャーペンの先を「出し尽くした感あるよね」(しん)を出したり引っ込めたりして「どうしようね」

「ねぇ山田~」泉がスピーカーを見上げ「なんかスクープねぇの~?」

 返事はない。

「山田~。無視すんなよ~」

「おちんちん体操第二」

〈ねぇよ、スクープ〉倉持が小声で発した合い言葉に応じ、山田の面倒そうな声が降る。

「これもうよくね? いちいちめんどい」泉が口先をとがらせ「会話の内容からわかんじゃん。おれと倉持がしゃべってんの」

〈お前ら以外にも、誰かいるかもしんないだろ〉

「いないっしょ~」泉が()()の背もたれに体重を預け「おちんちん体操第二って言うの、正直もう飽きたわ」茶髪に染めた天然パーマの毛先をいじる。

〈お前らが決めた合い言葉だろ〉

「おちんちんエクササイズボリューム2でもいい?」

〈ダメだろ。なんでちょっとかっこよくしてんだよ〉

「山田くん、なにかスクープないかな?」倉持が()くが、

〈ん~、〉しばし(うな)った後〈ない〉

「そっかぁ。残念」

「なんかあるっしょ。ずっと教室へばりついてんだから、秘密の一つや二つくらい耳に入ってるんちゃう?」

〈いや、〉想起する間を置いて〈ない〉

「けちんぼ~。ほんとはあるくせに~」

〈ねぇって〉にべもなく〈あれ? 今日って金曜?〉

「そうだよ」倉持が頷く。

〈てことは今日、発刊日じゃん〉

「うん」「もう余裕で配り終えてる」

 穂木高新聞部の活動内容は、毎週金曜朝にA4両面一枚の『週刊穂木』を発行し、校門前で無料配布することである。かつては時事を解説した真面目な記事も多かったが、二個上の先輩が卒業し、部員が泉・倉持の二名だけになってからは、紙面の大半をゴシップ記事が占めるようになった。

〈もう来週のやつ準備してんの?〉

「そらそうよ」泉が胸を張り「週刊紙の忙しさ舐めんなよ」

〈今週の見出し何?〉

「『友永先生、猫派と思われていたが、実は犬派!?」

〈弱っ〉

「『別府、バイトの面接で五連敗!? 色が白すぎるのが問題か──』」

〈別府に全校レベルの知名度ないだろ〉

「『穂木高の(しき)()でツチノコ発見!?』」

〈もう噓じゃん〉

「噓じゃねーよ」泉が吠え、隣の倉持に「な? 噓じゃねーよな? 一緒に見たもんな?」

「うん、まぁ……」倉持が肩をすくめ、目をそらし「ちょっとおっきいカナヘビって感じもしたけど、あんまりよく見えなかったし、ツチノコと言われればツチノコだったかな、なんて……」

〈ちょっとおっきいカナヘビじゃねぇか〉

「ちげーよ! あれは正真正銘ツチノコだっつーの! おれちゃんと見てっから! ツチノコだったから!」荒ぶる泉を、倉持がなだめる。「あぁ~、くそ~、写真撮っときゃよかった~」身長百六十センチのくしゃくしゃの茶髪を()でながら、小型犬みたいだな、と身長百八十センチの倉持は思う。

〈せっかく一番後ろの席にしたんだから、そっからスクープ拾えないの?〉

「それが拾えてねーんだよ~」泉が落ち着きなく身体を揺らし「吉岡がたまに鼻クソほじってんのが見えるくらい」

〈そんなん記事にしてもしょうがないしな〉

「な」

「先週はけっこう良い記事もあったんだけどね」倉持がノートを見返す。

〈先週なんだっけ?〉

「『藁科、望月先生に正式に振られる!? 入学式からの恋、実らず──』」

〈かわいそうだから記事にしてやるなよ〉

「もうさ、『山田、声だけになって復活!? とかでよくね?」

〈絶対ダメだろ〉

「なんでだよー。別にいいっしょ」

〈合い言葉の意味がなくなるだろ〉

「意味なんてねぇよあんな合い言葉に」

「まぁまぁ」倉持が間に入り「山田くんがスピーカーになって復活したことは、二年E組のみんなだけの秘密にするって決めたでしょ?」身を(かが)め、泉の目を(のぞ)()み「だから記事にしちゃダメだよ」

「そんなんわかってっけどさー」泉が顔をそむけ、気まずそうに口を歪め「でももうネタがねーんだもん」

「そうなんだよねぇ」ノートをぱらぱらとめくり「花浦先生にインタビューして、亡くなった元カノさんの話を記事にするのは?」

「んなもん誰が興味あんだよ」

〈いいんじゃない? 俺それけっこう読みたいかも〉

「あぁ!」泉が声を張り上げ、倉持がひらきかけた口をつぐみ、もあんもあんと残響が教室を満たし「山田の死の真相を記事にするってのはどうよ!?」

 倉持は眉を傾け、ほくほく顔の泉を見つめる。

「……ん?」

「だからさ、山田の死の真相を突き止めて、記事にすんだよ! 最高じゃね?」

「山田くんってさ、」スピーカーに「飲酒運転の車に轢かれて亡くなったんだよね?」

〈そうだよ〉

「そりゃ表向きはそうかもしんねーけどさ、真犯人がいる可能性もあるわけじゃん! それをおれらで突き止めようっちゅー話よ!」

「犯人って、」またしてもスピーカーに「車を運転してた人だよね?」

〈そう〉さめた声が響き〈もう捕まって、裁判も始まるって聞いた〉

「だよね」倉持が苦笑いを浮かべ、泉に「犯人、もう分かってるらしいよ」

「だーかーらー、それは警察がそう言ってるってだけの話っしょ?」

「警察がそう言ってたら大体そうじゃない?」

「だっ、おまっ、分かってねーなー。ジャーナリズムのかけらもねーよ」

「いやいや」

「警察なんて噓しかつかねーんだから」

〈暴論だろ〉

「まぁ他にネタもないし、刺激的でおもしろいとは思うけど、」芯を引っ込めたシャーペンの先で、手元の(けい)(せん)をなぞり「でもね、ほら、」困った顔でスピーカーを見上げ「本人がこう言ってるわけだし……」

「倉持、冷静になれよ。スピーカーの言うことを信じんのかよ」

〈信じてくれよ、さすがに〉

「んー、悩ましい」

「まぁ百歩譲ってスピ山の話を信じるとしても、」〈スピ山ってなんだよ〉「被害者本人が気づいてない真相もあるかもしんねーわけじゃん」

「うーん」蛍光灯を見上げ、考えを巡らせたあとで「まぁそうか。それもそうかもね」

〈おい、倉持まで。納得すんなよ。おい〉

「だよな! そうと決まったら、さっそく取材開始だぜ!」

〈おーい。無視すんな。車に轢かれて死んだんだって、俺〉

「まずは聞き込みかな?」『山田くんの死の真相を探る!』と大きく書き「誰に話聞けばいいんだろ?」

〈おい。倉持だけでもしっかりしてくれ。泉はもう(あきら)めてるから。せめてお前がブレーキ踏んでくれ〉

「山田の交友関係を探るって意味では、中学から一緒の和久津に話聞くのがいいかもなー」

「なるほど。そうしよう!」『・和久津くんに聞き込み』と記し「和久津くん囲碁将棋部だけど、今日は部活休みだから、もう帰っちゃってるかもね」

「だなー。じゃあ来週月曜に話聞くか」

「そうしよう」『月』と書いて丸で囲み、ノートを閉じる。

〈だから聞かなくていいって。犯人もう分かってるから。酒飲んで運転してたやつだから。事故だから。記事にする必要ねぇから〉

「今日の編集会議はここまで!」泉がノートと筆箱をカバンにしまい、指をぽきぽきと鳴らす。「週明けからガンガン取材してくから、()うご期待」


 *


「でさ、」メロンソーダを一息に吸い上げた泉が「誰が山田を殺したと思う?」

 和久津はぽかんと口を開け、目の前のコーラをストローでかき混ぜる。「……話が見えねぇんだけど」

「ほら和久津くん、この学校で唯一、山田くんと同じ中学出身でしょ?」倉持がソーサーを持ち上げ、紅茶を口に含む。飲み下し、「山田くん人気者だし、おもしろいし、本当に性格良いから、恨みを持ってる人なんて誰もいないと思うんだけど、中学から山田くんを知ってる和久津くんなら、山田くんに恨みを持ってそうな人に、もしかすると心当たりあるかな? って」ふぅ、と呼吸し、またカップに口をつける。

 月曜日の放課後。穂木駅前のファミレス。

 奥まったテーブル席で、泉、倉持と和久津が向かい合っている。

「そういや山田、コーラとメロンソーダ混ぜて飲むの好きだったよなー。あれ色やばいけど意外とうめぇんだよなー」

「泉、勝手に話題変えないで」

「え、まず、山田って、」和久津は目をしばたたき「誰に殺されたとかじゃなくて、自動車事故なんじゃねぇの?」

「そう思われてんだけどさー」

「そう思われてるとかじゃなくて、本人がそう言ってたぞ?」

「本人が言ってるだけっしょ?」泉が不敵に口角を上げ「本人が知らない事実なんて、この世にごまんとあるわけだから」

「でもあいつ、猫助けようとして赤い車に轢かれたって、復活した日にはっきり言ってたぞ?」和久津が()(けん)(しわ)を作り「あれが噓ってこと? 山田あのとき自分が死んだかどうかもよくわかってなかったし、噓つく理由も余裕もなくないか?」

「噓はついてねーと思うけど、」泉がストローの袋を半分に折り「本人も認識できてない事実が、なんかあるんじゃねーかなー、って」さらに半分に折る。

「たとえば?」

「たとえば、かぁ」さらに半分に折ってから、左を向き「倉持なんか思いつく?」

「え、なんだろう」こめかみを指で押し「猫を用意した誰かがいた、とか?」

「なんだそれ」和久津が鼻から息を漏らす。「そんなんで殺せるわけないだろ。車が突っ込んでくるかどうかもわかんねぇのに」

「車道に向けて、山田の背中を押した誰かがいたとか?」

「あいつ、猫助けるために自分で車道に飛び出したんだろ? 関係なくないか?」

「むぅん」

「それに、もし背中押されたなら、まっさきにそれを思い出すだろ」

「そうかもしんねーけどさー、」繰り返し折り畳んだストローの袋を、また元の長さにひらき「でもなーんか引っ掛かってんだよなー」

「ただの不幸な事故だと思うけどなぁ」和久津はグラスを持ち上げ、黒く染まった氷を嚙み砕く。「飲酒運転の犯人は、まじで殺してやりたいくらい憎いけど」

「山田さ、夢でサメにちんこ嚙まれてめちゃくちゃ痛かったとか言ってたじゃん?」

「そんなん言ってた?」和久津が笑うと、

「言ってたよ」「確実に言ってた」倉持と泉が同時に答える。

「痛みを伴う夢って、」泉が言葉を継ぎ「現実世界で何らかの不安を抱えてるやつとか、ネガティブな感情に(とら)われて心が不安定になってるやつとかが見やすいらしいんだよなー」

 和久津が重たそうに顔を上げ「たまたまじゃね?」

「山田くん、なにか不安に思ってることとかあったのかな?」

「特にねぇと思うけど」

「そっか」ノートの上を、シャーペンを握った右手がさまよう。「山田くん、中学のときってどんな感じだった?」

「……別に、今と大して変わんねぇよ」

「人気者だった?」

「それなりにな。サッカー部で、人を笑かすのが好きで、友だちも多かったよ」ストローがこぼれ落ちないよう手で押さえながら、グラスに直接口をつけ、氷ごと飲み干す。「おかわり行ってくる」

 ドリンクバーへ向かう和久津の背中を、二人で見送る。

「収穫、ねぇかもなー」

 倉持は頷き、シャーペンを筆箱にしまう。


 *


 火曜日、放課後。管理棟の外に(しつら)えられた三人用のベンチに、泉と高見沢と倉持が座っている。

「ごめんね、急に呼び出しちゃって」(ひざ)の上にノートを広げた倉持が、シャーペンをノックしながら高見沢に顔を向ける。

「ううん、ぜんぜん、」高見沢は膝に載せたカバンに「ぜんぜん大丈夫」(こぶし)二つを載せ、きゅっと身体を縮こまらせている。

「んな緊張すんなよー」泉が高見沢の両肩を「取材つっても、ちょろっと話聞くだけつーか、」学ランの上から()みしだき「世間話みたいなもんだからさー」

「うん、いや、ありがとう」高見沢は頷き、ベンチの前の池に目を落とす。ひつじ雲を映した水面(みなも)に、木々の影がまだら模様を浮かべている。

 高見沢の肩から外した手を、泉は空に伸ばし、口も押さえずあくびをする。

「ねぇ、泉、よくない。せっかく時間もらってるのに、あくびはダメ」

 泉と倉持に挟まれた高見沢は、二人の顔を交互に見て、空気をほぐすように笑う。

「でね、高見沢くんに聞きたいことなんだけど、」倉持が仕切り直し「高見沢くんって、医学部目指してるでしょ?」

「うん」

「えらいよねぇ。成績、学年トップクラスだもんね」倉持が(ほほ)()み「僕なんか、高校入ってからは平均点超えたら良く出来たほうって感じで。中学まではいつも上位だったんだけどなぁ」穂木高は県内の私立で最上位の偏差値を誇るため、多くの生徒がこのような問題に直面する。「文学部志望だし、まぁいいかとも思ってるけど」穂木高を卒業する生徒の多くがエスカレーター式で啓栄大学に進学するが、学部の選択権は三年トータルの成績上位順に与えられる。文学部や商学部は例年、推薦枠に対し志望者数が少ないため、留年しないギリギリの成績でも問題なく希望の学部に進むことが出来るが、人気の法学部や経済学部へ進学したい場合は平均を上回る成績を求められ、学年二百十六名に対し推薦枠七名と最も競争の激しい医学部へ進むためには、学年トップクラスの成績が必要となる。

「いやいや、ぜんぜん、そんな」高見沢が首から上を揺すり、(けん)(そん)する。「部活も入らないで、勉強ばっかしてるから」

「新聞部もほぼ帰宅部みたいなもんだけどなー」泉が天然パーマの後頭部をわしゃわしゃと()き「週一でゴシップ発表してるだけだし」指先の匂いを()ぐ。「それなのに二人とも、成績微妙っていうね」

 泉、これたまにやるけど、自分の頭皮の匂い好きなのかな、と倉持は思う。

「でも泉くんと倉持くんの新聞、いつも面白いし、すごいって思ってる」

「またまた~」泉は喜びのあまり「ありがとうぇ~い」高見沢の(わき)(ばら)をくすぐろうとするが「こちょこちょうぇ~い」学ランの()()が硬く、高見沢のリアクションがほぼ無いため、「ほんでね、」居住まいを正し「次の記事のテーマが、山田の死の真相を探るってことなんだけどね」

「えっ」高見沢が目を丸くする。「……山田くんの、死の真相?」

「そう」

「真相って、飲酒運転の車に轢かれたんじゃないの?」

「そりゃ表向きはそういうことになってんだけどー、もっといろんな可能性を探ろうっちゅーわけ」

「可能性も何も、本人が言ってたんじゃ」

「そうなんだけどー、ほら、ジャーナリズムってのはさー、なんでもかんでも()()みにしちゃいけないわけ。いろんなもんをね、こう、疑ってかかんないと、話になんないわけ」

「はぁ」高見沢が曖昧に首を倒す。

「それでね、」倉持に交代し「山田くんって、面白くて頭良くて誰にでも優しくて、非の打ちどころがないでしょ? だから、山田くんに恨みを持ってる人って、この世にいないんじゃないかって思うの」

 高見沢が無言で頷く。

「昨日、中学から山田くんと一緒だった和久津くんにも話聞いたんだけど、めぼしい情報は得られなくて……」そういえば今日、和久津くん休みだったな、と倉持は思う。「それで、恨みとかではないけど、山田くんがいなくなることで得をする人物がもしいれば、山田くんの死を望む理由になるんじゃないかって思ったんだ」

 風が弱く吹き、一枚の落ち葉が水面をわずかに(すべ)って止まる。

「でね、山田くんも、医学部目指してたでしょ?」

「うん」

「だからさ、失礼な言い方になっちゃうかもしれないけど、山田くんが亡くなって、高見沢くんにとっては、ライバルが減ったことになるんじゃないかな?」

 強い風が吹く。

 頭上のケヤキから葉がまとまって落ち、空を映した水面を波紋が覆う。

 葉が不規則に滑り、ひつじ雲を裂いていく。

「失礼だな、ほんとうに」高見沢の顔がひきつっている。「僕、山田くんがいなくなって、ほんとうに悲しんでるのに」

「ごめんね」

「僕はね、」倉持の声に(おお)(かぶ)さるよう、語気を強め「山田くんに救われたんだよ」

「そうだよね、変なこと訊いて、ごめんね」

「ちがう、わかってない。僕、山田くんのおかげで、学校が楽しいって思えるようになったんだ」

「そうなんだ」顔が(しび)れたみたいに、うまく表情を作れない。「そうなんだね」

「僕、部活もすぐやめちゃって、一年のときずっとひとりぼっちで、」

「うん」

「でも二年になって、山田くんが話してくれるようになって、すごい楽しくて、」

「うん」

「山田くん、あんなに人気者なのに、あんなに誰とでも楽しそうにしゃべるのに、たまにひとりでいるでしょ?」

「うん」

「それを見て、あ、ひとりでいいんだ、って。ひとりでいても、誰かといても、別にいいんだ、って。だから、山田くんと同じクラスになってから、ひとりでいても、会話に参加できなくても、ひとりぼっちじゃないんだって思えるようになって。学校にいるのが、すごく楽になって。そうなってから、山田くんとか、他の人とも、楽しく、自然に、話せるようになって」震える左の拳を、右手で包むように撫で、息を吸い「だから僕が、」泣き出すみたいに笑い「山田くんを殺すわけないじゃない?」

「そっかー、そうだよなー」泉がカバンを摑み、腰を上げる。「なんかほんと、変なこと訊いちゃってごめんなー。高見沢からそれ聞けただけで、今日はもう満足だわー」木漏れ日が、泉のむず(がゆ)そうな顔を照らしている。「倉持、行こうぜ」

「うん」倉持はシャーペンとノートをしまい、立ち上がる。「高見沢くん、本当にごめんね。今日はありがとう」もう歩き出している泉を気にしつつ、高見沢の目を見て「さっき言ってたこと、僕も、分かる」声量を落とし「僕は泉がいてラッキーだったけど、いなかったらきっと、僕もそうだった。だから分かるし、山田くんのそういうとこが、心底好き」カバンを肩に掛け、泉を追いかける。


 *


 水曜日。二限の世界史を終え、教室を出ていく二瓶を、泉と倉持が尾行する。

「時間ないけど、ちゃんと話聞けるかな?」

「余裕っしょ。三限まで二十分あるし」

「昼休みじゃダメなの?」

「昼は別のやつに話聞かなきゃだから」

 二瓶が二階まで降り、トイレに吸い込まれる。泉と倉持は後を付け、小便器に立つ二瓶を両側から挟む。

「はい二瓶ちゃん。おしっこ出てる間だけでいいから、ちょい話せるー?」

「うおうっ」二瓶がびくんと肩を震わせ「なんだよ。びっくりさせんなよ」尿が一筋、便器の外に()れる。

「うわぁっ、汚っ」

「お前が急に話しかけるからだろ。というか見んじゃねぇよ」

「しかし野球部の新エースともなると、やっぱ、でかいな。これはこれで記事にしよかな」

「だから見んじゃねぇよ」

「泉、早く本題入って。おしっこ終わっちゃう」

「二瓶ちゃんさ、ぶっちゃけ山田のことどう思う?」

「はぁ?」尿が勢いよく、小便器を(たた)く。「どういう意味だよ」

「おれ調べだと、山田が復活してから、クラスで唯一あいつと会話()わしてないのが、二瓶ちゃんなんだよねぇ」

「なんだそれ」

「夏休み前まではフツーに、山田としゃべってたじゃん。なんかあった?」

「なんもねぇよ。……ただ、」尿が断続的になり、ぼたぼたと(しずく)を垂らして止まる。「終わったわ。じゃあな」

 二瓶は洗面台で指先だけ()らし、水滴を振って立ち去ろうとする。

「ちゃんと(せっ)(けん)で手ぇ洗えよー。(きたね)ぇなぁ」泉がドアの前で通せんぼする。「エースがちんこ触ったままの手でボール投げていいと思ってんの?」

「いや、」

「ちんこ魔球投げんの? 打者に失礼じゃね? 野球の神様に嫌われね?」

 二瓶が舌打ちし、再び洗面台へ向かう。ハンドソープを(あわ)()てる。

 泉だっていつも石鹼で手洗ってないじゃん、と倉持は思いながら、二瓶の隣に立つ。

「『ただ、』なに?」倉持は言葉の続きを促す。「山田くんと話したくない事情があるの?」

「事情ってほどじゃねぇけど、」手に泡をつけたまま、倉持の目を見て「……気味悪くね? フツーに」

「え?」

「みんな山田の復活喜んでるから言い出しづらかったんだけどさ、声だけの山田、俺、ちょっと受け入れらんなくて」蛇口に視線を戻し、泡を流す。「山田のこと、嫌いとかじゃ全然ないんだけど、話す気になれない」

「うわぁ! 血も涙もない! 冷酷エース!」泉が(はや)()てる。「せっかくスピ山復活したのに、なんでそんなひどいこと言うの? 人の心をマウンドに置いてきた?」

「ほらやっぱ、そういう反応になんじゃん」二瓶が苦い顔で、濡れた両手を振る。「だから言いたくなかったんだよ」飛ばしきれなかった水分をズボンで拭い、泉の目を見て「俺ちいさい頃から、人の目を見てしゃべるよう言われてきたからさ。目ぇ見ないでしゃべんの、なんか気持ち(わり)ぃのかも」

「電話だってそうじゃん」

「電話も俺、苦手だから」

「ふぇー、」泉が口を尖らせ「でも冷たくね? さすがに」

「いや、それに俺、野球のことで精いっぱいだから今。三年の先輩が引退して、新チームの背番号1、渡されて。正直山田のこと考えてる余裕ねぇん」「はいはいはいそーですかそーですかえらいえらいやっぱエースは違うね初めての甲子園目指してがんばってつかぁーさいっ!」泉は(きびす)をめぐらせ「無慈悲なデカチンはほっといて取材続けっぞ! 人間の価値はちんこのでかさと球の速さに関係ないってこと証明してやろうぜ!」二瓶より先にトイレを飛び出す。


 *


 昼休み。食堂からホームルーム棟へ繫がる渡り廊下の端。

「百瀬くん、ほんとにここ通る?」ノートを胸に抱えた倉持が、降りしきる雨を横目に、からだを震わせる。一階の渡り廊下は吹きさらしになっていて、雨が地面を打つ音が両側から聞こえる。

「毎週水曜、百瀬は大塚と関と食堂でメシ食って、十二時四十五分にホームルーム棟へ戻ってくる」雨と、行き交う穂木高生を眺め、泉が呟く。

「すごいね。なんでわかるの?」

「新聞部だからなー」

「ふぅん」昨日までからっと晴れていたのに、「僕も新聞部なんだけどな」今日は朝から雨模様で、少し寒い。

「それが部長と副部長の差ってやつだな」八重歯を光らせ、倉持を見上げる。泉みたいにカーディガン()()ってくればよかった、と倉持は思う。

「呼び出せばよかったのに」

「そんなんしたら、変に警戒されちゃうっしょ」

「どうやっても警戒されるよ」

「まぁまぁ」濡れた木と土の匂いが、北側の森から漂ってくる。「突撃取材のが、おれらっぽいじゃんか」

()りないねぇ」夕方から晴れる予報だけど、そうは思えないくらい、外は雨にすっぽり包まれている。「あ、和久津くん」

 食堂のほうから「おっ、新聞部」和久津が一人で歩いてきて「まだ取材やってんの?」

「見りゃわかんだろ」

「見てもそんなわかんねぇよ」

「和久津くん、昨日なんで学校休んだの? 風邪?」

「んー、そうね、」雨に目を向け、視線を戻し「風邪」

「んな一日で治る風邪があるかよ」

「あるだろ、フツーに」笑い、倉持のノートを見て「なに? 誰か待ってんの?」

「百瀬」「百瀬くん」

「いたよ、食堂」

「だろうね! リサーチ済みなんでね! こちとら」泉がうねる茶髪に手を突っ込み、地肌を搔く。

「ねぇ泉、来た」

 和久津が振り返る。百瀬と関と大塚が、連れ立って歩いてくる。「じゃあな」

 三人がどんどん近づいてくる。泉は指先の匂いを嗅いでいる。「来てるって」

「へいへい百瀬、」泉がぱっと顔を上げ「へい百瀬、」(おお)(また)に足を進め「ちょっと時間よろしいー?」百瀬に話しかける。

「えっ?」泉に押されるように後ずさり「なんだよ、いきなり」関と大塚も立ち止まる。

「新聞部の取材でさ、五分から十分くらい、時間くんねぇかなー?」泉がぐいぐい前に出るので、倉持とだいぶ距離が空く。

「いいけど……」

「今度はなんの記事?」関が興味津々に訊くが、

「ひ・み・つ」リズミカルに指を振り「つーわけで、百瀬こっちこっち」手招きし、倉持の待つ端へ戻ってくる。

 百瀬が「えっと、」関と大塚を()(ごり)()しそうに見るが、

「俺ら先戻ってるわ」「今週もスクープ、期待してっから」ホームルーム棟へ消え、ひとり取り残される。

「ごめんね、急に呼び止めちゃって」倉持はノートをひらき、シャーペンをノックする。「すぐ終わるから、立ったままでいいかな?」

「あー、まぁ、すぐ終わるなら、」百瀬は倉持とほぼ同じ身長だが、筋肉量に大きな差があり、並ぶと倍くらい厚みが違う。「うん」

「時間もねぇから単刀直入に聞くけどさー、」泉が百瀬を見上げ「まず、山田がラグビー部やめた原因、百瀬にあるってことでおっけー?」

「泉、言い方」倉持は泉をたしなめ、百瀬に向き直り「ごめんね、そうじゃなくて、百瀬くんを責めたりする意図は一切なくて、事実関係の確認なんだけど、山田くんの怪我の原因が百瀬くんにあるというのは、本当?」

 雨の音が聞こえる。

「……本当だけど、」声が低く響き「というかお前ら新聞部なんだから、それぐらい把握してるだろ」

「まぁなー」泉が首肯する。去年の七月、夏休みに入る直前に行われたラグビー部の新人戦で、山田は全治三ヵ月の怪我を負った。試合再開時のラインアウトでジャンパーを任された山田は空高く跳び上がり、前後二人にリフトされながらボールを待ったが、前を支えていた百瀬が手を滑らせ、頭から落下し、両手をフィールドに突き、左手の(とう)(こつ)(しゃっ)(こつ)、右手の橈骨の計三本を骨折した。完治した後も山田はラグビー部に寄り付かず、退部届を提出し、外部の友人とバンドを始めた。「いやー、ほんとに聞きたいのはさー、」泉が背伸びをし、百瀬の耳元で「あの件以後、百瀬、ラグビー部でかなり居心地悪くなったって聞いてて。ほら山田、人気者じゃん? プレー中の事故とはいえ、結果的に百瀬のせいで山田が部活やめることになったわけで、百瀬のことよく思ってないやつがそれなりにいるって(うわさ)でさー、」

 百瀬が周囲の目と耳を気にしつつ「まぁ」声を潜め「否定はできねぇな」

 倉持はノートにペンを走らせる。脳裏に米村がよぎる。

「で、こっからが本題なんだけど、」泉が(つば)を飲み込み、「山田が部活やめてなけりゃ、またラグビー部に戻ってきてくれてりゃ、こんな居心地悪いこともなかったのになぁ、とか、思ったりする?」

 雨脚が激しい。

 無数の雨粒が葉やコンクリートを叩く音が、倉持の両耳を(ふさ)ぐ。

「俺が、山田を、」雨音の合間を縫い「(さか)(うら)みしてるって?」震える声が、耳に届く。

「そういう可能性も、なくはねぇかなー、なんて」

 百瀬は押し黙り、泉を見つめる。

「なんで山田、死んだんだろうなー、って」

 雨の音だけが聞こえる。

「馬鹿だろ、お前ら」百瀬は言い捨て、ホームルーム棟へ去っていく。

 ただ雨が降るのを、倉持は目に映す。


 *


(はと)多い街、おれ、やなんだよなー」(はる)()(おか)駅のロータリーに群がる鳩から距離を取りつつ「怖くない? 鳩」泉が足を進める。

「べつに怖くない」

「噓っしょー。だってクチバシこんな尖ってんよ? 刺さったらどうすんのまじで」

 放課後、泉と倉持は電車で一時間を掛け、山田の家の最寄り駅である春見ヶ丘を訪れている。

「刺さらないよ」

「刺さらないとは言い切れないだろうが」閉じた長傘を振り回し、路面の濡れた下り坂をゆく。雨は上がり、くすんだ雲の(すき)()から、薄い青空が顔を出している。

「事故からもう一ヵ月経ってるけど、何か見つかるかなぁ」

「どうだろうなー。とはいえもう現場検証ぐらいしかすることねぇしなぁ」交差点で立ち止まり、大通りに進路を変える。「歩道橋、って言ってたよな?」

「うん」点滅する青信号を気にしつつ「たしか復活した日、」横断歩道を渡り終え「歩道橋のそばの、パン屋の前で事故に遭ったって言ってた」

「おけおけ」傘の先で、黄色い点字ブロックをなぞる。「歩道橋のそばのパン屋を探せばいいわけだ」

「大通りだから、どこかに歩道橋ありそうだよね」(かたわ)らでは、四車線を車が行き交っている。

「駅の反対側だったら絶望だけどなー」方角が分からないので、賑わってそうな南口へひとまず出てきた。「十分くらい歩いて、それっぽいのなかったら引き返そうぜ」

「うん、そうする」ガソリンスタンド、コンビニ、音楽教室、「なんか、山田くんの取材はじめてから、」カフェ、学習塾、マンション、「いろんな人のこと、」そば屋、理容室、ドラッグストア、「無駄に傷つけただけな気がする」皮膚科、バレエスタジオ、クリーニング屋の前を通り過ぎる。

「そんなもんっしょ、ゴシップ記者なんて」泉が真顔で、倉持に向き直る。

「そんなもん、なのかなぁ」

「下世話でなんぼっしょ」水を()めたマンホールを、傘でつつく。「百瀬とかちょい怪しかったし、聞き込みした()()はあったんちゃう?」

「んー、」それっぽい店構えだったので立ち止まり、看板をよく見る。ケーキ屋さんだ。歩道橋も見えない。また歩き出す。「百瀬くんに、山田くんへの殺意を()(いだ)すのは、さすがに無理筋な気がする」

「……まぁな」

「百瀬くんが山田くんを恨んでいたとは、どうしても思えない」

 反対側の歩道に並ぶ建物を眺めたまま「百瀬いいやつだもんな」

「うん」鳴き声がして、見上げる。カラスが()()、電線に止まっている。「カラスは怖くないの?」

()ぇーに決まってんじゃん」泉の速度が増す。「鳩より怖ぇーよ」靴底が滑らないよう気を付けながら、倉持も歩調を合わせる。

 せっせと歩く泉に笑い、「二年E組、良い人多いよね」

「逆に悪いやついるか? このクラス」

「んー、」倉持が首を傾げ「泉?」

「なんでやねん」泉が手の甲を、倉持の胸にばしっと当てる。

「噓噓、」はじけるように笑い「泉はいいやつだよ」

「そう言われちゃうと、」手をゆっくりと下ろし「逆にどう返していいかわかんねーわ」

「ふふ」

「つーかあれじゃね?」泉が前方を指差し「歩道橋と、パン屋」

 道がカーブした先に、白い歩道橋が見えてくる。視線を落とすと、たしかにそれらしき店がある。

 足を速める。

 木目調の看板、Bakeryの文字が目に入る。

「あ、花」

 歩道と車道を(へだ)てる植え込みの手前に、小さな(はな)(たば)が三つ、供えられている。

「ここだ」

 立ち止まる。

 横を走り抜ける車のスピードが、いつもの何倍も速く感じる。

 歩道橋を見上げる。

 雲がびゅんびゅんと流れ、窓から覗くようだった青空が、水をこぼしたように広がっていく。

「山田くん、ここで亡くなったんだ」

「あ、猫」

 泉が屈む。

 植え込みの陰に、猫がいる。

 灰色の毛は雨に濡れ、よく見ると片目が潰れている。

「もしかしてお前、山田に助けられた猫?」

 泉が傘を放り、(ちゅう)(ちょ)なく猫を抱き上げる。猫は信じられないほど大人しく、泉に抱えられるがまま、左目だけをひくひくと動かし、世界をどうにか(とら)えようとしている。

「おれさ、」泉が振り返り「言ってなかったけど、猫語わかんだよ」

「……猫語?」

 泉の腕の中で、猫がか細く鳴く。

「あー、なるほどな、」泉はしたり顔で頷き「『晴れてよかったね』って言ってるわ」

「ほんとに言ってる?」

 猫の左目が、倉持を見上げる。

 真っ黒で丸い(ひとみ)が、洞穴のような瞳が、倉持を見つめている。

 泉が猫を揺すり、視線が切れる。

「なぁ猫、」猫の顔に、顔を近づけ「お前、一ヵ月くらい前、山田に助けられたのか?」

 猫が前脚で宙を搔き、肉球が泉の首に触れる。

「金髪で、目の下にほくろがある、」猫の身体を倉持に向け「こいつよりちょっと背が低いくらいの、高二の男なんだけどさ」

「高二とか分かるの?」

 倉持の問い掛けを無視し、猫に向き直り「覚えてるかな?」

 消え入りそうな声で、猫が鳴く。

「やっぱそうか! 山田がお前を助けたのか!」泉は満足そうに猫を高く掲げ「お前よかったな~。幸せもんだなぁ」

 猫はよくわかっていない顔で泉に脇を支えられ、胴を長く伸ばしている。

「もし覚えてたらさ、山田に助けられたときの状況、教えてくんねぇかな?」猫がちいさく鳴くが、聞き取れなかったようで「ん? ごめん、もっかい」猫の口を自分の耳に押し当て「うんうん、なるほど、……えっ? それまじ? まじか。そうかそうか、うん、なるほどね、」濡れた動物の匂いが、倉持の()(こう)まで立ち昇る。「よーくわかった! ありがとな!」猫を地面にそっと下ろし、しゃがんだまま、倉持を見上げる。

「これ今何してるんだっけ?」

「大丈夫だ。安心しろ」立ち上がり、自信満々に言い放つ。「謎は全て解けたぜ」


 *


「山田、よく聞け。お前を殺した犯人が分かったぞ」

 木曜日の放課後。教室。

「驚いて声も出ねーってかー? おれと倉持の綿密な調査で、ついに犯人突き止めたっつってんの」

 教室の中心に泉と倉持が立ち、スピーカーを見上げている。

「おーい。山田~」

 泉の声だけが、教室に響き渡る。

「スピ山~。いねぇのー?」スピーカーに向けた人差し指を、トンボの目を回すようにぐりぐりと動かす。

 反応はない。

「おい、山田、返事しろよ。犯人分かったんだって」

 倉持が泉の肩を叩き「例のやつ、言わなきゃ」

「おちんちん体操、男子個人総合」

〈勝手に競技化すんなよ。おちんちん体操第二な〉

「なんだよ~。いんじゃねぇかよ~。返事しろや~」

〈だから合い言葉言ってから話しかけろ、って何度言えばわかんだよ〉

「別にいいじゃん」

〈よくねぇよ。こっちは他誰が教室いるかわかんねぇんだから〉

「そんなことより、おれの調査結果を聞けよ」

〈別にいいけど、調査も何も、俺死んだの事故だよ?〉

「うっせぇ。いいから耳かっぽじってよく聞け」

〈かっぽじる耳がねぇんだよ〉

「山田を殺した犯人は、」泉は次の言葉を口にする前に、浅く息を吸う。

 声にならない呼吸を繰り返し、永遠のような溜めを作った後で、

「灰色の車を運転していた人間です」

 長い、無音の時間が過ぎる。

〈ん?〉山田の声が降り〈ごめん、よくわからん。なんて?〉

「だから、山田を轢き殺した車は、赤ではなく、灰色だったのです」

〈いや、〉思い出すような間が空き〈どう考えても、赤だったけど……〉

「でも猫が言ってたからな~」倉持に向き直り「言ってたよな?」

「僕はわかんないけど、泉は猫語わかるらしくて、」倉持はスピーカーを仰ぎ「昨日の放課後、山田くんの住んでた春見ヶ丘に二人で行って、山田くんの轢かれた現場も見つけて、そこに猫がいて、その子がどうやら山田くんが助けた猫らしくて、」

〈どんな猫?〉

「えっと、灰色で、片目を怪我してる、ちいさい猫なんだけど、」

 息を()むような音が、スピーカーから聞こえる。〈それ、まじで俺が助けた猫かも〉

「やっぱそうじゃんか!」泉が叫び「その猫に話聞いたんだけどさー、道路だって気づかず座ってたら、金髪の男にいきなり持ち上げられて、植え込みに投げ込まれて、びっくりして振り返ったら、灰色の車にその男が()()ばされたっつってんだよ!」声のボリュームが上がっていき「山田、赤い車つってたけど、灰色じゃん! 噓ついてんじゃん! こりゃあ大スクープだぜ! ってわけよ。どうだ山田、観念したか! 真実を()くなら今のうちだぜ!」

〈あー、〉と言ったきり、沈黙が続く。

 泉は頰を上気させ、倉持にガッツポーズを見せる。

 倉持は考える。

 本当は灰色の車に轢かれたのに、赤い車に轢かれたと、山田くんがとっさに噓をついた。

 そうだとして、その噓は、いったい何を示すのだろう。

〈うろ覚えだから、ちょっと自信ねぇんだけど、〉山田が声を発し〈猫ってたしか、赤色わかんないんじゃなかったっけ?〉

「え?」勝利の余韻に浸っていた泉の顔が、みるみる曇っていき「そうなん?」

〈たしかそう。色を見分ける細胞? みたいなのが人間より少ないから、猫は赤が全部グレーに見えるって、昔テレビで観た気がする〉

「まじ?」倉持を見て「知ってた?」

「いや、知らなかった」倉持は携帯で『猫 赤色 見えない』と検索する。「あ、本当だ。青とか緑とか黄色は見分けつくけど、(すい)(じょう)(たい)が少ないから、赤色は認識できないって」

〈ほら、やっぱそうだ〉

「なるほど」泉は(うつむ)き、あごに手を当てる。「すなわち、」顔を上げ「山田は赤い車に轢かれて死んだってわけだ」

〈だから最初からそう言ってんじゃん〉

「ふむ」また俯き「つまりは、」思案げな顔を作り「最初からそう言ってた通りってわけだ」

〈そう言ってんじゃん〉

「なるほどな!」泉は手のひらをぽんと打ち、笑顔で倉持を振り返り「どうしよう! 明日のスクープがなんもねぇや!」

「だね。どうしようね」なんとも言えない笑顔を()()けた泉を見てたら、倉持も笑えてきて、「とりあえず、今日中になんとか絞り出さなきゃだね」

 つられて笑い声を漏らすスピーカーを見上げ、泉が「なに笑ってんだ、お前のせいでこうなってんだぞ」

〈いや絶対俺のせいじゃないだろ〉

「お前が紛らわしい色の車に轢かれるから」

〈クレーマーすぎる〉

「つーかスピ山と話してる場合じゃねぇ!」泉が教室のドアに手を掛け「倉持、急いでスクープ探しに行くぞ!」階段を駆け下りるので、倉持も慌ててカバンを手に取る。

「山田くん、ごめん、もう行くね」

〈おう、また明日な〉

 下へ下へ遠ざかっていく足音を、必死に追いかけるあいだも、倉持はまだ笑っている。


 *


 夜、歯を(みが)きながら、倉持は思い出す。

 泉に抱え上げられた猫の、真っ黒で丸い、洞穴のような瞳。

 あの猫は、あの目は、何かを伝えたがっていた気がする。

 気はするが、猫語を理解できない倉持には、それが何かわからない。


 夜


〈ちゃらっちゃ。ちゃっちゃらら、ちゃっちゃちゃ。ちゃっちゃらら、ちゃっちゃちゃ。ちゃらっちゃちゃ。ちゃらっちゃちゃんちゃんちゃん。

 こんばんは、ファイア山田です。毎週土曜日のこの時間はファイア山田のオールナイトニッポンをお送りしていきます。

 いやー、もう、今日で五回目? 五回目だよね? もう五回もこの放送やってんのかぁ。感慨深すぎる。つーか冷静に考えて狂気の()()だよね? こんな、誰も聞いてないラジオ、五回もやってんの。毎週これ放送しながら、放送つーかまぁひとりでしゃべってるだけなんだけど、何やってんだろうなー俺、とは思う。噓、思わない。思わないようにしてる。何やってんだろうな、って思ったら負け。完全敗北。というか「誰も聞いてない」なんて、架空のリスナーさんたちに失礼だわ。大変失礼しました! 今夜も元気におしゃべりしていきたいと思います! ファイア山田です!

 もうね、一ヵ月ですよ、声だけになって。って、先週もこれ言った気がする。さすがにね、一ヵ月も経つと、この生活にも慣れてきた気がするな。「生活」って変か。死んでんだから。死活? それも変だよなぁ。

 俺、声だけでも、戻ってきてよかったと思ってるよ。

 …………。

 ……って、黙っちゃダメだよな、ラジオだもんな。うん。元気におしゃべりしないとな。

 うん。よかったよ。

 みんないないときは寂しいけどさ。自分が死んだってこと、もう夕焼けとか見れないこと、二度とラーメンもカレーも食べれないこと、結局セックスできなかったこと、直視するとつらいから、直視しないようにしてるけどさ、でも、俺は、戻ってきてよかったと、思ってる。思いたい。だって素直に死んでたら、もうなにも感じられないわけで、二Eのみんなとも話せなかったわけで、そんなの寂しすぎるから。戻ってきてよかったよ。あの日、意識が途絶えなくてよかったって、思うことにする。決めた。現に戻ってきてるわけだから、うじうじ考えてもしょうがない。俺は戻ってこれてよかった。断言。もうそこは考えない。俺はみんなに会うために、教室に戻ってきたんだ。

 父ちゃんと母ちゃんにも会いたいけどさ。みんなと会えるだけで、うん、充分、かな。父ちゃんと母ちゃん、俺がこうなってるって知ったら、びっくりすんだろうなぁ。きっとびっくりして、毎日この教室来たいなんて言い出して、次、進めないもんなぁ。それはなんか、良くない気がするんだよ。だから父ちゃんと母ちゃんは、ここに呼べない。会いたいけど、声聞きたいけど、しょうがねぇよな。うん。そういや、さよシュレのみんな元気にしてっかなぁ。……あれ? さよシュレの話してないっけ? さよならシュレディンガー。俺のやってたバンド。ほら、いつもこのラジオでかけてる曲あるじゃん? あれ大体さよシュレの曲。俺はボーカル&ギターなんだけど、オリジナル曲は全部ギターの(なる)()が作っててさ。あとベースの()(だま)と、ドラムの()(あさ)。ネットの、バンドメンバー募集の掲示板で知り合って。みんなどうしてっかなぁ。俺いなくて寂しがってるかなぁ。

 そうだそうだ、めっちゃくちゃおもしろい話があってさ。先週の金曜からずっと、新聞部の泉と倉持が、俺の死の真相を探るとか言って、いろいろ取材してたわけ。でも結局なんも記事書けなくて、木曜の放課後、慌てて別の記事書いたらしいんだけど、なんの記事書いたと思う?

『桑名先生、やはり童貞か!? ──すでに三十のため、魔法を使える可能性あり』

 いや~、まじで笑ったわ。最高。これ朝、校門の前で配ってさ、みんな爆笑してたら、桑名先生にバレて、死ぬほど怒られたらしい。そりゃ怒られるだろ。あー、最高。あいつら最高だわまじで。しかもさ、その怒りっぷりがガチだったらしくて、泉が「あれは完全に図星のキレ方。記事の(しん)(ぴょう)(せい)がより高まった」とか言ってて、メンタル(はがね)すぎて笑ったわ。悪ガキすぎる。最高。倉持もずっと楽しそうに泉の暴走に付き合ってて、あいつも真面目だか不真面目なんだかよくわかんねぇよな。あー、めちゃめちゃ笑わせてもらったわ。

 つーことで、今夜のメールテーマは「怒られた話」。みんなの怒られたエピソード、なんでもいいので教えてください。本気でムカつくやつでも、くだらないやつでも、なんでも大丈夫。受付メールアドレスはヤマダアットマークオールナイトニッポンドットコム、ヤマダアットマークオールナイトニッポンドットコムです。メールを送ってくれたリスナーの中から、抽選で五名に、番組ステッカープレゼントします。デザインはリスナーのみんなの心に浮かんでるそれね。架空のリスナーさんだけだと、こういうとき便利だわ。

 はい。というわけで、ファイア山田のオールナイトニッポン、()(よい)も最後までお付き合いください。ここで一曲。さよならシュレディンガーで「青い渦」〉


 第四話 死んだ山田とカフェ


 山田が死んで、声だけになり、二ヵ月が経った土曜日。

 扉を開け放した二年E組の教室には華やいだ(けん)(そう)が流れ込み、四つずつ繫げられた机は赤いチェックのテーブルクロスで覆われている。

「こんな来ないもん?」(ほお)(づえ)をついた白岩が、「うおっと」(ひじ)を滑らせ紙コップを倒しそうになりながら、金髪のカツラに手を触れる。「つーかこれ取っちゃっていい? お客さん来たら着けるからさぁ」

「ダメだろ」別のテーブルに座る和久津が即答する。「山田カフェなんだから、お客さん入ってきたときにはちゃんと山田になってないと、世界観ぶち壊しだろ」和久津も金髪のカツラを被り、白岩と同じく、左目の下にほくろを()したシールを貼っている。

「でも、さっきから全然お客さん来ないね」小野寺がオレンジジュースの入った紙コップに口を付ける。「場所が悪いのかな。四階で分かりづらいし」

「たしかになー」川上が手を伸ばし、紙皿に移されたコーンポタージュのスナックを二つ摑む。「まぁでも、」サクサクと音を立てながら()(しゃく)し「別にいいんじゃね? 客、来なくても。ここでみんなでダベってりゃいいわけだし」指を舐める。

 教室には白岩、和久津、小野寺、川上の四人がいて、みな一様に金髪のカツラを被り、左頰にほくろを貼り付けている。

「えぇーおれ女の子と話したい」白岩がカツラを外し、黒いウィッグキャップ越しに頭頂部を搔く。「だって文化祭のときだけだぜ? 穂木高で女の子と話せるの」

「でもお前去年も女子と話せてなかっただろ。びびって」和久津が笑い「というかカツラ外すなよ」

()れるんだよな、これ」安っぽいカツラを、乾かすようにひらひらと(あお)ぎ「つか金髪でほくろ付けてても、一般のお客さんに山田って伝わんなくね? 芸能人じゃないんだからさ」

「伝わんなくても、やることに意義があんだよ」

「おれは反対してたけどなー、山田カフェ」スピーカーを一瞬見上げ「内輪ノリっつーかさ。山田のことは好きだけど、それとこれとは話が違うっつーか」

「お前そんなん言ったら山田かわいそうだろ」

「いやだから山田のことは好きだし、みんなで山田の格好して盛り上げようってのもわかるんだけど、それを外部の人も来るイベントでやるのはどうなん? 内輪ノリじゃね? って話」

「おちんちん体操第二」川上が唱える。口から黄色いスナックのカスが飛び、テーブルクロスに付着する。小野寺が横目に見て、こっそりウェットティッシュで拭う。

 数秒の沈黙を()て〈え、俺いま、〉小声で〈まじでしゃべっていいの?〉

「大丈夫大丈夫」川上がまたスナックを口に放り「誰も来る気配ないから」

〈急にお客さん来たらどうすんの〉

「いらっしゃいませー、って言うから、それ聞こえたら黙る感じで」

〈危なくね? スピーカーしゃべってんのバレたらどう言い訳すんだよ〉

「大丈夫大丈夫。スピーカーから声聞こえるの、別に普通だから」小野寺、和久津、白岩を順番に見て「いいよな? 放送室で誰かしゃべってる、的な感じで誤魔化せば」

「うん。全然いい」和久津は頷き、白岩に「だからカツラ被れって」

「しゃーないなぁ」カツラを装着し「伝わんないと思うけどなぁ」

「だから伝わる伝わらないの話じゃないんだって」

「でもほんとにお客さん来ないね」小野寺が呟く。「呼び込みとか行ったほうがいいのかな?」

「いーいーいー、行かなくて」川上がスナックを摘まみながら、入り口をちらっと見て「ここでみんなでダベってようぜ」

「えぇー川上、女の子としゃべりたくねぇのかよ」白岩が言うと、

「いや俺彼女いるから」紙コップに注いだコーラを飲み干し「別にいい」

「ずりぃなぁ。おれも彼女ほしいなぁ」白岩はいじけるように「なんで帰宅部に彼女ができて、バスケ部のおれに彼女できねぇかなぁ」

「囲碁将棋部も彼女いないから安心しろ」「合唱部もだよ」

「そのへんの部活が彼女いないのは、わかる」

「失礼すぎる」和久津がスピーカーを見上げ「山田、しゃべって大丈夫だけど?」

〈いや、ありがと。ありがとなんだけど、なんかやっぱ、文化祭で人いっぱいいると思うと、びびってしゃべれねぇわ〉

「平気平気」川上が指に付いたコーン味の粉をしゃぶり「隣の二Fでやってる座禅カフェも人ぜんぜん来てないっぽいし、安心してしゃべりたまえ」

〈つーか山田カフェ人気なさすぎて申し訳ねぇわ〉

「ぜんぜん平気。むしろ助かる」川上がコーンスナックの最後の一粒を食べ切り「ここで菓子食ってジュース飲んでくっちゃべってんのがいちばん楽」ポテトチップスコンソメ味の袋を新たに開け、紙皿に移す。

「いや、助かんねぇから。女の子来ないと困るって」

「困んない困んない」

「困りまくる。おれ今年の文化祭で彼女作る予定なんだよ」白岩が紙コップにメロンシロップを注ぎ、上から炭酸水を注ぐ。「二Dのマジック喫茶とか、二Aのボドゲカフェみたいに、人集まるのにすりゃよかった。まじで」ストローでかき混ぜ、メロンソーダを作る。

「じゃあここで待ってないでナンパしに行きゃいいのに」川上が言う。

「は? 無理。そのへんの廊下で声かけるとか、冷静に考えて無理すぎるから」

〈いやー、俺が言うのもあれだけど、俺は山田カフェ、やめといたほうがいいと思ったんだけどね〉

「な!」白岩が声を高くし「やっぱそうだよな!」

〈うん〉やや(しぼ)んだ声で〈みんなが俺のこと思って、山田カフェでいこうって決めてくれたのはありがたいんだけどさ、やっぱどうしても内輪ノリが強めつーか、金髪とほくろで山田のコスプレとか誰がわかんねんっていう〉

「でも山田、」川上がポテチを飲み下し「これ決めたときのホームルームで、そんなん言ってなかったじゃん」指を舐め「そんとき言ってくれりゃいいのに」

〈いや言えねぇって。つかふつうにめっちゃ嬉しかったし。俺、肉体はもう死んじゃってるわけだからさ。みんなが俺の姿思い出して、俺の格好しようって言ってくれたときは、お前ら良いやつすぎるだろと思って、顔まだあったら泣いてたもん〉

「わかる」白岩がぶんぶんと頷き「おれもぶっちゃけ感動してた、そんとき。で、うわみんなまじいいやつだなぁ、って思ってる頭の(かた)(すみ)で、でもこれ外部のお客さんに伝わんねぇだろうな、でも言い出せねぇなぁ、って。だってあの流れで、おれは山田カフェやりたくないです、とか言ったら、ただの人でなしじゃん」

「花浦先生も、なんとも言えない顔してたもんね」小野寺がひかえめに笑う。

「俺はありだと思ったけどなぁ、山田カフェ。外部のお客さんに対しても」和久津が腕を組み「夏に事故死した同級生を(とむら)うために、そいつのコスプレでカフェやりますってコンセプトをちゃんと説明すれば、すげぇハートフルで良い企画だと思うんだけど。パンフにも実際そう書いたし」

「だからそういうのが重いんだって。ふらっと遊びに来づらいじゃん」白岩がくちびるを曲げ「こっちはJKに来てほしいわけよ、JKに。彼氏の欲しいJKが、そんな重めの企画やってるカフェにわざわざ来ますかって話」

「逆だろ」和久津が反論する。「女の子はみんな、思いやりのある優しい彼氏が欲しいんだよ。山田カフェに来れば、友だち(おも)いの素敵な彼氏が見つかると思うけど?」

「でも実際お客さんほぼ来てねぇわけじゃん」

「童貞どもがなんかずっと言ってんなぁ」川上がポテチを摘まみながら「山田もなんか言ったら?」

「うるせぇ」白岩が唾を飛ばし〈いや俺も童貞だから〉山田が冷静に返す。

「つかお前さっきからお菓子食いすぎだろ」和久津が川上の手から顔へ視線を上げ「それ基本お客さんの分だから。そのペースで食ってると足りなくなる」

「い、いらっしゃいませ」小野寺が立ち上がり、ちらばるゴミを慌てて机の中に隠す。

 二年E組の入り口に、制服を着た女子が二人いる。

「いらっしゃいませ」和久津はスピーカーを一瞬見てから、女子二人に目を戻し「お二人ですか?」

「そう。二人」Vサインで応じた子は髪色が派手で、紫とピンクの中間みたいなショートヘアーをしている。「てか山田カフェってなに? ウケんだけど」ベージュのカーディガンの裾からは、青いチェックの制服スカートがほんの少し見え、白く長い脚が伸びている。

 肩より長い黒髪の子が、パンフレットから目を上げ「なんか、亡くなったクラスメイトの格好で接客してくれるらしいよ」派手な子に微笑みかける。「無料でお菓子とジュース出してくれて、おしゃべりするみたい」白いベストに校章付きのブレザーを羽織り、紺色無地のスカートは(ひざ)(たけ)。ちがう高校の友だちに見える。

 どっちも()(わい)い、と白岩は思う。

「へぇ、ウケる。入ってみよ」

「で、では、こちら、あ、どうぞ」小野寺がぎくしゃくしながら、いちばん片付いている奥のテーブルに女子二人を案内する。

 白岩はその場に立ち、女子二人を見つめフリーズしている。

「彼女欲しいんだろ。行ってこいよ」和久津が耳元で(ささや)き、白岩の背中を押す。

「お、おう」白岩がロボットのような足取りで奥に向かうのを、川上はお菓子を(かじ)りながらにやにやと見る。

「えっと、あれだ、その、お飲み物、」白岩が紙コップ二つを手に取り、女子二人に「どうしますか、いろいろその、ありますけど」

「え、なんでもいい」派手な子が答え、隣の子に「てかみんな金髪なのウケんね」

「ね」白岩を見上げ「そうですね、じゃあ、」各テーブルに並ぶ、二リットルのペットボトルを眺めると「りんごジュースでお願いします」「アタシもそれー」

「か、かしこまりましたぁ」

 白岩は重なった紙コップをばらして置き、手前のテーブルから未開封のりんごジュースを摑む。(ふた)を外し、満タンに入った液体を小さな紙コップに注ぐ際に手が震えテーブルにどばどばと零れる。「しし失礼しましたぁ」

「し失礼しました」小野寺が別のテーブルから(だい)()(きん)を取り、慌ててジュースをせき止めようとするが間に合わず、テーブルクロスを伝った液体は床に垂れる。「あぁだめだ」

「ねぇやばいんだけど。大惨事なんだけど」派手な子が爆笑し「みんなキョドりすぎなんだけど」手を叩くたび、輝く(つめ)が揺れる。

「手伝いましょうか?」黒髪の子が立ち上がるが、

「いえ、大丈夫です。座っててください」和久津が手で制し、箱ティッシュを何枚も引き抜き、床のジュースを吸わせる。「気にせず、しゃべっててください」

 川上は座ったまま笑いをこらえ、靴底が床を小刻みに叩く。

「お前も手伝え」黄色く染まり、甘い匂いのするティッシュのかたまりを和久津が持ち上げる。

「いや、うん、そうね」川上は立ち上がろうとするが、もうほとんど片付けが済んでいるのを見てまた座り「いやー、おもしろ」

 テーブルと床をきれいにしてから、和久津が改めてコップにりんごジュースを注ぎ、女子二人に手渡す。「どうぞ」

「ありがとー」「ありがとうございます」

 和久津はひと息つき、小野寺の肩に右手を、白岩の肩に左手を置く。「あとはがんばれ」

「うん」「おう」

 四人掛けのテーブルに、小野寺と白岩、女子二人が座り、向かい合う。

 一瞬の沈黙のあと「えー、本日は、」白岩が口をひらき「えー、お越しくださって、いただき、どうもありがとう」

(うやま)いすぎ。ウケんだけど」派手な子が笑い「てかその黒いシール何?」

「これ?」白岩が左頰を指さし「これね、山田のほくろ」

「えー、やば、超弔われてんじゃん」隣の子に「やばくない?」

 黒髪の子は答えず、虚脱した表情で、白岩の付けぼくろを見つめている。

「ミユ? どした?」

「……山田って、山田くん?」

「ん?」白岩は戸惑い、横にいる小野寺を見る。「んん?」

「夏に亡くなって、金髪で、左目の下にほくろがある山田なんて、あの山田くんしかいなくない?」

「え、噓」派手な子が、山田のコスプレをした面々を再度見回し「ファイ山ってこと?」

「絶対そうでしょ。こんな特徴の人、そう何人もいないよ」頭を抱え「あれ? 山田くんも穂木高なんだっけ? いつも制服じゃないし、高校のこと話さないからぜんぜん知らなかった。ハル知ってた?」

「つかファイ山ってなに?」白岩が首をひねり、小野寺に「わかる? ファイ山」

「わからない。初めて聞いた」

「だからファイ山」コンタクトで(ひろ)げた瞳で、白岩を見つめ「ファイア山田」

「ファイア山田?」

「あー伝わんないか、なんだっけ、あいつの本名」ミユと呼ばれた子に「ファイアっぽい名前だったじゃん。なんだっけ?」

「山田ほむら」

 白岩、小野寺、川上、和久津が同時にびくんと反応する。

「えっ、」白岩が瞬きを繰り返し「知ってんの? 山田ほむら」

「知ってるも何も、」ハルが伏せた目を上げ「バンド組んでた。ファイ山が死ぬまで」

 和久津が音を立てて椅子を引き、白岩と小野寺の間から顔を出し「ナルミちゃん? 君が」

「いや、鳴海はギターで、男。鳴海カズヤ」ハルが答え「アタシが湯浅ハルで、この子が児玉ミユ。アタシがドラムで、この子ベース。ファイ山がボーカルギター」

「いや、まじか」和久津が顎に手を当て「あいつバンドの話めったにしなくて、たまに鳴海とか児玉とか名前出してきてたから、ふつうに男かと思ってたけど、女の子だったのか」

「そだよ。男女混合」ハルが頷き「てかまじびびった。まさかファイ山のカフェあるとは」

「ファイア山田ってなに? 芸名?」川上が座ったまま、少し張った声で尋ねる。

「バンドでの名前。あいつ自分の本名嫌いでしょ?」ハルが苦笑し「だからバンドではファイア山田って名乗ってた」

「わたしは素直に山田くんて呼んじゃってたけどね」ミユがりんごジュースを飲み、やわらかく笑う。「山田くん、(なつ)かしいなぁ。あれ? もう懐かしいとか言っちゃってる。まだ二ヵ月とかだよね? 亡くなってから」

「そう」和久津が頷き「あいつあれかな。男女混合バンドやってるって俺らにバレると色々つっこまれそうだから、あえてそのへん言わないようにしてたんかな」

「そうかもね」小野寺が神妙な顔で「というか、びっくり。山田くんのバンドメンバーが偶然ここに来るなんて」

 白岩は口をだらしなく開け硬直し、ミユとハルを見つめている。

「白岩もう、ナンパどころじゃなくなっちゃったな」川上が笑い、空になった紙皿に残りのポテチを全て移す。「ミユちゃんとハルちゃんは、山田が穂木高生って知らなかったの?」袋をゴミ箱へ捨て、座っていた席に戻る。

「知らなかった。あいつ自分のことあんま話さないし」ハルが答え「ここって制服ないの?」

「ないよ」川上がポテチを三枚一気に嚙み、コーラで流し込む。「一応学ランあるけど、着用義務ないから、別に何着ててもいい。俺平日も大抵私服だし、山田もそうだったな」

「そっか」

「私服考えんのめんどいし、制服のやつも多いけど」

「へぇ」

「今日文化祭来たのはたまたま?」

「たまたまっていうか、この子の彼氏が、」ミユを覗き込み「あれ? 言っていいよね?」

「うん」

「この子の彼氏がここの野球部で、今日このあと招待試合あるでしょ? それで来た」

「なるほどね」手元の紙コップにコーラを()()し「名前とか訊いちゃっていいの? 彼氏さんの」

(さか)(した)くんってわかる?」

「いやー、わかんない。何年生?」

「一年。わたしは二年だけど」

「あぁじゃあわかんねぇわ。一年の野球部はさすがに。俺帰宅部だし」

「そっかぁ」

「山田ってバンドでどんな感じだったの?」

「んー、たまに面白いこと言うけど、基本大人しかったかな。鳴海くんがリーダーで曲とかも書いてたし、よくしゃべって目立ってたから、それに比べて地味だったかも」紙箱から飛び出したポッキーの袋に目を落とし「これ、一本もらっちゃっていいかな?」

「いいよいいよ全然。いっぱい食べて。俺もいっぱい食べてっから」ポテチを口に(ほう)る。

「ありがとう」袋の端を破り、一本取り出す。「山田くん、学校ではどんな感じだった?」先端が口に含まれ、小気味いい音を立て、折れる。

「超人気者だったよ」川上がコーラを飲み「まじで面白くて、クラスみんな山田のこと大好きで。だからこうやって、山田カフェとか文化祭でやってるわけだし」

「そうなんだ。ちょっと意外」

「アタシ、ファイ山は女子苦手なんだと思ってた」

「そう?」

「うん。鳴海と二人でしゃべってるときのが、なんか素が出てたっつーか。アタシらに対して、緊張してる感じがずっとあった」

「あぁー、それはそうかも」

「あいつ童貞だからなぁ」川上が言うと、

「やっぱそうなんだ!」ハルがきゃははと笑い「ファイ山、彼女とかいそうなタイプじゃないもんね」

 目の前の女子と、遠くのテーブルの川上がテンポよく会話を続けるのを、白岩は眺める。

 おれも何かしゃべらなきゃ、と、乾いた(くちびる)をメロンソーダで(うるお)してから「バンドって、もう解散しちゃったの?」

「解散? してないよ」ミユが袋ごと差し出したポッキーを、ハルは一本抜き取り「ファイ山の次のメンバー入れて、続けてる」

「あ、そうなんだ」

「うん」

「……早いね。切り替えが」

「まぁねぇ。アタシもちょっとどうかと思ったけど、鳴海がもう、ファイ山が死んだ三日後には次のメンバー見つけてきてさ」

「へぇ。三日後」白岩は微笑もうとするが、顔の筋肉が重く、うまくいかない。「そうなんだ」

「つーかね、鳴海がひどくて」ハルが二本目のポッキーに手を伸ばし「あいつファイ山のこと、間違えて勧誘しちゃったとか、ファイ山死んでから言い出して」前歯でこまかく折り、持ち手を短くしていき「ほらファイ山、ほむらって名前、女の子に間違えられて嫌だってよく言ってたんだけど、鳴海が実際そうだったみたいで。アタシらネットの掲示板で知り合ってっからさ、あいつ、会うまで女の子って勘違いしてたらしいんだよね」伏せた目を覆う(まつ)()が、やけにきらきら光って「でも言い出せなくて、そのまま結成しちゃったらしくて。だから、ファイ山死んで、女の子勧誘し直せてよかったかも、とか言い出してさ。まじ最悪だよね。鳴海のそういうとこ、アタシはどうかと思うわ、まじで」

「そっか」白岩が低い声で相槌を打ち「それはちょっと、ひどいな」

「ね! ひどいよね!」

「ハル、ごめん、」ミユがハルの二の腕をさわり、携帯を覗き込みながら「彼氏から連絡来て、行かなきゃ。もう席埋まりはじめてるから、早くグラウンド来いって」

「おけ」りんごジュースを飲み干し、席を立つ。笑顔を見せ「またどっかで、ファイ山のこと話そうね」

「お菓子とジュース、ごちそうさまでした」ミユが頭を下げ、二人分重ねたコップと、ポッキーの空袋を手に取る。

「あ、ゴミ、そのままでいいよ」

「いや、ゴミ箱あるので、捨てて行きます」入り口脇のゴミ箱に捨て「ありがとうございました。どこかで、また」

「うん。また来て~」川上が手を振り、白岩もなんとなく手を振る。小野寺はぎこちなく笑い、和久津は難しい顔で去りゆく二人を見つめる。

 足音が完全に聞こえなくなるまで待ってから、和久津が「おちんちん体操第二」

〈や、隠してたわけじゃねぇんだよ、女の子とバンド組んでんの〉

「いや、」スピーカーを見上げ「それは別にいいんだけどさ、」

〈もしバンドメンバーの性別聞かれたら、ちゃんと答えてたし〉

「うん、わかってる、」

〈つかあいつら来てまじびびったわ。つか児玉うちの野球部の一年と付き合ってたのかよ。ぜんぜん知らんかったわ。超意外だった。いいなぁ。俺も彼女欲しかったなぁ〉

「なぁ山田、」

〈つか川上お前、俺が童貞だってあいつらにばらすなよ! 名誉棄損だわ、まじで!〉

「山田、」

〈つか俺がバンドでファイア山田って名乗ってんのバレて恥ずいわ。恥ずい恥ずい。顔から火が出る。いや顔ねぇけど、つって。でも個人的にはわりと気に入ってんだけどな、ファイア山田。なんかお前らにバレんのはちょっと恥ずいわ〉

「山田、」和久津が真剣な顔で、スピーカーの無数の穴を見つめ「大丈夫だから。バンドではどうだか知らねぇけど、少なくとも二年E組には、山田の代わりなんていねぇから」

〈あ、やばい、待って、〉無音の数秒を挟み〈そうだ俺、泣けないんだった〉

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