遠田潤子の最新作『雨の中の涙のように』第一章立ち読み公開! 2/3

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(第二回)

 夏休みに入って、しのぶの娘、若葉が遊びに来た。だが、しのぶに急な仕事が入ったので、夕方まで伍郎が相手をすることになった。
 はじめて会う若葉は小学校二年生で、しのぶによく似ていた。しのぶがチワワなら、若葉はチワワの仔犬だった。若葉も緊張しているらしく、ほとんど喋らなかった。
 映画村は何度も行ったというので、クーラーの効いた喫茶店で時間を潰すことにした。三条通をすこし歩いて(かた)(びら)()(つじ)駅へ向かう。「亀屋珈琲店」か「スマート珈琲店」かで迷ったが、小さな子が好きそうなメニューがある「スマート珈琲店」にした。
 (てら)(まち)の本店とは違って、こちらは天井が高くて明るい。撮影所の関係者がよく来る店だが、今日は知った顔はなかった。
「ここはホットケーキとフレンチトーストが()()しいそうや。どっちがええ?」
「ホットケーキ」
 奮発して、アイスクリームのせにした。やがて分厚い二段重ねのホットケーキが運ばれてきた。二枚目の上にはバニラアイスがたっぷりのっていた。
 「こんな美味しいホットケーキ、あたしはじめて」
 若葉は頬を真っ赤にしてホットケーキを食べ、ミルクセーキを飲んだ。その様子に伍郎はようやくほっとした。若葉はぽつぽつと喋り続けた。友達のこと、今、学校で()()っていること。そして、自分も母のようにテレビに出たいこと――。とにかく伍郎は聞き役に徹した。
 ホットケーキ二枚は若葉には多すぎたので、残りは伍郎が手伝った。溶けたアイスとかけすぎたシロップのせいで、ホットケーキはぐずぐずになっていた。甘い物が苦手な伍郎は苦労しながら食べた。若葉は嬉しそうだった。
 若葉は三日ほど滞在することになっていた。親子水入らずで、と遠慮したが、しのぶも若葉も伍郎を誘った。伍郎は生まれてはじめてUSJに行った。どのアトラクションに並んでも「家族三人」として扱われた。係員はごく自然に言った。……お父さんはこちらのお席へ、と。伍郎はおかしな気持ちだった。
 丸三日、しのぶと若葉と一緒に過ごした。最後には若葉も完全に打ち解け、おじさん、おじさん、と話しかけてくるようになった。
 若葉が帰る日、伍郎は京都駅まで見送りに行った。しのぶが切符を買う間、伍郎は若葉と二人で待っていた。京都駅は通勤客と観光客でごった返している。人混みに慣れていない若葉は緊張した顔だ。修学旅行生が大声で騒ぎながら横を通っていった。若葉がスポーツバッグに押されてよろけた。伍郎は手を出し、支えてやった。
「大丈夫か?」
 若葉は黙ってうなずいた。だが、よほど怖かったのか、伍郎の手を離そうとしない。伍郎は振り払うことはできなかった。マメとタコだらけの伍郎の手と違い、若葉の手は小さくて柔らかくて、熱かった。
「おじさんの手、硬いねえ」
「毎日、刀、何百回も振って稽古しとるからな」
「ほんね?」
「ほんまや。今度、見せたる」今度、と言ってからどきりとした。「最後はかっこよう刀を納めるんや。こう、くるっと刀を回してな」
 刀なしで型だけ見せてやると、それでも若葉は眼を輝かせた。
「二刀流もあるんや。刀二本やぞ」
 里見浩太朗の真似をして華麗に回転し、二本の刀を鞘に納める型をした。若葉は嬉しそうに笑った。その笑顔に伍郎は胸を突かれた。
「今度、ほんまもんを見せたる。絶対に見せたる」
 うん、とうなずいた後、ふいに若葉が真顔になった。小さな声で言う。
「おじさん。あたしのお父さんになってほしいけん」
 伍郎はぎくりとした。どこまで本気かわからないが、やはり断ることはできなかった。
「俺でええんか?」
 若葉がこくんとうなずいた。
「そうか」
 もっとなにか言わなければと思ったが、言葉が出なかった。若葉はじっと伍郎を見上げている。
「また、()いや」
 若葉はじっと伍郎を見て、またうなずいた。そして、背中のリュックを下ろすと、中から飴を一つ取り出した。伍郎に向かって黙って差し出す。
「これ、くれるんか?」
 伍郎は飴を受け取った。田舎の曽祖母が買ったのだろう。昔懐かしいカンロ飴だった。

 堀尾葉介の映画が公開されると、伍郎はしのぶと観に行った。客席はすべて埋まっていて、ほとんどが若い女性だった。大きなスクリーンの中では、堀尾葉介が長い刀で斬りまくっていた。たった三ヶ月の特訓ということを考えれば、上出来の殺陣だった。一瞬、隅に伍郎も映った。差は圧倒的だった。
 劇中、堀尾葉介が回転納刀を披露するシーンがある。わざとらしくなく、ごく自然に見えた。子供の頃から練習してきた伍郎より、よほど美しかった。
「教えた人が()()いんやよ」しのぶがささやいた。
「アホか」
 不思議と心は痛まなかった。伍郎は自分でも驚くほど落ち着いていた。スクリーンを前に、まるで()()(ごと)のように堀尾葉介の映画を楽しんでいる。伍郎は自分の中で火が消えたことに気付いた。役者としての情熱が失われたことを寂しく思いながらも、この何年も感じたことのない安らぎを覚えた。俺はようやく楽になれたのだ、と思った。
 次の休み、伍郎はしのぶを引っ張って大洲に帰った。祖父母はしのぶを歓待してくれた。お姫さま女優が来た、と持ち上げられ、しのぶもまんざらではなさそうだった。
 早速、伍郎は大洲の町を案内した。九月に入っていたが、やはり大洲は暑かった。
「なんやの。京都と変わらんくらい暑いわ」しのぶが日傘の下で呆れたように汗を拭く。
「京都よりはマシじゃわい。どうや、大洲はええとこじゃろ?」すると、しのぶが喉を鳴らして笑った。
「京都では関西弁喋ってるのに、急にこっちの言葉になってる」
「ほうか?」
 自分ではまるで気付かなかった。だが、やはり自分は大洲の人間なのだ、と知らされたような気がした。
 肱川を望む臥龍山荘を訪れた。崖に突き出した()(ろう)(あん)に座り、肱川を見下ろす。観光客は他に誰もいない。聞こえるのは水の音だけだ。川からの風が吹き抜けていく。汗が冷えて気持ちがいい。しのぶの汗と香水と川と木々の匂いが入り交じって流れてきた。
「ほんまにセットみたいな町やね。ここ、きっとええシーンが撮れると思う」
 こんなときでも、しのぶの頭の中には「どう撮られるか」しかないのか。それでも言うしかない。伍郎は思い切って口を開いた。
「ええ町じゃけん。俺と一緒に帰らんか?」
 すると、しのぶが驚いて振り返った。戸惑った顔で伍郎を見ている。
「帰るて……ここに? 一緒に?」
 しのぶが眉根を寄せた。だが、今さらここで引くわけにはいかない。意識して関西弁に戻し、柔らかく言う。
「なあ、しのぶ。そろそろ現実見いひんか?」
「現実て?」
「前から考えてたんやが、俺は大洲に帰ろうと思う。じいさんも(とし)やし、店の仕事覚えるんやったら早いほうがええ」
「まさか、あんた、諦めるん? いつかは垣見五郎兵衛を()るんと違うん?」
「なに夢みたいなこと言うてるねん。俺は千恵蔵でもないし、片岡孝夫でもない。持って生まれたものが違う」
 堀尾葉介に思い知らされた。スターは生まれたときからスターだ。違いすぎる。
「ここで諦めたら、今までの苦労がみんな無駄になる。遅咲きのスターなんか、なんぼでもいてはるやん」
 しのぶが懸命に言ったが、伍郎は首を横に振った。わかってしまったのだ。――千恵蔵でもないし、片岡孝夫でもない。そんな大昔のスターの名を思い浮かべること自体が、時代から取り残されている証拠だ。
「もうええ。しのぶ。夢見てもしゃあない。一緒に大洲に来てくれへんか?」
「あたしは諦められへん。あたしはちゃんとした女優になりたい」
「太秦でか? いつの時代の話してるねん。撮影所の大部屋からスターが出る時代はとっくに終わった。取り残されてるうちに、俺らはどんどん歳取ってくんや。やり直すんやったら早いうちがええ。それに、若葉ちゃんはどうする気や? ずっと預けたままか? かわいそうと思えへんか?」
 娘の名を出すと、しのぶの眼が揺れた。声が小さくなる。
「そんなんわかってる。早く一緒に暮らしたいから、頑張ってるんやないの」
「俺が一所懸命稼ぐ。(ぜい)(たく)はでけへんかもしれんけど、今みたいに金に困る生活はさせへん。大洲に帰ったら、古いが一軒家に住める。狭いアパートやない」
 しのぶはなにも言わず、うつむいてしまった。伍郎は言葉を続けた。
「俺かて自分の子供が欲しい。若葉ちゃんの弟か妹か……みんな一緒に暮らそやないか」
「もうちょっと考えさせて。そんなん……いきなり返事でけへん」
 それきり黙ってしまった。しのぶの態度はもどかしかったが、ここで()かすと反発されるだけだ。伍郎はわざと軽く言った。
「そやな。悪かった。なあ、帰り、(まつ)(やま)寄って道後温泉でも行こか。若葉ちゃんに土産でも()うて……」
 ふっと祖父にオモチャの刀を買ってもらったことを思い出した。息苦しくなって、風に顔を(さら)す。口を開けると湿った水の匂いでむせそうになった。()き込むと、しのぶが笑った。笑うといっそうチワワに似た。
「ほんまに、ええ風じゃわい……」
 肱川を渡る風に引き戻されたか。自分でも、大洲弁なのか関西弁なのかわからなくなる。奇妙なアクセントになり、しのぶがまた笑った。
 温泉に()かった後、二人で若葉への土産を選んだ。しのぶはきれいな水玉の()()焼のマグカップを選び、伍郎は定番の()()()にした。しのぶはこのまま奥出雲に土産を渡しに行くと言ったので、松山で別れた。
 伍郎が京都に戻った翌日、しのぶが帰ってきた。伍郎に地元の土産だと言い、紙袋を差し出した。
「もっとゆっくりしてきたらええのに」
 返事はない。伍郎はそれ以上は言わなかった。しのぶが町に良い思い出のないことは知っていたし、長居すれば若葉とも離れづらくなる。
 紙袋の中身は出雲そばだった。しのぶが黙ってそばを()ではじめたので、伍郎も黙って大根をおろした。そして、二人でそばを食った。夏大根は辛かった。
 そばを食べ終えても、しのぶは黙ってうつむいていた。黒褐色の平皿に、残った大根おろしがこびりついている。扇風機がゆっくりと首を振っていた。
「若葉はあんたのこと、大好きみたいや」
 うつむいたまま、しのぶが言った。伍郎が黙っていると、しのぶはまたぼそりと言った。
「お父さんになってほしかったら、あんた、四国に行かなあかんねんで。引っ越しして、お友達とも別れなあかんねんで、て言うたら、それでもええ、て」
 そこで、しのぶが顔を上げた。もうすっかり覚悟を決めた顔だった。
「あたしと若葉、二人で大洲に押しかけてええんか?」
「ああ、もちろんや」伍郎はほっとした。
 撮影所に報告してくる、としのぶはアパートを出て行った。伍郎が一人で荷物をまとめていると、つけっぱなしのテレビが大騒ぎをはじめた。芸能レポーターが早口で喋っている。堀尾、という名が耳に入って伍郎は顔を上げた。
 堀尾葉介、電撃脱退。役者に転身。
 人気絶頂のアイドルグループを脱退し、指導が厳しいことで知られる劇団に入るという。一から演技の勉強をしたい、とのことだった。街角で号泣するファンの様子が映し出される。資料映像として、あの時代劇映画も流れた。レポーターは違約金の心配をしている。一方的な契約解除なので億単位になる可能性があるとのこと。
 堀尾葉介の記者会見がはじまった。地味なスーツを着た堀尾葉介はカメラに向かって深々と頭を下げていた。
「……映画に出させていただいて、自分の未熟さを痛感いたしました。映画を作っている人たちの熱意に触れて……最初からきちんと演技の勉強をしたいと思うようになりました。これまで応援してくださったファンの皆様には大変申し訳ありませんが……」
 堀尾葉介はカメラに向かって詫び続けた。
 伍郎は気付くと泣いていた。詫び続ける堀尾葉介がまぶしかった。羨ましかった。結局、なにひとつ成し遂げられなかった己が惨めだった。()()()なくて、情けなくて、苦しくて、いたたまれなかった。
 諦めたはずなのに、なぜこんなに涙が出る? 答えを出したはずなのに。伍郎は引っ越し用の段ボール箱の前で泣き続けた。そして、懸命に自分に言い聞かせた。諦めるんや。三人で暮らすと決めた。もう終わりなんや――。
 その夜は雨になった。しのぶが帰って来たのは日付が変わってからだった。
「大洲に行く話、やっぱりなしにするわ。あたし、東京に行く」
 しのぶの突然の心変わりに言葉が出なかった。今さらなにを言っているのだろう。(ぼう)(ぜん)としのぶの顔を見ていた。
「石崎さんに頼みこんだら、知り合いの劇団を紹介してくれる、て」
 しのぶの眼は真っ赤だった。泣いて泣いて、この結論を出したことがわかった。だが、到底受け入れることはできなかった。
「ねえ、堀尾葉介のニュース見た? 本気で演技の勉強したいから事務所辞めて劇団入るねんて。何億いう違約金(はろ)て、干される覚悟で。その話聞いたら、あたし、なにやってるんやろう、って恥ずかしくなった。全然覚悟が足らんわ」
 俺が堀尾葉介のニュースをどんな思いで聞いたと思う? その後、どんな思いでケリをつけたと思っている? 今、口を開いたら汚い言葉を()き散らしてしまいそうだ。伍郎は懸命に奥歯を噛みしめた。
 黙ったきりの伍郎を見て、しのぶが絞り出すように詫びた。
「ごめん。伍郎には悪いと思てる。でも、今諦めたら、一生後悔する。やるだけはやりたいねん」
 しのぶの肩が震えていた。(こら)えきれずに顔を伏せた。伍郎は惨めでたまらなかった。しのぶに捨てられたことも、しのぶのような勇気がなかったことも、どちらも負け犬の証明だった。
「……若葉ちゃんはどうなるねん」
「仕方ないやん。子供がいたら我慢せなあかんの? 夢を諦めなあかんの?」
 しのぶが顔を上げ、きっと伍郎をにらんだ。きつい調子で言い返す。伍郎は思わずたじろいだが、なんとかしのぶを説得しようと諭すように語りかけた。
「なあ、大洲で、みんなで暮らそうやないか。もし芝居がやりたいんやったら、また……」
「もしまた子供ができたらどうするん? 男はやるだけで済むけど産むのは女やねんよ。妊娠したらなんもでけへん。一年も二年も棒に振れ、ていうん? 子供産んだら体形も崩れるし、髪も抜けるし、肌もぼろぼろになる。そんなん絶対嫌や」
 しのぶは吐き捨てるように言うと、()(もと)のポーチを壁に叩きつけた。入っていた化粧道具がばらばらと散らばり、ファンデーションのケースが跳ね返って伍郎に当たる。かっとして、大きな声になった。
「子供捨てて平気か。おまえは母親失格や」
 すると、しのぶは真っ赤な眼で伍郎をにらみつけた。小鼻を膨らませて荒い息をしていたが、やがて涙を一粒こぼした。
「覚悟してる。母親失格でもええ。あたしは女優なんや」
「女優? 通行人が? ただの死体が偉そうなこと言うても、俺もおまえも所詮は名無しやったやないか。無理なんや、俺らには」
 言いすぎた、と思ったときには遅かった。しのぶがなにか叫んで、思い切り灰皿を投げつけた。店名入りの灰皿は粉々に割れて、あたりに吸い殻と灰が飛び散った。しのぶはそのまま号泣した。
「勝手にせえ」
 伍郎は部屋を出た。雨はほとんど小止みになっていた。壊れかけた(とい)から、しょぼしょぼと雨水が()れていた。
 伍郎は空がかすかに白みはじめた京都の町を歩いた。
 これが激しい雨なら、真夜中なら、と思った。
 ずぶ濡れになり、(どう)(こく)しながら男は夜の町を彷徨(さまよ)う。夜の闇、強烈な照明に男のシルエットが浮かび上がる。次第に雨の音が高まっていく。音楽などいらない。ただ雨の音が男の心を表している。
 ええシーンや。主役の見せ場やないか、と伍郎は思った。だが、俺は違う。キレの悪い小便のような雨に濡れ、泣くことも叫ぶこともできず、ただ背を丸めて歩く。夜の闇も照明もない。中途半端なぬるい光が間抜けに照らすだけだ。
 二日後、部屋に戻ったときには、しのぶの荷物はなくなっていた。
 伍郎はしのぶに関するものをすべて捨て、大洲に帰った。
(次回更新は9月2日12時です)

※著者略歴
遠田潤子(とおだ・じゅんこ)
1966年大阪府生まれ。2009年『月桃夜』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。12年『アンチェルの蝶』が第15回大藪春彦賞候補に。14年刊行の『雪の鉄樹』が16年に本の雑誌が選ぶ文庫ベストテン第1位に選ばれ、一気にブレイク。さらに17年に『冬雷』が「本の雑誌 2017年上半期エンターテインメント・ベスト10」第2位、第1回未来屋小説大賞 推理作家協会賞長編部門候補、『オブリヴィオン』が「本の雑誌 2017年度ノンジャンルのベスト10」第1位、20年刊行の『銀花の蔵』は第163回直木賞候補となる。他に『カラヴィンカ』『あの日のあなた』『蓮の数式』『ドライブインまほろば』など。

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