乱歩賞作家が〝安楽死〟に切り込むミステリー!『白医』試し読み⑤

文字数 8,120文字

『闇に香る嘘』『同姓同名』で話題沸騰! 今最旬の乱歩賞作家・下村敦史さんの最新医療ミステリー『白医』がいよいよ5月26日に発売! 今作で下村さんが満を持して選んだテーマは〝安楽死〟。救うべきは、患者か、命か――。3件の安楽死疑惑を前に、沈黙を貫く医師の真意とは?

この度、刊行を記念し、第一話「望まれない命」を5日連続で特別公開いたします!

望まれない命 第五回




 彼がまたその台詞を口にしたのは、裸木に残ったわずかな枯れ葉も散って寒風に掃かれていく、寒さが骨身に染みるある日のことだった。

「先生の手で楽にしてくれ……」

 エアコンの音しかない病室で、雅隆は苦悩にまみれた顔を天井に向けていた。

「雅隆さん……」

「本気だよ、先生」

 覚悟を決めた眼差しと対面した。

「……痛みが強いですか?」

 彼は、愚問だろ、と言いたげに唇を歪めた。

 神崎は「すみません」と謝った。

 聞くまでもない。彼の体調は急速に悪化しており、オピオイドの効果も薄くなっていた。嘔吐、貧血、発熱、疼痛、しばしば襲う呼吸困難──。全身症状が強く出ている。

「一人じゃもう何もできないのに、苦痛を味わうためだけに生かされて……何の意味があるんだ?」

 それは終末期の患者の誰もが──又はその家族が──抱く問いだ。だが、医者としては何も答えられない。

 なぜなら──。

 それは患者それぞれの人生の問題だからだ。残された時間で何を見つけられるか、何を得られるか、人によって違う。もしかしたら苦しみと絶望以外に何もないかもしれない。

 だからこそ、赤の他人である医師には答えられない。

 精々できるのは、何かを見つける手助けだけだ。

 末期がんだった母の死が否応なく記憶に蘇る。

 誕生日に有名店のプリンを食べて無邪気に喜んでいた母がどんどん衰弱し、一年半も寝たきりで「痛いよ、痛いよ」「苦しいよ」とうめいている姿は見ていられなかった。

 明るかった母の人生の最後の一年半は、苦痛と泣き顔ばかりだった。

 母の死から四年後に心筋梗塞で他界した父は、死こそ突然で、何も心の準備ができていなかったものの、苦痛はほぼなく、死に顔は眠っているように安らかだった。

 最期の迎え方として、どちらが幸せだったのか。

「お気持ちは理解できます。苦痛を伴う治療の全てを拒否したいというお話なら──」

「違うよ、先生。終わりにしてほしいんだ」

「終わり……」

「分かるだろ、俺が言いたいこと」

 安楽死──。

 しかも、彼が求めているのは積極的安楽死だ。酸素マスクや点滴の中止で死を迎える消極的安楽死と違い、致死性の薬物の注射などで殺してくれ、と訴えている。

「それは──殺人です」

「被害者が死を望んでるんだよ。その場合、罪にならないんだろ」

「……自殺幇助と同じで六ヵ月以上、七年以下の懲役、または禁錮ですね。殺人罪よりは軽いですが、罪になります」

「さすがホスピスの先生。詳しいんだな。乞われ慣れてる感じだ」

 苦笑いするしかなかった。たしかに乞われ慣れているし、説得の難しさも知っている。

「でもさ、それは発覚したら、だろ。医者ならさ、何かやりよう、あるだろ」

 神崎はそれには答えず、問いかけた。

「あなたは苦痛を理由に死を望んでいるんですか?」

 雅隆は質問の真意を探るように目を細めた。

「想うところがあれば、吐き出してください」

「……苦痛が全てだよ。他に何がある?」

 彼を追い詰めたのは、妻の言動ではないか。肉体的、精神的に健康で充実しているときと違い、死が避けられない病気に苦しんでいる病床では、反骨心も長くは続かないだろう。一時ならまだしも、何日も続けば精神を蝕んでいく。

 この天心病院に誘われた当時、安楽死を合法化したオランダに勉強に行った。向こうでは自立した死──安楽死を含む──を迎えることこそ、本人の尊厳を守るQOLとして大事にされている、と知り、日本より先を歩いているその理念は参考になると考えたからだ。

 そこでたまたま安楽死の話になり、オランダ人医師から一九八九年のある報告書のことを聞いた。

 オランダ厚生省の医療検査官の元ホームドクターが三年がかりで作成した安楽死の実態調査だ。

 安楽死の最も大きな理由に『痛み』を挙げたのは、わずか五パーセントだったという。約三十パーセントは、これ以上苦しむ意味があるとは思えない、という『意味のない苦しみ』だった。『屈辱に対する回避』が約二十五パーセントだ。当時の医療関係者に衝撃を与えた調査結果だったらしい。

 人は痛みに耐えかねて死を望むのではない。

 だが、検察へ提出する報告書では、安楽死の理由として『意味のない苦しみ』は四パーセントに落ち、逆に『痛み』が二十パーセントに跳ね上がるという。

 あまりの激痛に耐えられないから安楽死を望むのだ、と訴えるほうが一般的に理解を得やすいということだろう。

 雅隆は苦痛を理由にしているものの、彼の心の奥底の本心を知りたかった。

 神崎は意を決し、踏み込んでみることにした。

「奥さんの辛辣な言葉があなたを追い詰めているのではありませんか」

 雅隆は下唇を嚙み締め、まぶたを伏せた。

 今まで世界各国で審議された安楽死の合法化が否決されてきたのは、第三者が故意に命を奪う倫理的な是非もさることながら、貧しい人間や弱者の切り捨てに繫がる危惧もあった。

 治る見込みがない病気でベッドに繫がれている患者は、日々、様々なプレッシャーを感じている。家庭が経済的に恵まれていなければ、治療費や入院費を使わせていることに罪悪感を抱く。頻繁に見舞いに来てもらっていたら家族の時間を奪っていることに罪悪感を抱く。

 そのうち、『早く死んでくれたらいいのに……』という家族の声なき声を聞くようになる。人の心の中は決して見えないからこそ、被害妄想だと自分に言い聞かせても信じられず、常に疑念が付き纏う。

 ──このまま家族に心理的、経済的負担をかけるくらいなら死にたい。

 やがて患者の頭に棲みつく悲観と諦念──。

 罪悪感や申しわけなさから安楽死を望む患者の命を奪う行為は、正しいのか。許されるのか。〝気持ち〟を死の理由にすることが許されるならば、人生に希望が持てない、学校のいじめがつらい、失恋した──という理由の死も認めざるを得なくなる。だからこそ、病気による〝耐え難い苦痛〟と本人の〝気持ち〟は分けて考えなければいけない。

 だが、実際に区別が可能なのか。

 結局のところ、どのように言い繕っても、患者の主観の願望を第三者の医師が判断するのが安楽死だ。

「やっぱり──先生は知ってたんだな」

「漏れ聞こえてきました」

「……そうか」

 雅隆は強く歯を嚙み締めるように口元を盛り上げた。あふれ出そうな悲痛な絶望をこらえるように。

 言いたかった。言ってしまいたかった。

 ──あなたを追い詰めている彼女の言葉は、あなたの背中を叩いているんです。背中を押しているわけではないんです。彼女はあなたの死を望んではいません。

 多香子の切実な哀訴を思い出しながらも、神崎は重い口を開いた。

「奥さんの言葉があなたを追い詰めているなら──」

 雅隆はうっすらと目を開けた。

「言ったろ、先生」

「え?」

「多香子の表の顔に騙されないでくれよなって」

「……覚えています。前におっしゃっていましたね。奥さんは裏であなたに暴言の数々を──」

「違うよ、違う。それが俺の言った表の顔だよ」

 彼の言葉の意味が理解できなかった。

 暴言の数々が表の顔──?

 それに騙されないでくれ、ということが彼の真意なら──。

 神崎は愕然とした。

「……あなたは最初から奥さんの本心に気づいていたんですね?」



 質問に対し、雅隆は無言で目を逸らした。それで察してくれと言わんばかりだった。

「まさか全てを察していたなんて──」

「……多香子の声が廊下の先生にも聞こえたと思ってさ。だから聞いたままを真実だと誤解しないでくれ、妻を冷淡で残酷だと誤解しないでくれ、って意味で、ああ言ったんだよ」

 ──先生。多香子の表の顔に騙されないでくれよな。

 夫想いの表の顔に騙されないでくれ、という意味ではなく、夫を罵倒する表の顔に騙されないでくれ、という意味の忠告だった。

「彼女の真意にお気づきなら、そこまで思い詰めなくても──」

 雅隆は小さくかぶりを振った。

「真意を知っていてもつらいものはつらい、ということですか?」

「違うよ、先生。そうじゃない」

「ではなぜ?」

「……多香子につらい嫌われ役をさせていることが申しわけないんだよ」

 今にも押し潰されそうな顔と声だった。返す言葉を見つけられずにいると、彼が苦渋の形相で言った。

「俺を弱虫だと思うかい、先生?」

「いいえ」神崎は即答した。それだけは迷わず答えられる。どの患者から投げかけられたとしても、返事は決まっている。「病気の苦しみを吐き出すことは、〝弱さ〟ではありません」

「でも、弱音だろ?」

「大事なのは〝強さ〟や〝弱さ〟のような外の評価ではなく、患者さんそれぞれのありのままの気持ちを尊重することだと思っています」

「ありのまま──か」雅隆は自嘲するように笑った。「死にたいってのもありのままじゃないのか?」

「……そうですね。患者さんの正直な気持ちだと思います。私に否定することはできません」

「息子がいるのに早く楽になりたい──って思ってしまう。息子のためならこの苦痛に耐えて少しでも長く生きよう、って思えないんだよ。多香子からしたら、息子を遺して死にたいなんて、信じられないんだろうな」

「だからあんな奮起のさせ方を──」

「多香子が本音じゃないのは──心を殺しながら、血反吐を吐くような思いで口にしてんのは、顔を見れば分かる。俺よりも苦しそうな引き歪んだ顔をしてんだよ、いつも」

 雅隆は下唇を嚙み締めた。皮膚が破れて血が滲みそうなほど強く。

「……俺はそれがつらいんだよ」

「その本音を正直に話しては?」

「言えねえよ。俺だってそれで救われてるところがあるんだからさ」

「あなたも?」

「多香子を悪く思わないでやってくれ。ああいう言葉、俺が誘ってたところがあるんだよ。優しい言葉をかけられるとさ、最初こそ救われても、だんだん毒のようになって体を蝕んでいくんだ。申しわけなくもなるし。情けなさと惨めさを感じて、絶望に打ちのめされる。二人に八つ当たりしたりさ」

 彼は悲嘆が絡みつく声で淡々と語った。切実な感情が伝わってくる。

「多香子は結構きつい性格でさ。ジムの娘だしな。俺もそこに惚れたんだよ。だけどさ、そんな多香子に優しくされるたび、もう日常には戻れないことや、死を意識してしまって、耐えられなくなるんだ。多香子が今みたいな態度を取るようになったのは、俺がそんな本心を告げたってのもあるかもな」

 告白を聞いてみると、複雑な心境が分かった。

「……俺さ、昔から『なにクソ!』って思わなきゃ、尻尾を巻きたくなる性質なんだよ」

 思い違いをしていた。彼の体調が急激に悪化していたのは、辛辣な言葉によるストレスが原因だったのではなく、奮起のために生命力を燃やしすぎたからではないか。

「この前──哲人がさ、多香子の目を盗んで俺に訊いたんだ。お母さんが怒るから苦しいの? って。今にも泣き出しそうな顔でさ」

 彼は体の痛みより、心の痛みのほうが苦しそうに顔を顰めた。

「違う、病気のせいだ、って答えたけど、哲人は言うんだよ。お母さんは嫌い、って……。病室であんだけずっと多香子にしがみついてたのに、多香子からも距離を取ってんだよ、あいつ」

 以前、同じような質問をされ、同じように答えた。きっと誤魔化しのようにしか聞こえなかったのだろう。

「……大事な息子をこんなに傷つけて、俺は何してんだろう、って。自分が嫌になる」

 悔恨の泥沼に沈んでいきそうな声だった。いや、もう彼は充分に溺れている。

「死が避けられないなら、これからも生きる人間のことを第一に考えるべきだろ。なあ、先生」

「……私には答えられません。どのような形で誰とどんな思い出を作るのか、誰に何を遺すのか人それぞれ違うものですから」

「俺にとって──」彼は一時、歯を嚙み締めた。「一番大事なのは哲人なんだよ」

 神崎は黙ってうなずいた。

「俺が生きる気力を奮い立たせようとしたら、多香子も苦しめるし、哲人も傷つける。哲人にはさ、父親の最期の瞬間を憎しみの記憶にはしてほしくないんだよ」

 雅隆は筋肉が削げ落ちた腕を、まるで丸太であるかのように重々しく持ち上げた。震えている。サイズが合わない病院着の袖が二の腕まで滑り落ちる。スキンテアで皮膚がただれた前腕があらわになった。あまりに痛々しい。

 プロボクサーとして、対戦相手を強烈なパンチでKOしてきた腕は見る影もなかった。

「チャンピオンベルト巻いてさ、まばゆい照明の下で哲人を抱き上げてやりたかったなあ……」

 彼の顔がくしゃっと歪み、目元に涙が滲んだ。嗚咽をこらえるように下唇を嚙む。

「……頼むよ、先生。もうタオルを投げてくれ」

 絡みついていた感情を全て剝がし取ったような声だった。

 オランダの安楽死の実態報告書を改めて思い出した。人は肉体的な苦痛以外の理由で死を望むのだ。

 当時は、それを認めたら日本で発生している何万という自殺を肯定することになるのではないか、という思いがあり、安易にはうなずけなかった。

 だが──。

 ホスピスで終末期の大勢の患者と接し、多くの死を目の当たりにするうち、当たり前の事実に気づいた。

 事件や事故、病気と無縁ならばこの先何十年も生きられる人間が、悲観や絶望で選択する自殺と、あと数ヵ月生きられるか分からない患者が残りの時間を肉体的、精神的苦痛と共に生かされるのに耐えかねた安楽死は、決して同じではない。

 死を望む患者や、安楽死を口にする患者は何人も見てきた。彼と他の患者の違いは何だろう。

 彼の話を聞くうち、初めて患者に対して思ってしまった。

 不幸だ──と。

「先生」雅隆が視線を外し、つぶやくように言った。「俺だって、そこから身を乗り出す程度のこと、できるんだぜ」

 神崎ははっとして彼の視線の先に目をやった。今の話に不釣り合いなほど透き通った陽光が射し込む窓がある。

 それだけはさせてはならない。

 もし懇願を突っぱねたら、彼は間違いなくそれを実行してしまうだろう。

 自分も覚悟を決めるべきだった。

 神崎は深呼吸した。

 その言葉を口にするには、人生をなげうつような決心が必要だった。

 二度と後悔しないためにも。

「……分かりました。私があなたを送ります」



 真夜中、神崎は薄暗い病室でベッドのそばの丸椅子に腰掛けていた。ベッドサイドテーブルのスタンドの明かりを最小限に抑えてある。薄闇が侵食する室内で、電球の周りだけが仄かに光り、雅隆の顔に陰影を作っている。

 ホスピスの人間に気づかれるわけにはいかないので、電気は消しておかねばならない。

「気分はどうですか?」

 神崎は彼に語りかけた。お決まりの質問だったが、今日の意味はいつもと少し違った。

「……いい気分だよ」

 これで全てが終わるのだと思えば──、という心の声を聞いた気がした。

 明かりの弱々しさは、命の灯火のようだった。彼の顔は薄闇の中に沈んでいる。

 この瞬間、全世界に自分と彼しか存在していないような錯覚に囚われた。

「がんになる前は、試合で死ぬのは本望だ、なんて言ってたけど、やっぱ死は怖いよな。それともリングの上だったら違ったのかな。分かんねえや」

「もし少しでも後悔や迷いがあるのなら──」

「いや、後悔も迷いもないよ。ちょっと感傷的になってるだけさ」

 神崎は筋弛緩剤と塩化カリウムを準備しながら言った。

「……私は間違っているのかもしれません。ですが、私はあなたの意志を尊重します」

 雅隆はうっすらと笑みを浮かべた。影が覆いかぶさっているせいで、顔が歪んでいるように見えた。

「ありがとう、先生」

「奥さんや息子さんに何かお伝えしておくことはありますか?」

 雅隆は小さく首を動かした。

「……そうですか。分かりました」

 神崎は雅隆の腕を取った。その瞬間、まるで腕を根元からもぎ取られそうになったかのように、彼は苦悶のうめきを発した。

「すみません、痛かったですね」

 雅隆はうっすらと笑みを浮かべた。

「最後の痛みと思えば、名残惜しいくらいだよ」

 神崎は釣られて笑みを返した。

「……じゃ、頼むよ、先生」

 神崎はうなずき、彼の腕に注射針を刺した。筋弛緩剤で呼吸を止め、塩化カリウムで心臓を止めるのだ。

 薬液を注射すると、雅隆はゆっくりとまぶたを伏せた。次第に反応が緩慢になっていく。

 意識がなくなったかと思った矢先、雅隆はまぶたを痙攣させ、唇を動かした。

 神崎は彼の口元に耳を寄せた。彼が囁いた言葉は、辛うじて──だが、はっきりと聞き取れた。

「……最後まで夢を見させてやれなくてごめんな」

 それが彼の最期の言葉だった。

 雅隆は苦痛と無縁な永遠の眠りについた。


10


 神崎は拘置所の中で息を吐くと、追想をやめた。

 水木雅隆の安楽死の真相は胸に抱えたまま、ずっと沈黙してきた。裁判でも明かすつもりはない。

 神崎は水木多香子のことを想った。

 彼女は夫を愛していた。それは間違いない。だが、息子のために一日でも長く生きてほしい、という想いでとった言動は、果たして夫のためになったのか。彼自身、叱咤を望んでいたとは言ったものの、最後の最後まで感情をぶつけ合う関係性に精神が削られたことは想像に難くない。

 真実を明かせば、情状酌量の可能性もあることは分かっている。だが、雅隆が安楽死を乞うたことを知れば、彼女は後悔するだろう。思い悩むだろう。

 自分の無力感に苛まれ、もっと何かできたのではないか、いや、自分が結局苦しめたのではないか、と。

 しかし、現実はもっと残酷だった。生きるための闘志を奮い立たせるいびつな関係が彼を苦しめていた──という事実は、彼女を後悔のどん底に突き落とす。

 最愛の夫を亡くした上に、不必要な苦しみまで背負うことはない。だから雅隆から死を懇願されたことも、自殺を仄めかされたことも、一切口にしていない。

 患者たちと長く接しているうち、死こそが平穏だと考えるに至った、と自白した。

 身勝手な自己満足同然の〝殺人行為〟を世間の多数が非難していることは知っている。それでも〝聖人〟と持ち上げる人間があるとは驚きだった。いや、正確には、安楽死肯定派のイデオロギーで祭り上げられているのだろう。

 何にせよ、裁判で彼女から憎しみを向けられても、それは当然だ。彼に死を与えた事実は変えられない。妻や子供の意志や望みは無視し、彼の──本人の決意だけを重視した。

 遺された者は納得できないだろう。

 出される判決を受け入れるつもりだ。

 法が自分の行った安楽死にどのような答えを出すのか。

 それを知りたかった。



第一話 望まれない命 了

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末期がん患者の水木雅隆に安楽死を行ったとして、裁判を受ける天心病院の医師・神崎秀輝。「神崎先生は私から……愛する夫を奪っていったんです…!」証人席から雅隆の妻・多香子が悲痛な声をあげるも一向に口を開こうとはしない。そんな神崎には他にも2件、安楽死の疑惑がかかっていた。患者思いで評判だった医師がなぜ――? 悲鳴をあげる“命”を前に、懊悩する医師がたどり着いた「答え」とは?

『闇に香る嘘』『同姓同名』の著者渾身、“命の尊厳”に切り込む傑作医療ミステリー!

下村敦史(しもむら・あつし)

1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリーランキングで高い評価を受ける。短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補に選ばれた。他の著作に、『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『コープス・ハント』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』などがある。

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