乱歩賞作家が〝安楽死〟に切り込むミステリー!『白医』試し読み③

文字数 7,982文字

『闇に香る嘘』『同姓同名』で話題沸騰! 今最旬の乱歩賞作家・下村敦史さんの最新医療ミステリー『白医』がいよいよ5月26日に発売! 今作で下村さんが満を持して選んだテーマは〝安楽死〟。救うべきは、患者か、命か――。3件の安楽死疑惑を前に、沈黙を貫く医師の真意とは?

この度、刊行を記念し、第一話「望まれない命」を5日連続で特別公開いたします!



望まれない命 第三回




 オピオイドの投薬をはじめると、激痛はいくらか抑えられたらしく、雅隆の苦悶のうめきも減った。

「どうですか?」

 尋ねると、彼は目を開けた。

「楽にはなったよ」

「そうですか。よかったです」

 神崎は質問を重ね、彼の体調を確認した。聞き取っていると、病室のドアがノックされた。

 八城看護師と共に入ってきたのは、子連れの女性──水木雅隆の妻と息子だった。

「あ、先生」多香子は軽くお辞儀をした。「夫がいつもお世話になっております」

「いいえ」

「夫の具合は──」

「オピオイドが効いているようで、先週に比べたら痛みはずいぶん落ち着いているようです」

「先日は、痛い痛いって言ってましたから。会話もまともにできないくらいで……息子もそんな父親の姿に怯えてしまって……」

 彼女は丸椅子に腰掛けると、夫の二の腕に触れた。そっと撫でるようにする。

 雅隆は息子が見舞いに来る日は、医療用のウィッグを被っている。彼は『もう長くないんだから見栄えなんか気にしないけどさ、骸骨みたいな見た目で怖がらせたくないだろ』と話していた。だが、体裁を整えても子供の不安を和らげはしないようだ。

「病気になる前は弱音なんて吐いたことがないんです。だから、息子もこんな父親の姿を見るのに慣れていなくて……」多香子は息子を見やった。「動揺しているんだと思います」

 息子は、多香子が置いた丸椅子の前で突っ立ったまま、ベッドには近づこうとしなかった。

 子供の心理としては無理もない。大きな背中で今まで自分を守ってくれていた存在が、自分でもできること──一人で歩いたり、食べたり、走り回ったり──すら不自由になり、病院のベッドに何ヵ月も繫がれ、痛みにうめき、涙している姿は、ショック以外の何物でもない。

 神崎は母のことを思い出した。

 三十五歳のころに母ががんになって弱っていく姿を目の当たりにしたときは動揺し、怖かったことを覚えている。死に向かう肉親の姿は、目を背けたくなるほど、根源的な不安と恐怖を駆り立てるのだ。

 最後の数週間、見舞いをためらった。そのときの後悔は今でも残っている。

 ──自分を必要としている患者がいる。患者を放置できない。母なら今日明日会えなくなることはないだろう。

 そうやって自分を無理やり説得した。

 患者の手術中に何本も着信があったことを知ったのは、母の死から二時間後だった。

 瘦せ衰えた母の亡骸と対面した。どんな最期だったのだろう。担当医に尋ねると、苦しみの少ない安らかな最期でした──と言われた。気を遣ってくれたのだと分かる。

 医師として末期がんの患者を何人も診てきた。そんな平穏な最期だったとは思えない。

 だが、担当医の言葉を信じたがっている自分がいた。

 自分が傷つきたくなくて、目を逸らしてしまった。だからこそ、避けられない死ならせめて苦痛をより少なく──。

 家族としても、苦痛にまみれている身内には会いにくいだろう。それが緩和ケアに関心を持つきっかけだった。天心病院の院長に声をかけられたときは、運命じみたものを感じた。

「ほら」多香子は息子に手を差し伸べた。「お父さんに話してあげて。体育祭のこと、教えてあげたいって言ってたでしょ」

 息子はためらいがちにうなずき、ベッドに近づいた。仰向けになる父親をじっと見下ろす。

 雅隆のほうから何か声をかけるかと思ったが、彼は目玉を動かし、無言で見返しただけだった。

「この前ね──」息子が口を開いた。「体育祭があってね、僕、リレーでアンカーだったんだよ。赤組でね。青組に負けてたんだけど、一生懸命走って、抜いたんだよ」

 雅隆は視線を天井に据えている。

「……一位だったんだよ、僕」

 褒めてほしがっているのが明らかで、息子は緊張した顔で父親の反応を待っていた。

 静寂の中、エアコンが静かに暖風を吐き出している。

「あなた」多香子が呼びかけた。「何とか言ってやって。哲人、頑張ったんだから」

 雅隆は大きく息を吐いた。

「……そうか」

「そうか、って──」

 雅隆は落ち窪んだ眼窩の中で目玉を動かした。死んだ魚のような瞳で妻を見る。

「ベッドの俺は蚊帳の外だ」

「映像、見る?」多香子はショルダーバッグを漁り、液晶付きのハンディカメラを取り出した。「哲人の雄姿──」

「いや」

「見てやらないの?」

 雅隆は興味なさそうに視線を外した。

 多香子はかぶりを振りながら嘆息した。哲人に向き直り、優しく頭を撫でる。

「お父さん、今日は疲れてるみたい。少し外、行きましょうか」

 哲人は安堵したように息を抜いた。

「……うん」

 多香子は息子の手をとると、神崎に向かって「先生、夫をよろしくお願いします」と言い残して出て行った。

 二人きりになると、気まずい沈黙が降りてきた。雅隆は視線を壁際に流している。

 一介の担当医に彼の態度を咎める権利はなく、聞かなかったことにして診察を続けるしかなかった。

「先生……」

 雅隆がつぶやくように漏らした。

「何でしょう」

「先生は──リングで大の字になったこと、あるかい?」

「リング?」

「強烈なパンチを貰って、意識が飛んでさ。気づいたら、ぐわんぐわん揺れる視界の中で高い天井を見上げてんだ。そのときの照明の眩しさがさ──」雅隆は病室の蛍光灯を睨みつけた。「ちょうどこんな感じだったよ」

「……眩しいですか?」

「ちょっとね」

 神崎は壁のスイッチを切った。まるで命の灯火のように、蛍光灯がふっと消え、病室が薄暗くなった。カーテンを開けた窓から射し込む夕陽が彼の横顔をうっすらと朱に染めている。

「ボクシングをされていたんですか」

 雅隆は儚げな微苦笑を浮かべた。

「こんなザマじゃ、そうは見えないだろうけどさ。期待されてたんだよ、結構。日本ランカー目前でさ。チャンピオン目指してた」

 彼は薄闇が溜まる天井に向かって手を伸ばした。摑み損ねた何かを摑もうとするかのように。

 濡れた瞳でその手を見つめている。

「後からビデオを見たら、首がひん曲がるような一発を顎に貰って、崩れ落ちてさ。10カウントだよ。狙い澄ました右フックがカウンターで炸裂してた。先生はボクシングは観るかい?」

「有名な日本の選手の世界戦がテレビで放送されたとき、二、三度観たことがあります。その程度ですが」

「相手はさ、アウトボクサーで、ちまちまポイントを稼がれて、一発逆転を狙った大振りに合わせられた。いつもはそれでKOしてきたんだけど、そのときは相手が巧かった。さすがに利き腕の右同士のカウンターだから一発だったよ」

「……残念でしたね」

 雅隆は急に全身から力を抜き、腕を落とした。まるで自分のKOシーンを再現するかのように。

「プロ初のダウンでさ。初めて知ったよ。脳が揺れるとさ、気持ちいいんだよな。立ち上がりたいって思えなくなる。その快楽に身を委ねたくなるんだよ。ちょうど、オピオイドを投与されてる今のようにさ」

 話の行きつく先に漠然とした不安を覚え、相槌も打てなかった。

「ボクサーを立てなくすんのはさ、痛みじゃないんだよ。快楽なんだ。痛みなら耐えられても快楽には耐えられない。どうせなら気持ちいいまま逝きたいよな」

 死への願望──。

 本来、医師ならば否定しなければならない。だが、ホスピスでは事情が違う。

 避けられない死を苦痛なく迎えたい──。

 それは死を受け入れた者たちの望みでもある。医師も看護師も安らかな最期を迎えさせてやれるよう、誠意を尽くしている。単なる願望であれば、ホスピスの患者たちが日常的に口にするし、さして珍しくはない。

 だが──。

「先生の手で俺を死なせてほしい」


 無感情なつぶやきだったが、切実な懇願の響きを帯びていた。神崎はとっさに言葉を返せなかった。

 平穏な死を迎えるための手助けと、死へ背中を押す行為は違う。一時的な悲観の感情で口にした世迷い言として、軽口のように扱うのが最善だと思った。

「ご冗談はよしてください」

 雅隆の瞳がゆっくりと動き、目が合った。胸の内を探り合うように、しばし間があった。

「今の俺はさ、ダウンしても無理やり引き起こされて殴り続けられているようなもんだよ。タオルを投げてくれるセコンドがいなけりゃ、一体誰が終わらせてくれるんだ?」

 彼の真剣な眼差しと向き合っていると、冗談や戯言で口にしたわけではなさそうだった。

「ホスピスは、苦痛がない最期を迎えさせてくれるんじゃないのかい」

 治癒が見込めない患者に苦痛を与えるだけの治療を中止し、人間らしい死を迎えさせる──という理念は、たしかに終末期ケアでは重視されている。だが、彼の場合、まだターミナル前期だ。症状を緩和し、痛みをコントロールしている段階だ。人工呼吸器や投薬で生きながらえているわけではないので、彼が望む死を与えようとすれば、直接手にかけるしかない。

 何も答えられずにいると、雅隆が細腕を持ち上げ、眺めた。筋肉は削げ落ち、骨の輪郭が浮き彫りになっている。それは眼窩が落ち窪み、頰骨が浮き出る顔も同じだった。

「見てくれよ、先生。現役時代はさ、あんなに減量に苦しんでたってのに、今じゃ、三階級も下がっちまった」

 食事ができないことは、必ずしも悪いことではない。なぜなら、栄養を摂れば、それががん細胞の餌になるからだ。

「笑っちゃうよな」雅隆が自嘲の笑みを漏らした。「トレーニングしてて、やけに疲れやすくて、疲労もなかなか抜けなくて……おかしいなとは思ったんだよ。だけど、初のKO負けを喫したばかりだったからさ。その精神的なもんが原因だって思い込んでた」

「検査はされなかったんですか?」

「負けた日に脳の精密検査は受けたよ。異常なしだった。まさか内臓のほうに問題があるなんて、思いもしないだろ。それで今じゃこのありさまだよ」

「少しでも楽に過ごせるよう、何が最善か一緒に考えていきましょう」

「綺麗事だよ、先生。この先どんどん苦しくなることが分かってる。楽になりたいよ、早く。苦痛と一緒に自分の肉体が朽ちていくのが耐えられないんだ」

 患者から向けられる死の願望に対し、いまだどう答えるのが正解なのか、分からずにいる。

 神崎はしばらく彼の感情の吐露に付き合った。

 他の病室を回った後、食堂で昼食を摂った。豚の生姜焼き定食が運ばれてくるまでの時間、スマートフォンで『水木雅隆』の名前を検索してみた。

 普段は患者と距離を取っている。必要以上に踏み込まず、医師として相手を診るためだ。

 だが、それは本当に正しいのか。

 彼の人間性や人生を知る手掛かりになるかもしれない。目の前の人間を単なる〝患者〟として診ているだけでは、決して本音にはたどり着かないのではないか。

 彼はたしかにプロボクサーだった。顔写真も出ている。無駄がないシャープな顔立ちだ。今とは別人だ。

 動画を検索すると、試合の映像があった。イヤホンをつけ、再生してみる。

 せっかくだから彼が勝利した試合を選んだ。

 観客席が半分も埋まっていない試合会場で、リングだけがまばゆく輝いている。ブルーのトランクス一枚の彼は、引き締まった肉体を剝き出しにし、躍動していた。重そうな左ジャブで距離をはかり、右を振り回す。

 相手は軽やかなステップでパンチを躱している。放つジャブが的確に雅隆の顔を弾く。

 一ラウンド、二ラウンド、三ラウンド、四ラウンド──。

 流れは変わらなかった。ダウンを奪わなければ──いや、KOしなければ判定負けは必至だろう。素人にも分かる。

 地味な試合展開だった。アウトボクシングをする相手に付き合わされている、という印象だ。飛び散る汗。歓声と罵声──。

 五ラウンド終了のゴングが鳴ると、雅隆は自分のコーナーに引き上げた。顔には焦りが色濃く表れている。

 彼は両肩を丸めるようにして丸椅子に尻を落とした。そのせいで一回り小さく見えた。

 セコンドがリングに飛び上がるや、彼の頰を両手で挟み、鬼の形相で発破をかけた。

 途切れ途切れの怒声が流れてくる。

 ──何やってんだ、馬鹿野郎!

 ──あいつのガッツポーズを大の字で眺めたいか!

 ──そんならやめちまえ! いつでもタオルを投げてやる!

 雅隆の瞳に闘志が戻った。闘犬じみた顔つきで相手陣営を睨みつけ、気合を入れる。

 ──よし、行ってこい!

 リング中央に進み出た雅隆は、目に見えて動きが違った。スピードでは劣っているものの、巧みにプレッシャーをかけ、コーナーに追い詰めていく。そして──ボディを中心にパンチを打ち込み、相手の体力を削った。

 その瞬間は六ラウンドの終了間際に起こった。執拗なボディ攻撃を嫌がった相手がガードを下げた瞬間、狙い澄ました右フックが顎に炸裂したのだ。

 それまでに相手が稼いだポイントを帳消しにする一発だった。10カウントを聞くまでもなくゴングが打ち鳴らされる。

 両拳を天高く突き上げ、雄叫びを上げる彼は、生命力の塊だった。誰よりも肉体的に充実していて、タフだ。一体誰がこの一年半後にベッドから立ち上がれなくなると想像しただろう。

 輝きが強ければ強いほど、光が消えたときの闇が濃くなる。今の彼の心を占めるのは、どれほど深い闇なのか。

 ──観るんじゃなかったかな。

 一握りの後悔を抱えたまま、動画を停止した。

 神崎は昼食を終えると、ロビーに戻った。哲人がソファに座っていた。両脚をぶらぶらさせながら携帯用ゲーム機で遊んでいる。

「どうしたのかな?」神崎は哲人に話しかけた。「お母さんは?」

 哲人はゲームを中断し、画面から顔を上げた。

「お父さんと話があるから待ってろって」

「そっか……」

「僕、いつまで待ってたらいいの?」

 下がり気味の眉に一人ぼっちの寂しさと不安が表れていた。

「……先生が様子を見てきてあげよう」

 神崎は雅隆の病室へ足を運んだ。

 病室の前に着き、ノブに手を伸ばしたときだった。室内から多香子の声が漏れ聞こえた。

「──あなたがしぶとく生きてたらいい加減迷惑なの!」



 神崎は手のひらがドアノブに触れる寸前で立ちすくんだ。指先に痺れるような緊張が走る。

 呼吸も忘れ、身じろぎすらできずにいた。

「何だと!」

 雅隆の怒鳴り声がドアを震わせた。神崎は思わず廊下を見回した。自分に後ろめたさは何もないにもかかわらず、なぜか誰もいないことに安堵した。

「いつまでロープにしがみついてるつもりなの? このままだったら医療費だってかかるし、保険金だって下りないの」

 他人事ながら鉤爪で胸を鷲摑みにされるような、疼痛を覚えた。

 踏み込むべきなのかどうか。

「お前がそんな女だと思わなかった!」

「……あたしは現実を見てるの」

 地を這うように低い声がドア越しに聞こえた。

 患者のためを思えば看過はできない。

 神崎はノックし、ノブを回した。蝶番が金切り声を上げる。ドアが開くと、目を瞠った多香子の顔と対面した。だが、彼女はすぐに焦りと驚きの表情を消し、ほほ笑みを繕った。

「あ、先生」どこかわざとらしく媚びを含んだ声だ。「夫も今は少し体調がいいみたいです」

 機先を制された形となり、神崎は言葉に詰まった。先ほどの罵倒は幻聴だったのではないかと思える。

「あ、ああ……何よりです」

 神崎はベッドに歩み寄り、雅隆を見下ろした。彼は無感情な瞳で天井を睨みつけていた。孤独な朽木のようで、肌の色も枯れた樹皮を思わせる。

「大丈夫──ですか?」

 心配が口をついて出た。

 彼は口元を歪めただけだった。

「先生」多香子が神崎の背後から言った。「このまま痛みはましになっていくんでしょうか?」

 平穏を願うような口ぶりだったが、声には緊張が滲み出ていた。質問の真意を疑ってしまう。

「……オピオイドが効いていますから、しばらくは苦痛も抑えられると思います」

 神崎は可能なかぎり率直に説明した。病状を偽れば信頼を得られず、患者も家族も現実を受け入れられない。

 ホスピスでは、本人の緩和ケアだけではなく、家族ケアも欠かせない。苦しんでいるのは本人だけではない。家族も肉親に迫る死をどう受け止めればいいか、不安で心労を抱えている。だからこそ、症状や治療方針、今後起こり得る問題について正直に話し、理解と気持ちを共有しなければならない。

 だが、どこまでプライバシーに踏み込むべきなのか。

 家族間には色んな事情がある。今まで看取ってきた患者とその家族も様々だった。全く見舞いに来ない家族もいれば、瘦せ細った姿にショックを受けて距離をとってしまう家族や、現実を受け入れられず泣き崩れる家族──。

 だが、今回は事情が違う。

「あの……」

 神崎は振り返り、一言でも注意しようと思った。だが、多香子はほほ笑みの仮面を外さないまま、小首を傾げた。

「何でしょう?」

 安易な質問を拒絶する雰囲気があった。先ほどの立ち聞きには気づいていないだろうが、さっきの今だからか、警戒心が見て取れる。

「……いえ、何でもありません」

 結局、彼女の本音には触れられなかった。

「そうですか……」

 多香子は視線を落とした。低く抑えた口調に含みがあった。だが、神崎は気づかないふりをした。さっきのは単なる売り言葉に買い言葉かもしれないし、聞かれていたと知ったらバツが悪いだろう。

「……哲人君が待っていましたよ」

 彼女ははっと思い出したように顔を上げた。

「じゃあ──」多香子は雅隆の腕を軽く撫でさすった。「また明日、来るから。休みには哲人も一緒に」

 彼は小さく顎を動かした。それが肯定を示す唯一の仕草だった。

「先生」多香子は殊勝に頭を下げた。「引き続き夫をよろしくお願いいたします。苦しみと痛みが和らぐように、何とか……」

 今度は一切の他意が感じられず、夫想いの妻としか思えなかった。仮面の精巧さにぞっとした。

 二人になると、神崎は内心を押し隠し、彼の診察を行った。普段以上に優しく声をかけ、点滴の量を調整する。

「……それでは、また夜、来ます」

 病室を出ようとしたとき、辛うじて聞き取れる声で「先生……」と呼びかけられた。

 神崎は振り返った。

「どうしましたか?」

 雅隆は逡巡するように唇を結び、やがて口を開いた。

「多香子の表の顔に騙されないでくれよな」

 それは彼の哀訴のように感じた。



第四回に続く。

『白医』購入はコチラ!

末期がん患者の水木雅隆に安楽死を行ったとして、裁判を受ける天心病院の医師・神崎秀輝。「神崎先生は私から……愛する夫を奪っていったんです…!」証人席から雅隆の妻・多香子が悲痛な声をあげるも一向に口を開こうとはしない。そんな神崎には他にも2件、安楽死の疑惑がかかっていた。患者思いで評判だった医師がなぜ――? 悲鳴をあげる“命”を前に、懊悩する医師がたどり着いた「答え」とは?

『闇に香る嘘』『同姓同名』の著者渾身、“命の尊厳”に切り込む傑作医療ミステリー!

下村敦史(しもむら・あつし)

1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリーランキングで高い評価を受ける。短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補に選ばれた。他の著作に、『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『コープス・ハント』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』などがある。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色