徳川家康/編集者の「推し合戦はこれだ!」

文字数 3,951文字

写真:アフロ

 山岡荘八『徳川家康』は、その刊行前と後で日本人の「徳川家康像」を変えた…といわれる名著。家康のそれまでのイメージ「狸爺」が「経営者としてふさわしい歴史上の人物」に変わったと言われています。また山岡荘八は、ライフワークと言えるこの作品で、第11回中部日本文化賞、第2回長谷川伸賞、第2回吉川英治文学賞を受賞しています。

 新聞連載足かけ18年間4700回(!)、全26巻、累計6300万部(2022年12月現在)という数字だけを見ても、その桁外れのすごさがわかるというもの(ちなみにあの『転生したらスライムだった件』が現在累計約3000万部です)。


 さて、来年(2023年)のNHK大河ドラマは「徳川家康」。始まる前に少し「徳川家康」を予習しておけば、より楽しめるというもの。とはいえ、全26巻はちとハードルが高い。そんな方におすすめなのが、好きな、または気になる合戦から読んでみるという作戦です! そこで講談社文芸局が誇る歴ヲタ編集者たちが、各自の「推し合戦」を解説! 思わず読みたくなること間違いなし!

◆桶狭間の戦い(1560)

編集K

大高城の兵糧入れや丸根砦の制圧などの活躍には、若き家康と三河兵の強さが感じられて爽快感があります。家康の人生は、岡崎城に帰還するまでがいちばんドラマチックだったような気もします。義元が討たれてい家康は独立し、信長が討たれて勢力を拡大し、秀吉が死んで天下を取った――そういう家康の人生の、最初にして最大の転機となった戦いではないでしょうか。


●桶狭間の戦いが載っているのは…

『徳川家康(三) 朝露の巻』

◆三河一向一揆(1563)

編集T

 いや、衝撃でした。戦国って裏切り当然ってイメージですけど、家臣の多くが「信仰」に寄り添って主君に刃を向けるというのは、ニュアンスが違いますよね。家康の三大危機とも言われますが、本多正信もその一揆にいた、というのが面白い。二人どちらかがそこでいなくなれば、日本の戦国史や歴史は大きく変わっていたわけで。そうしたIfを考えるのも歴史の醍醐味。信仰の「強さ」や人間の本質、みたいなものに初めてふれた深い体験でした。


●三河一向一揆が載っているのは…

『徳川家康(四) 葦かびの巻』

◆金ヶ崎の戦い(1570)

編集F

いわゆる「袋の鼠」になった信長が逃走したにもかかわらず、織田軍は秩序だった撤退戦をみせた。家康も殿軍にいたとされるが、この時、家康は「信長亡き後」のことを考えたりしたのだろうか。必死の戦いの中で、織田軍の意外な強さや家臣の能力の高さを感じていたのだろうか。信長の大ピンチを、同盟者・家康やその家臣らはどう見ていたのか。いろいろと想像が膨らむ。


●金ヶ崎の戦いが載っているのは…

『徳川家康(五) うず潮の巻』

◆姉川の戦い(1570)

編集N

昔、有名な合戦を再現するTVゲームがあった。姉川の戦いは浅井・朝倉13000対織田・徳川20000くらいの各兵力で、だいたい1.5倍の差。ゲームでは兵数の影響は大きく、織田側が断然強い。浅井側では5回に1回も勝てなかった。しかし史実では織田は浅井に押し込まれ(13段中11段破られたという)、朝倉を圧倒した徳川のおかげで織田側がなんとか勝利を得ている。朝倉8000対徳川5000の戦いは見事にゲームの法則を打ち破ったのだ。織田軍の大事な決戦で家康は必ず信長に呼び出され、その都度輝かしい活躍をしている。この戦いもその一つと言えよう。(兵数は諸説あり)


編集S

「一騎駆け」といえば、唐土の趙子龍、日ノ本の本多平八と言いたい。姉川の戦いでの本多忠勝の一騎駆けは、戦国のハイライトシーンの一つだと思う。ちなみに、講談では忠勝と一騎打ちして勝負がつかなかったことになっている怪力武将・真柄直隆は、身長192センチ体重252キロ、長さ221センチ(これらのデータは諸説あり)の「太郎太刀」を振り回したという。忠勝の名槍・蜻蛉切と太郎太刀との対決。これは昂ります。


●姉川の戦いが載っているのは…

『徳川家康(五) うず潮の巻』

◆三方ヶ原の戦い(1572)

編集N

「梵天丸もかくありたい」おそらく同世代の男どもはみな、心に独眼竜を抱えています。竜が戦国を華々しく駆け抜けた翌年、動かざる男が風の如く動いたとき、後の英雄は糞にまみれます。この衝撃たるや。おい歴史、いったいどうなっている!?と動揺する心が、少年を山岡荘八に向かわせ、やがて更なる大河を求めて海を越え、吉川三国志に辿り着く――。それにしても『鎌倉殿の13人』は面白い。えげつないプレッシャーだろうなあ。


編集O

私は生来お腹が弱く、人生の半分はトイレを我慢していたような気がします。そのため、三方ヶ原での家康の敗走時の逸話は、私に大いに勇気を与えてくれました。家康の身代わりとなった家臣たちの姿にも胸を打たれました。どういうわけか、漢の劉邦の紀信や、鳥居強右衛門など、そういう死に方をした人物に衝撃を受ける傾向があります。


●三方ヶ原の戦いが載っているのは…

『徳川家康(五) うず潮の巻』

◆長篠の戦い(1575)

編集T

きっかけはわかりません。テレビで見たのか、マンガで読んだのか、あるいは親戚の歴史好きなおじさまに吹きこまれたのか。人生で最初に知った「の戦い」が、「長篠の戦い」でした。最強の武田騎馬軍団が(もしかしたら最初に覚えた「軍団」は武田騎馬軍団だったかもしれません)、鉄砲という新しい武器で……、という、古きものVS新しきもの、その構図自体に、そして戦の結果に、子ども心を鷲づかみにされたことを覚えています。


●長篠の戦いが載っているのは…

『徳川家康(七) 颶風の巻』

◆小牧・長久手の戦い(1584)

編集K

よく野球解説者がスポーツ番組などで「実は勝負は5回に決まっていたんです」と言って、「ほんまかいな」とツッコむことがありますが、こと戦国に関していえば、関ケ原の十数年前に起きたこの戦ですでに天下は決していたと言えるかもしれません。その後、「秀吉に勝った男」として諸大名への求心力を高めていた家康は、関ヶ原の合戦で見事勝利、実質的な天下人となります。華々しくはないものの、結果的に重要な決定打を与えた、玄人好みの戦でだと思います。


●小牧・長久手の戦いが載っているのは…

『徳川家康(十) 無相門の巻』

◆小田原征伐(1590)

編集N

戦国武将として群雄割拠の乱世を生き抜き、治世者として二百六十年の泰平の土台を築く。

家康の凄さは、戦中戦後の相反する二つの大きな役割を果たしたことにある。北条攻めの名を借りて、秀吉が家康の父祖の地三河を奪おうとする小田原征伐。秀吉側と家臣団との板挟みに遭いながら、関八州に新天地としての可能性を見出そうとする姿に、降りかかるピンチをチャンスに変えていく、しぶとい家康の真骨頂が楽しめる。


●小田原征伐が載っているのは…

『徳川家康(十三)佗茶の巻』

◆関ケ原の戦い(1600)

編集N

歴史にifはタブーとされるが、日本史上で最も考えたくなってしまうのがこの戦いだろう。フツーに考えると「小早川秀秋が裏切らなかったら」。つぎが「毛利輝元ないしは豊臣秀頼が大阪城から出陣していたら」あたりか。そして歴史通の推しはきっと「立花宗茂が決戦場に間に合っていたら」。小早川軍に匹敵する15000の兵力が西軍に加わるのだから。しかしこれにはオチがある。決戦の5日後に遅れた徳川秀忠軍35000が到着するからだ。宗茂のいた大津から関ヶ原へは3日かかる。チャンスは2日。やはりどう転んでも、天下は家康のものになったのだろうか。(兵数は諸説あり)


●関ケ原の戦いが載っているのは…

『徳川家康(十八)関ヶ原の巻』

◆大坂冬の陣(1614)

編集H

籠れば安心。それが城というもの。ましてや太閤豊臣秀吉が建てた城ならば――。さらに守り手は、家康にとってラスボスともいえる真田幸村(信繁)。実際、「真田丸の戦い」では徳川方は幸村によって大きな痛手をうけます。しかし、家康はここで新兵器カルバリン砲を投入。安全なはずの城を射程におさめ、天下人の城に砲弾を撃ち込むのでした。それは、これまでの戦さえ変えてしまう、インパクトだったのではないでしょうか。


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『徳川家康(二十四)戦争と平和の巻』

◆大坂 夏の陣(1615)

編集S

大坂の役で家康に対峙した豊臣方の武勲を語るのに、真田幸村だけ名前が挙がるのは惜しいと後世、「真田を云いて、毛利を云わず」とされた毛利勝永。勝永は夏の陣・天王寺口の戦いで、徳川方の本多忠

朝や小笠原忠脩を討ち、かの幸村も家康の本陣に迫る! 三方ヶ原以来、40年ぶりの危難に家康は死を覚悟したとも。そもそも70歳超の老体で、なぜわざわざ現場に出張ったのか。心配性ゆえ? それとも死んで伝説となってもいいと覚悟していたのか。狸爺の真意は……。


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『徳川家康(二十五)孤城落月の巻』

山岡荘八 (1907~1978) 

明治40年(1907年)1月11日、新潟県小出町に生まれる。本名・山本庄蔵、のちに結婚し藤野姓に。高等小学校を中退して上京、通信官史養成所に学んだ。17歳で印刷製本業を始め、昭和8年(1933年)「大衆倶楽部」を創刊し編集長に。山岡荘八の筆名は同誌に発表した作品からである。13年、時代小説「約束」がサンデー毎日大衆文芸賞に入選、傾倒していた長谷川伸の新鷹会に加わった。太平洋戦争中は従軍作家として各戦線を転戦。戦後、17年の歳月を費やした大河小説『徳川家康』は、空前の”家康ブーム”をまきおこした。以来、歴史小説を中心に幅広い活躍をしめし、53年(1978年)9月30日没した。

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