遠田潤子の最新作『雨の中の涙のように』第一章立ち読み公開! 3/3
文字数 5,326文字
(第三回)
あれから十年が経った。しのぶと若葉のことはもう遠い過去の思い出になっていた。ただ、雨が降れば胸が
伍郎はしのぶの消息を捜した。「小桜しのぶ」を検索してみたが、出てくるのは十年前、京都にいた頃の記事、それもわずかだ。本名でも検索してみた。だが、ヒットしない。改名したのかもしれん、と伍郎は途方に暮れた。売れない芸能人にはよくある話だ。
最後の手段は、と伍郎は携帯を見つめた。もう十年も掛けていない番号に、思い切って電話してみた。助監督の石崎。堀尾葉介に回転納刀を教えてくれ、と頼みに来た男だ。
「お久しぶりです、石崎さん。垣見伍郎と言います。昔、撮影所でお世話になった……」
はあ? と露骨に迷惑そうな声だ。それきり黙ってしまう。こちらの出方をうかがっているらしい。
「垣見伍郎です。堀尾葉介の映画とかで
数秒の沈黙の後、ああ、と間の抜けた声が返ってきた。
「垣見五郎兵衛の伍郎ちゃん? ああ、あの伍郎ちゃんか。でも、仕事なんかないでー」
伍郎は胸に鋭い痛みを覚えた。遠い昔のことなのに、今でもこんなに俺は傷つくのか。その事実に伍郎は戸惑った。俺は今でも未練があるのか。諦めていなかったのか。
「いえ、すっぱり役者は辞めて田舎で店やっとるんですが……」
「伍郎ちゃん、それが賢いで。ほんま、時代劇はもうあかん。年寄りしか観てへん」たかりでないとわかると、石崎の口が急に軽くなった。「たまに新しいやつ作るいうても、テレビは殺陣のいらん人情物ばっかりやし、映画は
だが、石崎の声には悲愴感はなかった。もうそんな時期は過ぎたのだろう。どこか開き直った強さがあった。
「まあ、今さら言うてもな。何十年も前にわかっとったことやし。大昔な、専門学校の講師の話があったんや。でも、現場にこだわりたい、言うて僕は断ったわけや。な、アホやろ? ほんま自分でも涙が出てくるわ」
電話の向こうで石崎が楽しそうに笑った。伍郎も釣られて笑った。久しぶりに笑った気がした。そして、石崎を素直に尊敬し、羨ましいと思った。
「で、石崎さん。ちょっとお訊きしたいことがあって。小桜しのぶ、て憶えてますか? 俺と同じ時期に出てた娘です。たしか、石崎さんが東京の劇団を紹介したとか」
「小桜しのぶ? あ、ああ。そんな子おったな。そうそう、東京行きたい言うて……」
「今、どうしてるかご存じないですか?」
「あー。あの子か……」
突然、石崎の口が重くなった。嫌な予感がして、伍郎は思わず焦って
「なにかあったんですか?」
「あの子なあ、東京行って何年かして、
「死んだ、て……。まだ若いのにおかしいやないですか」
「そんなん言われてもなあ。でも、もうだいぶ前の話や。かわいい子やったのにかわいそうにな。……じゃ、忙しいから、これで」
気まずい結果に耐えられなくなったのか、石崎がそそくさと電話を切った。伍郎は携帯を握り締め、呆然としていた。しのぶがもうこの世にいないなど考えたこともなかった。娘を捨ててまで望んだ夢を
ふっと若葉の顔が浮かんだ。残された若葉はどれだけ辛かっただろう。実の父親の顔も知らず、父親になると約束した男には裏切られ、実の母親には捨てられたまま死なれ――。
伍郎は震える手でパソコンを開いた。モニターに「染井わかば」が映る。しのぶそっくりのチワワ顔で笑っていた。
公式ホームページには新譜の告知があった。初回限定版にはイベント参加券が付いている。その券があれば、握手と話ができる。CD一枚につき券が一枚。購入制限はないとのこと。
若葉に一目会いたい。だが、俺は若葉との約束を破った。今さらのこのこ会いに行って、若葉はどう思うだろう。いや、そもそも、俺のことなど憶えているはずがない。もう十年も前のことなのだから。
迷った末、伍郎は5と入力し、カートに入れた。五回分、若葉に会える、と思った。
イベントに参加するため、伍郎は夜行バスで東京の会場に向かった。財布には余分に五万円を入れてきた。もし、若葉が伍郎に気付き声を掛けてくれたら、イベントの後で個人的に会って話くらいできるかもしれない。そのときは食事でもさせてやって、プレゼントでも買ってやって、と。
早めにイベント会場に着くと、すでに炎天下に整然とした行列ができていた。伍郎が最後尾に並ぶと、すぐに後ろに行列が延びた。並んでいるのはほとんどが十代二十代の男だが、ちらほらと若い女性や中年男性の姿も見える。伍郎はすこしほっとした。
一時間も並んでいると、強い
本当はわかっている。個人的に会って話すなど、ありえないことだ。若葉はもうアイドルだ。一ファンと会えるわけがない。わかっているのに、こんなところまで来てしまった。だが、かすかな期待が捨てきれない。一目、若葉に会いたい。話がしたい。しのぶのことを訊きたい。
やがて、行列が動き出した。待機ゾーンに入ると、ようやく涼しくなった。身元確認の後、事前に申し込んだ番号順に誘導され、さらに今度は目当てのメンバーごとに並び直す。伍郎は染井わかばのレーンに向かった。そこで、
若葉の前にはほとんど人がいなかった。伍郎は会場全体を見渡した。メンバーによって行列の人数に差がある。一番人気のレーンには若葉の何十倍という数のファンが並び、会場の外まで続いていた。
残酷なシステムだ、と思った。人気、不人気が一目でわかる。伍郎はいたたまれなくなった。若い頃の苦しさが
憤っていたが、すぐに順番が回ってきた。慌てて手汗を拭く伍郎の眼の前で、若葉が精一杯の笑顔を作っていた。しのぶにそっくりだった。
――おじさんの手、硬いねえ。
あの頃に比べるとマメも素振りダコも消え、柔らかくなった。まるで別人だ。俺がわかるだろうか。
「……がんばってください」
若葉を眼にすると、それだけ言うのがやっとだった。
「はい、ありがとうございます」
若葉が元気に返事をして、にっこりと笑った。アイドルとしての営業スマイルだ。伍郎のことなどまるで憶えていない。口ごもっていると、スタッフに引き剥がされた。
「時間ですので」
容赦なく出口に追いやられる。伍郎は次の券を引き換え、再びわかばのレーンに並んだ。ガラガラなので、またすぐに順番が回ってきた。
「応援してます……がんばってください」
「ありがとうございます。がんばります」
先ほどとまるで同じ笑顔だった。いろいろ考えていたのに、やはり言葉が出ない。持ち時間はあっという間に過ぎた。伍郎は急ぎ足で出口に向かい、さらに券を引き換えて並んだ。だが、三度目も四度目も同じだった。懸命に笑う若葉を見ると、手を握ることしかできなかった。
何度も並んでいるファンは伍郎以外にもいた。少ないながらも、若葉にはちゃんと熱心なファンが付いている。伍郎はそれだけで涙が出そうになった。
五回目。最後の握手だ。伍郎が手を伸ばすと、若葉から口を開いた。
「いっぱい応援してくれてありがとうございます」
もともとファンの数が少ない。眼付きの悪い四十男だ。何度も回るうちに顔を憶えてくれたのだろう。それだけのことなのに、伍郎は嬉しくてたまらなくなった。もしかしたら、思いだしてくれるかもしれない。勇気を振り絞り、言った。
「……ホットケーキ、好きですか?」
「はい。大好きです。とっても美味しいですよね」若葉がにっこり笑った。そして、言った。
「特に、アイスクリームをのせて食べるのが大好きなんです」
――こんな美味しいホットケーキ、あたしはじめて。
そうか、アイスクリームのせが好きか。ふいに目頭が熱くなった。伍郎は若葉の手を握り締めた。涙を堪えようとして思わず力が入る。驚いた若葉が小さな悲鳴を上げ、身を引いた。しまった、と思った。十年前、一日に何百回と素振りをした手だ。マメとタコは消えても握力は人並み以上だ。
「すまん、つい」
詫びようとしたが、背後にいたスタッフに腕をつかまれ、乱暴に引き戻された。一瞬、かっと血が上る。警備員が二人、駆けてくるのが見えた。伍郎はあっという間に床に押しつけられ、乱暴にボディチェックされた。不審物を所持していないことがわかると、警備員は無言で伍郎を立たせた。そのまま出口へ向かって、乱暴に引きずって行く。伍郎は身体をよじって若葉を見た。今にも泣き出しそうな顔をしているのが眼に入った。
両隣のレーンがざわついていた。スマホをかざして撮影している連中もいた。まるで犯罪者扱いや、と思った。
――おじさん。あたしのお父さんになってほしいけん。
いや、犯罪は行ってないが、
「すまん。約束を守れなくてすまん」
伍郎が叫ぶと、若葉がはっと眼を見開いた。口に手を当て、伍郎を凝視している。次の瞬間、チワワの眼から涙があふれ出した。 「応援しとるから。この先もずっとずっと、なにがあっても応援しとるから」
伍郎の言葉を聞くと、若葉が泣きながらうなずいた。
両腕をがっちりとつかまれ、伍郎はゴミのようにつまみ出された。その後、別室で運営スタッフから処分を言い渡された。出禁。二度と握手会には参加できない、と。
会場を出ると、人気メンバーにはまだ長蛇の列が続いていた。ぎらぎらした顔を見ながら、なぜか
駅までの道を一人歩く。汗が流れ、じりじりと首筋が
新幹線を京都で降りて、車折神社に向かった。
真夏の京都は、寄ってたかって袋叩きにされるような暴力的な暑さだった。懐かしい感覚だ。
車折神社の境内の桜は青々と茂り、石畳に濃い影を落としていた。あちこちで
今、立っているのは俺だけだ。他の奴らはみな俺に斬られて地べたに倒れている。最後の見せ場は二刀流納刀だ。
両腕を大きく振り、大小の血を払う所作をした。くるりと回って二本同時に鞘に納める。会心の出来だ。堀尾葉介にだって負けない。これが垣見伍郎の二刀流納刀だ。
芸能神社に進んで財布を取り出す。若葉に
力を込めて鈴を鳴らした。柏手を打ち、拝む。
いつの日か若葉がしのぶの分まで夢を叶えられますように。いつの日か若葉が玉垣を奉納できますように。
伍郎は手を合わせ、ひたすら願い続けた。かっかと胸が燃えている。すこしだけくらくらした。
(『雨の中の涙のように』第一章 おわり)
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※著者略歴
遠田潤子(とおだ・じゅんこ)
1966年大阪府生まれ。2009年『月桃夜』で第21回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。12年『アンチェルの蝶』が第15回大藪春彦賞候補に。14年刊行の『雪の鉄樹』が16年に“本の雑誌が選ぶ文庫ベストテン第1位”に選ばれ、一気にブレイク。さらに17年に『冬雷』が「本の雑誌 2017年上半期エンターテインメント・ベスト10」第2位、第1回未来屋小説大賞 推理作家協会賞長編部門候補、『オブリヴィオン』が「本の雑誌 2017年度ノンジャンルのベスト10」第1位、20年刊行の『銀花の蔵』は第163回直木賞候補となる。他に『カラヴィンカ』『あの日のあなた』『蓮の数式』『ドライブインまほろば』など。