乱歩賞作家が〝安楽死〟に切り込むミステリー!『白医』試し読み④

文字数 5,098文字

『闇に香る嘘』『同姓同名』で話題沸騰! 今最旬の乱歩賞作家・下村敦史さんの最新医療ミステリー『白医』がいよいよ5月26日に発売! 今作で下村さんが満を持して選んだテーマは〝安楽死〟。救うべきは、患者か、命か――。3件の安楽死疑惑を前に、沈黙を貫く医師の真意とは?

この度、刊行を記念し、第一話「望まれない命」を5日連続で特別公開いたします!


望まれない命 第四回



 それから一ヵ月──。

 多香子は週に四度のペースで見舞いに来ていた。

 彼女の存在を気にしていたこともあり──不誠実だと知りながら、彼女が見舞いに来たときはドアの前に立ってしまった──、神崎はしばしば悪罵を耳にした。

 雅隆もどうやら言い返しているようではあったが、命そのものを削り取られているかのように症状は日に日に悪くなっていた。

 以前、面会を拒絶できないか、彼に訊かれた理由が分かった。彼は、自分を罵倒する妻と会いたくなかったのだ。

 見舞いのたび、ロビーで待たされる哲人の姿が目に入った。彼は退屈そうに携帯ゲーム機と睨めっこしている。

 神崎はため息をついた。

 彼が待たされているときは、必ず病室で口論している。一緒に話せる時間が限られている父親に会いに来た息子を放置してまで、雅隆を罵らねば気が済まないのか。

 神崎は哲人の隣に腰掛けた。

「それ──面白いの?」

 彼は神崎に顔を向けた。プレイしている指が止まった。画面の中で爆発のエフェクトが起こり、『GAME OVER』の文字が表示される。

「あ、死んじゃった……」

 ゲームの話だと分かっていながら、ぎょっとしてしまう。

「ごめんね。邪魔しちゃったかな」

 哲人は神崎の顔をじっと見つめ、小さくかぶりを振った。

「別に。暇潰しだし」

 幼い顔に達観したような表情が表れている。

「お母さんはまた病室?」

「……うん」

「待たされてるの?」

「……うん」

「どのくらい?」

 彼は視線を持ち上げ、壁の掛け時計を見た。

「十五分くらいかな」

「そうか。様子を見てきてあげよう」

 神崎は立ち上がり、踵を返した。歩き出そうとしたとき、白衣が引っ張られた。

 振り返ると、哲人が裾を鷲摑みにしていた。リノリウムの床を睨むように視線を落としているため、顔に影が覆いかぶさり、表情が窺い知れなかった。だが、垂れ下がった前髪の隙間から覗く唇は嚙み締められており、泣き顔をこらえてるように見えた。

「どうしたの?」

 哲人は床に沈むような声で囁くように言った。

「今は行かないほうがいいよ」

 切実な口ぶりだった。

「なぜ?」

 彼は言いにくそうに視線をさ迷わせた。それで気づいた。

「……お父さんとお母さんの喧嘩を知ってるんだね?」

 哲人ははっと顔を上げたものの、また目を逸らした。しばらく沈黙した後、こくりとうなずく。

「哲人君が知っていること、二人は──」

 小さくかぶりを振る。

 おそらく、毎回待たされることが焦れったく、病室へ行ったのだろう。そして聞いてしまった──。

「ねえ」哲人が消え入りそうな声で言った。「お母さんが怒鳴るからお父さんは死んじゃうの?」

 神崎は絶句した。

 実際、多香子の罵倒が呪いとなって体を蝕んでいるかのように、雅隆の体調は悪くなっている。

 だが、家族に不安を与えるわけにはいかない。

「お父さんの体調がよくないのは、病気のせいなんだよ。お母さんのせいじゃない」

「本当? でも、喧嘩は嫌い」

「……お母さんも不安なんだと思うよ。今度、喧嘩があったら先生からちょっと話してみよう」

 哲人の頭を軽く撫でてやると、病室に向かった。外から開ける前に向こうからドアが開き、多香子が出てきた。

 目が合うと、彼女は縋るように言った。

「夫が苦しそうです。どうか痛みを取り除いてやってください」

 表の顔は決して崩さない。

 彼女が立ち去ろうとしたので呼び止めようとした。だが、結局黙って見送った。

 病室に入ると、ベッドの雅隆が顔を向けた。虚ろな瞳は焦点を結んでいない。

「……先生?」

「そうです。私です」

 ベッドに歩み寄り、彼の腕にそっと触れた。八城看護師から『スキンテアが……』と報告を受けていたので、注意深く病院着の袖をまくり上げた。

 雅隆が「ぐっ」とうめき声を漏らした。

 創縁──傷の周囲──が戻せる箇所は皮膚接合用テープで固定してあるものの、他の場所は酷いありさまだった。薄黒い皮膚がめくれ上がり、赤色の肉が見えている。

 スキンテア──皮膚の損傷だ。終末期のがん患者は、わずかな摩擦でも皮膚がめくれたり、傷ついてしまう。

「これは──痛いでしょう」

 神崎は同情を込めて言った。

「……火傷しているみたいだ」

 創縁が戻せないスキンテアは、ドレッシング材や医療用粘着テープで皮膚剝離を予防するしかない。

 神崎は処置を行いながら、彼の激痛を想像して顔を顰めた。

 今の彼は心と体のどちらがより痛いのだろう。



 廊下を歩いているとき、受付のほうから向かってくる多香子と出会った。

「ああ、先生」彼女はお辞儀をした。「いつもありがとうございます」

「いえ。今日も雅隆さんのお見舞いですか?」

「哲人は学校なので、あたし一人で」

「……そうでしたか」

 つまり、多香子は言いたい放題──ということだ。寝たきりのまま、悪罵を浴びる雅隆の苦痛を思うと、放置はできなかった。彼をこれ以上苦しめるわけにはいかない。息子も聞いてしまっているのだ。

「少し──お話ししませんか」

 通りすぎようとした多香子に声をかけた。彼女は立ち止まり、不安そうな顔で「夫の具合が深刻なんですか?」と訊いた。心配が滲み出ている。

 演技がうまい。

「雅隆さんに関係のある話です」

 多香子は小さくうなずいた。

 私は先導してホスピスを出た。ロビーで話すような話題ではない。

 石畳が敷き詰められた敷地では、白衣の上からも染みとおる寒風が吹きすさび、並ぶ裸木の枝々が震えていた。

 冬は終わりを連想させるから好きではなかった。

「座りましょう」

 木製ベンチに並んで腰を落ち着けた。神崎は膝の上で両手の指を絡め、前方を見つめた。

「夫は……」

 多香子は焦れたように口を開いた。神崎は横顔に刺すような視線を感じながら一息ついた。

 プライベートの家族関係にどこまで踏み込むか、という問題はある。だが、それが患者本人の精神状態や体調に悪影響を及ぼし、平穏な残りの人生を妨げているなら無視はできない。それも含めての緩和ケア、終末期ケアではないか。

「……最近は症状がよくありません」

 彼女が緊張したのが肌に伝わってくる。

 神崎はちらっと彼女を窺った。多香子は続きを促すように、じっとこちらに目を注いでいた。

「お見舞いは──控えていただけませんか」

 雅隆のことを思えば、それが最善だろう。

「なぜですか?」

 通常の病院のように面会謝絶にするわけにはいかない。家族が後悔なく患者を看取れるよう、最期までケアするのがホスピスの理念なのだ。家族を締め出すことはできない。

「あなたの存在が雅隆さんを苦しめています」

 神崎ははっきりと言った。多香子は目を剝き、言葉を失った。よもや自分が元凶にされるとは思いもしなかったのだろう。

「思い当たることがおありでは?」

 ウェーブがかかった多香子の茶髪を寒風がさらっていく。はためく髪が顔を隠すように暴れても、彼女は搔き上げたりはせず、なぶられるままにしていた。

 やがて風が止み、髪が落ちた。現れた表情には、攻撃的な警戒心が満ちあふれていた。

「あたしが何をしたって言うんですか」

 どうあってもこちらから言わせるのか。語るに落ちないよう、言動には細心の注意を払っているのだろう。

「……病室のドアは意外と薄くて、声が聞こえるんです。そう言えばお分かりでは?」

 多香子の目がスーッと細まった。

 二人のあいだを寒風が吹き流れていく。

「彼の苦しみを思うと、黙っていられませんでした」

 彼女は足元に視線を落とした。落ち葉を睨む眼差しには、思いつめたような切実さがあった。

「……あたしは残酷です」

 後悔の吐露だった。自覚しておきながらなぜそんな言動を──と思う。

「ご家庭の経済事情など、色々あるかと思います。しかし、なにも今このときでなくても──」神崎は彼女同様、地面を見つめた。「残りの時間、心安らかに──」

「分かっています。あたしも分かっています。でも、哲人のためにも死んでほしくないんです。一日でも長く生きてほしい。あたしの願いはそれだけです」

 死んでほしくない?

 何か話が嚙み合っていない。いや、そもそも、彼女が会話していないせいか。

 一方的に喋っている。想いを吐き出している。

「あなたは雅隆さんを辛辣に責めています。聞いていられなくて、こうして出過ぎたまねをしています」

 横目で窺うと、多香子は苦悩の表情を見せていた。

「彼は──プロボクサーだったんです」

「知っています」

「あたしはジム経営者の娘で、ボクシングに一途な姿に惹かれて付き合いはじめたんです。結婚前に妊娠したときは、ずいぶん父に怒られましたけど……彼は、守るものがあるほうが頑張れるって、プロポーズしてくれて」

 話を聞いていると、憎む要素があるとは思えない。

 こちらの当惑が伝わったのか、彼女は一呼吸置き、ふっと息を抜いた。唇に微苦笑が浮かぶ。

「諦めそうになる彼を奮い立たせるとき、インターバルでセコンドがどうしていたか知っていますか?」

 彼女は神崎の目を真っすぐ見ていた。神崎はその瞳の中で問いの真意を探した。

 それから自分の記憶を探った。動画のワンシーンを思い浮かべ、はっとする。

 反骨心を煽り立てる挑発的な叱咤――。

 鬼の形相をしたセコンドは、『何やってんだ、馬鹿野郎!』『あいつのガッツポーズを大の字で眺めたいか!』『そんならやめちまえ! いつでもタオルを投げてやる!』と彼を怒鳴りつけていた。中高生の部活でコーチが浴びせていたら問題になるだろう台詞でも、プロの──しかも命懸けの格闘技の世界では違う。現に雅隆の瞳には闘志が戻り、その後、KO勝ちをおさめている。

 神崎は慄然とした。

「まさか、あなたは彼が生きる意志を失わないように──」

 多香子は表情から力を抜き、ブロック塀のそばの木立へ視線を逃がした。

 ──あたしは残酷です。

 彼女が吐き出した言葉の意味が今、理解できた。

「夫は──彼は死にたい、死にたいって。哲人の前では我慢しているみたいですけど、ふとした拍子に漏らすんです。そのたび、哲人が泣きそうな顔で竦むんです」

 神崎は唾を飲み込んだ。

「哲人がいなければ──夫婦二人だったなら、あたしもこんなこと、しません、絶対に。でも、息子がいるのに彼は死を望むようなことばかり言って……。逆に言えば、息子の存在が生きる意志に繫がらないほどの苦痛なんでしょうね」

 彼女を見誤っていたのだ。

 実際、彼女が厳しい言葉をぶつけるようになってから、雅隆は死への願望を口にしなくなった。

 だが、治療で苦しみながらも、妻への憎しみで生き続けることが果たして幸せなのか。

 神崎は言葉を選びながらそう問いかけてみた。

「あたしは──たとえ恨まれても、愛している彼に死んでほしくないんです。哲人のためにも」

 彼女は痛々しいまでの、悲愴な覚悟を宿していた。

 彼女の真意を知り、どうすべきなのか分からなくなった。一方的な憎しみだと思ったからこそ、患者のためを思って口出ししたのだ。

 自分は一体どうすればいいのか。



第五回に続く。

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末期がん患者の水木雅隆に安楽死を行ったとして、裁判を受ける天心病院の医師・神崎秀輝。「神崎先生は私から……愛する夫を奪っていったんです…!」証人席から雅隆の妻・多香子が悲痛な声をあげるも一向に口を開こうとはしない。そんな神崎には他にも2件、安楽死の疑惑がかかっていた。患者思いで評判だった医師がなぜ――? 悲鳴をあげる“命”を前に、懊悩する医師がたどり着いた「答え」とは?

『闇に香る嘘』『同姓同名』の著者渾身、“命の尊厳”に切り込む傑作医療ミステリー!


下村敦史(しもむら・あつし)

1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリーランキングで高い評価を受ける。短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補に選ばれた。他の著作に、『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『コープス・ハント』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』などがある。

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