乱歩賞作家が〝安楽死〟に切り込むミステリー!『白医』試し読み①
文字数 4,539文字
「望まれない命」 第一回
1
「善意で人を殺せば聖人ですか?」
証人席に座る女性は、被告人席ではなく、法壇の面々──裁判官と裁判員たちに問うた。答えが返ってくるはずがないのは承知で、問いかけずにいられなかったのだろう。
厳粛で重々しい空気が張り詰めた法廷内に、沈黙が満ちる。
神崎秀輝は女性の問いかけについて想いを巡らせた。
聖人──。
自分のことを擁護する者の中に、そのような表現を用いた人間がいることは知っている。過激な言動で注目を集める芸能人や評論家だと弁護士から聞いていた。ある週刊誌は『神崎秀輝は殺人鬼か聖人か』と扇情的なタイトルをつけたという。
自分が聖人であれば──そう信じ込むことができれば、死を与える行為に葛藤などはなかっただろう。
女性──水木多香子は神崎を一睨みした。敵意の眼差しだ。
多香子はひっつめ髪をヘアゴムで縛り、喪服のような黒一色のワンピースに身を包んでいた。証言台の上に置かれた拳は、筋が浮き出そうなほど握り締められている。
神崎は彼女を見返し続けた。
多香子はふと視線を逸らし、法壇を真っすぐ見据えた。力強い意志的な眼差しだったが、どこか哀訴の念が揺らめいている。
一切の表情を削ぎ落としたように厳めしい顔の女性検察官は、一呼吸置いてから質問した。
「雅隆さんの容体はどうでしたか?」
多香子は追憶に浸るようにしばし目を閉じた。目元に涙が光っている。
「調子は──」目を開ける。「決して悪くありませんでした。全身にがんが転移していて、痛みに苦しむ日もありましたが、それでも夫は生きることに意欲的でした」
「雅隆さんが自ら死を望んだことは?」
「ありません。夫は残された時間、少しでも息子と思い出を作りたがっていました。あたしは息子と一緒にできるかぎり付き添いに行きました」
「雅隆さんが亡くなったときのお話をお願いします」
「はい。十二月十一日の朝七時ごろのことです。息子の朝食の用意をしているとき、自宅の電話が鳴りました。不吉な予感を抱いたことをよく覚えています。プライベートでは携帯を使っているので、自宅の電話が直接鳴ることは少ないからです。しかも、そんなに早い時間帯に鳴るなんて……」
多香子は眉間に皺を刻み、唇を嚙み締めた。訃報が届いた日のことはもう二度と口にしたくないかのように──。
だが、やがて覚悟を決めた顔で続けた。
「あたしは震える手で受話器を取り上げました。『はい……』と応じる声に震えが混じったのが自分でも分かりました。聞こえてきたのは、聞き慣れた看護師さんの声です。その瞬間、ああ、ついにその時が来た、と絶望しました」
「どのような電話でしたか」
「たった今、雅隆さんが息を引き取られました、と。目の前にさーっと暗幕が降りたようになって、受話器を取り落としそうになりました。看護師さんの声が遠くに聞こえました」
多香子は顔をくしゃっと歪めた。唇を引き結び、拳を睨みつける。
女性検察官は彼女が口を開くのを黙って待っていた。
「……あたしは息子の小学校に今日は休むと連絡し、着の身着のままで車を運転して、天心病院へ向かいました。隣では、息子が、ママ、どうしたの、何かあったの、って何度も訊くんです。でも、答えられませんでした。答えてしまったら、それが真実になりそうで……あたしはこの期に及んで、何かの間違いじゃないか、ホスピスに着いたら愛する夫の笑顔が出迎えてくれるんじゃないかって、信じて──いえ、縋っていたんです」
女性検察官は、お気持ちはよく分かります、と言わんばかりに小さくうなずいた。
「車を飛ばしたい衝動と闘いながら、安全運転を心がけました。もし事故を起こしてしまったら、あたしたちが夫より先に逝ってしまう……今思えば不思議ですが、そのときのあたしは本気でそう思い込んでいたんです」
「天心病院に到着されてからは?」
「……亡くなった夫と対面しました。部屋には神崎医師がいました。夫は──紙のような顔色でしたが、それを除けばまるで眠っているようでした。現実に直面しても信じられず、何度も名前を呼びかけていた気がします。ぎゅっとスカートを握られる感触で、息子の存在を思い出しました」
「息子さんの様子は?」
女性検察官は精いっぱいの気遣いを込めた声で訊いた。多香子は口を開こうとし、また閉じた。嗚咽をこらえるように手のひらで口を押さえ、眉間に皺を作った。肩が小刻みに震えている。
「……何も言わずに耐え忍んでいました。悲しいはずなのに。きっとあたしが動揺していたから、どう反応していいか分からなかったんだと思います。あたし自身、夫に取り縋って泣きわめくべきなのか、どうすべきなのか、分からなかったんです。呆然としているのに、頭の中では冷静な部分があって、まるで部屋全体を俯瞰しているような……とにかく、そこで現実だったのは夫の死だけでした。昨日までは元気に──元気にって言い方も変ですけど、ちゃんと生きていたのに……」
途切れ途切れに紡がれる声には悲嘆が絡みつき、まるで法廷の底を低く這い回っているようだった。
「そこにいた神崎医師は──被告人は何と?」
「……雅隆さんは眠るように亡くなりました、と。苦しみはほとんどなかったと思います、と言われました。あたしが現実を受け入れられるまで、神崎医師も看護師さんも付き添ってくれて、そのときのあたしは愚かにも素直に感謝していたんです」
彼女は怒気が籠った眼差しを神崎に据えた。今度は神崎から視線を逸らさなかった。
「真相を知ったのはいつごろですか?」
女性検察官が質問すると、多香子は神崎をねめつけたまま答えた。
「……夫の死から二週間ほど経ってからです。ある日突然、封筒が届いたんです」
「中身は何でしたか」
「告発でした」
「告発!」女性検察官が驚いてみせる。
「はい。パソコンで打ち出した文字で、夫が安楽死させられたことが書かれていました。あたしは最初、意味が分からず、ただ呆然と文面を眺めていました。次第に、夫に恐ろしいことが起きたのだと分かってきました」
「差出人は記されていましたか?」
「匿名でした。天心病院の関係者の誰かが良心の呵責に苛まれて送ってきたのだと思います」
「真相を知ってあなたはどうしましたか」
「天心病院に行って院長に面会し、夫は神崎医師に安楽死させられたんじゃないかと問い詰めました。事実無根だと一蹴されましたし、あたしの妄想であるかのように言われましたが、告発の手紙を突きつけたら表情が変わって……。分かりました、すぐ調べます、と」
語る多香子の声音には、御しがたい怒りが滲み出ていた。裁判員の何人かは、同情するようにうなずいている。
「後日改めて説明差し上げたいと言われ、従いました。二日後に連絡があり、会うと、弁護士が同席していて、院長からは、『主治医の神崎医師の治療に問題があったようです。申しわけありませんでした』と謝罪されました」
「続けてください」
「曖昧な言い方で、しかも歯切れが悪いので、強く問いただしたら、神崎医師が塩化カリウムを注射して、それがあたしの夫の死を早めた可能性がある、と」
「なるほど。それは正確な表現ではありませんね……?」
「はい。後から知った話ですが、塩化カリウムはアメリカで死刑執行に使われていたり、安楽死に使われていたりする薬だそうです」
「被告人は雅隆さんに故意に致死量の塩化カリウムを注射し、死に至らしめたというわけですね」
「そうです。担当の神崎医師は、毎日続く地獄のような苦痛を見かねて楽にしてやりたい、と考えたとか。あくまで夫のための苦渋の選択だった、と言われました」
「納得できましたか」
「まさか! 院長と弁護士は問題を矮小化し、慰謝料であたしを説得しようとしてきたんです」
恩ある院長には償いきれない迷惑をかけた。院長は事を隠蔽しようとしたわけではない。
裁判の前に一度だけ面会した際、院長は『事が起こった以上、金銭を支払うしか、自分にはできない。それなのに受け取りをいまだ拒否されている』と悔やんでいた。彼が誠実な医師であることはよく知っている。
最後に『うちとしては君を守ってやることはできない。すまない』と申しわけなさそうに謝られた。神崎はただ黙って頭を下げた。
「あなたは雅隆さんの安楽死を望んでいましたか?」
「いいえ」多香子はきっぱりと否定した。「愛する夫の死を願うはずがありません! 夫には、息子のためにも一日でも長生きしてほしかったです」
「雅隆さん本人はどうでしょう?」
「苦しくても精いっぱい生きようとしていました」
「被告人は雅隆さんを含めて三人の患者を安楽死──死に至らしめています。それを知ってどう思いましたか」
「赦せません」彼女は涙声で言った。「神崎医師は、あたしからは愛する夫を──息子からは愛する父を奪ったんです」
第三回の審理が終わると、神崎は拘置所に戻された。
患者である水木雅隆に塩化カリウムを注射し、死に至らしめたのは事実だ。
だが、法廷で明かされていない事実もある。
──先生。多香子の表の顔に騙されないでくれよな。
ある日のことだった。体調を伺っているとき、雅隆が縋るような眼差しで言った。
その台詞の意味を知るのは、彼の病状が悪化してからだった。
──あなたがしぶとく生きてたらいい加減迷惑なの!
病室のドアの隙間から漏れ聞こえた多香子の罵倒が耳に蘇った。辛辣な台詞にぎょっとしたのを覚えている。
人の本心は、表面では計り知れないものだ。愛とは一体何だろう。自分は正しかったのか、間違っていたのか。
いまだ自問する。
第二回に続く。
末期がん患者の水木雅隆に安楽死を行ったとして、裁判を受ける天心病院の医師・神崎秀輝。「神崎先生は私から……愛する夫を奪っていったんです…!」証人席から雅隆の妻・多香子が悲痛な声をあげるも一向に口を開こうとはしない。そんな神崎には他にも2件、安楽死の疑惑がかかっていた。患者思いで評判だった医師がなぜ――? 悲鳴をあげる“命”を前に、懊悩する医師がたどり着いた「答え」とは?
『闇に香る嘘』『同姓同名』の著者渾身、“命の尊厳”に切り込む傑作医療ミステリー!
1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリーランキングで高い評価を受ける。短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補に選ばれた。他の著作に、『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『コープス・ハント』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』などがある。