塩田武士・来るべき虚実の時代に 「松本清張」 

エピソード文字数 1,511文字

 



推理小説を読んでいて「これは『砂の器』だ」と思うことがある。探偵役が靴底をすり減らし、遠回りの末に辿り着いた容疑者には、過去に連なる悲しい動機があった――これは社会派推理小説の基本形と言っていい。

 新聞記者をしていた私は、靴底をすり減らした経験こそあれ、取材の末に劇的な動機に巡り合ったことは一度もない。それが現実であり、ノンフィクションの厳しさだ。19歳のころから小説を書き始め、新聞社では実際に起きた事件に翻弄された。だからこそ、虚実の境界に潜む魔力の存在に気づいていた。

 清張は言う。「創作ものには、創作もののよさがある通り、実話ものにはそれだけの面白さがあって読まれるので、必ずしも創作ものの衰退が実話ものを勃興させたとはいいきれない。むしろ、両方の面白さが補い合って読まれている」(『実感的人生論』以下同)

 21歳のとき、私は戦後最大級の未解決事件「グリコ・森永事件」に子どもの声が利用されたことを知った。3人の関与が疑われ、そのうち最年少とされる幼児は、私と同世代で同じ関西に育った可能性が高い。どこかですれ違っているかもしれない――そう思った瞬間に鳥肌が立ち、この子はどんな人生を送ったのだろうかと想像すると止まらなくなった。

 紆余曲折を経て、私が『罪の声』の連載を始めたときには、着想から15年が経過していた。大学生だった私は36歳の専業作家になっていた。簡単に手を出せなかったのは「グリ森」が複雑な軌道を描いた事件だったこともあるが、虚実の境界にある魔力が劇薬であるとの自覚があったからだ。取扱を間違っては、誰かを深く傷つけてしまうかもしれない。しかし、自分の思いをうまく具現化できれば「両方の面白さが補い合って読まれ」ると確信していた。清張作品にもベルギー人神父の関与が疑われた、東京の「スチュワーデス殺人事件」をモデルにした『黒い福音』や『小説帝銀事件』などの著作がある。

 未解決が故、闇の部分が創作パートになる。事件についての詳細な情報を整理し、事実関係に嘘が紛れないよう注意しながら、現実と虚構を折り重ねていく。『砂の器』の和賀英良親子の逃亡劇と『罪の声』のコピー「逃げ続けることが、人生だった。」に同期性を見出したとき、私は音楽家坂本龍一氏の「作曲の95%は、過去の遺産」という言葉の輪郭が、ほんの少し見えた気がした。

 記者として訪れた事件現場や裁判所で、私は想像外の不幸や悪意を見聞きした。哀しみに咽び、同情の言葉も見つからないような局面に立つ人々は、間違いなくこの世に存在する。だから数合わせか何かで人が亡くなるような展開には抵抗がある。

「(前略)推理小説があまりに動機を軽視して非現実的なプロットが多かったので、もう少し、これを日常生活的な中にとり入れられないものかと考えていた」という清張の気持ちがよく分かる。それは「近ごろ文壇の『不毛』がいわれるのは、作家が何を書くべきかが発見できず、あいまいな発想を『いかに書くべきか』に片寄せているためであろうか」「推理小説は頼まれて書くべきものでないことをつくづく思う。やはり一つのアイデアを持ってから書くべき」との言葉につながる。

 情報革命の本質がいよいよ表出し始め、私たちは構造変化の荒波に呑まれている。フェイクニュースにVR、否応無しに虚実の境をさまよう時代を迎え、小説とノンフィクションの真ん中に立ち、社会と人間を書き続けた松本清張の存在が、さらに重みを増している。

「小説現代特別編集二〇一九年五月号」より

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